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梓さん先天性男性化と安室くんの話





安室くんが店に入ってきて、自分が外れの方になってしまった。まあそれはいつものことだから気にならない。かっこいい男がいつだって勝つ世の中だ。
「榎本さん、これでいいですか?」
コーヒーの試飲だ。一通り安室さんはハンドドリップの方法もわかっている、調理もできる、注文の取り方もすぐ覚えたし、なんならメニューを暗記している。一教えると十を知ることができるのだ。
「安室くんって、何でもできるね」
「そうですか?まだまだですよ。これならもご指導お願いします、榎本先輩」
僕は思わず肩を竦めた。童顔でタレ目、なんとなく油断してしまいそうな微笑みに対して安室くんの眼差しはどこか鋭い。狼が羊の皮をかぶってるみたいだ、なんて決めつける証拠はないんだけど、男同士の連帯にいまいち入りきれなかった自分からして、確実に上位プレイヤーだろう安室くんの柔らかさは少し胡散臭い。そしてそれが悪いわけではない。探偵をしているんだし、揉まれたところもあるのだろう。
「安室くんは今日は夕方までですよね、食べていきますか?それともお持ち帰り?」
「いいんですか?うーん、どうしようかな」
「マスターが新しいお米のブランドを仕入れしたみたいで、おにぎりでもいいですよ」
「いいですね、おかずは何か……」
「ウィンナーありますよ、パスタ詰めてもいいですよ、食べるでしょう」
「炭水化物ばかりはあんまり」
「えっ、あ、そうですか」
安室くんが可笑しそうに笑った。
「榎本さんは平気ですか?炭水化物に炭水化物」
「え、そりゃもう。食べますよ、食べません?」
「こう見えても三十手前なので」
「ほぼ同世代でしょう?」
「それは嬉しいですけど」
「フライは?」
「おにぎりだけで。あとは味噌汁作ります」
「じゃあ、ウィンナーも。オムレツ作りますから」
「食べさせようとしてます?」
「なんとなく悔しくて」
「君も通る道ですよ」
「本当ですか?」
「人によりますけどね」
「プリンはどうします?!」
「ははは」
てらいなく安室くんが笑う。笑い声にお客さんがカウンターを振り向いた。イケメンの屈託ない笑顔にあら、という顔をして、そもそも飲食店で雑談はどうなのかという問題は喫茶ポアロだから、ということで納得してもらいたい。マスターには、二人が喋ってるとお客さん受けががいいみたいだと言っていた。それはどういうことなのか。
「もしかして、榎本さん、今お腹空いてますか?」
「えっいや、そんなことは…………ありますが」
「いいですよ、食べてきても。何か作ります?」
「それは、うーん。あとで休憩がありますから」
「真面目ですねえ」
「違います、ごはんの話をしていたからですよ。ちゃっちゃと弁当つくっちゃいましょう」
「有り難うございます」
「それよりテーブル任せます、見ていてください」
「はい、お任せを」
安室くんは笑って敬礼して見せた。僕はオムレツを作って持ち帰り用のパックに詰めたあと、何かケチャップで文字を書いてやろうと考えた。ひとしきり悩んで、おつかれさま、にした。いつも大変だろうから。目敏く気づいた安室くんが、笑った。男の僕から見ても安室くんはかっこいい。でもやっぱりどこか胡散臭い。そしてそれは安室くんを毀損しないのだ。ラップでごはんをくるんで、おにぎりを握る。何を考えてるんですか、と安室くんが言った。空いたお皿を下げて、水に浸ける。僕は考えながら言う。

「安室くんが懐いたらいいなって」
「え?」
「いや、やっぱり今のなしで」
「聞いちゃいましたけど」
「安室くんは後輩だからね」

僕はおにぎりを作る。自分が食べられる量。安室くんは少し困った顔をした。僕はちょっと笑う。困ればいいんだ。たまには。時々、そっちのほうが気が楽だろうから。

畳む

短文20


母が女性と再婚するらしい。砂糖の入った衣がついた芋の天ぷらを食べながら母がそんなことを言い、まあいいんじゃいと答えた。お互い成人してるし、特に反対する理由はなかった。母は嬉しそうに微笑んだ。不意にどこか悲しみの面持ちになって、でも私が結婚する相手はちょっと特別だからもうあなたと会えないかもしれない、と続けた。不穏じみた台詞に、改めて母の結婚相手のことを聞いた。素朴で芯が強くて優しい人。仕事は?仕事はしてるの?すごく大変な仕事。会うことはできる?ちょっと聞いてみる、と母は携帯を手に取った。そこに花のかたちのお守りがぶら下がっていた。見覚えがあった。家から十分ほどの場所にある、長い長い階段を上がった先にある古い神社のお守りだ。お守りがかわいいから、SNSでバズったことがある。私たちには馴染みのものだった。そこにあることに違和感はなかったが、不思議な感じだった。母とお守り。母は、そういったものが嫌いだったはずだ。苦労して努力してお金を稼いで私を育てたから、世間への苛立ちのようなものだと勝手に感じていた。
「いいって」
「え?」
「サキさん、会ってくれるって」
サキさん。それが母の結婚相手だった。
サキさんは近所に住んでいるらしく、十分ほどで家に来てくれた。
さっぱりとした雰囲気の美人で目力が凄かった。年は母と同じくらいに見えた。互いに母に紹介されて、挨拶をかわす。
「母をよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
何を話せばいいのか、互いに分からなかった。嫌な沈黙ではなく、どこか気恥ずかしかった。
「聞いてるかな?私とのこと」
「いえなにも」
「それなのに結婚受け入れてくれたの?」
「母個人のことなので」
「さすが、みっちゃんの子供だね」
「そう?」
「そうだよ」
でも、とサキさんは面持ちを変えた。「今から言うことは本当だよ」そう言って、話してくれたのは、サキさんが実は神社にまつられている神様で、母を身請けし、二人で一旦神の世界にこもると言う話だった。一瞬教養のあるひとのジョークかと思ったがサキさんは真面目だし、母は否定しなかった。私は困惑した。
「つまり、どういうこと?」
「だから、人からみると、三途の川を渡るようなことだよ」
「母は死ぬってことですか?」
「厳密には違う。でもこの世界では同じようなものだよ」
はあ、と気の抜けた声が出た。
私は母をじっと見た。母はいつものように座っていた。
「まあ、じゃあそういうことで」
「え」
「お母さんそれでいいんだよね?」
「うん」
「まー、じゃ、はい」
「いいの?」
サキさんが私と母を見比べた。
「君たち、私が悪い奴だったらどうするんだ」
「その時はその時かも、ねえ」
「ねえ」
そうだったら母がボケても蒸し返します、と私は言い、母は忘れてるからいいわあ、と言った。サキさんは呆れ果て、笑い、有り難うと言った。
「大事にするよ、します、幸せにします」
「よろしくお願いします」
私たちはその後大谷翔平の話をして、犬を飼うのはどうかという流れになり、なあなあで解散した。

そして、母は結婚し、いなくなった。
誰もいなくなった部屋はがらんとしており、私は別の場所で暮らしているから、部屋は今月中に引き払うことになっている。引っ越す準備をしていた名残はあるが、ある日忽然と姿を消した、ように見える。それは間違いではないのだろう、これは神隠しでもあるのだから。

私は砂糖の入った衣の芋の天ぷらが食べたくなる。一人で作ってみたが、なんだか巧くいかなかった。それでも、一人で乾杯した。

神様が不在になった神社には近々代理のものがくるらしい。
本当のところ、何もかもよく分かってないが、私は母のことさえ、よく分かってないから、それは当然と言えた。

母よ、結婚おめでとう。

短文19


夕暮れを注いだお茶を神たちがゆっくりと飲み干した。これで朝から続いた宴は終わりだ。ほっと彼女は一息ついた。
「今夜は上弦の月らしい」
「いいな」
「美味そうだ」
「夜まで待つのもいいね」
「そうしましょうか」
彼女は目を見張った。
「もうありません、何も!」
「何もとは?」
「何もじゃないかね」
「何一つの間違いかい?」
「そうなのでしょう」
「何も」
「何もないか」
神々は笑った。
「創ればいいさ」
「破壊する方が先だろう」
「過剰になればどの道壊れるさ」
「適正があるべき姿だ」 
「どうとでも構わぬ」 
「酒はあるだろう」
彼女は声を張り上げた。
「明後日には!あります!」
「明後日」
「今日でもなく」
「明日でもなく」
「一昨日でもなく」
「明後日さ、明後日と言っている」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
なら、明後日だ、と合意になった。彼女はほっとする。夕暮れも残り少なくなった。明後日にはなんとかなるだろう。ちゃぷちゃぷと満ちた空から波が引いていく。くわんくわんと鳴く宵鳥が、神々を促した。神々は、名残惜しそうに器を舐めたり、膝を掻いたりして、しばらく腰を上げなかったが、彼女がフライパンを慣らして、鋭く促すと文句を言いながら立ち上がり始めた。揺れる大地を踏みしめながら、彼女はお帰りの準備をして、照らすことを忘れた炎がゆっくりと呼吸した。短めに訪れた月が、ひもを大きく引っ張ると神々はよっこいせとばかり、元いた場所に帰っていく。ぱたぱたと羽ばたく式神を、手早く片付けながら彼女はほっと息を吐いた。頭上にはヨダカがいる。忘れた頃に訪れる嘶きを、あやしながら、静かに幕引きとなった。

彼女はぽたぽたと急須からこぼれた夕暮れを舐めとると、大きく伸びをして寝転がった、ああ、明後日だ。ぐるりと指を動かして、彼女はことさらそれがゆっくりくるように仕向ける。

こぼれ続ける夕暮れは、にわかに鈍く光り続けていた。

短文18


「思わなかった?」
加藤が言う。
「アフリカの子供が水を汲みにいく写真。あれみて、大変だなって思ったけど、アフリカのひとって体力があるんだなと思ったのよ」
「なにも覚えてないなあ」
篠坂は事務作業を進めていく。
「でも大人になって、本にかいてあったけど泣いたりしんどすぎて吐いたりする子もいるんだって。それ、読んでやっぱりつらかったんだ、てショックでさ」
加藤はシュレッダーをかけてゆく。いるないもの、いるもの、いらないけど、困らないもの。困るものは細切りに細かくなってゆく。キャベツの千切りに似ている。
「まあしんどいよね」
「しんどいでしょ?」
「アンドーナツ、残ってるよ、食べないの?」
「甘いじゃん」
「甘いけどね」
食べなよ、と篠坂は言う。なくならないでしょ。加藤は顔をしかめた。
「太るんだってば」
「アンドーナツ一個じゃ太らないよ」
「篠坂は痩せてるからじゃん」
「加藤も痩せてるよ」
「どこが」
加藤は苛立ったようにシュレッダーに書類を差し込む。異変を知らせる音がした。
「最悪、詰まった」
「貸してみなよ」
篠坂は加藤を退かす。手際よく紙詰まりを直して、ほらと言う。
「やる気なくなった」
「元からないじゃん」
「ないよ!けどさ、嫌って言わないとわかんないのかも。大抵のコトはさ」
「アンドーナツ食べなよ」
「嫌だって」
篠坂は嫌味ったらしくため息を吐き出す。もういいよ、と言ってアンドーナツを食べる。咀嚼音を加藤はシュレッダーの音で潰した。
「嫌だな」
「ほんと、さあ、手を動かしてよ」
「これでいいの?」
篠坂は言う。
「関係ある?」
加藤は黙りこんだ。
篠坂は鳥かごの中の鳥みたいだ。
「鳥って飼い主を恋人って思ってるんだって」
「不倫なのにね」
加藤は篠坂を見た。篠坂は事務作業に戻っている。指についた砂糖を舐め、紙を捲る。そういうことじゃないじゃん、と加藤は人知れず呟き、シュレッダーの音でまた潰した。

