2025年7月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する

漂うマグノリア



最初に気づいたのは安室から香る香水だった。立体的な甘く上品なもので、親しみや気安さというよりはゴージャスな花の香りだった。包み込まれるとうっとりとしてしまいそうな、そんな香りだ。珍しく?なのか、スーツを着た安室透は、今日は大丈夫でしたか、と言った。
「全部マスターのおかげですよ」
つい、拗ねるような響きになった。榎本梓は口を尖らせる。バレンタイン当日の今日、シフト予定だった安室透は朝イチで休みの連絡をしてきた。元よりマスターも入るシフトだったから、一日を通して店は回ったが、安室透目当ての客が何人もいて、店にいる梓に、よもや安室透を隠してはいないだろうな?と言わんばかりの厳しい目と探る目を向けてくるものだから、針の筵だった。ちくちくと言葉で牽制してくる客もいて、すっかり梓は疲れてしまったところ、あとは大丈夫だよとマスターが仕事を終えるように言ってくれたのだ。
「もうほんとマスターがいなかったら!私は恋の剣で串刺しでしたよ」
「恋の剣…………」
「ほんとそうなんですから!………だから、安室さんはいない方がよかったのかもしれませんね」
「すみません」
「本業は大丈夫なんですか?」
安室は瞬いた。梓は首をかしげる。
「探偵。大事な仕事だったんでしょう」
「あ、はい。愛を伝える日にも野暮なひとはいますから」
「ふふ、その言い方、キッドみたい」
変な間が出来た。
「って、安室さんはどうしてここに?」
梓の帰り道の途中だ。見慣れた車から、見慣れたひとが出てきて驚いたのだ。
「今からお店に出勤ですか?」
「ええ、まあ」
「それは………がんばってくださいね」
同情的な響きをもって梓は言う。安室は笑った。その魅惑的な香りと共に。
「香水、つけてます?」
「え、ああ、」
安室は自分の袖を嗅いだ。
「移り香みたいですね、依頼人と会っていたんでその時ついたかな?」
「…………」
バレンタインに呼び出すなんて、安室さん狙いなんじゃあ?と、梓は思ったが思っただけに留めた。
「梓さんは今日、シフト入って大丈夫でしたか?」
「あ、はい。今日はのんびりするつもりでしたから」
「バレンタインなのに?」
「……………どういう意味ですか?」
それは確かに今は付き合ってる人はいないが。梓は眉を寄せた。安室が、いや、と慌てた。
「良かったです。あの、今日のおわびも込めて受け取ってください」
安室はずっと下げていた紙袋を、梓に差し出した。名前だけは聞いたことがある、世界的コンクールで優勝したパティシエが作るという一粒が1000円以上する恐ろしいチョコだ。
「いいんですか?」
断る理由がない。自分を浅ましく思ったりしたが、食べたい!梓は自分に誠実でありたい。安室はにっこり微笑んだ。
「もちろん」
「でもこんなお高いチョコを」
微笑まれると梓は一瞬たじろいだ。
安室は梓の手に紙袋を握らせながら言う。
「あの時告白しましたし、本命なのはわかってると思いますが本命チョコです」
「え、やっぱり」
「梓さん、チョコに罪はないですよ」
安室にはありそうな言い種だ。梓は顰めっ面になる。
「ていうか、私、安室さんの好みじゃないですよね?」
「え?」
「まあ、チョコには罪はないですけどぉ」
どうせこれも冗談だろうという構えで梓はチョコを受け取る。冗談にしてしまいたい。冗談なんでしょう、そういう顔で安室を見る。安室は、眉を下げて笑った。
「送りましょうか」
「いえ、マスター一人ですし、お店に行ってあげてください」
あの店はマスターの店で、マスターさえいれば実質回る。二人ともわかっている。なにせ、働いているのだし。
「それじゃ、気をつけて帰ってください」
「有り難うございます、頑張って」
「はい」
安室からはいい匂いがする。それが少し他人行儀に思う。コーヒーの匂いのする安室だったらどうしていただろう。いつものエプロン姿なら。
好きって言うなら、今じゃない?と思ったが、安室は運転席に戻ってしまった。梓はそれを残念に思うべきか、安堵すべきなのかは分からなかった。走り出す間際、安室は少し頭を下げた。梓は、笑う。種も仕掛けもなく、チョコレートはチョコレートだった。

そういう、実は気の利かないところを、梓は可愛いなと思っていたりするが、それは安室には秘密だ。

見逃さないで、その一瞬を



新しい手品を練習してるんです、と彼が言った。彼女は、興味をそそられて、え?どんなのですか?と尋ねる。彼はたれ目を細めて、入れ替わりマジックです、と言った。それって、人と人とが入れ替わる分ですか?と彼女は驚いた。それって結構大技なのでは?
彼は、得意気にも頷いた。
「ここに安室透がいるとします」 
彼は手慣れた仕草でカップを置いた。
「それで、反対側には別人がいます」
もうひとつ同じカップを置く。
「うんうん」
「で、入れ替わる」
彼は二つのカップを入れ替えた。
彼女の見ている前でもう一度。
そしてまたもう一度。
「どちらのカップが安室透だったか、分かりますか?」
「えっ」
カップは同じもので。
彼はかなり手先が器用で。
シャッフルされたそれらは、どれがどれだか分からない。
「うむむ。でも、マジックだから、種も仕掛けもあるはず」
「そうですね」
「うーん……これを安室さんがやるんですか?」
「そうですねえ」
「えーっうーん、わかりませんよぉ」
「ちなみにこちらが安室透です」
彼は笑いながらカップの裏を見せた。そこには子供の悪戯なのか、車のシールが貼ってある。彼女は思わず笑った。
「安室さんは車がすきなんですね」
「それはもう、愛車を大事にしてますね」
「じゃあこれが安室さんですね。今度から裏を見たらいいんだ」
「大事なのは観察。僕は触らないで、とも言ってないですから、よく確かめることも推奨です」
「なるほど、それじゃ、安室さんが入れ替わっても大丈夫ですね」
「梓さん次第ですね」
「がんばります。いつやるんですか?」
「準備ができた上で状況次第ですね」
「楽しみにしてますね」
「はい」
それじゃ、コーヒーでもいれましょうか、と彼は言う。おやつといきましょうと、彼女は笑った。一見同じ見かけのカップにコーヒーが注がれる。でもそうすると、彼女には見分けがつく。彼はいつもコーヒーにはミルクをいれているから。彼女は微笑む。そういうことを、たくさん知ってることを彼は気づいてないから。いつか、驚かせてやろう。手品のあとで。







壊れていたんですよ、キーホルダーが。さも恐ろしいことのように榎本梓が語るので、安室透は食器を磨いていた手を止めた。

「…………キーホルダーなら壊れることもあるでしょうね?」
「でもうちの店のキーホルダーなんですよ?!」
マスターが何を思い立ったか、うちの店のロゴキーホルダーを作ってみようと言い出して、あれやこれやと知人のデザイナーに頼んであっという間に限定50セットのポアロのロゴキーホルダーは出来上がったのだ。面白半分に常連たちに配ると結構面白がってくれて、それが呼び水となり、在庫はあっという間に捌けていった。梓と安室も一つずつ貰っていた。案外少なかったね、今度は200セットでいこうかとマスターはノリノリで、どうするんですか?と聞いたら毛利小五郎探偵事務所ロゴと合わせ売りするから、あっという間に売れちゃうでしょとマスターはどや顔だ。案外いけちゃうかもなと思った二人はそれ以上話題をさわらなかった。さて、キーホルダーだ。そのポアロのロゴのキーホルダーが壊れたものが、今朝出勤してきた梓が店の前で見つけた。これって事件じゃないですか?!と言う梓に、やんわりと安室透は笑う。

「どうでしょう。常連客の方が落としたものをしらずに通行人が踏んだのかもしれませんし」
「それはそうですけど、悪い意味があったらどうするんですか?」
「ものが壊れることに意味はありませんよ」
「それって探偵としては正しいんですか?」
「探偵としては、謎を作るより謎を解きたいですねえ」
「安室さんの名探偵!」
「有り難うございます」
「でもよくよく考えたらそうですよね、わざとじゃないだろうし。ちょっとびっくりしちゃっただけで。すみません、お騒がせしました」
「いえいえ、僕も現物をみたら気になるかもしれませんしね。その壊れたキーホルダーはどうしたんですか?」
「処分しちゃいました、ごみの日でしたし」
さらっと梓が言った。安室は瞬いた。気にする割に処分が素早い。
「あ、駄目でした?!証拠品?!」
「いえ、そんなことは」
「すみません、マスターが見つけると気にするかなと思いまして」
よくわからない人だからそれはありえるかもしれない。
「いいことかもしれませんよ」
「いいこと?」
「ポアロの新しいロゴが出来るとか?」
「それはちょっと寂しいかも」
「はは、ですね」
その話は一旦それで終わった。梓がすっかり忘れていた数日後、安室が言う。
「壊れたキーホルダー、毛利さんのものみたいですよ」
「え?……………………あぁ!」
「完全に忘れてましたね?」
「てへへ」
「昨日マスターと話してましたよ、酔って帰ったときにキーホルダーなくしたって。それで、なんか音しませんでした?ときいたら、そういやなにか踏んだなって」
「あー~」
想像が出来たという、あー~だ。
梓が笑った。
「なんてことありませんでしたね」
「そうですね」
安室がふと笑った。
「マスター、今度は強化プラスチックで作ろうかなって言ってましたよ」
「えぇ?」
「銃弾で割れないくらいの」
「えぇ、本気ですか?」
「そうなったら面白いですよね」
安室透は夢想する。いつか自分が心臓を撃たれた時、それを防ぐのがポアロのロゴのキーホルダーならば。
梓は怪訝な顔をしている。
「それってキーホルダーにできるんですかね」
「さあ、どうなんでしょう」
一拍おいて二人は笑い合った。
喫茶ポアロは今日も穏やかに営業中だ。







