天落:四話(終)

昼間から飲んだ暮れているザッカスに耐えかねたようにロイが怒った。
「さっさと働けよおっさん!!」
ザッカスは一瞥しただけでまた酒を飲む。酒を飲む金も依頼の経費という名目でデモアから出たものだ。
それも知ってるロイはデモアにも怒る。
「デモアさんもこんなろくでなしを甘やかすのやめてくださいよ!」
デモアのゴーグルが光る。
うっとりといつまでも聞きたくなるような声で言う。
「まぁ、ザッカスさんの考えがあるだろう」
「ないですよ!!あるわけないでしょうが!!」
それはそうだ、何もない。一日中飲んでくれていたらせめて見えるところで飲んでいてください、とデモアが事務所の一角に誘導して、そこからもずっとザッカスは飲み続けている。酒が尽きれば買いに行き、その繰り返しだ。酒臭さを回避すべく事務所の空気清浄機は強力に稼働し続けている。ロイがザッカスの酒瓶を奪い去る。ザッカスは酔っぱらい特有の濁った目でロイを見るとソファの上で横になってしまった。
「何すか?このクズ」
答える者はいない。
「もういいでしょ、とっとと放り出して捨ててきましょう。こんなやつ、ここに居ても価値がないでしょ」
「あー、ロイは動物に恋したりするのか」
完全に酔っぱらいの戯れ言だ。ザッカスの質問にロイは眉根を寄せたが、すぐに皮肉気な笑みを浮かべた。
「マーサに聞いたらいいんじゃない?人間は獣人に恋をするのかってね」
話の矛先を向けられたマーサは目を見開いた。
抗議をしようとして、困惑している。
「答えられないだろ?そういうことだよ。あんたも、人に聞く前に自分で考えてみたら?」
ロイが鼻を鳴らす。
ザッカスは押し黙っていたが、立ち上がった。ロイから酒瓶を奪い取り、そのまま事務所を出る。
なんだあれ、と呆れ返ったロイの呟きが背中に届いていた。