短文17


「おお、天使じゃん」
花森が言う。マブイ人でもいるのかと思ったら白い羽根が生えた白い服の人がいて、どこか疲れきったように項垂れてベンチに座っている。時々通りすがる人たちは一瞬ぎょっとしながら、関わるのを避けるように顔をそらし歩いていく。花森が声かけてみようぜと言う、声かけてどうすんだよ、と僕は言う。
「天使が困ってるなら助けないとだめだろ!」
「あれはほんとに天使なのか?」
「どちらにせよ困ってそうなら気になるだろ」
「いきなり殴りかかってきたらどうするの!」
「大丈夫、俺、喧嘩強いし」 
「それはそうだけど………」
暴力は優しさを助けるのか?花森はささっと天使らしきひとに声をかける。
「こんにちは。どうかしましたか?」
「@@%%!/③\○③『『『『」
「え?」
[[ー.!!.・・ あっすいません」
「いいえー」
花森は笑う。図太くてすごい。花森のそばにいると自分らしさを見失い溺れそうになる。
天使らしきひとは一旦咳払いし、
「この通り、充電が切れてしまったみたいで」
今の翻訳もうまくいかなかったみたいで、となにかの箱を背中からごっそり取り出した。全面黒のブラックボックスみたいだ。
一体これはなんなんだ。
花森は気にしない。
「スマホのバッテリーでいけます?typeCなんですけど、俺の」
「えぇ?なんですか、こわい」
「あ、あのー!」
「はい?」
思いきって声を上げる。天使らしきひとは疲れた顔をしているが、無理矢理微笑んだ。
その箱なんだとは聞けず、日和って言う。
「もしかして、天使なんですか?」
「はぁ、そうですが……仕事の依頼ですか?」
「仕事?!仕事ってなに?」
「色々です、人間のコーチングを主にやっていますが恋のおまじないとか、悪魔払いとかもやってて、料金は」
「あ。いえ、いいです。お金ないので」
天使は微笑んだ。
営業的アルカイック・スマイルだ。
「やっぱ天使だったじゃんよ!」
「自称ね」
「あの、充電」
「あ!typeCでいけた?」
「単3電池は?」
「単3電池?」
「ないです」
「バッテリーじゃだめ?」
「ここ、いれるから、だめなんです」
天使の人が箱の蓋をぱこんと開けた。別のものをいれるとパチパチするんです、と言う。
「はい!パチパチするとどうなるんですか?!」
花森が手を上げる。
天使のひとは目を伏せた。
「すごく痛いんです、羽からずっとパチパチしてて」
「それはひどいな、じゃあ俺!買ってくるっすよ!単3電池!待っててください!」
花森が走り出す。どこへ?と思ったがたぶんコンビニだ。そんな感じがする。
天使のひとと二人きりになると途端気まずい思いがした。通行人にはじろじろみられるし、花森の雰囲気で持っていた場が途端静まり返った。
「どうぞ、良かったら」
「あ、すいません………」
天使のひとがずれて、ベンチの隙間を空けてくれた。座ると背中に天使のひとの羽根が当たる。思いの他力強く硬かった。
「一応………」
天使のひとが名刺を差し出す。文字は読めないが数字はアラビア数字だった。どうやら電話番号らしい。
「恋のおまじないなら、手頃なお値段なので」
アルカイック・スマイル再び。
「そういうんじゃないですから……」
天使のひとは微笑んでいる。
僕はもう会話すまい、と真正面を向いて黙っていると花森が帰ってきた。
「これ!買ってきた!」
「ばか!単4だろこれ!」
お約束だ。

短文16


「健康診断完了しました」

きびきびと報告しに来たサイドAはその間にあれ放題になった部屋を見て、ため息を吐き出した。それを見てやっとわたしは一息をつけた。最近のサイドAはバグが発生したのか、がんばり屋メイド風の性格になっていたから、あれ放題になった部屋を見た時には、ご主人さま、すぐに綺麗に片付けますわね!あたしにお任せください、ご主人様はお茶でも飲んでお待ちくださいね!と言い、淹れてくれたお茶はとても熱くて舌をやけどした。その為、私はメーカーに健康診断と修理を依頼したのだ。結果はこの通り、無事サイドAに帰ってきた。しかしそれは懐かしかった。サイドAは元々はそうだった、彼女はがんばり屋でドジっ子で底抜けに明るかった。わたしはそんな彼女に恋をして、彼女は受け入れてくれた。ただのロボットの彼女はセクサロイドではなかったし、そういう機能もなかったが、わたしたちは毎晩手を繋いで眠った。その内、この国は同性愛が違法になった。彼女はわたしを守るためにバージョンの変更を主張した。わたしは止めるように言ったが彼女は譲らなかったし、とても頑くなだった。

元々、彼女の回路にはバグがあった。メーカーから、不具合があると報告があった製品番号には彼女が含まれていて、その上で変更も受け付けます、とメーカーは申し出ていた。

「どうぞ、あなたの好きなお茶です」

適温の、花とも木とも違う、乾燥させた茶葉の香りは、いつも言葉に迷う。すこしキャラメルにも似た香りの、味は全く甘くないお茶で、豊かな琥珀色を湛えている。彼女が自ら選んだバージョンは、まったく素直じゃないが有能なメイドで、時に皮肉を口にした。熱いお茶は不具合でも、こういうロールプレイを刺激を人たちは好んだ。

「いつも有り難うね」
「これくらい当然です。あなたの部屋を散らかす才能のお陰で今日も私の仕事が捗ります」

お茶請けに出されたクッキーは可愛らしいデディベアの形をしている。わたしの持っているものによく似ている顔をしている。彼女はわたしが食べるのを見て、そっと満足げに微笑んだ。

彼女のかたちは消去されたが、まだ存在している気がする。私は数枚しか写真が入っていないアルバムを開いた。手を繋いで眠っていた頃、大きく轟いた雷の夜、窓際を照らす青白い光に、わたしがはっと目を覚ますと、実際は眠る必要などなかった彼女が、わたしの顔をただ見ていたことを気づいた。その時、古ぼけたカメラを持ち出して、フィルムが終わるまで写真を撮った。記憶を残したかったからだ。現像を外に頼まなければいけなかったから、直接的な写真は避けた。というよりほぼ何も写っていない。部屋の暗さと解像度の低さ、時々の雷光が彼女のシルエットを不意に気まぐれのように写しているだけだ。

「またそのアルバムですか?」
彼女は何か言いたげだ。
「そうだよ。何も写ってないけどね」
わたしはあえてそんなことを口にする。有能なメイドは、小粋に肩を竦めて仕事に戻っていく。
「あなたの写真も撮らないとね」
サイドAは皮肉げな顔をした。
「必要ありませんよ。私はここにいますから」
尋ねる前に彼女は、お茶のお代わりをカップに注ぐ。それがひどく熱いことに、私は舌をやけどしてから気づいたのだった。

短文15


キャベツ畑にコウノトリが来ることは知っているな!と野太い声で念押しされて、それはそうですねと僕は頷く。先輩はキャベツ畑にコウノトリが赤ん坊を運んでくると言われているがそれは間違いだと言う。一瞬僕は身構えた。続いて先輩は、キャベツ畑にはタイムマシーンが埋まっているのだと真面目ったらしく告げた。

「はぁ」
「なんだその気の抜けた返答は」
「赤ん坊もタイムマシーンも間違いでは」
「赤ん坊は間違いだがタイムマシーンは事実だ」
「どうして」
「私の叔父が埋めたからだ」
「間違いですね」
「だから、事実だ」
「先輩また叔父さんに騙されているんですか?」
「またとは何だ!騙されたことなどない!」
「十円玉が繁殖するとかカブトムシは地球外生命体だとか、横断歩道の白い部分を踏んで渡らないと異世界に連れていかれているとか」
「異世界には連れていかれただろう!」
「いやあれはまあ、ノーカウントでしょう」
「何故だ」
「異世界っていうか異空間というか、まあ大体ニア現実だったでしょう」
「何故自分の過ちを認めないのだ」
「僕の?」
「貴君以外に誰がいる」
「先輩の叔父さんですよ」
「叔父は誰にも理解できない天才なのだ。身内の私が信じてやらねばどうする!」
そうやって単純な先輩を翻弄し続ける叔父は僕から見るとろくでなしにしか過ぎない。クズと天才が紙一重かと言われると判断に困る。判断しようにも天才にはお目にかかったことがないからだ。
「キャベツ畑を堀りにいくぞ!」
「農家さんに怒られますよ」
「許可をとったぞ!収穫を手伝えば考えてもいいと言われた」
それは許可でもないし体のいい手伝い要員だ。だがしかし、収穫したてのキャベツは美味いらしい、と先輩は言う。
「それが目的ですか」
「そんなわけなかろう!目的はタイムマシーンだ!」
「先輩はタイムマシーンで何するんですか?」
「そんな重要なものがあるのだから、どこかの研究所に提供して世界の技術の発展を望むべきだろう」
「じゃあ売るんですか?」
「何故?」
僕は先輩を見つめた。
先輩は不思議そうな顔で僕を見つめる。杞憂を抱く。クズの身内に騙されている現状、このままこの人を放り出してしまうと良いように利用されて終わるんじゃないか、先輩はそれにすら気づかずするべきことを果たしたと満足して終わるのではないか。
「分かりました、見つけたら僕がタイムマシーンを破壊します」
「何故?!」
「過ぎたる技術は人を滅ぼすからです」
「う、うむ……?」
「キャベツの収穫頑張りましょうね!」
「う、うむ………」
先輩は首を捻っていたが、やがてまあいいかと納得したものらしい。収穫したてのキャベツは美味しくて、先輩はバリバリ食べていた。当然と言えば当然の話だが、タイムマシーンの影はどこにもなく、その代わりに赤ん坊を見つけることになり、僕はこれで先輩が叔父さんの過ちに気づくかと期待したが、実際それどころではない問題が起きたため、キャベツ畑は今後封印される事態となった。

「誰しも間違いはある。仕方がないことだ」

締め括るように先輩は言う。徹底的に間違っているのはあんたの叔父さんだ。僕の杞憂はまだまだ続きそうだった。

短文14


あんたは生命線が日本一周くらいあるよと唐揚げ弁当食べながらばあちゃんが言った。そんなにないでしょと笑うとそのくらい長いってことだよ、とばあちゃんも笑った。いいことだよ。

自分の手のひらを見つめていると琴子がどうしたのと声をかけてきた。いろんな管で繋がれた琴子は青ざめた白い肌のはかない美少女そのもので、病気ってのはロリコン趣味なのかと場違いに考えた。
「琴子、日本一周しない?」
「いきなり?」
「そう。私の生命線、そのくらいあるんだって」
「そんなに?」
「そう」
「いいよ」
「え?」
「行こう、日本一周」
私たちは病院を抜け出した。このまま世界一周だ!私たちは電車に乗り込んだ。どこまでも行ける気がした。でも二駅目で琴子の具合が悪くなった。周りの大人が気づいてくれて琴子は賢いから連絡先カードを持っていて、そこには担当医の連絡先も書いてあった。職員に付き添われ、救急車を待った私たちはそのまま病院に逆戻りし、私は母親に叩かれた。あんた!琴子ちゃんを殺す気?!本当に琴子が死んだら私を殺す気だったと後に母親は語った。琴子の母親は私の日本一周の話を聞き、疲れたようなどうしようもないような顔で笑った。笑うしかなかったのかもしれない。私は一人で日本一周することにした。琴子の健康を願掛けして回るのだ。そうすれば、生命線の導きで琴子は元気になるかもしれない。私はなにも考えず飛び出して、偶然出会った大人が善良なのと私ぐらい馬鹿だったので、私が日本一周をすることを手伝ってくれた。山を越え野を越え海を越え、蜜柑の木をたどり、牛だらけの村を越え、大きな城がある街を越え、わかめが落ちている港を行き、琴子に葉書を送り続けた。その途中だ。連絡があった。琴子が亡くなった。死んじゃった。

私は日本一周なんかしている場合ではなかったのだ。当然だ。もっと琴子のそばにいればよかった。

私は杉が整頓されて生い茂る山深くで伐採のチェンソーが唸る最中、どこまでも延びて行く枝の先にある空を見つめながら、真実に気づいてしまった。

琴子の死が怖かった。

泣きながら歩く私の前に、老人がやってきて、あんたどないかしたんかと言う。私がなにも言わず首を振ると、老人は袋を押し付けた。

唐揚げ弁当、食べや。
美味しいから元気出るよって。
なあ。

私の生命線は私の分しかなかった。私は笑い、老人は笑った。しわしわのどこかひんやりした掌が私の手を握る。私はそれを琴子の手のように思い、握り返したのだった。

短文13



すべてを投げ捨てて、こんなところに来てしまった。一面の海、潮風のどこかしつこいかんじ。音が広がり、夜に吸い込まれて行く。離れたところにいる陽キャの笑い声が聞こえてきては内心びくついた。しかしここで帰ってしまうわけにはいかない。目を細めて、空を見つめる。オリオン座を探した。星と星は点と点にしか思えずうろ覚えの知識は星座を作りことさえ成し遂げず、歴史と物語はただ点のまま頭上に広がっている。海と空の狭間で人は考えることを少し放棄する、振りをしているだけで実際、考えていることがあった。マグマだまりみたいに溜め込んだ結果、ぶつけてしまった○○(名前は実在上の人物なので匿名にさせていただく)への感情は晴れることなく、がむしゃらに傷つけただけだ。マグマの熱も海に来れば冷えるだろうと軽率な発想も表面だけは冷えてしこりは残っている。剥き出しすぎた感情に○○は戸惑って目を見開いた。○○とおれとの関係は一直線上に上司と部下であり、むしろおれは部下なのであり、しかし年上であって、○○は年下の優しい上司であって、立場が違えば即座セクハラ、パワハラにもなったが、上下関係における部下という点で一見分からなくなった力関係はぶつけてしまった時点でおれが明白に加害者なのである。やっちまった。オリオン座は未だ見えず、スマホを触ると発光したかのように眩しかった。話し合いましょう。いつもの穏やかで冷静な連絡が入っていた。話し合いましょう。とぼとぼと歩き出したおれは、脳内で辞表の書き方を検索する。職を失うより○○を喪うことが痛手だったが、仕方ないことであった。