すっかり泥だらけになって帰ってきた安室に梓は犬を思い浮かべるべきか、子供を思い浮かべるべきか、少し迷った。そんな泥だらけの状態で店にはいられても困るし、何より衛生的に大問題だ。というわけで、ちょっと待っててくださいと梓は断り、植木用の蛇口を捻ってホースを掴み、安室に向かって噴射させた。幸い暑い日でもあったから、風邪は引かないだろうが、店の前での行動に通行人がびっくりしたが、安室が泥だらけなのを確認すると、あぁ、みたいな顔をして去っていく。基本的に米花商店街は懐の広い人が住んでいるのである。

けらけらといつになく、楽しげに安室は笑って水を浴びている。梓が最初迷った答えは、この際両方だった。犬でもあったし、子供でもあった。その内、女子高校生と小学生が我が家に帰ってきて、おおよそ玄関前で繰り広げる水浴びに待ったをかけて、シャワーを貸し出してくれうことになった。

ごめんね、蘭さん。
いいえ、困ったときはお互い様ですから、

とはいえ、どうしてこの事態に?とコナンが問いかけて、梓はかくかくじかじか説明した。近所の公園で子供たちと一緒に泥団子を作ってたんですって。
何やってんだよ、公安というかすかなぼやきに答える者はおらず、いやー助かりましたと晴れ晴れとした笑顔で安室がポアロに無事戻ってきた。服は常にロッカーに着替えを用意しているので問題はなかった。

お礼に、何か作りますよ、と言う。
てきぱきと調理し始めた安室に、三人は顔を見合わせる。
梓が息を吐くようにして笑った。

楽しかったですか?安室さん。

安室が笑った。
手伝いますよと、梓が声をかけ、二人であれやこれやとしはじめるので、今度は蘭とコナンで顔を見合わせる。少し気持ちがわかるかもと、蘭が呟いた。コナンは不思議そうな顔をする。蘭は、笑う。新一が楽しそうなときって、結局許しちゃうから。コナンは蘭の顔をみて、カウンターの中にいる二人を眺めた。

自分達もこんな風に人から映るのだろうか。そう考えると、少し面映ゆい気がした。

特製ポアロスペシャルサンデーはアイスとフルーツが山盛りで、笑ってしまうほどだった。

安室がお土産に持って帰ってきた、ぴかぴかの泥団子は、看板に残されている。みんな、これは何?という顔で、しかしなにも言わず、行き交ってゆく。夕日に眩しく、輝く、ぴかぴかに光る金の玉だった。

運命の瞬き


運命だと思った、二度、運命だと思った。笑われてる女子がいた、大声を上げて、なりふり構わず、拳を振り上げて、顔を目一杯動かして、ひたむきに友人を応援している姿は面白かったのだろう、実は彼女を一度見たことがあった、他校の生徒を探して、キャーと騒いでいる姿を本当は見たことがあった、そういう女子を、気にかけたことはなかったが、彼女はよく動くから、一瞬目についた。視界に触れて、それで、一旦忘れたのだと思う。

彼女の色素の薄い茶色の髪が、暴れるように乱れて、大きく開けた口が、いけー!とか、やれー!とか、物騒な言葉をもたらして、友人の、一挙一動にハラハラドキドキして、祈るように目を伏せて、そして射抜くような気合いの入った眼差しで、蘭!あんたならできる!と叫んだ。

自分の神経のひとつひとつが、細胞が、彼女にまっすぐ向かっていって、すんなりと理解をした、これが、恋なのだと。
同時に分かっていた、これは、叶うことのない恋なのだと。


「どうしたの、真さん」
瞬きする。
「いえ、ちょっと時差ボケがあったみたいで」
「大丈夫?ホテルで休もっか」
「え?いえ、大丈夫です」
「いーのいーの、一度アフタヌーンティーの試食に来てくれって頼まれてたから。近くのホテルだし、このまま行こう」
彼女は自然な動きでタクシーを呼び止めて、ホテルの名前を告げる。そういえばこの前蘭がね、と楽しそうに話をしているのを聞いている間にタクシーは目的のホテルに到着する。鈴木財閥の所有するホテルだった。彼女は、ボーイに名前を告げて支配人に取り次いで貰うように頼み、彼女のことを知っているホテルマンの一人が園子さまと、ラウジンカフェへと案内する。ドリンクが運ばれてくるまでごく自然で、彼女は特にその事を殊更誇示するでもなく、当たり前に享受している。彼女はお喋りを続けていて、それは普段近くにいない時間を埋めてくれるようで愛らしかった。支配人が現れて、彼女は彼が休める部屋を用意してくれる?と言う。それから部屋にアフタヌーンティーを用意して、と告げる、支配人は当然と応じて後は待っていれば眺めのいい部屋に案内されるだけだった。実家の旅館を思い出す。オーシャンビューの一望を彼女はまあまあだね、と笑って、ほら、ゆっくり休んで、と自分をベッドへ促した。もごついていると、いいからいいから、と引っ張って、

「それともなあに?寝かしつけてくれってこと?」

と、いたずらっぽく笑った。子守唄なら歌えるかも、と言うので、聞いてみたい気がしたが、これ以上は墓穴な気がして、ベッドに潜った、自重を包み込むようなゆったりとしたマットレスに清潔なシーツ。掛け布団もふわりと軽く温かかった。外はあんなにも暑いのにここは、冷房が効いていて、寝具の中にいるのが、心地よかった。快適だった。目を瞑っているとマットレスが少し揺れて、彼女の気配がした。もう、眠った?言葉は喉に貼り付いて、彼女の柔らかで華奢な指先が自分の髪を触るのが分かった。

「んー絆創膏剥がしちゃおっかな」

思わずびくりと、身じろぎするとくすくす彼女は笑った。

「ウソウソ、やっぱり起きてたんだ」
「眠りに落ちる寸前でした。でも本当にいいんですか?退屈ではありませんか」
「いいの。滅多に会えないのに、ゆっくり過ごすのって逆に贅沢でしょ」
起きたら、アフタヌーンティーしましょ、と彼女は言う。盛大に甘やかされている気がして、不意に羞恥が昇った。それを気取られぬように、布団を被った。
「おやすみ、真さん」
彼女が微笑んだ、のが伝わる。彼女の周りの空気が揺れて、いつもそれが自分のところまで振動する。共鳴する。それが、独りよがりな心情だと分かっている。

そっと彼女を伺った。彼女は、窓の外を眺めている。真夏の青空は、痛々しいほど青く、目映い。ゆっくりと彼女は伸びをして、自分にとっては不釣り合いなほど高級な一室であっても、彼女にとっては日常のものでしかなく、自宅のような様子で、ソファに座り、携帯を触る。

実家の旅館に彼女がやって来たのはたまさか偶然で、理由は未だ分からない。運命だと思って、嫌がられると思って、嫌われていると思って、執着していると思われて、執着していて、どんな理由をつけていたって、人命を救ったと警察に表彰されたって、自分はただ、好きな人に理由をつけて付きまとっていたのは、事実だったから。彼女を助けられてよかった、と思う。こぼれ落ちて行くのに耐えきれなかったのだ、理由をつけて、固執した。好きだったから。好きだから。


自分だって、応援されたい。
あの時、乱暴な衝動で沸き上がった、強烈な自我を。あんな風にひたむきに、愛されたいと願ってしまったことを。


やわらかな寝具の中で、彼女を覗き見している、まだそんなことをしていて、好きだって言われてからも、自分が見つけたように、彼女が誰かを見つけたり、見つけられたりするかもしれなくて。なのに、遠く離れている。

目を瞑る。
夏は彼女に相応しくて、彼女の生き生きとした情熱は、太陽に劣ることはなくて、想像とした夏と今は違っている。ゆっくりと起き上がって、ずれた時間が、太陽の存在が、歯車を少し軋ませて、どうしたの?のどが渇いた?とやってきた彼女を、掴まえた。

優しい肉体は柔らかで、自分はもっと強靭になろうと思った、世界が滅んでも。

彼女だけは生きてほしい。
頭を押し付けた彼女の胸部からとても早い鼓動が聞こえて、血の流れを感じて、ぎこちなくあやすみたいに、彼女が背中を撫でた、悪い夢でも見たの?

呼吸して、呼吸して、自然と彼女の体臭が入り込んできて、壊れないように腕の力を調節した、ーー少し。

疲れているみたいです。

名前に反して嘘をついた、狂わぬように。ここが、嘘みたいだから。海の音が聞こえる、遠くからどこまでも。響いてくる。


二度、運命だと思った、浅ましさで引き寄せた、彼女を救ったのではなくて、あの時救われたのは、自分こそだったのだ。

輝ける瞳


鈴木財閥のご令嬢に恋人ができたいう話はまことしやかに、社交界に広がっていった。あの鈴木財閥の後継者になるのは彼女という話が有力で密かに彼女の地位を狙う男たちにとっては衝撃的な話だった。彼女を誰が落とせるかという密かなゲームは彼女が18歳になる頃始まる予定で、開催まであと数ヵ月だった。すわどこかの著名な一家との政略結婚かと調査の手を伸ばしてみるものの、件の恋人が400戦無敗の衝撃の貴公子ということで、ますます彼らは混乱した。何故?格闘家とご令嬢か?そうなると気に入ったのは彼女の方でその地位を使ってわがまま放題に彼を手篭めにしたのだろうか、それならばまだ付け入る隙はあると勇み足で彼らは、ご令嬢と格闘家が出席するというパーティーに出る情報を聞き付けて参じたものの、脆くもその企みは崩れ去った。

相思相愛ではないか。

初々しいほど場の空気に飲まれて緊張する彼を、彼女はからかいながらエスコートしてゆく。色素の薄い彼女の淡い紫のやわらかな光沢のドレスと彼の鍛えられた肉体を映えさせるようにあつえられた直線のスーツは見事に調和しており、それは二人のバランスの良さを見事に示すものであり、お互いが話すときにじっと相手を見つめる眼差しは思いやりがあって、温かった。蕩けるような甘さも混在しており、仕草ひとつとっても、誰かが付け入る隙などまるでないように思えた。