街だ。一家とスモモの暮らす街だ。はじめて来た時と変わらないはずが一層寂しげに移るのは気の所為か。一日ずつ廃れていっているのかもしれない。貧困は見えない緊張感を張り巡らせる、余裕のない人間達の雰囲気が飲んだ暮れているザッカスを一瞥する。スモモは居なかった。まさか、チャールズが?
ザッカスは瓶に残った酒を一滴ならず、舐めとるように飲み干す。
ぼんやりとした頭に、人の足音が届いた。
犬の唸り声も聞こえる。
「―――どちらさまですか」
警戒する女の声だ。スモモとその飼い主。おそらく、少年の母親だろう。
疲れきった顔をしていた。ザッカスは、幾分か瞬いた。
「……犬を見に来たんです」
「…………」
「ここに来れば、犬に会えるかと思って」
「…………………そうですか」
相手は、考え込み、警戒するスモモを宥めた。
「俺、犬を飼いたかったんです。拾ってきたことがあって、けど、駄目でした」
「…………もうここには来ないでください。この犬も手放しますから」
「――手放すんですか?」
「この犬をどうしても引き取りたいって言う、獣人の方がいて、お譲りするんです。お礼もしてくれると言うので」
大金のニュアンスがあった。
「………大事な犬じゃないんですか?」
「大事ですよ、でももう、やっていけなくて。犬にはどんどんお金がかかるようになってどんどん長生きできるようになって、きりがないんです。自分達の暮らしもありますから」
スモモは撫でられて尻尾を振っている。その実、話を理解しているのかも知れなかった。
母親は、少し遠くを見て、ザッカスに言う。
「あなた、子供は?」
「……いません」
「そう、それがいいと思います。人間の子供より、この犬の方がまだ、未来があります」
こんな話すみません、と言われて、ザッカスもすみませんと告げた。
「あー、いつ、手放すんですか」
「今日です。このあと、すぐ。獣人の方が迎えに来るので」
家が静かなのは、父親が息子を連れ出しているからかもしれなかった。
偶然丁度良く出会った無関係の他人だから、母親は話してくれたのだろう。
これ以上、話すつもりはないと言う風に母親はスモモを連れて家に入ってしまった。
このまま待っていればチャールズに会えるのかもしれない。
最初に話した時、引き取る気はなさそうだったのに、買い取りを申し出るなどどんな心変わりをしたというのだろう。そもそも、殺してくれと言われていることをあの母親に言うべきなのか。
酔っ払った頭はうまく働かない。いや、うまく働いた試しなど、今までなかった気がする。
「――こんなところで会うとはな」
この土地とは馴染まない高級感のある香水が香った。
尊大さを伴って現れたのはやはり、チャールズだ。
「あー、あんた、スモモをどうするつもりだ」
「飼うのだ」
「殺してくれと言わなかったか」
「言ったとも。だが、気が変わった」
「何故」
「自分の誇りを思い出したのだ」
一瞬、何を言っているのか、分からなかった。
一瞬だけそうなのかと思ったが、ザッカスにはチャールズの言い分を理解できなかった。
「……あんたは自分で何を言っているのか、分かっているのか?」
「君こそ分かってるのかね?随分酒臭いが」
ザッカスは口ごもる。
チャールズは冷えた眼差しを向ける。
「犬の方が未来がある。そうだろうな」
「…………聞いてて」
「聞こえたんだ。我々は耳も目も鼻もいい。………君には相談料として教えてあげよう、何も人間の未来がなくなったわけではないのだ」
ザッカスは目を向ける。
チャールズは、狼の獣人は、むしろどこか慈愛のこもった眼差しで、ザッカスを見詰める。
「元々、人間に未来はなかったのだ。君たちがみていた未来は、我々からーー獣人から奪ったものだったのだから」
それにすら気づけていないとは。
呟きながら、チャールズは、ザッカスの肩を親愛を込めたように叩いて見せた。
尻尾が揺れる。
「我々は覚えている、忘れていないさ。君たちがずっと何をしてきたのか、どんな言葉を浴びせ、どんな扱いをし、我々の命を、尊厳を、心を、いとも簡単に消費してきたことを」
「……………あんたの」
ザッカスの喉は渇いている。
酒に濁った息をゆっくりと吐き出した。
「恋は、恋だったんじゃないか」
チャールズの瞳はふと揺れた。肉食獣特有の厳しい目元が緩み、細まった。
「俺は俺らしく、ありたいのだ」
どういう意味なのか、やはり分からなかった。
「ーー酔いを醒ましたまえ。今の君は、なにも分かってないように思う」
「お、俺はただ」
チャールズが首を振る。なにも言わず、ゆったりとした歩幅で、スモモのいる家に向かっていく。
ザッカスはもう自分にはなにもできないことを悟る。
「俺は、あんたの恋の話、嫌いじゃなかった」
だから、スモモを殺す以外で互いにいい方法を探したかったんだ。
チャールズの耳はいい。
距離がある声でも耳が動いて届いたことが分かった。チャールズは立ち止まり、振り返らなかったが、何故か彼の傷ついた気配が伝わってくる。
人間の暮らしと世界ばかりみてきて、実際獣人の置かれている世界のことは、何もしらないのだとザッカスは気付いた。
人間が翻弄され、混乱し傷つく世界で、獣人も同じように翻弄され、混乱し傷ついているのかも知れなかった。
この、答えのない世界で。