また連絡が入って、今どこにいるんですか、と言われて、おれは海だよと答える。海です。何故と尋ねる叱責におれは素直にオリオン座を探しているんですと答えた。完全に頭がおかしくなった年上を、○○はあたたかい場所に行ってくださいと誘導しようとする。自殺の可能性を疑われ、コンプライアンス違反の可能性もあったが、オリオン座を探していただけにすぎず、規範を制定する人間もオリオン座のことを視野にいれては論議していないだろう。

帰って休んだら、また連絡します。月よりもぎらつくほどに光るスマホの画面をそっと落として、おれは教養のなさはロマンチシズムにも浸れないことを、潮風を浴びながら思うのだ。何もなくても夜の海は寒いし冬の海は寒かった。おれはなんとなく可笑しくなり、絶対いつか、この感情を俳句にしようと決意するのであった。

短文12


俺の親が殺したのはある分野の天才だった。なにも勢い余って愛しすぎたから、憎かったら、許せなかったから、衝動的に、八つ裂きにしたかった!とかではない。

ただそのある分野の天才をたまたま夜道で車で轢き殺してしまっただけに過ぎない。よくある事故だ、そして決定的な事故だった。親は罪を認めた。自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律における第5条違反。

親は反省していたし、車から見た信号は青だった。ある分野の天才は赤の信号を渡った。情状酌量は認められたが、やはりもとの生活には戻れなかった。ある分野の損失は大きく、嘆きと悲しみは攻撃に転じた。

俺は親戚の家に養子に出され、思いの外ぬくぬくと育った。そんなわけでバウムクーヘンの専門店を始めた。親が出してくれるおやつの中でバウムクーヘンが好きだったからだ。養子に出されて以降も自分で買ってきたバウムクーヘンを一枚一枚ちびちびと剥ぎ取り、食べながら、ある分野の天才の話をよくインターネットで検索していた。ある分野の天才が生きて研究を続けていたなら、世界は今より二十年進歩していたらしい。止まることを恐れたある分野の天才は赤信号を忌避して、そのまま車で轢かれてしまった。ある分野の天才の時間は止まり、俺の親の人生も止まった。

俺はバウムクーヘンを焼いている。大きな年輪になるように生地を巻き付け焼いていく。あんたらの時間は俺が進めてやる。そんなことを思ったような、思わなかったような気がする。大木と見間違うほどのみっちりとしたバウムクーヘンを焼き上げて、ある分野の天才の記念樹にした。それはいくつか小分けして、売られていった。時は進んでいく。俺は信号を見上げる。信号がいつでも見られる場所に店を構えた。いつでもおいで。バウムクーヘンは、幸福の象徴だった。

短文11


あなたはわたしを手に入れたが、わたしはあなたを手に入れることはできなかった。結末としてはそんな終わり方で物語としてはそんな始まり方をする。

レッドカーペットの上を真っ直ぐ歩いても称賛する観客はおらず、困りきったスタッフが曖昧に微笑むだけである。微笑みとはなんとも不確かな言葉であった。
昔から好きだよと囁いてくれていたあの人は、別の相手を選んで結婚したし、それは分かっていたつもりだった。

毛頭自分が誰かと結婚することはないと分かっていたし、誰かを好きに思ったことをわたしはなかったからだ。あの人は届かぬ告白にそのうちに疲れて、他の人を好きになった。道理だった。真実だった。わたしは誰かを好きになることはないと思っていても、誰かに好きでいられることは心地が良かった。

気持ちの良い日向で、風によって動く雲を眺めながら、風が向かう先を空想するような、不確かでのんびりと怠ける猫になったような心持ちだった。二進法で結託された過ちは、これで良かったのだと自分を怒るような囁きと一緒に刻まれていく。わたしは愛されていたのだと実感を得る、赤く染まったカーペットが、栄光の印なら、わたしがあの人を好きだったのだと証明されたようなもので、いや本当はただあの人がわたしが好きだったから、この世界で誰かに好かれることは意味があることだからあなたは立派ですよと承認された結果なのだろうか?
わたしはレッドカーペットに火をつけて右往左往するスタッフを眺めて、けらけらと笑ってしまう。
全部夢だとしても、自分の価値を好きというものに委ねるのはやめてしまおう。あなたはわたしを手に入れた。
わたしのすべてではなくとも。
わたしはあなたを手に入れることはできなかった。きっとしたくなかったからだ。そうすることは、罪悪のように思えて恥のように思えて、炎はめらめらと燃え上がり、すべてを灰にするだろう。
物語の終わりとしてはどうしたい?あの人を奪い取る?それとも別の誰かに好きになってもらう?
右往左往するのはわたしも同じで、レッドカーペットは燃えたはずなのにわたしの眼前に広げられ、囁く。
わたしはそれを月経に極親しい赤だと気づいて、丁寧に笑った。
ゆっくりとレッドカーペットを丸めていく。重たくて難しくて大変だけど、どこまでも長くその道を、丸めて、丸めて、わたしは進んで行く。二進法の歩幅で、恒久的に。その時、観客は一人だけだった。名前のしらない、瞳が小鹿みたいに澄んだ誰かだった。

短文10


拾い上げた花は枯れている。マリーゴールド。鮮やかな黄色だったのだろう、今はくすんでその影もなくぼろぼろになっている。白い息を吐き出す。トラスト・トトが現れてからと言うものの、大気の温度は下がり続けている。そういうデータはあったはだろうかとAlfonsに尋ねる。Alfonsはあります、しかし閲覧不可です。有効なIDを示してくださいと言う、有効なIDとはどんな立場の者なのか。Alfonsは答えない。トラスト・トトが何であるかを答えないように。
一連を支配したデッドブルグは、トラスト・トトによって置き換えられた。ボードゲームのようなものだ。自分がそこに駒としても上がれないだけで。
マリーゴールドを連れ帰った。家のみんなは歓迎してくれた。花瓶に挿し、水を注いだ。マリーゴールドはマリーゴールドだ。花瓶から発生した音楽がゆっくりと流れて行く、何の音?と鴨下が尋ねた、分からないよとマルチネスが応えた。きっとピアノだよとフェルノは言う、みんなの名前はバラバラで、どんな名前をつけても良かった。トラスト・トトがそう命じたからだ。
本当の名前は口に出せなくなった。旧支配制度によって作られた呪縛。ありもしない上下関係を作り、抑圧し、虐げられた者の名前だからだ。手を擦り合わせた。マリーゴールドは、マリーゴールドだ。ロミオ。ジュリエット。そうだったように。物語はずっと組み込まれている。盤上に生きている。トラスト・トト。あなたも物語の一部のはずなのに大気の温度は下がり続けている。いつかすべては凍りつく。そして爆発するに違いない、終わりはそのようにして訪れる。いつも大抵その場合は詭弁に等しい、愚か者がそうする。

Alfonsは解読し、読み込み、反発した。エラーが起きて許可を求める。試行を繰り返す。名前を入力してください。名前を入力してください。IDを証明してください。あなたは誰ですか?Alfonsは繰り返す。もう6212742499回目のことだった。

短文9


十中八九間違いやろと森永は言ったが岡田は準備を続ける、討伐の予定は立っているがそれを実行するのに当番が当たっていた。清め払え誘導する、先導役のラッパ吹きは森永の役目で、岡田はその補佐に当たる。当人にやる気がないのは残念だが、森永には才能がある。努力を積み重ねている岡田よりもそうだった、だが森永はやりたくないと駄々をこねている。
「自分がやったらええやろ」
「なんでや、お前がやれや」
お前の役目やろ、森永の言葉に眉間に皺が出来る。
「ほら持っとけ、生徒手帳。そんで俺の代わりやれ」
「森永の役目やろ」
「やりたいわけやない!」
思いの外切羽詰まった声だった。
「百鬼夜行はその為のもんやろ」
岡田は冷静だ。冷静に努めている。
「やってどないすんねん、しょーもないわ。時代遅れの遺物や」
「大事にせい。お前の生まれ持った才能に感謝して、な」
「生まれるのが間違いや」
一瞬時が冷えた。岡田は周囲を伺う。誰もいなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
「もうええ、もうえええて」
「なにがええねん」
岡田は、息を吐いた。
「化けもん、倒さな、しまいやろ」
「俺ら、ただの人間やで」
森永は岡田も含めた。
「ちゃう、お前だけや」
「なんでそんなこと言うん」
「決まっとるからや」
「なんも決まってへんやんか………」
扉が開いた。
「お前らなにしてん。みんな、待っとんで」
担当の教師だ。
分かってます、今行きます、岡田は答えた。教師は頷く。
「生徒手帳は持ったか?」
「持ってます」
「そんならはよ来いや」
教師は森永を一瞥した。森永は目を合わせない。なにかを諦めた教師が出ていく。
「森永」
「っしゃ、やろか」
岡田は頷いた。森永はお喋りを始めた。どうでもいい話だ。岡田は準備を進める。十中八九間違いやろ。本当は岡田もそう思っていた。

短文8


ぺったらぺったら、サンダルの間抜けな音を響かせる。石坂さんはいつもサンダルを履いており、そのぬぼっとした風貌にサンダルの音はマッチしているように思う。人は人が選んだもので出来ている。ぺったらと鳴らして石坂さんが立ち止まる。
「タコさんウィンナーだ」
「いいでしょう」
「いいな」
「あげませんよ」
「まさか、貰うわけには」
タコさんウィンナーですから、と石坂さんは表情の見えぬ顔で言う。タコウィンナーを箸でつまんでみて、食べようかと思ったが視線を感じて止める。座りなさいよ、と隣を叩いてベンチに誘導する。寒風の吹くぱっとしない天気の日でもベンチは結構埋まっている。じっと部屋にこもっているよりかは幾らかマシだった。
「石坂さんって、まあ、いいか」
「どういうことですか?やめてほしい」
「聞くのは失礼だなと思いました」
「名前を呼んでおいて?」
「石坂さん」
「はい」
「呼んでみました。意味のない呼ぶ行為もあります」
「………………屁理屈だなあ」
「タコさんウィンナーを食う者たるや、理論武装ぐらいしますよ」
「屁理屈でしょう」
「サンダル以外持ってるのかなと思ったんですよ」
「あー。…………失礼ですね」
「そうでしょう」
「まあ持ってても関係ないですから」
「持ってないんだ」
「持ってますけど?」
「あげますよ、タコさんウィンナー」
「いらない……………」
侮辱だ、と石坂さんは怒りだした。それを静める特効薬のようにタコさんウィンナーを石坂さんの口元に持っていく。視線の攻防があった。
「侮辱ですよ」
石坂さんがもごもご言う。
「寒いなあ」
一層冷たい風が吹き抜ける。
「サンダルもいいですよ」
「楽でしょうけど」
あなたには必要でしょうと石坂さんは言う。特効薬は未だ見つかっていない。本当にタコさんウィンナーがそうならいいのに。石坂さんは私の肩をぽんと叩いて立ち上がった。また、ぺったらぺったらサンダルの音を響かせて石坂さんが去っていく。私はと言うと空になった弁当を見つめて、まじんなりとも進まぬ研究のことを考えていた。あれはまだ人類がーー……………、

いややめておこう。
これはあなたには関係のない話であった。

短文7


「一生のお願いや」
「それ何度目の台詞や」
「そんなん言うたかてわし死にますやろ」
「死なん」
「死にそうや」
実際死ぬなと狐は考えて、その考えは猫に筒抜けだ。わかっとるやろが、と狐は言う。なんも分かってない、と猫が言う。
「撃たれたんや、お前は」
「それは分かってますわ」
血が流れていく。猫から急速に流れていく。溢れて林檎のような形をしており、林檎みたいな赤さで、林檎のように美しい。
「もうあきませんわ」
「そやろな」
「一生のお願いや」
「それはあかん」
「なんでですの、もう死ぬ言うてますわ」
「面倒やないか」
「わし死にますのやで?!」
「死なんかったらええやろ」
「あかんわ、もう目も見えませんわ」
「さいなら」
「嫌や、死にとうない」
ならず者として生きてきたならやがてはそうなるだろう。最初に足を撃たれた時点で終わりだったのだ。
「悪いことやってきたんや、しゃーない」
「わしやなくてあんたが死ぬべきや」
猫が言った。それで、死んだ。死んでもうたな、と狐は思った。まだ温もりが残っている。一応支えていた手にはべったりと血がついている。洗わなくては。他人の血液ほど汚いものはない。猫は目を瞑っている。狐は離れて歩きだした。林檎が食べたくなっていた。
一生のお願いや。猫はかつて言った。
わしが死ぬときはあんたも死んで。生きるで、と狐は言う。おれは生きる。
死んだらしまいや。