こうしてみると彼女はひどく魅力的な女性で、気の強そうなミーハーな女に思えていたものの、その心根がひたむきに一人の男に向かう時、なんとも言えぬ、豊潤で大きな器を持つ、とても愛情深い清らかな女に思えたのだった。

彼らは自らの見る目のなさに失望したものの、そういった不埒な視線を気づかないわけがない彼であったから、彼女の横顔からすっと目を外し、刀の閃きに似た鋭い視線を真一文字に彼らに向かって切りつけるが如く、浴びせた。その瞬間彼らは冷や水どころか氷水を浴びせられたように震え上がった。決して野蛮ではない獣は、むしろ知性があるがゆえに恐ろしいのだと彼らはその時初めて思い知ったのだ。これは自分達の手に追えないと、彼らは表向きはスマートな素振りのまま、手足などはがくがく震えながらその場を撤退した。

その事に何も気づかない彼女は、彼らの後ろ姿を見て、あら!来ていらしたんだわ。挨拶できなかったわね、と軽やかに笑った。彼は、途端何もわからなくなったように混乱したような面持ちで、園子さんの言うとおりです、と応えた。それってつまり、どういうこと?と眉をあげて見せた彼女は彼の彼女を好きすぎる余りの不審な行動に慣れていたから、今度はあれを食べましょ、と新たな料理へと彼を導く。彼は微笑んで、付き従ってゆく。彼は分かっていたし、彼女は分かっていた。ここが、一種の狩り場であることは。しかし、それでも構わなかった。二人いて、何も困ることはなかったからだ。

お願い


「安室さん、今日はお喋り禁止ですよ」

梓はそう告げた。仕事で疲弊した男の声ががらがらで、風邪には至ってないが今日はお店はマスターの貸しきりで、二人とも珍しく休日だ。折角なので休んでもらおうと出し抜けに梓は提案した。安室は、いえ、と言ったがその続きは喉を動かしただけで終わった。梓は小指を立てて促すと安室はおずおずと小指を絡ませた。約束ですよ、と言って梓が安室にキスをすると安室はまんざらでもない顔をしてにこっと笑う。呪いがキスで解けるなら、約束もキスで与えられるのだ。心を決めたのか、ベッドに行き、寝始めた。休日といっても安室の場合は完全にオフではなく、安室は知らないが梓は安室の携帯が別にあることを知っている。特に追求したりしない。ゆっくり眠れるように梓はそーっとパソコンに向かい、ヘッドホンをつけて、最近はまっている配信ドラマの続きを見ることにした。大尉はくるりと丸まってテーブルの下で寝ている。のんびりと飲み物を見ながら、梓は暫くドラマの世界に浸っていた。


ふっと、気配がした。安室が起きたようだがすでに傍にいた。わ、と梓が驚くものの安室は笑うだけだ。ヘッドホンを取ったが、安室は何も喋らない。そういえばお喋り禁止を約束したことを梓は思い出した。ドラマを見ていてからすぐ忘れてしまっていたが安室は律儀だ。いつもよく喋る雄弁な人だから、黙っていると不思議な感じがした。表情や仕草からしか伝わらないから、まじまじと改めて安室の顔立ちを見詰めるとやっぱり甘く整った顔立ちの男の人だった。各身体のパーツも整っていて、スタイルも良い。この平凡な部屋に居るのが不思議な気がした。梓は楽しくなって笑うと安室が首を傾げた。

「あ、違うの。ただ改めて、安室さんが部屋にいるのが不思議で」

不思議って、という風に眉が下がった。安室が梓を抱き締めた。言葉ではなく、行動で示したということだろう。何度かキスが降ってくる。饒舌な言葉をもつ男が言葉を取られると行動が饒舌になるのかもしれない。梓は安室の背中を軽く叩く。止めるつもりだったが、安室はにこりと笑った。覆い被さるように倒れてくる。床と安室の身体に挟まれて、梓は身じろぎした。重いですよ、と抗議すると安室は満足したように体重をずらしたようだった。少しほっとしたが、拘束は解けず、自分に寄生する大きな虫みたいに安室は張り付いて離れない。疲れてるのかもしれないと梓は思った。腕を少し動かして、安室の頭を撫でると安室が梓を覗き込んだ。瞳がぶつかる。無数の色に溢れた瞳が、柔らかく細められる。言葉を持たない安室は可愛いのかもしれない。安室は気が済んだように、梓を抱き込んだまま、また眠ってしまった。梓は身じろぎしたが、思いの外動けない。何かの技がかかっている気がする。結構迷惑だったが、たたき起こせばすぐ安室は起きるだろう。まあいいかと、梓は目を瞑った。安室の規則正しい寝息が聞こえる。リラックスしているのか、深い呼吸だった。梓はその鼻と唇を手で塞ぐ。

ゆっくりと、安室の瞼が開いた。寝起きと思えない透明で意思をもった眼差しが、梓を捉えた。梓は、額にキスをした。安室は何も言わなかった。梓は手を外した。呼吸を再開させた安室は、少し笑った。無性に甘ったるい、視線はゆっくりと外れて、梓を抱き締めなおすと安室は再び目を瞑った。梓は呼吸に合わせて微動する睫毛を見詰める。

約束ではなく、呪いだった。だがそれが、二人を阻害することがないのは明白だった。紡がれるはずだった一時の言葉は溢れて、真実みたいに崩れ去るとき、安室の第一声は何になるだろう。大尉が鳴いた、ただの寝言であった。

お願い



「真さん、今から思ったことは全部口に出して」

唐突な命令、いえお願いだった。京極真は、ゆっくりと瞬いて、その言葉の意味を咀嚼しようと試みた。
「……つまり、どういうことですか?」
「お腹が空いたなーと思ったら、お腹空いたなーって言ったり、喉が渇いたなーと思ったら喉が渇いたなーって言うの」
「なるほど」
「私が好きだなーと思ったら好きだなーって言うのよ」
「えっ」
「なぁに?不満なの?」
上目遣いで睨まれて、京極真は咄嗟に浮かんだ言葉を打ち消した。
じっと彼女が見つめている。
彼女のお願いであれば出来ることなら叶えるつもりだ。
出来ないことでも叶えられるように精進するつもりだ。
つもりではいけない。
そうする、と決めている。
決めているのだが、京極真は困った顔をした。
「もう、真さん、困ってるなら困ったなーって言うのよ」
「ええと、これはどういう意図での行為なのですか」
「だって普段から真さんが何考えてるのか、気になるじゃない」
京極真は思考を無にした。
思わなければ、何も言わなければ、嘘ではなくなる。
すっと息を吸った。
無我の境地へ至ろうとする京極真を、彼女がゆさゆさと揺らす。
「ちょっとちょっと!いきなり修行モードに入ってない!?」
「そ、そんなことは」
「嘘。絶対そう。どうせ、何も考えないようにすれば何も言わなくていいと思ったんでしょ」
「…………はい」
ふり絞るように京極真は頷いた。
不実もいけない。
いつでも誠実であらねば。
でも、どうしたらいいのだろう?
彼女のお願いはいつも愛らしくて、どんなことでも聞いてしまいたくなる。
自分にもっと力や才能があれば、どんなことでも出来るのに、いまだこぶし一つ境地に至らず、修行の身だ。
彼女のころころと表情の変わる瞳が、彼をじっと見つめている。
彼は掌を握りしめた。
あの、憎らしい気障な怪盗ならば彼女の喜ぶ言葉ひとつ、軽快に容易に紡げるのだろう。
甘いささやきで彼女の耳を満たすことが出来るのかもしれない。
たった一言で彼女に喜びや笑みをもたらすことが出来るだろう。
そう考えると深く囚われるようで、彼は背筋を伸ばした。
肉体は心で、心は肉体だ。
彼女はどこか心配そうに彼を見つめている。
「真さん、そんなに思い悩まなくても、」
「園子さん」
「……なに?」
彼は、勇気を振り絞った。
「いつも、園子さんのこと、可愛いと思っています。すみません、だから思っていることは何でも言えません」
「…………どうして?」
彼は気づかなかったが、彼女の声には甘い媚が含まれていた。
彼はこれでもかと拳を握り、拷問の末に吐き出す言葉のように打ちひしがれて告げた。
「自分は、あなたのことになると、自制が利かないからです」
固く握った拳に柔らかい手が添えられた。
「そうなの?」
「そうなんです」
「そうなんだ、へぇー」
「軽蔑されるかと、思います」
「へえー」
「申し訳ない」
「ふーん、そうなんだー」
彼は罪悪感で顔を上げられなかった。
視線を上げて彼女の顔を見られなかった。
その時の彼女の微笑みを見られなかった。

「それじゃ許してあげる」
「あ……」
彼はそこでやっと顔を上げる。
「面目なく……」
「いいのいいの!ただの思い付きだったし!」
「有難うございます」
「そうだ、さっきおしゃれなカフェ見つけたんだ。一緒に行こ?」
「はい、園子さんの行きたいところであればどこでも」

きゅ、と彼女が手を握った。
彼はどっと手汗が滲むのが分かった。汚い、とわかっていて、離す事も拒否もできなかった。
彼女は微笑んでいる。さっきと同じ笑い方で。彼は、動揺してやはり気づかない。
自分の頭に浮かぶ考えを言葉にするとやはりどうなるのか、そのことばかり考えていた。

首輪の話


※特殊設定




「犬……」
「……犬……」

奇怪な部屋が喫茶店からの帰り道にあった。別段二人で帰ったというわけではなく、安室がついでに送っていきますよと言うので、梓はまあいいかと思って応じたのだ。安室は珍しく電車で移動するらしく、終電まで少し間がある帰り道で、二人であてもない話をしていたときに建物と建物の間にそれはあった。安室はこの辺一帯の建物を認識していて、ちょっと待ってください、こんな建物は確かなかったはずと、当然と踏み込む安室にちょっと不法侵入では、と梓が腕をつかんだ折にまるで吸い込まれるようにして、部屋に引き込まれたのだ。決して安室が招いたわけではないのだが、実際彼の油断なのでそうと言えばそうだ。反省は直にするとして、気づいたときにはそっけない謎の空間に二人して立っていたのだ。ひとつあるディスプレイのような画面に、「犬プレイをしたら出られます」と書いてあった。言うに事欠いて、犬プレイときた。