ザッカスはどこにも行く場所がなかったから、夜遅くまでさ迷った挙げ句、結局、事務所に帰ることにした。
事務所の灯りはついていて、マーサとロイの姿はなかった。
デモアが一人仕事をしており、ザッカスに気付くと、席を立った。
「ザッカスさん、お疲れ様でした。先ほど相談者より連絡を受けました」
「…………すみません、何もできず」
「いいえ、なるべくして、収まったと言うところでしょう。問題ありませんよ」
本当にそうなのだろうか。疑問だらけで納得がいかないザッカスの心境に汲んでデモアが言う。
「ご本人は満足されているようです。誰にも言えない思いを吐き出せたのですから、それで充分だったのでしょう。尤も件の犬は別の場所で大切に飼育されるとのことですので、ご安心を」
スモモの今後のことを聞くと少しほっとする。相変わらず自分は何も解決できない迷探偵だ。
「あー、まあ、じゃあ、それじゃ依頼も解決したことだし、明日には出ていきますよ」
「そう、そうか、そうですよね、そうですか」
デモアが不思議と狼狽した。
「何度もいいますが、この前は危ないところ助けてくれて有り難うございました。今後はあんまり借金しないように気を付けますんで」
「――答えなくてもいいのですが、どこか、ザッカスさんは行くところはあるんですか?」
「あー、まあ、昔の知り合いでも頼りますよ」
「そうですか………………」
「でもまあ」
「はい!」
デモアの両耳が立つ。
「俺は、ジョージ・プライズは最低な人間だったと思います。そんな奴のことなんて、忘れてしまった方がいいと思いますよ」
おかげで助かったのも事実だが、デモアには相応しくない人物だ。ザッカスは肩を竦めた。
「あー……それじゃ、デモアさんも早く休んでください」
「………私は忘れません」
デモアが言う。いつまでも聞いていたくなる声で言う。
「ずっと覚えています、あの日からずっと」
妙な心の痛みをザッカスは感じた。苦さが競り上がってくる。デモアの美しさはどこからくるのだろう、ザッカスはデモアに触れようとして、そのことに自分で気付いて手を拳にして、下ろした。
「おやすみ」
ザッカスはあがわれている部屋に戻った。
部屋の持ち主はデモア自身で、置いてある曲線の洗練された家具や座り心地のいいソファ、並べられたレコード類。ひとつひとつの小物。
デモアの広いベッドからは、ずっとデモアがつけている香水の匂いがする。
何も考えたくなくて、その日はソファで眠った。
もう、ここで眠る必要もないのだと思うと、ザッカスの心の奥で萎むものがあった。

翌朝、夜明けを向かえたばかりのまだ薄暗い中、ザッカスは事務所のみんなに世話になった挨拶をすべきか迷った。
躊躇したものの事務所が名残惜しいこともあり、こっそり出ていくことに決めたザッカスはこそ泥のようにビルを出ようとした。
「おはようございます」
デモアだ。あのまま昨日は仕事していたというのか?
出ていくことを見つかるのを恐れて事務所は覗かなかった。ザッカスは愛想笑いを浮かべる。
「あー、おはよう、ほんと、お世話になって、えーと」
デモアは目覚めに聞いても心地のよい声で言う。
「申し訳ありません、昨晩お伝えし忘れたことがありまして、お待ちしておりました」
「え?あ、はい」
「実はザッカスさんに依頼したいことがもうひとつあるのです」
「……………え?」
「というわけですので、また是非とも依頼をお受けくださるようにお願いします」
デモアが丁寧だが有無を言わさぬ様子を見せる。
ザッカスはつい後退り、周囲の様子を伺った。別に特別なことは何も起きてはいなかった。今日も世界はくそったれなだけで、朝に見るデモアも美しかった。ザッカスはなんだか途方にくれるような心持ちで、デモアのゴーグルの光を見た。ゆっくりと太陽の日差しが差し込み、辺りは白々と明るくなって行く。

世界はあの時、終わらなかった。
バルルダ・トライ。人類史上もっとも罪深き悪人、獣人史上もっとも慈悲深き賢人。
一人の獣人によって続いた世界は今日も続いていく。

朝日に照らされるマイクロフト・デモアを見ながら、これが恋ならきっと何かの間違いだと、ザッカスは思った。

(終)

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