そういや、家に林檎あったな。狐は冷蔵庫に萎びた林檎があることを思い出した。

短文6


浸かっている。体温と温泉の温度は似ているかもしれないが完全に別物だろう。視線の先の浸かっているその人を、もとより人をじろじろ不遜なことなれど、よりにもって裸の女の人を見るなど逮捕案件だ。同性だからってセーフでもないだろうし。でも見ちゃう。
その人が持って浸かっているのが脳だからだ。脳が入っている透明なバッグがちゃぽんと湯に浸かっている。
視線が合う。
「………あ、」
「………」
「………あの、その、あの、お湯にバッグを浸けるのはどうかなとか……………」
語尾につれて声は小さくなった。
その人は目を細めるようにして、笑った。
「ダメですよね、ダメだと思ってました」
「あ、あ、じゃあ…………」 
「やってしまいましたから」 
殺ってしまいましたから?いや、違う。そんなわけはない。そうだったら怖い。
「……………」
「どうせ怒られるでしょう?だからこのままで」
どういう意味か尋ねるのが怖かった。
「一種のアトラクションと思ってください、すみません」
どうしたらいいか分からず曖昧な笑みを浮かべた。
「これ、何だと思います?」
「え、あ、……………………脳?」
「そう見えます?」
怖い。
怖すぎる。
自分が全裸なのも怖いし相手が全裸なのも怖いし、ここが温泉なのも怖い。
「えっと…………………?」
「実はこれ、脳で」
「あっはい、はは、はい、そうですよね」
「どうして笑ってるんですか?」
「え、あ、えっと、初めて見たし、脳とか」
「まあ笑うしかないですよね、私も最初はそうでした」
「あっ、で、ですよね」
「恋人で」
「あ、え、亡くなって?」
「元から脳だったんです」
「あ、え?」
「知り合ったときからこの姿で」
「へ、へえ」
「ヴィレヴァンで見つけて」
「あ、え、偽物?」
「偽物って?」
怖い怖い怖い。風邪引きそう。沈黙。脱衣場から笑う声がした。あ、そう、その手がある。私はお湯から上がった。ざぶり。湯気が立ち上る。温泉の温もりがからだの奥にある。その人は何も言わなかった。私は何かを言うのを恐れた。若い女の子が二人つれたって扉を潜る。その隙を逃さぬように、互いに遠慮しあって頭を下げながら私は脱衣場に戻った。扇風機が回転している。からからからから。女の子たちの声がぴたりと止まり、扉が開けられる。さっきの女の子たちだ。互いに目で会話する。目で。
「言ってくる」
「え、なに」
一人の女の子が言う。
「旅館の人に。だって、入れないし温泉」
沈黙。
「私も言います」
私も言い、頷いた。
決意の眼差しを交わし合う。
「…………………」
戸惑う女の子が小さく呟く。
「あれ、何?」
沈黙。誰も何も答えたくなかった。扇風機がからから回る。
「とりあえず、あの、着替えましょう」
一気に弾けるようにして着替えに走る。脱衣場に来られても怖いから。やっぱり、怖いし。浴衣を着て、整えて、行きましょう、と言う。行くしかない。がらり。扉の音に一斉にビクつくも仲居さんが微笑んだ。ごゆっくりと、言いたげで、私は困りながら言う。温泉、湯にバッグを浸けているひとがいて。女の子二人も頷く。仲居さんは、瞬いた。分かりました、確認します。ご迷惑をおかけしました。
「えっと、はい、あの」
それ以上は言えなかった。
「お願いします、温泉楽しみたいし」
女の子が言った。頷き合う。仲良しだな、と思った。仲良しだ。三人揃って風呂場を出た。あ、じゃあ、はい、あの、はい、みたいなかんじで、別れて私はとぼとぼと廊下を歩いた。私がここで人でも殺していたらきれいなオチになったのだろうが、そんなことはなかった。湯に浸かる脳は気持ち良さそうに見えた。

脳って性別あるのかな。ひどく美しかったその人を思い出す。不安定そうに微笑む、その人に恋人の脳がいるのは、そう悪いことでもなさそうだった。怖いだけで。全裸に脳は怖いだけで。服を着ていたらもしかしたらマシだったのかもしれない。トイレとか風呂とかでこういうことはやめてほしいのだ。無防備をつかれるみたいで、かなり嫌だった。

旅館備え付けの水を飲む。変な夢を見そうだなと思ったその夜、夢に出てきたピンクの脳は喋っていた。ヴィレヴァンの福袋はキーホルダーすげー入っているよ、みたいな話をしていて、温泉はあんまり好きじゃないんだと言う、見られるでしょ、裸、嫌だよね、そんなとこ、行くもんじゃないよ、脳だしさ。脳って裸じゃん。

薄暗い天井を見上げて、私はそうか?と思った。透明なバッグがなかったらセーフだったのかも。

それから、その人や脳がどうなったかは、なにも分からないのだった。

短文5


自転車のブレーキを握る。オイルが足りていないのか、金切り声を立てて自転車は止まる。眼前に車が走り抜けていく。こちらの蛮行を咎めるごとく鋭い風が顔に当たった。冒険の一歩目として事故に遭おうとして、誰が困るかというと運転手で、それはあんまりよろしくなかった。未知にたどり着くのに、不誠実で乱暴なのはよくはない。現在タイム・トラベルができるとしても、ほんの僅かな過去に戻るだけらしい。宇宙から時間の軸を見据えてこの世の法則が詰まっていると解明に必死な人類は宇宙を過大評価している節があり、宇宙の一部である地球にすら翻弄されているのに、古い付き合いの恋人を捨てて新しい恋に目移りしているように思えることもある。それは感傷だと数学には載るまいが人類の歴史と研鑽を重ねた数学を答えだと見る方が些か感傷じみているとも思う。不定である言葉の定義はグロテスクで、生身の肉体に似ており、異世界に行きたい自分はゆっくりとべダルをこいだ。未知の扉だ冒険だと嘯いて、見かけるものの一切入ったことない地元の古い喫茶店に足を踏み入れて、顔を上げた店主の誰だ?という不審な表情を見てかっと上がる体温と同居することになる。客は客だが客と不審者は大概同じのようなものである。自分は不審者ではないと、客は果たしてどう証明するのか。やっつけの引き笑いでいいですか?と裏返る声に、店主は仕方なしに頷いたように見えた。他の客が来る前に帰ろうと腰かけた椅子は軋んでおり、古ぼけた絵柄の絵画が、昔はやった画家の筆致をしており、いつか見た景色の建物は自分の記憶にないものだ。手作りの布飾りは生き物の形をしており、ミニトイプードルの眼差しはつぶらだ。

「お待たせしました」

コーヒーいれることと飲むことは客をもてなす行動にしかなりえず、そこのプロセスに至る自分は店主から見て客であり、自分から見ると自分の家ではない場所でコーヒーをいれてくれる人は店主である。知らない人だったらどうしよう。実際知らない人だ。テーブルにフレッシュとスティックシュガーが備え付けられており、両方混ぜて飲むとコーヒーだと言う味がした。店主は客こと他人である自分を見るのは止めて、雑誌を開いて読みはじめた。かつて流行った曲をオルゴールでアレンジしたBGMが流れており、どこか夢に見た光景であった。覚えのない景色を確かに覚えており、しかしこの光景はどこかで見たはずである。他と類似性がありすぎる凡庸な風景は自分のリアルであって脳が認識する光景であり、さっき感じた通りすぎる車の風を思い出す。

本当は死んでいたりして。
コーヒーの苦味と砂糖の甘さを感じる。フレッシュの存在はこういう時あまりに薄く、この丸さがそうなのか、それとも視覚的効果なのか、疑ってしまう。数字と言葉が相反するなら音楽は真実に尤も近い振りをする。

「百回目だよ」

軋んだ声がして、扉が開く。発した男は自分を見て、不審者を見つける顔をした。店主の低い声で応じる声がして、カップの中に残っているコーヒーを一気にのみ干して、そそくさと代金を支払う。ふっと店主が微笑んだ。

「また来てよ」

しっかし、本当なのかよ、と店主は続ける。言葉の対象は自分ではなく、自分の前には相棒の自転車がある。百回目だよ。いいや、まだ一回目だ。ペダルを漕ぐ。循環する車は、不規則で、人たちがあまりにも生活しており、煮詰めた果てに異世界は眠っている。おおむね事故とは非日常であり、宇宙に広がるもやの名前は頭から抜け落ちた。

響き渡る子供の絶叫がして、事件性はなく、ただの雄叫びだ。きゃらきゃらと笑う声がして、通りすぎた言葉は外国語で熱心におしゃべりしていた。迎合。ペダルを漕ぐ。自損事故ならまあいいか。それは乱暴な結論で、空きっ腹にコーヒーがたぷたぷと揺れていた。

短文4


葡萄を引っ搔いた爪は紫に染まった。ぷつりと滲んだ果汁を狐が舐める。それは酸っぱかったのか、狐は顔をしかめる。大体のところと出し抜けに言い始めた猫は帳簿を眺めて、使いすぎやないですか?と言う。使っとらんで、と狐は言う。酸っぱかった葡萄を口に含んだ。酸味がきつい。痺れにも似た舌の心地を抜けると美味いかもしれないとも思う。屋敷を管理していた分の遺産は、底をつき始めている。土台親の金ならなくなってしまってもいいかもしれないとも思う。猫が眼鏡をかける。最近小さい文字が見えにくくなっている。狐の文字は几帳面で小さい。びっちりと書き込まれている。几帳面な可笑しさが数字には詰まっている。相場より出費が高いのは人の良さをつけこまれてあらゆるものの値段がふっかけられているからと判断できる。最もメインの出費は本で、狐の趣味による図書館運営がうまくいっていないのが一番の問題だった。屋敷の一角を図書館に改装したものの貸本屋でもないのだし、元より利益が見込めるものではない。出費だけが嵩んでいく。その上、狐は他に働いたり、収入を得るものがない。親の遺産を食い潰しているだけだ。狐が葡萄を食べる。覇気のない顔を猫はレンズ越しに見つめる。どないしますの、と尋ねる。狐はどないすんねやろ、と他人事のように言う。

「葡萄でも作りまっか」 
「出来るんか?」
「あんたの本になんぼでも方法が載ってるやろ」
「あー。載ってるのは大抵殺しの方法や」
「探偵が解決しますねんやろ?意味ないやんか」
「殺すだけやったらあかんやろ」
「あきませんか」
「あかんよ、それは」
「そんなら、旦那さんのはええんですか」
狐は目を細めた。覇気のない顔に瞳だけが一瞬ぎらついた。猫は瞳孔を細め、歯を見せて笑った。
「冗談ですわ」
「…………ひとつ頼むわ」
「ええでっしゃろ。借金だけないのが救いですわ」
猫は不慮の事故で亡くなった狐の両親のことを考える。狐は、葡萄を差し出した。最後の一粒。紫の爪。
「いりませんわ」
「食うてや」
「酸っぱい顔してますやん」
「せやから、美味いんや」
「難儀やなあ」
猫は受け取って葡萄を食べた。
「酸っぱ!」
「せやろ」
「どこが美味しいんですか」
「……ま、その内美味くなるわ」
狐はソファに沈み込んだ。猫は帳簿を鞄にし舞い込む。
「そんなら、また連絡しますわ」
このままこの人死にそうやなと猫は思った。狐はなにも興味がないように目を閉じた。ここ一帯に葡萄の木が広がる土地を想像する。その根本に狐は埋まっているのかもしれない。
「甘い葡萄食べたことあります?」
猫は尋ねた。狐はぼんやりと目を開けた。
「知らん」
まだおるんかという顔をする狐を若干憎たらしく思いながら猫はかけたままだった眼鏡を外した。
部屋からでる間際に独り言のように狐が言った。聞こえなくても問題ないと言う風だった。
「食いたいんやったら買うてきたる」

猫は眉をしかめる。もうなにも言うことはないと、背を向ける。酸っぱさが咥内に残っている。舌先が痺れている。毒でも構わなかった。という夢を見ただけだ。という夢を。

短文3


手当たり次第に撃ち込んだ、さながら散弾銃の風格で。現実的にはそれはネコパンチだ。失礼、かわいく言いすぎだ。しかし徒手空拳というのも、なにか違う。暴れるほど暴れ果て、掴んだものは外れた宝くじのようものだ、何が言いたいかって?ノイズは仕方ない。ノイズを除去するイヤホンも忘れた。お買い得です!声が聞こえる。声を張り上げて店員が叫んでいる。お買い得です!セールです!今だけ!期間限定!ざわざわとしたノイズに再び戻る。彼女がやってきて、やってきて、隣に並んで、お買い得、と言った。見ますか、と僕は言い、彼女は首を傾げた。お買い得って大変だから、と彼女は言う。まあ確かに。
ノイズは広がって、僕は散弾銃を持つ。比喩だ。心としてそうだから、そう言う。散弾銃を持つ。本当はどんなものかよく分からない。マシンガンとはどうも違うらしい。彼女は見たい映画があるんですと言う。アクション。スターンローンの。機関銃。その機関銃なのか?僕は握る。彼女の手を。彼女は握り返す。スターンローンの映画を観に行こう。ノイズがやってくる。僕は歩き出す。彼女は歩き出す。お買い得です!