「犬プレイってなんですか……?」
「犬になりきるプレイですかね」
「どういう目的なんですか……?」
「人が犬になっているところを見たいという変態欲求ですかね……?」
「犯罪なのでは……?」
「まあ色々と法には触れていますね……」

さて、犬である。
きちんと首輪とリードが用意されていた。念のため、扉やらなんやら確認してみたがロックがかかっており、携帯は使えない。もう一台の携帯と無線もそうだ。はて、と安室は考え込んでみたが、少し面倒になった。

「じゃあ、梓さん、僕が犬をしますから飼い主ということで」
「ちょっと待って、どういうことですか、やるんですか、犬プレイ」
「さっさと終わらせましょう」

安室が仕事の顏になった。無駄にきりりとし、なおかつ、にこやかだ。

「梓さん、どうせなら首輪つけてくださいよ」
「うぇええええええ」
「嫌なんですか?」
「いやあ、まあ……はい……」
嫌と言えばかなり、嫌だ。
安室は何故か満面の笑顔だ。
あれ?断れない空気?と気づいて、梓は引きつった。だがまあ、彼女も順応が早いのである。
「わかりました、こうとなれば犬プレイでも猫プレイでもして、さっさと帰りましょう!大尉が待ってるし!」
「その意気です。さすが、梓さんです」
拍手喝采、実際は軽い拍手をして、おだててみる安室だった。
首輪を手に取って、梓は安室の首にかけた。
ベルトを止めるところで、忘れておいた理性が、ぴくりと動いたが、気づかないふりをして、留めた。
首輪をつけた安室と梓は対峙する。
安室の瞳の色がふと揺れて、それが証明みたいに安室は微笑んだ。
「ワンッ」
「え?えー?えー…」
あはは、と妙な笑いを梓は浮かべる。
まるで散歩に行こうというように安室がリードを咥えて持ってきた。
すっと安室が四つん這いになる。
梓は半歩下がった。
が、わんちゃんがしっぽを振ってお散歩を待っている。
「よ、よーしよし」
梓はその髪をなでた。
色だけ見るとゴールデンレトリーバーだ。
首輪の先のカンにリードをつける。
わん、と安室が鳴いた。
いや、犬が鳴いた。
ぐるぐると梓は浸食される気がした。
梓はリードを持った。
金色の毛皮を持つ犬は、ゆっくりと歩き始めた。
梓との散歩を楽しむように、時折ちらちらと梓の顔を見上げる。
かわいい。
もうよくわからなくなってきた。
尊厳とか、人権、とかそういうものを。
壊されているのは自分のような気がした。
人は犬になれるのか。
人を犬と思えるのか。
梓が止まったら、犬も足を止めた。
その前足で、梓の様子を窺うように梓の足を触った。
梓はしゃがみ込む。
わしゃわしゃと頭をなでる。
後頭部から背筋を撫でると尻尾は盛んに揺れた。
犬は、もっと、と欲しがるように前足を掻いて要求する。
犬は梓の顔を舐める。
くすぐったかった。
んぎゅ、と抱いて、一頻り撫でると、耳元で引く声がした。

「開いた」

梓は目を見開く。
安室は何故か、梓にキスをして、ゆっくりと立ち上がった。
上背のある、すらっとした男の人がそこに立っている。

「帰りましょう、梓さん」

梓はなんだかふわふわした頭で頷いた。
それから、外して、と強請られて梓は首輪とリードを外した。
安室は微笑む。

―――気づいたらいつもの帰り道だ。すべては、夢だったのかもしれない。嘘だったかもしれない。酔っぱらっているのかもしれない。酒を飲んでもいないが、コーヒーは飲んだから。いろんなことを聞きたかったが、言葉にはならなかった。取り留めのない話をして、二人は別れた。梓を待っていたのは、大尉で、梓にすり寄って甘えた。そのふわふわの毛並みを撫でながら、梓は今日の出来事をすべて忘れようと思った。


――数日後、梓の許に安室からの荷物が届く。中身を見ないようにしたが、気になった。封を開けると、首輪とリードが入っていた。梓は呆然と、それを眺めた。


犬って。


安室が嬉しそうに微笑んでいる気がした。

 畳む

死んだ君と出会う


※特殊設定です




君が死んだ。

彼はしばらく使っていない携帯電話の電源を入れた。
ネットの回線につなぐとメールを受信してゆく。
彼は一つ一つゴミ箱に投げ込んだ、削除、削除、削除、名前、榎本梓、手を止める。メールの本文を見る。
――御無沙汰しています。 兄の杉人です。 妹の梓が亡くなりました。
以下云々。彼は彼女の情報を受け取っていなかった、もう用が済んだので観察対象から外したのだ。
彼は座っている椅子に深く背を預けて、息を吐く。今更、手を合わせる権利はあるだろうか。
しかし彼は何も考えずに彼女の地元まで車で行く。
事前に連絡せず訪れた男に両親は驚き、事情を話すと受け入れてくれた。
仏壇には彼女の笑顔の写真があり、果物やお菓子が供えられていた。手土産をいったん彼女に供える。
「……ご焼香に伺うのが遅くなり、大変申し訳ありません」
「いいえ、……あの子の知り合いにこんなかっこいい人がいただなんて、びっくりしました」
母親は淋しそうに笑った。
「もし宜しければ」
父親が同じく頬を歪めて言う。
「店でのことをお話していただけませんか、良かったら……」
「はい、もちろん、是非」
彼女に良く似た両親は彼の話を時に笑い時に泣くのを堪えて聞く。
実直な人柄が見て取れた、裏表が無くそのままの人柄で、そうか、彼女はここで育ったんだなあと彼は思う、資料では知っていた、直接足を運ぶのは始めてたった、父親は彼と酒を呑みたがったが彼は車で来ているので、と辞退する。泊まっていくのはどうですか、と言われて流石に断った、正気でいられる自信がなかった。
昼過ぎに訪れて、夕暮れ前に出る、墓の場所を教えてもらい、両親はこぞってまた来てくださいと言い、彼ははい、と頷いたが二度と来るつもりはなかった。
車を走らせ、寺の近くの墓地に来た。花を買うのを忘れていたし、何も持って来なかった。身一つで、彼は彼女の墓の前に立つ。正しくは彼女の一族の墓だ。
「……どうしてあなたまで」
「――会えるとは思わなかったな」
聞き覚えのある声だった、ざりと肌が粟立ち、彼は咄嗟に振り返る。
「ふふ。お久しぶりです、安室さん」
彼女だ。
「…………え」
素っ頓狂な声が出る。
「………梓さん死んだんじゃ」
「そういうことみたい」
「ならあなたは?」
「うーん、榎本梓なんだけども、幽霊になるんですかね?多分」
「―――多分って……」
彼女は生きてる時と変わらないように見える。 パーカーにスカート姿で佇んでいる。 でも影はない。
「安室さん、普通ですね」
「まあ、元々狂ってるので……」
「どういうことなんですかそれ」
「―――さあ」
どういうことなんでしょう、と彼は言う。
「ちょっと、頭が動かなくて」
「そうですね、私も何か記憶飛んでますし」
「はあ……」
彼は空を見上げた。 太陽が赤々と燃えていて、彼の影は長く伸びている。
「――今は黄昏時ですもんねえ」
「明日は晴れかなあ」
「雨ですよ、天気予報で言ってしました」
「それは上々」
「いやちょっと待ってください」
「はい」
「僕、生きてます?」
「え、知りませんけど……」
「途中で事故ってないですよね」
「事故ったんですか?」
「いやあ、もうどこまで正気なのかよくわからず」
「夢みたいなかんじですか」
「触れるんですか」
「さあ……?」
彼はおもむろに彼女に手を伸ばす。ひやりとした感触があって、水中に手を突っ込んだような感覚があって、ずぼんと彼女の向こう側に手が突き抜けて行く。
「なんか変な感じ」
「僕もです」
「ちょっと試しますね」
言うや否や彼女は彼に触れようと手を伸ばす、しかし、先程と同じような感覚があってずぼん!とすりぬける。
「あら、残念」
「…………幽霊なんですか」
「よくわかんないんですってば」
「僕が幻覚見てるのかな」
「まあ、その可能性も」
「たまに薬飲んでるんですよね」
「そうなんですか」
「まあ、はい、まあそれはどうでも……よくないのかな、寝不足続いてたし、脳のダメージがあったのかも」
「何かよく分からないですけど、とりあえず寝てみたらいいんじゃないですか」
「ここで?」
「いやどこかで……うちの家とか?」
「嫌ですよ、梓さんの実家」
「どうしてですか」
「居心地悪いので」
「人の実家に失礼だなあ~」
「死ぬからでしょ」
「私の所為じゃないもん」
「それにしたって不注意ですよ」
「怒られても困るんですけど」
「…………寝ます」
「はい」
「……………梓さんは憑いてくるんですか?」
「付いていく、ですよね」
「さすがにまあちょっとはい、まあもういいです、寝てから考えます、一緒に来て」
「やけくそだなあ」
「ですよ、何か、泣きそびれた」
「いいですよ、泣いても」
「嫌ですよ、どうして今泣くんですか」
「泣きたいんじゃないですか」
「泣きたくないですよ全然!」
「ご、ごめん……」
「――――謝ってももう遅いですよ」
「まあ……………美味しいもの、食べない?」
「食べられるんですか?」
「食べてるの、見るぐらいならいけそう」
「そういう性癖みたいだなあ」
「………いいですよ、先に寝ても」
「…………起きたら居なくなるんですか」
「知りませんよ、私の問題じゃないし」
「やっぱり僕の幻覚というか妄想ですか、梓さんの所為で痛い人みたいじゃないですか」
「ええ~……」

彼は溜息を吐く。ぞんざいに車に向かって歩きだすが不意にぴたりと止まって、振り返る。

「憑いて来ないんですか」
「だって幻覚だし」
「…………」
「………行きますよ、はいはい」
彼女は肩を竦める、彼はまた溜息を吐く。 車に辿りついて、彼は一応助手席に彼女を促した。彼女は首をひねりながら椅子に腰かけようとする。ひゅるとすりぬける。
何度か試して、彼女は首を左右に振る。彼は三度目の溜息を吐いて、背もたれに体重を預ける。
起きたら居なくなるんだろうか。
それなら眠りたくない気もして、彼はうとうとしかけては目を覚ます。
そういうことを繰り返していると、彼女が気付いたようで、大丈夫ですよ、と言う。
「何が」
「なんとなく」
「いつも安請け合いして」
「すいませんねえ」
「本当ですよ」
「安室さんもでしょ」
「―――幻覚見るほど、会いたかったんですかね、僕って」
さあ、と彼女は笑った。 それを見て、彼はやっと眠った。夢の中で太平洋を背泳ぎしており、どうともならない無為なほどなだらかな雲が流れ、時折魚がはねている。船も通り過ぎて、何故か虹が出ていた。彼はゆっくり目を覚ました。周辺は暗闇にすっぽりと包まれており、携帯で時間を確認すると一時間半ほど眠っていたらしい。
「――梓さん?」
返事がない。ただの屍のようだ、全然洒落にならない。やっぱり幻覚だったのか。
彼は喉の渇きを覚える。
「起きました?」
「うわっ」
「うわっ、だってー」
「…………」
彼女はほんのり光っている。薄いベールで光沢があるかのように。丁度星の光のようだ。
「まだ居るんですか」
「らしいですなあ」
「ですなあって」
「安室さん、薬飲んだ方がいいんじゃないですか?」
「安定剤?」
「そう。よくわからないですけど、大事なんでしょ」
「持ってないですよ、今」
「いいんですか」
「よくないですよ」
「駄目じゃないですか」
「分かってますよ、煩いな」
「………煩いな、ってあのね、心配してるんですよ」
「死んだ人に心配されても迷惑なので」
「生きてる時はあんなに優しかったのに……」
「そりゃそうでしょう、死ぬ時点で好感度ゼロですよ」
「えぇ………まあ、もういいですけど、とりあえず身体大事にしてくださいね」
「―――――もういいです、どこかに行ってください」
「はいはい、そうしますよ、こういうのよくないでしょうし」
「………行く宛てあるんですか」
「はは、天国には行けると思うんですけどねえ」
いきなりクラクションが鳴った。 彼女がびくと驚く、彼はハンドルに突っ伏してる。
「………………………泣いてる」
「――ないですよ」
「泣いてるでしょ」
「泣いてないですよ」
「分かりますよ」
「何が」
「泣きたいですもん」
「泣いてくださいよ」
「泣けませんもん、感情どっか行ってて」
「どういうことですか」
「ほら、もう、人じゃないんでしょう」
「………そういうことを」
彼の頭の辺りでざわっとした感覚が広がった。 彼女が頭を撫でようとしたものらしい。
彼女は失敗したポリゴンみたいに座席の間に立っている。
「――とりあえず、ここ、出ます」
「はい」
「この付近にホテルあります?」
「駅前あたりにはあると思いますよ、泊まるんですか」
「一晩だけどね」 「うん、食べるもの食べてシャワー浴びて寝てください」
「………余計なお世話なんですよ」
彼はエンジンをかけた。車を走らせたら彼女はどうなるんだろうと思いながら、もう何も見たくなくて、彼は車を走らせた。ホテルはすぐ見つかり、部屋も取れて、近場のコンビニで飯を買いこみ、部屋で飲み喰いしてシャワーを浴びて、寝る。朝起きてぼんやりと瞬く。部屋に彼女は居ない。それはそうだろう、死んだのならば生きている必要がないからだ。
―――彼女は信号無視の車に轢かれて、亡くなった。
夜のことだったらしい、人通りのいない道で人知れず轢かれ、まだ少しその時は息が合った。
でも車は逃げて行き、彼女は一人息絶えて行く。
警察の捜査で犯人は三カ月ほどして逮捕された。飲酒していたのだという、それで怖くなって逃げた。
あっけなく人は死ぬ。
心残りがあると幽霊になると言うが。矢張り自分の方に問題があるのだろうか。どうともいえない心地だ。
彼は朝食も食べず、チェックインしてホテルを出た。 車を走らせる。
また昨日と同じ場所。
車の扉を閉める、バタン、という音がやけに響く。周囲が静かすぎる。安穏とした場所であり、淋しすぎる。
「――どうして」
「え」
「ポアロに出ないんですか」
「おはよう。何の話ですか?」
彼女の墓の位置まで行く。 彼が認識すると同時に強く輪郭を持った。
自分の幻覚と彼は対峙する。 彼女は不思議そうに笑っている。
「梓さん、こんな場所に居ないでしょう」
「ええと、だから何の話?」
「墓場になんて出ないでしょう、普通は」
「普通は墓場に出るんじゃないの」
「そんなことないですよ、生前愛着のあった場所や人にだって」
幽霊ならどこへでも行けるんじゃないですか。 彼女は彼の瞳を見詰める。
「分かるでしょう、死んだら終わり」
「ならどうしているんですか」
「一応一晩考えたよ、多分、一晩、記憶がとんでいて分からないけど」
「一晩中こんなところに居たんですか?」
「安室さん、言ってることめちゃくちゃ」
「全然冷静になれない」
「そうだね」
「こんなところより家に行けばいいじゃないですか」
「行こうとしたよ」
「行けないんですか」
「分からないんだよね」
「何が」
「ぼやけていくから」
「消えるんですか」
「今ははっきりしてるけど」
「僕が居ると、ですか」
「はっきりするの?」
「そう」
「そうかも」
「僕が居なくなると消えるんですか」
「ぼんやりするかなあ」
「……残酷だ」
「安室さん」
「はい」
「もう、私、死んでるから」
「――気が狂っちゃったんですよ、誰が死んでもこうならなかったのに、限界だったのかな、僕、そうなんでしょうか」
「どうしたの、いつになく弱気で」
「弱気にもなるでしょう、こんなところで非実在の人間と話してる」
彼女は愉快そうに笑う。
「そういうのやめてくれません?」
「え?」
「笑うの」
「どうして」
「感情ないんでしょ」
「大らかなのはあるよ」
「どういうことですか」
「楽しい、面白い、可愛い、慈しみたい、愛したい、そういうの」
「人間じゃないじゃないですか」
「だから、そう言ってるのに」
「……………はぁ」
彼は大きく息を吐く。
「嫌になってきた」
「………」
その場に座り込んで、胡坐を掻いて彼女の墓を見詰める。ポケットから煙草を取りだした。風があっけらかんとしすぎてうまく火が点かなかった。一分ほど苦戦する、指先が震えてる所為だ。なんとか点けて、深く吸い込む。
「吸うんだ」
「たまに」
「そう」
「なに」
「何もないよ」
「言いたいことがあるなら」
「言いたいことなー………」
「連絡もしなかった」
「うん」
「いきなり、別れてそのまま」
「そんなもんだと思ってたから」
「信用してなかった?」
「そういうのじゃなくない?」
彼女は笑う。
「俺のこと、好きじゃなかった?」
「俺って言ってる」
「そこはいいでしょう」
「好きだったけど、一生一緒にいることはないだろう、と思ってた」
「そうだよな」
「自分が一番分かってるでしょう」
「分かってる」
「罪悪心あったんだね」
「酷い男みたいだ」
「酷い男でしょう」
「――――梓さんに許されたら、生きていけると思ってた」
「うん」
「わりと酷い仕事してて。普通の人に、愛されて許されたら、それでいいんじゃないかって」
「うん」
「でも、結構、自分の愛が重たかった」
「うん、知ってる」
「何を知ってるの」
「何も」
「話合わせただけ?」
「そうかも」
「酷いな」
「酷いよ」
「俺、話したっけ?」
「何も」
「何か話さなかった?」
「何も話してないよ、安室さんは」
「何も話さなかった……」
何も話さなかった、と彼女は頷く。責めているわけでもなく、悲しんでいる素振りもない、そもそも感情が欠落しているという。喜びしか受け取られないなど酷い話だ、生きていたら。死んでいるから関係ないのだろう、煙草をその後二本吸い、彼は立ちあがった。彼女の手を握りたかったがずぶんとまた水中に潜った感触しかしない、透明なゼリーのような、そうだとしたらきっとラムネ味だ。
「帰ります」
仕事があるので、と言う。彼女は笑って頷いた。挨拶はしなかった、してどうするという話だ、彼は車に戻り、自分の居場所に帰った。 それで暫く働いた。 人を騙し追い詰め暴き、真実を引きずりだし、正義を遂行する。国の為に生きて、それだけの日々を彼は愛している。彼の人生で喪ったものは幾つかあり、重要なものもその中にはあった、根底を支え彼を彼たらしめるものがあった、彼の軸と言っても良かった。彼はそれでも、生きていた。人によっては悲愴で哀れな人生だろう、彼が生きて行く理由などどこにもないような、儚げですらある、影が濃ゆく暗がりに歩むような、しかし彼は単純であった、明快であった、過去を思えどそれはそれであった、誰かが思うよりも哀れではなかった、少なくとも何も見いだせずぐだぐだと駄々をこねながら生きる人間よりは遙かマシであった、比べて得る肯定など大したことはなくても、彼は生きることに溢れていたからだ。 彼は生きている男であり、止まらぬ人であり、彼は闇でもあったが、同時に光でもあった。