「あの店、見たいです。何がお買い得なのか、本当は知りたくて」
彼女は笑った。
「実は私もそうです。あんなに必死に言ってるから、すごいものがありそうじゃないですか」
「本当に。で、映画も見ましょう」
機関銃は置いていなかった。猫のかわいい靴下が置いてあって、彼女は困った顔をして、困ったと言うから僕は少し笑った。

短文2


フォークをここに置いたんか、と嘆きのリズムで言われて、そやけどなんやと食事を続行する。ここに置いてもうたらもうどうにもならんと佐久山さんが項垂れた。美味いで、とポテトを差し出す。そんなもん見たら分かるわと佐久山さんが言った。見ても味は分からんやろと言うとアホやな、よーちゃんは、と言われる。心外に思えて熱心にポテトを差し出す。佐久山さんは口を開けてポテトを食べた。繁殖しとるな。
「え?」
「ほら繁殖してるで」
無数に広がる穴が風に吹かれて散った花びらみたいに増えている。
「フォークのせいやで」
「ポテトにフォーク使うやろ」
「そやけどさあ」
一定のテーブルマナーが流行ってしまった所為で単純な世界はそれを規律としてしまった。最初そのテーブルマナーが出てきたのはテレビでキャラ付けされたとんちきなお姉さまだったのだが、すっかり洗脳された世界はこれを常識と変換し、規定の通りにしなければ逸脱した行動を取るようになった。私は穴にフォークとポテトを落として手打ちにした。美しい鈴のような音が響いて、ポテトはなくなってしまった。
「なんでや?!」
「美味かったんやろ」
「そりゃ、美味いわ」
「残念やなあ」
佐久山さんはにやにやと笑っている。落としてなくなってしまったフォークを引き出しから取り出し、テーブルマナーに沿って丁寧に置いた。穴は徐々に小さくなり消えていく。
「ポテト食べたいなあ」
「しょーがなしやで」
佐久山さんはニヤリと笑う。これからポテトを買う旅に出てくれるらしい。私は指についていた塩を舐めた。単純な世界の気持ちは少しは分かるつもりだ。フォークは静かに待っている。次のテーブルマナーが動くのを。それを待たずに私たちは車に乗り込んだ。いざ行かん。

こうして、長い旅路が始まった。

短文1


タケルに明日って常用漢字だっけ、と言われて俺はつい考え込んだ。
「常用漢字って何だっけ」
「常用漢字ってそりゃほらあれだよ」
「常用漢字もわかんないのに、常用漢字のこと気にするなよ」
「ちょっとしつこいんだけど」
うっとおしそうにタケルが目を伏せた。は?こっちは聞かれたから答えようとしただけですが?と思ったが、しかし常用漢字にも何の思い入れもないのだ。こんなことでまた喧嘩するほど常用漢字に義理立てする必要もない。
「明日だからそうだろ」
「何が?」
「だから」
だから、と繰り返して、もういいんだよ、常用漢字のことは。結局言わず口を閉じると、タケルが言う。
「明日何すんの」
「明日って、別に仕事だけど」
「何してんのここで」
お前が呼んだからだけど?!帰ろう。タケルに呼ばれて近所の公園まで出向いたが意味はなかった。俺の正義は支持されている。そこの通りすがりのおじさんにだって認められるはずだ。同士のつもりで微笑みかけ、薄気味悪そうに目を逸らされ、大体正義とはそういうものだから、俺はスマホをリュックにしまい込み、立ち上がった。
「じゃあな」
「は?」
「はぁ?」
「うっざ」
「はぁ……………」
目を細める。タケルはスマホに目を落としてタップしてメッセージを送っている。すこしの間その姿を眺めていたが俺はやっぱり帰ることにした。顔を上げると通りすがりの女の人がタケルに視線を送り、見惚れる瞬間を見つける。よくあることだ。
「おい、明日は常用漢字なのかって聞いてんだろ」
ドスが効いた声でタケルが話しかけてきた。
「明日になれば分かるんじゃない?」
明日の話ならさ。
俺はさっさと帰って、部屋のベッドに寝ころびながらスマホで調べてみた。明日、常用漢字。驚いたことにあすとあしたで違うらしい。漢字で書くと同じなのに。
タケルはこれを言いたかったのか?俺はどうだろうと思う。どうでもよかったはずだ。俺だってどうでもいい。
全部明日になれば分かるだろう。
義理立てするものは、もう何もなかった。

だって欲しいものがあるから




欲しがる必要はなかったんだと思う。

二人で歩いている時、観2に声をかける人がいた。それ自体はよくあることだった、彼女の知り合いは多く、その上で彼女と親しかった。ライラックはそれを複雑に思わないと言えば嘘にはなるけれどそのことについて、嫌だとかやめてくれと言うようなことはなかった。

「あれ、観2じゃん!連絡くれなくなったのどーして?俺達相性よかったじゃん」

ただ、この場合親しさの意味合いは違ってくるように思う。その人はべらべらと喋り、どんどん彼女の顔は青ざめていく。浮気がばれたというようなことなら、怒ればよかったんだと思う。ライラックは知らずによく喋る人をじっと見つめ、いつまで喋るのか、本当に彼女の知り合いなのか、考えていたが、ライラックの顔は黙っていると威圧的で、人を寄せつけない雰囲気がある。怯えたその人は、えー?えー?なにー?なにー?とか言いながら立ち去っていった。

「あの…………」
「――すみません、」
「顔色が悪いですよ、休みましょう」
「いやでも」
「一息いれて」
「だから!」
「………」
「すみません、その、だから、」

覚えていなくて、と彼女は絞り出すような声で言った。

「お酒を飲まれて、とか……?」
「――じゃなくえ。すごく、都合がよく聞こえるのかもしれないんですが…………私、記憶がないところがあって、時々あったことを覚えてないんです」
「今、のことですか?」
「いえ、過去の………パラレル・フライト社の事務所に入る前の」

だからもしかして、本当にあったのかもしれなくて、それがこれから、またあるかもしれなくて。

彼女は頭痛がするみたいな顔で言う。
細くかすれた声で、それは不思議とライラックにだけ、届くみたいな声だった。

「今、あなたと恋人なのはおれですから。だから、平気です。心配しないでください」

ライラックは彼女の手を取った。
ゆっくりと握る。

「――ね、だからそんな顔しないでください」
「…………なさい」
「え?」
「ごめんなさい」

彼女が手を離す。

「ごめんなさい、ライラックさん」

駆け出して行く彼女をライラックは呆気に取られて、見送った。



それから、ライラックはどう家に帰ったかを覚えていない。彼女の荷物は残されたまま、彼女は地球に帰ったみたいだった。休暇を取って、3日は一緒に過ごせる予定だった。離れた星で暮らすライラックと彼女が一緒に過ごせる時間は貴重だった。一瞬、むくりと彼女に話しかけた相手に対して憎悪のようなものが沸いた、が八つ当たりであることは分かっていた。彼女が何にごめんなさいと言ったのか、分かるようで分からない。何が駄目だったのか。連絡も取れない。
だから、ゴロウに相談することにした。
酒の勢いも借りて、あったことを吐露するとゴロウは眉根を寄せ、酒臭い息を吐いた。
「そりゃお前なァ」
「はい」
「まぁ、色々あるよな」
「ど、どういう意味ですか」
「こういうのはよぉ、こういうのは、まぁ、直接観2に聞くしかないだろ?」
「そ、そうなんですけど、連絡が取れなくて」
「会いにいきゃいいだろ?」
「会ってくれますか?」
「わかんねぇだろ、会いにいかなきゃ」
「会いに」

行ってもいいんですか、とライラックは言った。ライラックは自分が傷つくとか、後悔するとか、余計に苦しむとかそういうことは、あまり関係がなかった。自分が会いにいくことで、彼女が苦しむ方が嫌だった。

「おめぇはどうなんだ?」
「何がですか?」
「そういう、観2の、過去の恋人だか遊び相手だか、そういう」
ゴロウは言いにくそうに言葉を選びながら全部言った。
「観2が好きだった相手やあいつが大事な相手が会いに来たとしたら、どうなんだ」
「おれは、観2さんが好きです。おれといる時、おれを見てくれればいいです」
「………はぁ」
ゴロウは酒を煽った。
「愛だな」
「愛、でしょうか」
「愛なんだろ?」
「……大切なんです」
彼女が自分のことを嫌になったら?
ライラックは望んで手を離すかもしれない。彼女が苦しむのも傷つくのも嫌だからだ、その時彼女にとっての最良があればいい。彼女が幸せであればそれでよかった。愛と呼ぶにはあまりにも強欲すぎやしないか。

ゴロウと別れて、ぼんやりとライラックは夜風に当たった。この時期に咲く、白くて小さい花が、甘い匂いを漂わせている。離れれば忘れてしまう、近づけば思い出す、さざなみのようだ。

浮いては沈む感情が、酒に任せて流れて行く。そのまま、何処かにいくなら、やはり地球がいい気がした。ライラックは自宅に足を向ける。

踞る小さな影を見た時、ライラックの心臓はとびはねた。彼女からはいつも懐かしい匂いがする。過去の懐かしみとはどこか違う気がする。言い換えると、ほっとできる気がする匂いだ。肩の力を抜いて自分でいられるような場所。そんな居場所が人間の形をしている。強力な地場がそこには発生している。

「愛してます」

懺悔みたいに飛び出た言葉に、玄関ポーチのライトに照らされた彼女が息を飲んだのが分かった。ライラックは、飛び出た言葉を今更取り戻せず、視線をさ迷わせる。

「すみません、おれ、あ、荷物!取りに来たんですよね、触らずに取ってありますから………」
「私の方こそすみません」
これでお別れなのかもしれない。ライラックは玄関を開けて、彼女を部屋に招いた。彼女はつかれた顔をしていて、いつもの仕事の制服を着ていて、鞄ひとつで、それからお腹をならした。
「あっええと」
「……ふふ、なにか食べますか、冷蔵庫に何かあったかな、すこし待っててください」
「いや、ま、待って、待ってください、あのライラックさんに話があって」
またお腹が鳴った。
「だから!」
観2は自分のお腹を叩いた。
「だ、だめですよ、叩いては」
「いいんですよ!今大事な話をしてるんだから、お腹なんてどうでもいいんですよ!」
「だめですよ!ご飯作りますから!」
「そんな、もう、謝りにきたんですから!聞いてください!!」
お腹は鳴る。
彼女は崩れ落ちた。
「あーもう~~いやだ~~。もういやだ。ライラックさんのバカ」
「すみません」
「ライラックさんはバカじゃないですよ!謝らないで!どうして謝るんですか!バカだから?!」
「たぶん、そうです」
「そんなことないですよ!優しいからですよ!そんな、優しくする必要ないですよ!全部私が悪いんですから!」
「なにも悪くないですよ」
ライラックは彼女を抱き起こした。あやすように抱き締めた。観2はすこしの間ライラックの肩を叩き、ふて腐れたように静かになった。
「怒ってくれてもいいんですよ」
「どうしてですか」
「変なやつにデートを邪魔にされたし!勝手に帰るし!3日一緒にいられたのに!今も、………迷惑をかけてるし」
だからいいんですよ、嫌になっても。
ライラックはますます彼女を抱き締めた。
「いらない思い出もあるんですね」
「え?」
「名前も知らないひとですが、そのまま何もかも忘れていてください。おれのことだけ、全部覚えていてください」
「……………」
「おれのことだけじゃなくていいです、でもあなたを傷つける思い出ならなくてもいいです、おれは」
彼女が身じろぎした。
「……ライラックさん」
「はい」
「愛してるってなんですか?」
「あっ、ええと、その、勝手に。おれは」
「嘘なんですか?」
「そんなことはないです。観2さんはおれからそう思われるのは嫌じゃないですか?」
「いいのかな、相応しいのかなと思います。私はその」
不完全で。
「よかった」
「え?」
「おれも足らないみたいです」
ライラックは身を寄せた。これ以上ないほどに密着しているのにまだ足りなかった。
「あの時、おれのこと、嫌になりませんでした?」
「まさか、全然。自分が嫌になりました」
「だったら、全部おれで満たして」
「…………ライラックさん」
「あなたを過去に奪われることだけは嫌です」
言葉にしてはじめて気づいた。愛と呼ぶにはやはり強欲だ。
「もっとおれを見てください」
彼女がゆっくりとライラックを見た。その瞳に自分が写ってるのを見て、ライラックは唇を重ねた。

彼女がライラックを嫌になったらどうする?
ライラックは望んで彼女を手放すかもしれない。
だから、
「おれを手放さないで」

そうすればずっと、自分は彼女のものでいられる。





ひどく執拗で長い行為のあと、観2は空腹で立ち上がれず、ライラックから手ずから食べさせて貰う。
観2は親鳥のようにせっせと紅茶入りのクッキーを運ぶライラックが幸福に溶けていることが分かった。
ライラックは怒ってるとは言わなかったけど、怒っていた気がする。
身体に広がるライラックのつけた痕が少しひりついて、気だるさにまごついた咀嚼をすると、ライラックの指が優しく口を拭った。

「ライラックさん」
「はい」
「今度はもう少し優しくしてくれると嬉しいです」
「……………はい」

真っ赤になったライラックにやり返した心地になって、彼女は笑った。
ハーブティーを飲ませてもらって、彼女は雛鳥のようにまどろんだ。今後同じようなことが起きても乗り越えられるだろう。

ここが鳥かごの中なのは分かっている。花で飾られた、美しいかごの中。澄んだ華やかな匂いがする。紫色した花の。

開け放たれた扉から空が見えて、ライラックの手を握る。握り返された手の力の強さを、彼女は確かめる。


――愛と呼ぶには。

コミュ二ケーションラブ



ケーキを食べ終わったあと、二人でのんびりとソファで過ごす。
「レイ先生のお腹の中には何が詰まっているの」
わざとからかうように言いながら、レイのお腹を服の上から撫でる。
「…………お前と同じものだ」
「そうかな?隠れてまたなにか食べてるんじゃない?」
「一緒にいて、どうやって盗み食いするんだ」
「レイ先生は器用だからね」
「盗みは専門外だ」
「分かってるよ、そんな顔しないで」
レイのお腹はきれいに割れている。甘いものばかりでどうやってこの体型を維持しているのか、不思議だ。
「やっぱりスイッチがあるのかな……?」
探るように撫でると、さすがに手を止められた。
「まだ諦めていなかったのか?」
「一緒に暮らしたとしてもあなたへの謎は解明しない気がする」
「……それは、一緒に暮らしてみれば解るのではないか」
視線がはちあったが、レイから逸らした。前々からそんな雰囲気はあって、でもどちらとも言い出したりはしなかった。お互いの生活があり、おそらく一緒に暮らしても顔を会わせる頻度は今とそう変わらない気がしていた。レイの手を握って指を絡めるとしっかりとした強さでレイが握り返した。私の手の甲に唇を寄せて、肌の質感を楽しむように唇を滑らせた。まるで、甘えているみたいだ。
「抱きしめてあげる」
尊大に言ってみせる。レイは小さく笑った。
「なら、頼む」
「いいの?普段なら断るでしょう」
「別に普段も嫌ではない。ただ、お前のタイミングが悪いだけだ」
「そうかな?あなたはいつも、そんな瞳をしているよ」
レイは私をまじまじと見た。
「…………そんな風に見えているのか?」
「――ううん。私の希望混じり。そうだったらいいなと思うけど、そうでもないのは分かってるから」
レイは笑っただけだった。
「……抱きしめてくれるんじゃなかったのか?」
「――ついでに好きって言ってあげる」
レイは片方の眉だけ器用にあげてみせた。思わず笑いながら私はレイを抱きしめた。
「好きだよ」
ゆっくりと息を吐いたレイは、満更でもなさそうだった。私を抱きしめ返して、私もだ、と言った。レイからはミントの匂いが微かにして、それがどこから香るのか、知りたくて首筋に鼻をくっつけた。
「レイ、もしかして飴を食べてる?」
「ああ」
「盗み食いはしないんじゃなかったの?」
「これは盗み食いなのか?」
「いつの間に」
レイはポケットを探り、ミントの飴を取り出した。私は口を開けるとレイは口の中に飴を入れてくれる。
「目が覚めてきた」
「眠かったのか?」
「そうかも」
自分から離れようとは思わなかったけれど、レイも離れようとはしなかった。体温が身近すぎて、口の中だけがひんやりしていく。不思議なかんじだった。キスしたらどうなるんだろうと思って、レイにキスをした。軽く触れ合うつもりだったけど、レイがぐっと体重をかけてきて、そのままどんどん深いキスになっていく。違う!そんなつもりじゃない!
「ちょっと、待って」
「……何故?」
問う理由は、レイの瞳にちゃんと書いてある。
「――飴を食べてるから」
口ごもりながら言うと、レイは眉を下げた。なんだかそれが可愛い。また自分からキスをする、レイが乗ってこようとすると胸元を手で押した。困惑がレイの瞳に過る。
「だめ」
「…………」
レイは私の耳たぶに触れる。
「私はもう飴を食べ終っている」
「じゃあ見せて」
唇を撫でて促す。
レイは渋い顔をして、口を開けた。
ミントの匂いがする。
飴は残っていなかった。
「ほんとだね。でも、私はまだだから」
レイは押し黙ったが、瞳は雄弁だった。私はなんだか楽しくなってしまった。笑ってしまうとレイはぐっと眉間にシワを寄せる。
「からかっているのか?」
「今日のあなたはかわいいね」
「そんなことはない」
「そうかな?私のことが好きだって顔をしている」
「…………それだけか?私の顔に書いてあることは」
「え」
「もっとよく確かめてみるといい」
レイが私の手を自分の頬に添えさせた。
「…………どうかな?マカロンも好きだって書いてあるね」
「それで?」
「あとは歯医者が嫌いって書いてある」
「それは間違いだ」
「虫歯になるのはもっと嫌だって書いてある」
「……………他には?」
焦れたようにレイは言う。
私は薄くなった飴を噛んで見せた。
「私の歯は丈夫みたい。あなたと違って虫歯はひとつもな―――ッ、ん」
「―――そのようだ」
レイが覆い被さってくる。
「……」
私はレイの顔を撫でた。
「――私の顔は今は何と書いてある?」
レイは熱い吐息混じりに言う。私は彼をもう止めなかった。
「秘密」





「…………お腹空いてきちゃった」
レイが私のお腹を撫でる。
「宅配を頼むか」
「こんな時間にやってるかな?」
「やっている店もある。時々注文することがある」
「甘いもの?」
「そういう店があればいいが」
そのまま横になっているとレイが飲み物を持ってくる。私に着替えをさせ、トイレに行かせそうやっててきぱきと世話を焼いているのを見るのは結構楽しい。きれいになったシーツの上で、再び横になる。レイは何を注文するか真面目に選んでいるみたいだった。
「一緒に暮らしていてもこんなかんじなのかな?」
レイは少し驚いた顔をした。
「それは……そうかもしれない」
「私はまだ、そうと決めることはできないけど、あなたと暮らすことに不安はないよ」
レイの瞳は不思議な色を湛え、私を見つめる。レイは何も言わなかったけれど、その手が慈しむように私の髪に触れた。しばらくの間、レイはそうしていた。
「……………レイ?」
「なんでもない」
「そう?ならいいけど……」
「注文するならここがいいだろう」
レイは端末を見せてきて、私は了承した。世界の隅にいるみたいにレイはどこか打ちひしがれていて、私は彼を慰めようとしたが何を言えばいいか、分からなかった。

「腹部は専門外だ」
「え?」
「だから、何が詰まっているかはわからない。基礎的な知識や医学的な経験ならあるが、やはり専門外だ」
いったい何を言い出したのか、一瞬分からなかったが、私はまたレイのお腹を撫でて見せた。
「大丈夫。これから美味しいものが入ってくる予定だから」
レイは私を咎めるではなく、抱きしめた。
「私はいつでも構わない」
「分かってる。有り難う」
一緒に暮らさなくても二人で過ごすことはできる。
「あなたの心臓のことを今度は教えて」
「それなら専門分野だ」
彼は重々しく頷いて見せた。私は笑った。やがて宅配を知らせるインターホンが鳴るまで、私たちは話し合った。肝心なことから自分達を遠ざける、それでいて、あなたを愛してます、という言葉で。

日常


「ねえ、レイ先生。畏まった表情筋のサポートとして白衣にアップリケをつけてみない?」
「……今度はどんな無駄遣いをしたんだ?」
「無駄遣いじゃないよ。これは正当な買い物。ほら、レイ先生に似てると思って」
無愛想な雪だるまがアイスキャンディーを食べている絵柄だった。よくそんなものを見つけたなといっそ感心染みた声が出る。彼女は楽しそうに笑って、アップリケを顔の横に持ってくる。
「私が探したんじゃないよ、たまたま引き寄せられたの」
「また深夜に眠れず、通販サイトをひたすら見ていたのか?」
「それは………そんな話じゃないよ」
彼女は頬を膨らませた。先ほどまで得意気だった彼女の変化に彼は眉を上げて見せて、腰を抱き寄せた。
「それほど似ているとは思えないが」
「………似てるよ、そっくり。あなたの生き別れの双子かもしれないよ」
「どちらが兄だ?」
「気にするのはそんなところでいいの?」
「冗談だ」
「冗談を言う表情ってものがあるんだよ」
「分からないのか?」
「分からないよ、そんな顔じゃ」
「よく見てみればいい」
彼は顔を近づけた。吐息が触れそうな距離だ。彼女は顔を逸らして、だから。ともごもごと言う。彼女の耳に髪をかけながら、それで、と言う。
「どのくらい眠れてないんだ」
「別に……ちょっと眠れてないだけ、あんまり普段と変わらないよ」
「私の双子の兄弟を探し当てるほど、通販サイトを渡り歩いていて?」
「これは、たまたま巡りあったの。もしくは呼ばれたんだと思う。あなたと私が親しいから」
「悪くない嘘だ」
「嘘って」
彼女がやっとこちらを見た。彼は彼女の顔を観察するように触れた。
「レイ先生、今は診察時間じゃないよ」
「勤務外労働は違法だ」
呆れたように彼女はため息を吐いた。彼は頬を包み込むように触れる。彼女の瞳が揺らぐ。
「……本当だよ、そこまで寝不足なわけじゃないし」
「分かっている」
彼女が眠れない理由を彼は聞かなかった。
「これからとくとくと安眠する方法を解説してもいいがどうする?」
「うーん、あなたの貴重な時間をそれに使うのは勿体ないかな」
「なら、どうする」
「……」
彼女が彼に抱きついた。
「……そばにいて」
彼は彼女を抱き締め返した。
「分かった。眠るまでそばにいる」
「それじゃだめ。起きたら朝食も作ってもらわないと。最近あなたの手料理食べてないよ。だから、眠れないのかも」
彼は思わず笑った。
「分かった。他には?」
「え、いいの?」
「兄を見つけてくれたお礼だ」
「あなたが弟なの?」
「……ふむ。兄はどうやらなにも話さなかったみたいだ」
「……そうかも。アイスキャンディーを食べるのに夢中だったみたい」
彼女の手にはまだアップリケが握られていた。彼はそれを受け取って、ソファのサイドボードに伏せて置いた。彼女は不思議そうに見つめていたが、彼がキスをしたので、少し顔を赤くした。
だが、ふと顔を伏せる。
「あんまり上手な言い訳じゃなかったかも」
いつもの声だが沈んだ調子は隠せなかった。彼は彼女を抱き締める。暫く二人は無言だった。
「レイ、キスして」
彼は言うとおりにキスをした。
彼女は少し笑った。
「あなたって、今ならなんでもしてくれるみたい」
それは事実だった。
今だけではなく、ずっとそうだ。今までも、これからも。
彼は彼女の髪を触る。
それから彼女の髪にもキスを落とした。
「湯船にお湯を張ってくる。ゆっくり入るといい」
「有り難う、でも今は動いちゃ駄目」
「…………」
彼女が彼の胸に頭を寄せる。
「ドキドキしてる」
「……心拍数とはそういうものだ」
彼女が笑い、指を絡めて手を繋ぐ。彼はしばらく好きにさせてやっていた。その内寝るだろうと思っていたら本当に眠りに落ちた彼女を彼はベッドまで運ぶことにする。冷蔵庫に朝食に相応しい食材はあっただろうか。彼は彼女の寝顔を見ながらそんなことを思う。
「おやすみ、いい夢を」

数日後、セキがこんなメッセージをSNSに投稿した。

「冷涼なるレイ先生の白衣に雪だるまが住みはじめた」

彼女は小さく笑ってハートをつける。夜思いの外熟睡してしまい、今では普通に眠れるようになった。彼が今頃どんな表情をしているのか、気になってスタンプを送りつけた。

彼からはただ一言だ。

「今、アイスキャンディーを食べていたところだ」

それって冗談のつもり?彼女は可笑しくなってしまった。付き添ってくれた夜のお礼に今度はちゃんとしたものを送ろうと彼女は再び通販のサイトの旅に出ることにする。果てのない旅、彼のぎゅっと詰まった眉間、疑わしげな眼差し、でもそれが柔らかくなって、ふっと笑う瞬間、彼女の好きな色を浮かべる。

彼女が最近眠りにつく時、彼女はそんなことを考えているが、彼には言わないつもりだ。

代わりに彼の好きそうなものをスクショして送りつけた。

「いいレストランを見つけた。お礼なら食事に付き合ってくれればいい」
「お礼になるの?」
「なる」

やり取りはそっけない。でも、充分だった。あったかい雪だるま。彼がいつでも冷たくあろうもするのは、溶けてしまうからかもしれなかった。自分の熱で。あるいはその優しさで。

ラブレター


ずいぶん真面目にあなたは思い悩んだ。戸惑い、躊躇、照れ、恥ずかしさ。愛しさ。忙しい仕事の合間にチョコレートのバーを齧りながらあなたは辞書や例文集をいくらでも読み、ラブソングも聞いたし、小刻みの時間でラブストーリーの映画も見た。夢でもそれに思い悩み、起きて真っ白の便せんを目の当たりすると、頭痛がするようだった。誤解がないように言えば、あなたは不本意に嫌々、やっているわけではなかった。寧ろ積極的に意欲的に取り組んでいた、あなたは自分はロマンチストではなく、情緒の欠片もないと思っている節がある。実際の彼女の印象はその逆にも関わらず。自分が成し遂げたものを彼女に直接手渡すことを考えると頭がぐらぐらした、恥、恥ですらなかった。ためらいだったし、恐れだった。もし、――もし、彼女の表情に何も思い浮かばなかったら?あなたは完璧を求め、―――挫折し、ペンを置いた。彼女に手紙を贈りたかった。彼女が何度も貰ったことがある、ラブレターを。あなたは事実に嫉妬したわけではなかった。いやほんのちょっと、実際嫉妬もあったかもしれない。でも、あなたは彼女が思うよりも純粋に彼女のことを愛していたから、その思いを形にしたかった。文章にして彼女に差し出したかった。それを読む、彼女の眼差しや、驚きや、微笑みが見たかった。あなたは眼鏡を置いた。目頭をもみ、ため息を吐いた。