彼は長い長い手紙を書く。昨日食べたものや最近見つけた気のいい店、お気に入りの肌触りの服の話、道端にあった石の形、掠れて意味が通じなくなった看板、破れたフェンスから顔をのぞかせるランドセルが重たげな子ども、ゆっくりと横断歩道を渡る老人の足の細さ、大声で笑いながらクレープを頬張る女子高生の鞄のキーホルダー、電車のつり革に凭れてむっつりと眉を寄せる男の話、疲れた顔で自転車をこぐ女の話、二人だけで生きているみたいなカップル、氷の解けたアイスミルクティー、日々出来あがっていく建物と、壊されて更地になってゆく買い取り手を探している土地、ずっと落ちたままの帽子、誰かが捨てた弁当の空き箱、今日の空の色。誰かが誰かを殺して謎を生んだ話、血を流しながら搬送された誰か、欲しいものを奪われた誰か、笑顔のまま傷ついている誰か、誇らしげに働く店員の姿、仲間を呼ぶ烏、小石をつつく鳩、どなり声に頭を下げる人間、目の前で乗ろうとしていた電車の扉が閉まった、顔。カっと目を見開いた魚、からっと揚がったコロッケの匂い、季節になって咲いた花で満ちる歩道の甘やかさ、遠くから聞こえてくるごみ収集の音、何を書けばいいか分からなくなって、何でもいいから彼は書いた、ラジオのDJの話も書いてゆく、アーティストと対談して、笑っている。チューニングはエロい、どういう話なんだろう、分からないから書いた、正義とか真実とか信念とか悪とか、大事なものとか、夢とか希望とか絶望とか、悲しみとか怒りとか、憎しみとか興奮とか、幸福と過ち、謝罪と肯定、許しはどこにもなかった。今日懺悔したことを、あの犬は笑うかもしれない。見捨てた野良猫の子どもはもう、見かけなくなった。彼は綺麗にシャツにアイロンをかけた。ラベンダーの水をかける、良い匂いがする。リラックス効果もある。夕飯はコーヒーとハムサンドだった。冷やしたトマトを齧り、デザートにした。最近の果物は甘いから。彼はゆったりと窓の外を眺めた、歓楽街の端でネズミが通りすぎて行った、結構太っていて、大変だなと彼は思う。
手紙に封をして、彼は天井を見詰める。
「――安室さん」
「来るんですか」
「来ちゃいました」
いつかの彼女がぼんやりと立っている。彼が見詰めるごとにくっきりと解像度が上がっていき、まるでこの世に生きているみたいになる。
「止めないで欲しいんですけれども」
「そういうわけにはいかなくて」
彼女は困ったように笑う。 彼の手には拳銃が握られている。
「思い出したんです、私、それを聞いてから」
「愉快な話ですか」
「まあ、そうなのかも」
「まあ、良かったら話してください。一応お茶淹れますから」
「お気づかいどうも、有難うございます」
「いいえ、お客さんではありますから」
彼はベッドから立ち上がって湯を沸かす。ポットを用意し、マグカップが一つだけだ。他に誰も来ないし、使わないから予備がない。
彼は念の為マグカップを洗い、ティッシュで水気を拭う。
「さっきまで、木とか花だったんですけど」
「え?」
「自然と同化してたみたいで」
「妖精?みたいなものですかね」
「どうなんでしょう、でも私が好きな漫画で、壊れた道具を最後に花を活ける器になってから、処分するっていう話があって、人間も多分そう言うことなのかなって」
「分かるような分からないような話ですね」
「そうですね」
「それが思い出した話ですか?」
「いやではなく」
「はい」
「どうも私が生きてた世界では安室さんが先に死んだんですよね」
「―――どういうことですか?」
「多分、恋人同士だったと思うんですけど」
「多分」
「全部はっきり覚えてなくて」
彼女は彼を見詰める。
「ある日、安室さんが死んだ、って聞かされたんです」
「…………死因は?」
「殺人じゃなくて、事故死?だったような」
「十中八九殺されてるんでしょうね」
「そうなんですか?」
「僕は何も話してませんか」
「話してませんね」
「僕が?」
「安室さんは、私には何も話さなかったですよ」
「恋人同士なのに?」
「多分ね」
「多分だとしても、それでも?」
「はい」
「許せたんですか」
「何を?」
「………何も、言わなかったこと」
「だって、何も言わないことと、愛されることは別ですから」
「………そうかな」
「赤ちゃん、何も知らなくても笑うでしょう」
「それは笑いたいから笑ってるわけじゃないでしょう」
「だから、愛を知ってるから、とか、愛したいからって、愛するわけでもないでしょう」
「それは、そうかもしれませんけど」
「まあそこはどうでもいいんですけどね」
「どうでもいいですか」
「――本当もう、安室さんって、ズレてますよね」
「ど、どこが?」
「話、進まないし、あと、沸騰してますよ」
「あ、え、あ、はい」
彼女は肩を竦める。
彼は紅茶のティーバックを取りだしてマグカップにいれて、お湯を注ぐ。透明だったお湯にじんわりと紅茶の色が滲んで行く。
「どうぞ」
「有難うございます」
「僕、死んでどうしたんですか」
「私、耐えきれなかったみたいで」
「と、言うと」
「自殺しちゃったみたい」
「え」
「びっくりですよね」
「本当に?」
「多分ですけど」
「どうしていつも多分なんですか」
「だったような、気が、ってかんじなので」
「うーん、僕の妄想だからかなあ、細部が適当」
「あ、まだその考え方」
「幻覚でしょう、あと、幻聴、脳のまやかし、どうでもいいですけど」
「投げやりだなあ」
「僕も自殺しようとしてるんですけど」
「私の事好きでもない癖に」
「……そんなに、梓さんは僕のこと好きだったんですか」
――壊れて、自殺するほどに。
「どう思います?妄想なんでしょう、これ、全部」
「分からないですよ、梓さんのこと、何も知らないし」
「そうなんですか?」 「梓さんだって何も話してくれなかったし」
「話してたでしょう、色々」
ひたりと目線がある。 常葉の色をしている。
「―――覚えてないんです、消しちゃって」
「ええっ」
「覚えてたくなかったみたいで、何か、駄目なんです、もう」
「いやでもポアロで一緒に働いてたのに」
「そういうことは覚えてるんです、でもそれ以外だとさっぱり」
「そんなに嫌いだったんですか?」
「分からないんですよ、本当、嫌になる」
「はあまあ、私は好きでしたよ、――不意に死んじゃうくらい」
「どういうことですか」
「ここから落ちたら、会えるのかなって。別に落ちなくていいのに、落ちちゃった」
で、どぼん、と言う。
「川?」
「そう、ハイキング途中で」
「大変でしたね」
「ね、一人だからよかったですよ、友達連れてたら可哀想でしたね」
「一人で登ってたんですか」
「気分転換にね」
「気分転換、失敗してるじゃないですか」
「参りましたねえ」
はは、と彼女は笑う。
「今、安室さんもそんな感じでしょう」
「……なのかな」
「死んだから言えますけど、死ななくても良かったですね」
「――僕のこと、好きじゃないから?」
「あっはっはっは」
「笑うほどですか」
「いやいや、どうして不貞腐れてるんです?」
「んーどうしてでしょう……」
わかりますけど、と彼女は言い、マグカップに手を伸ばした。やはり掴めず、すりぬける。何度か彼女は繰り返す。駄目だなあ、とそして笑う。感情が欠落していなかったら、どういう顔をしたんだろうと彼は考える。
「妄想でも幻覚でもいいですけど、多分また会えますよ」
「…………会いたいわけじゃないんです」
「うん」
「申し訳なさがあって」
「何の」
「どうして僕って生きてるんですかね」
「それはよくあるやつなんじゃないですか」
「そうなんですけど、たまにはパっと死んでみてもいいのかなって思って」
「温泉行ったらいいんじゃないですか?」
「僕、思ってる以上に梓さんのこと好きだったみたいで」
「愛が重いですもんね」
「そう、死にたいですね」
「頑張って」
「それ禁止ワードですよ」
「知ってますけど、それしか言えないでしょう」
「そっちの殺された僕」
「うん」
「喜んでたと思いますよ、梓さんが自殺して」
あきれ果てたように彼女が彼を見る。
彼は少し居た堪れなくなってベッドに腰掛ける。
「というのは冗談ですけど」
「嘘でしょう」
「嘘ですけど」
「私は嫌です」
「死ぬのですか」
「幸せになって欲しいですね」
「はー……そんなありきたりなこと言われても」
「いいじゃないですか、ありきたり。それしかないですよ」
「そうかな」 「とりあえず今はいいでしょ」
「明日からは?」
「まあ、頑張ってください、としか」
「どうして肝心なところで適当なんですか」
「安室さん、生きるの好きでしょ」
「そこに好き嫌いとか発生します?」
「うん」
彼は深いため息を吐く。
「僕の妄想、酷くないですか?」
「まあねえ。じゃあこうしましょう」
「はい?」
「花くださいよ」
「献花?」
「かな、その時に綺麗だと思った花を私にください」
「―――思ったんですけど」
「はい」
「こっちの梓さんは?」
「私じゃないから分からないです」
「よその女に花を貢ぐわけですか」
「好きでしょ、安室さん、ひねくれてるから」
「いや、…………」
彼は首裏を摩った。
「好きですけど」
「じゃ、それで」
彼女が良かった良かったと笑う。それでいいのかなあと彼は首を傾げて、 「というか」 と、言ったところで既に彼女の姿は無かった。
脳のしくじりはどこまでもしくじりだ。
彼は立ちあがって拳銃を引き出しに仕舞いこみ、銭湯に向かった。大きい湯船に浸かって昔懐かしいままのタイルで出来た富士山の姿を眺めて、彼女が死んだとしたらどこの山だろうかと考える。湯あがりにビール一杯飲みほして椅子に座りこんで扇風機の風に当たる。部屋に帰って拳銃を取り出し、米神に銃口を押しつけて引き金を引いた。空ぶった音がして、中を見ると不発だった。
彼は深く息を吐きだして、目を瞑る。
水に深く潜り空を見上げる夢を見た。
眩さに彼の眼は潰れたが気にはならなかった、そのまま深く水中の底に落ちて行き、彼は懐かしい顔ぶれに出会い、ゆっくりと浮上した。
窓の外を見ると、少し開けられたラブホの窓から喘ぎ声が響いていて、彼は少し笑った。
さあ、花を買いに行こう。

畳む

あむあず総集編



001

「二人ってやっぱり付き合ってる?」
揃って二人はノーと答える、儀式みたいに確認を繰り返され、イイエと答える、イイエ、ノー、違います、イイエ、そんなことないです、イイエ、ノー。ノー。ノー。テレビの向こうのアイドルでもないのだから、恋愛など自由にしてもいいのではないのか、単純に皆面白がってるのだと言うのは分かるけれど、何度も訊かれると飽きてくる、違うと答えれば何故か説教されることもある、そう言って本当は付き合ってるんでしょう、雰囲気でわかるよ、いやあラブラブだねえ。ラブラブ。

もうすぐ生理だからいらいらしていたんだと思うと彼女は後に振り返った、微妙な腹部の鈍痛と晴れない頭で大尉が変なものを拾い食いしてしまってゲーゲー吐いて緊急入院して、女子会の予約していた客がキャンセルを発生させて、女子高生はいつものように突っかかってきた、彼女は八つ当たりをする。
「安室さん、ちょっと付き合って下さいよ」
「いいですよ、業務用スーパーですか?それともコスドコ?」
「じゃなくて。三カ月でいいから付き合って、私を振ってください」
「はい。……はい?」
「探偵として依頼します、私を彼女にしてください、そして振って」
彼はちょっと彼女を見た。
「いいんですか?僕は高いですよ」
「ちゃんと依頼料は払います」
「ーー分かりました。それじゃ後でちゃんと契約を交わしましょう」
「宜しくお願いします」
それで契約書にサインをして前金を払って、彼は彼女の恋人になり、彼女は彼の雇用主になった。書類の入ったクリアファイルを握り締めて彼女は大尉の見舞いに行き、コンビニでビールを買って、一杯飲んでから寝た。朝起きると彼からのメールが入っており、都合のいい日を教えて言うので、大尉が入院しているので暫く遊びには行きませんと返して、彼女は出勤した。
仕事終わりに彼は車で待っており、動物病院に一緒に行き、大尉の見舞いをした。大分調子がよくなってきているのでもう少しだけ様子を見ますね、と言われて彼女はほっとした。そのまま家まで送って貰い、彼女は一応お茶でも行ったが彼は断って、大尉は元気になりますよ、と彼女を励まし、ついでに今日買ったのだというカヌレを渡して帰っていく。カヌレは美味しかった、名前を見るとそういえば雑誌に載っていたところだと思い出して、ちょっとだけ彼女は笑った。その雑誌を彼と読んだことも思い出したのだ。
大尉が退院する時まで彼は見舞いに付き添ってくれて、退院当日には退院祝いだと猫用のケーキを買ってきてくれていた。狭い所に押し込められていた大尉は自分の体調の悪さも横に置いて不満気によく鳴き、彼女にまとわりつく。
「元気そうですね」
「ふふふ、そうですね」
「拾い食いは心配ですねえ」
「これに懲りてくれたらいいんですけど」
「飼い主によく似ると言うんじゃないですか」
「私は拾い食いしませんよ!」
「三秒ルールとかいって落ちたパン食べてたじゃないですか」
「三秒なのでセーフじゃないですか」
「アウトですよ、どう考えても」
「……猫用のケーキって美味しいんですかね」
「……大尉に怒られますよ」
「そっかあ」
「人間用のケーキ今度買ってきますから」
彼は呆れたように笑う、彼女は大尉がおっかなびっくりでケーキを食べる様子を眺めている。その髪をひとすくいして、彼は言う。
「それか一緒に食べに行きますか」
「どこに」
「どこにでも」
「デート?」
「そう。駄目?」
「駄目じゃないですけど」
「みられるのが怖いですか?」
「みられるのはいいですけど、むしろ、みられた方が」
彼女の作戦はこうだ、彼女から彼に迫って付き合うとはなったものの彼に振られてしまったら、もう誰もその話をポアロではしないだろうという。単純かつ単純かつ単純すぎてどうなのかという試みであって、でも勢いで契約してしまった後に冷静になってしまえば、本当にそうするのが正しいのか分からない、というような心地であるらしい。彼はそういうことも見越している。
「いいですよ、契約を途中で切っても」
前金はお返ししますし、と言う。彼女は曖昧に笑う。
彼は手元で彼女の髪を弄んでいる。
「探偵のお仕事は大丈夫なんですか?緊急の依頼とか……」
「大丈夫ですよ、今は落ち着いてますし」
「毛利さんの弟子としては……」
「毛利先生の方も今は落ち着いてるようで。平穏でいいことではありますけど」
「むむむむ」
「僕としては楽な仕事ですし、依頼続行でも構わないですが……梓さんの方は大丈夫なんですか?」
「私の方は特に他になにもありませんし」
「うーん、というより僕に振られた女としてやっていくことに問題はないんですか」
「改めて言われると微妙な……でも、そっちの方がうまくやれる気はするんですよね」
「そういうものですか?」
「そうですよお、あいつは同僚だから色目を使ってる!って恨まれるぐらいなら、調子乗るから振られるなんてかわいそーっ、って同情される方が楽じゃないですか?」
「はあ、なるほど………?」
「絶対そうですよ………」
思っているより彼女は凹んでいるらしい。彼は彼女を抱きよせる、唐突に彼の胸に凭れさせられて彼女の方はちょっと、というかかなり驚く。
「何ですか」
「まあ、彼氏特権ですかね」
「そう易々と許しませんよ」
「既に腕の中なのに………」
「それは……」
何か油断するんですよねえ、と彼女は言う。彼は彼女の腰に腕を回して、確かに、と呟く。同僚の間柄であるなら抱きあう必要もないわけだが、というか別に振りなんだから抱き締める必要もないわけだが、大尉はケーキを食べて満足したようで爪とぎをしてから毛づくろいの態勢に入っている。
「安室さんって行く先々で女性問題とか起こしてたんですか?」
「人を歩く地雷原みたいに言わなくても、僕はそんなヘマしませんよ」
「そうなんですか?」
「大体同じ場所にあまりいるような仕事ではないですし」
「なんでまたポアロに。あ、毛利さんかあ」
「そうですねえ、弟子入りがなければこうやって一か所に留まるようなこともなかったのかも」
「運命の人なんですねえ、毛利さんは。安室さんにとって。すごいですね」
無邪気に彼女は笑った。
「あ、でも、こんな風に依頼で恋人の振りとかも?」
「たまには、なくもないですけど。護衛の代わりで、とか」
「へー何か面白い話聞かせてくださいよ」
「世の中の探偵は皆、ハードボイルドな物語を持ってるわけじゃないですよ。結構地味でつまらないものですよ、浮気調査とか。人探しとか。ペット探しとか」
「常に何か探してますね」
「そういうものですよ」
「安室さんは何か見つからないものがあって、探偵になったんですか?」
彼は答えずに彼女の後頭部に頬を寄せる。
「ーー安室さん?」
「どこの店に行きたいですか」
「……ケーキ?」
「そう。大尉も元気になったし」
「だから見舞いに付き合ってくれたんですか?」
「下心が彼氏っぽいでしょう」
「割と幻滅するかんじですね」
「はは、実際心配でしたけどね」
「良かった、寛いでる……」
彼女は大尉が眠りに落ちそうな姿を見詰める、ちょっとだけ耳を動かした。大尉、と彼女は呼ぶ。軽く尾だけ動かして大尉はゆるゆると眠りに入るようだ。彼は油断しきっている彼女の頭のてっぺんにキスを落として、ゆっくりと立ち上がる。
「それじゃ、明日店で」
「あ、今日は有難うございます」
「いいえ、ゆっくり休んでください。大尉に何かあったら連絡してください、車飛ばして駆けつけますから」
「ーーそれも下心ですか?」
「さあ、どうでしょう」
彼は可笑しげに笑う。彼女は玄関先まで見送った、あ、ちょっと彼氏彼女っぽいな、と思った。部屋で一人になって大尉を眺めている。さっきまであった傍の体温がなくなって、やけにすうすうして彼女は上着を羽織る。実際無茶な依頼で、努めて安室は距離を縮めてくれているようだ、それがあんまりにも自然なので中々罪な男だなあと彼女は思う。彼女はスマホを取りだして、彼とのデート先を調べ始めた。