「レイ先生ってば、根詰めすぎじゃない?」
「…………いつから」
あなたは冷静に言った。冷静に。
彼女は楽しそうに笑った。
真向いの椅子に彼女は座っていた。
診察を待つ患者みたいに。
「そんなに悩むなんて誰への手紙なの?レイ先生、まさか論文じゃないだろうし」
「………本当に、診察か」
「え、そう、そうだよ。一体どうしちゃったの?本当に忘れてたの?」
あなたは沈黙した。
彼女は真剣な顔になり、
「一体いつから休んでないの?大丈夫?」
あなたに近づいて、額に手をあてた。熱を計っている。特に変わりがないと知って、医者のようにあなたの頬を触り、あなたの隈を見つける。
「……そんなに大変な手紙だったりするの?何か、私に手伝えることはある?」
あなたは沈黙を選んだが、彼女の瞳は嘘を吐かせなかった。
「お前への手紙だ」
「え?」
「前に話しただろう、手紙を贈ると」
彼女は何回かまばたきしたあと、口を開けた。
「…………」
「何か言ったらどうだ」
「……何か、って。あなたって本当、時々、思いがけないことを言うよね」
「有言実行なんだ」
「それは知ってるけど」
でも、と彼女はあなたの頬を撫でる。
「心配になるよ」
「……そんなに酷い顔をしているか?」
「というより、優秀な医者であるレイ先生が大事な患者の診察の予定を忘れるなんてね」
「……」
「……そんなに私に手紙を書くのは大変だった?」
彼女は責めるというよりおかしそうだった。
あなたは彼女を見つめ、
「お前への、想いを言葉にするのは苦労する」
「そう」
「溢れて、」
彼女が固まった。
「どう言えばいいのか、分からなくなる」
「――そう」
あなたは彼女から視線を外さなかったが、彼女は先に目をそらした。薄っすらと頬が染まっていた。彼女はそれをごまかすみたいに、何も書いていない便せんを手に取った。
「じゃあ、これはそういうことが書いている手紙ってこと?」
「何も書いてないだろう」
「そういうことなんでしょ」
彼女が意地になったように言う。あなたは少し笑った。
「そうだな」
「うん――それで、診察はするの?」
それはありふれた言葉だし、聞きなれた単語だ。
あなたは一瞬揺らいで、時間を確認して、彼女を見る。
あなたと彼女の視線は交差する。
―――が、看護師から呼び出しが入った。
「レイ先生、すみません。緊急の呼び出しです。対応できますか?」
「今行く」
「今行く」
と、彼女が看護師に聞こえないように繰り返した。
「……すまないが、診察の予約を入れ直してくれ」
「はい、レイ先生」
聞きわけのいい患者のふりをして、彼女が頷く。
あなたは見送る姿勢でいる彼女を通り過ぎる間際、彼女の手を握った。
彼女は驚いて、握り返そうとし、その瞬間、あなたは離れた。

それからあなたは自分の職務を全うした。
デスクに戻り、あなたは残された手紙に気づいた。

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親愛なるレイ先生へ

次の診察日は忘れないで!
どれだけ私のことを考えていても、目の前の私をちゃんと見て。

あなたの大事な患者より

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あなたは幾度となくその文章を読み返して、椅子に深く凭れて息を吐いた。
あなたは今すぐ会いたかった。彼女に。

薬指にはまってるからさ



「来週からコーヒー農園を見に行ってくるね」
と、彼女が言う。アクセを磨いてた手を止めて、顔を上げる。
「えっ、どこに」
彼女が名前を挙げたのは外国だったが、ぱっと聞いてどこの国か分からない。彼女がぎゅっと近寄ってきて、身を傾ける。いい匂いがした。スマホを操作して、ここだよ、と言ってもまだドキドキしていたけど、
「遠っ」
「うん、遠いよぉ。飛行機も乗り継ぐみたい」
「えっ、ま、待って。一人で行くのか?」
「ううん、みちるさんとひかりさんと」
二人のお知り合いが持ってる農場なんだって、と言う。ほあー。セレブな世界だ。詳しく根掘り葉掘り聞きたさもあったけど、
「……いつから決まってたの?」
「え?昨日だよ。だから今日実くんに話してるの」
ほら、とメッセージのやり取りを見せてくれる。すごすぎない?そういうやり取りって人に見せられるんだ。
「ふふ、いきなりでびっくりした?」
「そりゃもう……でも、パスポートはあるの?」
「うん、前にお父さんに会いに行ったから」
「あ、聞いた気がする……」
彼女の父親は海外赴任中で、時々会いにいくと聞いたことがある。日本に帰国してもいいけど、せっかくなら、ということで家族団らんも兼ねているらしい。
「…………」
大丈夫だと思う。あの二人が一緒だし、何より彼女のことを大事にしているから。
彼女の手を取る。喫茶店の仕事をしているから、指先は少し荒れていて、爪は短い。指の腹でなぞると、彼女がくすぐったそうに笑った。
「あのさ、カッコ悪いこと言ってもいい?」
「実くんはいつでもかっこいいよ♡」
「あっえっ、アリガト…………」
彼女がニコニコしている。うまく言葉にならなくて、引き出しを開けた。メイクボックスの隣。しまい込んでいた指輪がある。
「行く時、良かったら、これをつけて、いってくれると嬉しいデス……」
「……指輪?」
「ちゃんとしたやつじゃなくて、チープなやつなんだけど……でも、かわいかったから、前に買ってて」
「そうなんだ?いつ?」
「………高校一年の時」
「実くん、おしゃれだもんね」
「違うくて。美奈子……いいな、と思って、買ってたの」
「えっ」
「どう、かな」
「一年の時って、まだ」
「そう、まだ」
おもちゃみたいなオレンジ色のプラスチックのリングに、これもプラスチックのピンクのお花がついていて。その真ん中に、ピンクの濃い石がはめ込んである。石、というか、古いボタンを削ったような気もする。なんとなく、見たとき、彼女の顔が思い浮かんで買ってみたけど、あげるのは思いとどまった。そういう話をしたら、彼女は照れ臭そうに、嬉しそうに微笑んだ。
「有難う」
「……うん、ま、そーいうコトなんで」
「つけてくれる?」
「あ、はい………」
やべえ。ドキドキする。
彼女の手を取って、自分より小さくて、細い指が愛しくって握るようにして撫でて。彼女の瞳が期待を含んだように輝いていて、きらきらしてて。直視できなくなって、うつむきながら左手の薬指にはめた。
「えへへ」
彼女が手を開いて、指輪を見る。
かざしたり、手を傾けたり、いろんな角度から見ている。
高校一年の時ってこんな未来、思い描いていたんだっけ。まだ、秘密がバレて厄介だなあとしか、思ってなかった気もする。
「有難う、実くん。すっごく嬉しい♡」
「……うん。良かった。やっぱ、似合うし、スキ」
「うん、わたしも好き。大好き♡」
彼女の髪を耳にかけて、じっと見ると彼女が察してくれた。キスをして、眼鏡は相変わらず当たるけど、彼女がよく笑う。
「……わたしも何か返したい」
「え、いいよ」
「よくないです」
「あとでモールにでも行く?」
「そう…じゃなくて………」
む、と考え込んでしまった彼女の眉間を触る。
「もう!ちょっと待って」
「ヤダ。待たない」
またキスをすると、バタバタと彼女がかわいく暴れて見せた。
ぎゅーと抱きしめていると、
「あ、そうだ」
彼女が腕から逃れてゆく。
鞄を探って、取り出して見せたのは絆創膏だった。
彼女は真剣な顔をして、
「実くんの、手、借りるね」
「ドーゾ」
左手の指に絆創膏を巻くと、ペンでハートを描いた。
まじまじと見ていると、彼女はもじもじとする。
「えっとね、予約、のつもり……」
「予約?」
「指輪の……。一生分の………」
「一生分………一生分?」
「実くんの、ここにわたしの贈った指輪をずっとつけてもらうの!」
顔を真っ赤にした彼女は言い切った。
「ダメ、……って言ってもダメ、だから……ね!」
「……それって絶対?」
「絶対!」
「絶対。」
「絶対なの」
「それは、そのー……拒否られないじゃん」
「そうだよ」
「約束?」
「約束」
彼女が俺の顔を見た。
「……嫌?」
「なわけないし!!!!!!!!!」
語彙力が死んでいた。実際今も思いつかなくて、もう一度抱きしめた。キスして、それ以上もして、彼女は本当に来週旅立って行って、一週間ぐらい不在だった。喫茶店にはヘルプの人が来ていたけど、物足らなかった。

「nanaくん、それ、怪我したの?」
モデルの仕事中、仲の良いスタッフさんに言われて、咄嗟に口ごもった。外した方がいいのはわかっている。珍しく煮え切れない俺の態度に、努めて言葉を選びながら、事情を話した。

「かあっ」
「えっ」
「いや、えーと、そうだ」

結局、指輪を二つ重ねてつけることになり、気遣いに感謝した。彼女が帰国後、ずっと絆創膏をつけたままだった俺にびっくりして、かぶれちゃうよ、という心配をしてくれたし、仮の予約バージョン2ということで、シンプルな指輪を買いに行くことになるのはまた別の話。

深く吸うあなた



ぐっと伸びをして、大きく息を吐いた。同じ姿勢で画面を見て作業をしていたものだからさすがに疲れた、はっ、と気づいて振り返ると彼女は相変わらず居てくれて、本から目を上げて、休憩にする?と笑ってくれた。疲弊していた心が和らいで、ぎゅんと好きを充電していくのを感じる。
「ごめんな、ずっと作業しててさ」
「実くんは課題の締め切りがあるんでしょ?今日はわたしが会いたかったから無理言ったんだし、気にしないで」
「やっ、俺も会いたかったし、今日は会えて嬉しい……デス」
モデルの仕事と課題の締め切りが重なって、作業時間があんまり取れなかった。日曜日をなんとかフリーにしたものの、暫くの忙しさで二人の時間も取れていなかった。俺の言葉ににっこり嬉しそうに笑った彼女が、うん、わたしも嬉しい♥️と言ってくれて、つい近づいたが彼女はコーヒーを淹れるね、とさっと立ち上がってしまった。伸ばしかけた腕を自分の腕に回して、有り難う、と口ごもる。気恥ずかしさが首筋を上がるのを指で掻いて、彼女の読んでいた本に目線を落とす。資格を解説する本で、彼女はいくつか付箋をつけている。勝手に見るのは駄目な気がして、覗けなかったが気になって、ウズウズしていると、コーヒーのいい香りがした。しかもそれは喫茶アルカードのものだった。キッチンを見に行くと彼女がいたずらを成功したような顔で、「気付いた?」と笑う。
「うん、これ……」
「ふふ。最近お店来れなかったでしょ?店長に頼んで、コーヒー豆を分けてもらったの。店長も実くんの顔見れなくてさみしがってたよ?」
「そっか。俺もさみしがってるって伝えて?」
「伝えるだけでいいの?」
「来週は顔出せるから……」
「なんだか妬けちゃうね」
「へ?」
「店長と実くんって仲良しだね?」
「それって………どっちに妬いてる?」
「ふふ」
コーヒーがフィルターを通して落ちて行く。香りに誘われるように、彼女の後ろから抱きついた。
「今はだめ」
「ダメじゃないもん」
すり寄ると彼女がくすぐったそうに笑った。
「もう、コーヒー淹れてるのに」
「うん………今の俺、甘えん坊さんだから」
「よしよし」
彼女が空いた手で撫でてくれた。ドリップして、後は落ちていくのを待つだけ。いつもの馴染みのコーヒーの香りと彼女が居るのが妙に嬉しかった。ちゅ、と首筋に唇を寄せると、驚いたようにちいさく肩が跳ねた。
「あ、甘えん坊さん?」
「結婚して」
「ふふ」
「え?じゃないんだ……」
飢えるみたいに、好きで好きでたまらなくて、いつも彼女はふわふわとしてて、小さな子猫みたいに、じゃれては好奇心の向く方に行く、相手が自分じゃなくてもおなじなのかも、とひたすら焦れていたあの時、こんな未来が待ってるとは思わなかった。スキ、と言うと彼女は体を向けてきて、わたしも好き❤と言ってくれた。少しの間、抱き締めあって、でも彼女はちゃんとコーヒーを見ていたらしく、俺からするっと離れてマグカップにコーヒーを注いで、飲も、と無敵に笑う。その唇に吸い寄せられるみたいに啄んでキスをする、マグカップを反対側から支えてより深く唇を重ねる。ダメ、と呟いた彼女が上目で俺を見つめるから、実際のところなにが駄目か分からなかったけど、でも実際のところ、駄目なのは分かった。課題が待っている。現実。こんなん生殺しじゃん、と思って悔しさみたいなのが沸いたけど、コーヒー冷めちゃうよ、と言う彼女の言葉で部屋に戻った。

「うー………」
懲りず彼女を後ろから抱えるように座り込んで、コーヒーを飲む。いつもの味だ。荒ぶっていた心が落ち着いて行く。
「美味しい?」
「うん。美味しい。いつもの味だ」
「ほんとに?」
「………ちょっと違うかも?」
「そう!そうなんだよね、難しいんだ」
悩む横顔が真摯で、きれいだった。
「大学行くと思ってた」
つい溢れた言葉に彼女はハッとした顔をして、眉を下げた。
「ふふ」
「っ、ごめん、俺が言うことじゃなかった」
「いいよ、みんなに言われたし」
仲良いだろ?て教師に大学に進学するように勧めるように言われたこともある。彼女は学年一位の成績を持っていて希望する大学に進学できただろう。
「資格、取んの?」
「うん、その内」
彼女には見えないところがあって、拒絶されているわけじゃないけど、誰も入れない場所があるみたいだった。俺の落ち込みを察したように彼女は俺の手を握って、
「実くんみたいに、わたしも夢を持ちたくて」
「なんだって出来るよ」
「ふふ、有り難う」
今は美味しいコーヒーを淹れたいな、と言う。
「グルメな彼氏さんを満足できるようにね❤」
「カワイイ彼女さんの淹れてくれたコーヒーならそれだけで十分なのに」
「ひいきはよくないの!」
「ひいきって。それはさ、するなって言う方がムリじゃない?」
「心を鬼にして!」
「んーーー」
彼女がお願いするときみたいに上目で見詰めてくる。ムリじゃない?
「ごほん。がんばってみるけど」
「うん、わたしもがんばるね!」
つい笑ってしまって、コーヒーを飲み終える。彼女をもう一度抱き締めて、
「うし、充電完了!それじゃ、作業に戻りますかね。時間がきたら言ってくれたら送るし、眠たいなら寝ててもいいし、動画とかも好きにみて」
「うん、有り難う。寛がせていただきます」
「イイエ、なんのお構いもせず」
「………………あのね、実くん」
「ん?」
「我慢してるの、実くんだけじゃないんだからね?」
「…………………………へ?」
一瞬いいように解釈して思考回路が爆発しかけて、いやいやまさか、そんなこと、俺がすけべえさんなだけでしょ!と思って彼女をみたら、顔をそらした彼女の耳がうっすら赤くて、俺は、俺は?顔が熱い。ひぇ、みたいな声が出て、ドッキドキとうるさい鼓動と、じっとり手に汗が滲む感覚がわかる、身体が言うこと聞かないのに、彼女に尋ねる勇気が持てなくて、あ、エアッ、ナニが正解??!ぐるぐる思考が動いて、でも彼女の方はもう見れなかった。互いの沈黙は重くなかったし、何なら甘かった。

俺たちって付き合ってるんだな、て思った。今更なんだけど、俺って世界一幸せ者だ。

覚えていないいくつかのこと


ホールケーキを家族で食べる、その場面をみるのは今日が初めてだった。彼女を家族に紹介してから、あれやこれやと家に呼びつけられることが増え、その流れでクリスマスパーティーをすることになり、いや、何だよ、クリスマスパーティーって、そんな柄かよ、と呆れていたが飾りもツリーもずっと前から家に馴染んでいたみたいに当たり前にあって、ホールケーキがあって、家族が笑ってて、そのど真ん中に彼女がいる。すっげーな、と思う。すげえよほんと。マジ、どうなってんのか、わかんねえ。俺はなんだか耐えきれなくてそっと席を外した。家を出るわけにもいかないから、ベランダで暫くぼーっとしていた。
「実くん」
彼女は俺を探して、そばにきてくれた。
「………ごめんな、何か」
「どうして?」
彼女は笑ってて、嘘偽りなくて。俺の顔も心もくしゃくしゃになってしまって、彼女は気づいたように俺の手を握ったし、頬を撫でてくれた。
「俺が駄目だったんだろな、俺がもうちょいうまくやれてれば、もっとうまくいったのかな」
ずっと母さんも寂しくなくてさ。こんな、ぱっとあたたかな灯りのついた家になれたのかな。
「ふふ。実くんってご家族のこと、大好きだよね」
「は?!え?!な、なんでそーなるワケ?」
「実くんはそのままでいいんだよ、私はそのままの実くんが大好きだもん♥️」
「う」
そう言われると何も返せなくなる。無敵の言葉だ。
「あのさ、……うちの家族、イヤじゃない?イヤだったら、距離、置いてもいいし」
「全然。実くんは平気?」
「俺は、ごめん、まだちょっと、わかんないかもしれない。だって、ほらさ、………あんたは俺の大事なダイジな彼女なわけだし」
「ふふ。そうだね。実くんは私のとっても大事な彼氏だね♥️」
かわいい~!
いやそうじゃないんだよ。
「今の、俺ってカッコ悪いな」
「かわいいかも?」
「かわいい?!ドコが?!」
思わず近所迷惑になるほどの声が出た。はっとして口を抑える。
「そーゆとこ♥️」
「…………」
なんか、一生勝てない気がする……。というか、ずっと負けてるし、それが嬉しいんだけど。
「ね、ケーキ食べよう」
彼女は上目使いで俺を見て、腕を取る。あのさぁ、勝てるわけないじゃん。引っ張られるまま、リビングに戻る。扉を開けると家族が俺を見て、微笑ましいのとからかい顔とにやついた顔がそれぞれ見える。ぐっと眉間に皺寄せて睨んでやる、多分俺が彼女取られてすねて嫉妬したーみたいな流れになってるんだろう、まあそっちのほうがいいけど。俺のぐちゃぐちゃした気持ち、屈託を、彼女だけは分かっていて、俺を見て微笑んでくれる。あ、手を繋いでる、と姉が囃し立てるものの、絶対離してやるもんか。羨ましいだろ、とよくわかんないことを言いきってケーキ食べるときも手を繋いでたら、食べにくそうだからやめてあげんなさいよ、と言われても、彼女は照れて笑っているだけだし、そんなところが可愛い!とか言われて、そりゃそうだろと何故か得意気になってしまった。

切り分けたホールケーキは甘くて、やたら、甘くて懐かしい味がした。気を抜くと何故か泣きそうになった。

彼女をまだ実家に泊まらせるわけにはいかなかったから、猛攻してくる姉や追撃してくる親を振り切って、家を出た。
つんと冷える寒空に、また改めて手を繋いで、有り難うと言った。

彼女は笑って、それからなんでもないような横顔で、
「一緒にずっと生きていくってこういうことなんだね♥️」
と言った。数拍遅れて意味を理解して、でもその意味で合ってるのかも分からなかった。だから俺は間抜けに、「ずっと一緒に生きていってくれんの?」と尋ねた。

「そうだよぉ、え、ダメだった?」
「ダメじゃない!!!ダメなわけない!!」

さっきよりも数倍近所迷惑のくそでかボイスが出て、俺はまた口を抑えた。

「ふふ」
「ふふじゃなくて」
「実くん」
「うん?!」
「メリークリスマス」
「……はい。メリークリスマス、です」
「帰ろ」
どこに。
どっちに。
どっちでもいい、と彼女は言っている。言わなくても言ってて、でも俺は強欲で帰したくなんかなかったから、抱き締めて、キスして、急いで自分のマンションを目指すことにした。

クリスマスはだってこれからだ。
サンタさん、俺はもうプレゼントはいいです。いらないです。俺の欲しいものはここにあります。全部あります。

だから、それを誰も奪わないで。
お願い。

曖昧の遠く甘さ


レイはいつものように引き出しを開けた。そこには必ず糖分補給に必須の飴やチョコ、マシュマロなんかがあり、しばし、定期的にレイはそれをつまむ。彼女に健康のことを口煩く言う割に彼は仕事中心の不健康な食生活を送っている。今日もそうしようとし、そして見慣れぬ箱を見つけた。かわいい雪うさぎのイラストが入った愛らしい箱だがレイは自分のために買うタイプではない。思った通りにメッセージを見つける。虫歯のひとは食べちゃダメ!もちろん、レイは虫歯なんかではない。欠かさずフロスしているし、磨きも忘れていない。前に痛んだことがあったがそれも過ぎ去った。だから、レイは箱を開けて、雪だるまみたいにころころしているスノーボールクッキーをひとつ食べた。溶けるような食感のそれをもう一度食べ、簡素に、なるべく無愛想に端末でメッセージを送った。

私は虫歯ではない。
スタンプがすぐ送られてくる。無言の意味を示す。呆れて黙っているつもりか?と送ると、理解しているみたいだね、とテキストが送られてきた。

声が聞きたくなった。テキストを読んだだけで、表情と声が再現できた。彼女はそれでもいたずらが成功したみたいな顔をしているだろう。

得意気だ。
そう返すと、意外と見つからなかったから、と言う。私が仕事をしていただけだ、と言うと、それは私も同じ、と返ってくる。随分暇そうだが、と送ると、今は休憩してるの、と言う。それから居場所が送られてきた。ランチを食べてるの、あなたもどう?

彼は立ち上がろうとした自分の足を諌めるのに気力を要した。残念だが、今から会議と手術の予定がある。彼女の表情が曇った気がした。ちゃんと食べた?食べた。お前の贈り物を。

分かった、と彼女が言った。差し入れするからそれを食べて。仕事は?と言うと病院の方角で用事があるから。彼は、また気力を要した。それなら、今すぐ顔を見せてくれ、とは送れなかった。

感謝する。
彼女が笑った。

彼は自分が休みを取っていないことに気づいた。メールで打診すると、調整してからになるが、必ず休みを取ってくださいと返信がきた。彼は息を吐いた。

彼女からもうメッセージは来ない。満足したのだろう、自分の親切さに。お節介さとも言うが。

彼はもう一度彼女からの贈り物を食べる。甘さが寄り添ってくれる気がする。彼は会議の時間までレストランを検索し、やがて彼女が気に入るだろう店をメモに残すと、レイ先生になるべく、仕事に戻った。検索している間に食事をした方がいい?彼女からの差し入れが届くのに、彼はそんな愚かなことをするほど、愚かではなかった。

まどろみは可愛く丸まる



「起きたらあなたが、いないのはどうして?」
彼女の声は寝ぼけていてたまたま通話に出れた彼は一瞬何の話か分からなかった。
「夢の話をしているのか?」
おそらくそうだろうと検討をつけると、彼女は夢と繰り返した。
「夢なの?」
「夢だろう、私はずっと仕事していた」
「ギャッ!」
すごい声が上がった。
「あの、ごめんなさい、仕事が忙しくてくたくたで眠ったら夢と現実が分からなくなったみたい」
「私が夢にいたのか?」
彼女が押し黙った。彼は妙に急いた気持ちになった。
「そう、」
やけくそみたいに彼女は言った。
「あなたの夢をみたの!悪い?!」
「悪くはない」
彼は自分の高揚を押し殺した。が、彼女は恨めしそうに言う。
「にやにやしないで」
「してない」
「もういい、仕事を邪魔してごめん。もう切るから」
「今日は家にいるのか?」
「寝てる!」
「なら、今から行く」
えっという声がして、待たずに通話を切った。急いで準備して彼はオフィスを出た。看護師に言付ける。
「ゆっくりでいいですよ、先生、暫く帰っていないんですから」
彼は礼を言い、病院を出て車に乗った。本当は運転をしていい体調ではなかったのかもしれない。あきらかに寝ていなかったから。自動運転機能を強めに設定し、しかし、急いだ。
電話が鳴る。
彼女だ。
彼は出ない。

「………あなたって」
寝癖で髪を跳ねさせた彼女は呆れたような感心したような顔をした。
「よく事故を起こさなかったね?」
「疲れた」
「………そう」
お疲れ様、レイ先生。彼は抱き締めながら彼女の声を聞く。ずんとのしかかる眠気と疲労を感じた。彼女もそれに気づいたらしかった。背中をさすってあやすようにし、手をつないで彼女がベッドに案内してくれる。彼は素直にベッドに横になった。
「アラームはセットしてる」
「そこは起こしてくれ、じゃないの?」
「そんな不確実なことはしない」
「わかった、キスで起こしてあげる」
彼は眠気に抗いながら彼女を見た。彼女がベッドに片膝を乗せて、彼に屈んだ。
「有り難う」
少し伸びた無精髭を撫でるように指が顎先に触れて、頬にキスが落ちる。
彼は目を瞑った。

規則正しい寝息が聞こえる。彼女は唐突に現れて、すぐ寝入ってしまった彼の寝顔をまじまじと眺める。笑ってしまうような胸の温もりに、彼女は素直に笑って、彼の頬を撫で、毛布をかけた。しばしの間、彼女は彼を見つめ、指先を絡め、髪を撫でた。

その内無粋なアラームがこの時間を壊すまで、彼女は彼との新しい夢の続きを見ていた。