結局どうするのが正解なのかは、分からないままだ。

002

ポアロが定休日な日に二人は初デートと相成った。
助手席に落ち着いて彼女は彼に行き先を告げる、彼は頷いて車を発進する。
「カーナビは使わないんですか?」
「大体の地図は頭に入ってますから」
「え、すごいなあ。頭の作りが違うんですねえ」
「そんなことないですよ、職業柄の癖です」
「円周率いくつまで言えます?」
彼女が笑う、彼はしれっと数字の羅列を告げる、彼女の眉が潜まった。
何が正解か分からない、と悲しげに言う彼女に彼は笑った。
平日とあって道は空いていた、近場の駐車場に停めて二人が訪れたのは古びた喫茶店だった。というか喫茶店なのかも分からない、古びた倉庫のようにも見える。看板は色あせていてペンキがはがれている、そういうコンセプトかと中を覗くと表と変わらない古びた様子で手作りしたような椅子とテーブルがとりあえずと置かれている。店主の愛想は良い。つるりと禿げた頭が卵のようだ。
「もっと最近の店かと」
「へっへ、一人で来るには電車も不便だし、勇気がいるので」
「なるほど、そういう選択もありますね」
「ここのアップルパイが美味しいらしいんですよお」
「へえ、じゃあそれにします」
「じゃ、すいませーん」
アップルパイのセットふたつ、とコーヒーふたつ、と彼女が頼む。店主ははいよ、と頷いて、浅いグラスに入った水が置かれた。
「ここじゃ目撃はされないんじゃないですか」
山に面していて、人通りもいない。扉は開けっぱなしで、時折車だけが通り過ぎて行く。鳥の声もよく聞こえた。ぬかりはないですよ、と彼女は笑った。店主に断りを入れて、店内と看板の写真を撮っている。
「……僕、写真は」
「魂が抜かれます?」
「はい」
「安室さんの学生時代は大変そうですね」
「いや、そんなことは。今思えば楽しかったですよ」
「どんな学生でした?」
「―――真面目な。融通がきかない真面目な生徒でしたよ」
「へーその反動ですかね、今は」
「どういう意味なんですか」
「ははは」
「梓さんはどういう学生でした?」
「え?ごくごくフツーでしたよ、あんまり目立つこともなかったかなあ」
「梓さんがそう思ってるだけじゃなくて?」
「それどういう意味なんですか?」
などと話しているとアイスの乗った大き目に切り分けられたアップルパイとコーヒーが運ばれてきた。とろりと溶けるアイスがなんともそそられる。店主に礼を言い、彼女がテーブルの上をセッティングする。
「あーなるほど」
「ふふふ」
「体の一部なら大丈夫ですよ」
「魂はセーフですか?」
「少しはね」
彼女が笑う、アイスがとけきってしまわない内にとテーブルの上を写真に撮る。微妙に彼の腕が写っている。いかにも二人で来ましたよ、という写真だが、彼女は念願のアップルパイ!美味しそうなどと絵文字をつけてSNSに投稿した。
「さ、いただきましょ!いただきまーす!」
「はい、いただきます」
パイはいくつも層が重なっており、熱々のカスタードと煮込んだりんごはどろりとしていて、零れる!と慌てる彼女に店主がぼろぼろ零して大丈夫よ、と笑う。そっちの方が美味しいから、と言う。彼は笑った。何故か彼が食べるとボロボロ落ちない、何故、と彼女は唸る。
「実力の差ですよ」
「うわっ」
「ほら、ついてる」
口元についたパイの欠片を彼が指先でつまんで、自分の口へ運ぶ。彼女は瞬く。
「あ、有難う」
「美味しいですね」
「美味しいですね、コーヒーも美味しい」
ちょっと苦めで濃いのがアップルパイにあっている。あれこれ言いながら食べてると、サービスと店主がクッキーを二枚ずつ置いてくれた。
「ゆっくりしてってね」
「有難うございます~!」
「いえいえ」
気を利かせたわけではないだろうが、店主は厨房に入っていった。
「SNSの反応見なくていいんですか?」
「まあ大丈夫なんじゃないかな……」
「怖いんですね」
「さ、流石に一枚だけだとどうも言えないんじゃないですか?」
「女子って大変ですね」
「安室さんには分からないですよ」
「そうかもしれないですね」
「―――嫌味じゃなくて」
「分かってますよ、ーーいい店ですね」
おそらく店主の家で使っていたものやガラクタが店の隅に置かれている。飾られてるのではなく、積み上げられていて、ごちゃごちゃしている。数十年前の色あせたポスターなんかも貼ってある。クッキーもさっくりとしていて、甘いのだがそれがしつこくない。
「良かった、どういう店がいいか、結構考えたんです」
「え、来たかった店じゃないんですか?」
「それもありますけど……」
彼女は本当の理由を言わなかった。へへ、とまた笑って、食べるときにポロポロ零したパイのカスを慌てて指で集めておしぼりで拭う。彼は頬杖をついてそれを眺めている。
「あ、みっともない?って思ってます?」
「いや……この後どこ行きます?ご飯は食べてないでしょう」
「アップルパイ美味しかったから、まだ次のは食べたくないかな」
「ははは。じゃあちょっと腹ごなしにドライブしましょうか」
そういえば山頂にカップルスポットありますよ、と言う。
彼女が聞いて、スマホで調べる。
「あー鍵をつけるやつですね」
「そうです」
「そういうのはいいかな」
「いいんですか」
「アピールが強すぎるのも嫌味だし。あっでも、ちょっと遠いですけど、縁結びの神社があるんですって」
「それはいいんですか?」
「神社なので」
「ーー何か違うんですか?」
「全然違いますよ」
そういうものですかと聞いたら頷く。
「あ、今、ちょっと面倒くさいって思ったでしょ」
「否定はしません、でもいいんですか、縁結びが僕とで」
「え、はい」
何の問題もなさそうにきょとんと彼女は彼を見詰めた。
彼は指先で彼女の頬を押す。
「何ですか」
「特に理由はないんですけどあえて言うなら、彼氏なので」
「彼氏は彼女の頬を理由なく押さないですよ」
「押すと思いますよ」
「い、言いながら押さないでくださいよお」
「はは、かわいい」
彼は短く笑う。ちょっと彼女は不貞腐れる、店主を呼んで会計をして、車に乗り込む。店主は車が見えなくなるまで店の前に立って見送ってくれた。
「いい人ですね」
彼女もずっと手を振っていた。
「いい人ですね」
彼は頷いて、神社を目指す。途中山道に入ったが彼の車はずっと安定していてカーブも滑らかに回る、彼女はちょっと眠くなった、揺れるからかもしれない。言葉が途切れがちになった彼女に彼は笑う。
「いいですよ、着いたら起こしますから」
「でもあとちょっとでしょう」
「頑張れます?」
「頑張ります。って子どもじゃないんですから」
「梓さんは子どもですよ」
「そんな歳離れてないじゃないですかあ」
「いやあ僕はもうおじさんですよ」
「おじさんになるのは悪いことじゃないでしょ」
「梓さんは年上好きですか」
「好きですよ」
「僕もそこに含まれてますか」
彼女は起きた。
彼の横顔を見る。
「ーー好きですよ、ちゃんと」
「ちゃんと?」
「ちゃんと」
彼は笑った。
「僕も好きですよ、年下の女の子」
「……そう言われると犯罪の匂いがしますね」
「確かに」
「どのくらいまで年下?」
それによっては、と彼女がわざと厳めしい顔をする。
「六歳下ぐらいまでかなあ」
「あーじゃあ成人してますね」
「童顔ですけどね」
「あ、ちょっとアウトですね」
「判定が厳しくないですか?」
「ははは」
彼女は笑った。彼女が完全に起きたぐらいで神社の駐車場について、こじんまりとした神社に向かう、閑散としてると思いきやぽつんぽつんと女性やカップルの姿があった。相生の木が写真スポットになっているらしい。本殿を拝んでから彼女と彼は売店に寄る。
「おみくじは買います?」
「いや、お守りだけで」
「お守り買うんですか?」
「一緒に買うんですよ」
「ははあ」
「嫌そうですね」
「僕はいいんですけど」
「何も恋愛だけじゃないでしょ、縁って」
彼女は笑う、ピンクとミドリのハートの形をしたお守りを手に取る。小さな鈴がついている。彼の方には屈託がある、屈託というか影が。こんな気持ちで神社に居るのは間違いなのかもしれない。これでいいですか、と彼女が言うので彼は頷いた、買おうとするとお礼だと彼女が支払いを済ませる。
「でも撮るんですね」
「撮りますよぉ、撮らねばどうするんです」
「どうもこうも」
相生の木をバックに縁結びのお守りふたつ、二人で掲げている写真だ。思ったより絵面は強かった。彼はちょっと笑った、彼女はインパクトの強さにたじろいでいるが、神社!と一言と写真だけでなんとか投稿しきった。一仕事終えた彼女に彼は笑う。
「お疲れ様です。神社の方にお聞きしたんですけど、近場に美味しい蕎麦屋があるようですよ」
「有難うございます。じゃあそこで」
と、彼女は笑うが少し気鬱そうだ。そこまで気負うくらいならば、止めとけばいいのだが彼女はとりあえず初志貫徹に挑むようだ。ひょいと彼女が握り締めてるスマホを取りやって、
「ま、暫くは僕の顔を見てればいいんじゃないですか」
「あー…………」
「何ですか」
「かっこいいなって」
「その調子で見ててください」
アホな会話をする二人をカップルが笑った。その後、蕎麦を食べて初デートの任務は完遂された。SNSでどういう反応が起きたかについては、ご想像に任せるとしよう。

003

SNSの効果は一部で騒ぎになったようだった。女子高生たちの睨みが厳しくなり、警戒と疑念が渦巻いている。それこそ狙った効果なのに、彼女は付き合ってるのと聞かれて、
「二人ともフリーだから、何かいい縁がないかなあって一緒に神社に参拝したんです~」
などと答えて、彼にしれっとした目線を向けられるのである。
「何の為に僕を雇ったんですか」
「でも、でもやっぱり付き合ってはないわけで………嘘はよくないんじゃないかなーと」
「今更じゃないですか?」
「ふえーん」
「泣いたふりしても駄目」
「はい」
分かってます、と彼女はクッションを握り締めて寝転がる。彼はぱたぱたとリボンを振って大尉と遊ぶ。わざと彼女に飛びかかるようにリボンをじゃらせば狙い通りに彼女の顔めがけて大尉は猛攻をかけた。
「ふぎゃ!!」
「あはは」
「ちょっと安室さん!」
「それが良くないんじゃないですか?」
「何がですか」
「僕のこと、名前で呼んでみたらいいんじゃないですか」
「それって関係あります?」
「人を騙すにはまず自分を騙さなきゃ駄目ですよ、信じ込むんです、僕のこと好きだって」
「信じ込まなくても好きですけど……」
大尉はうにゃうにゃと撫でまわされて喜んでるのか抗議なのかよく分からない声を上げる。大尉の首筋を匂いを吸いこんで、彼女は言う。
「……透?」
「…………」
「どうして黙るんですかあっ」
「いやつい」
彼がわしゃわしゃと彼女の頭を撫でる。彼女はまた大尉の首筋に顔を埋めた。また遊びたりない大尉は逃げ出してリボンの前で催促する。彼はひらひらとリボンを動かしてる。
「ほら、安室さんの番ですよ」
「透じゃないんですか」
「とーる、とーる、とーる、とーる」
「照れてるんですか。大体、僕、名前呼びじゃないですか、梓さんのこと」
「よ、呼び捨てで」
「梓?」
「ひえっ」
「ひえって……」
「うわーこわーい~鳥肌立った」
「酷い人だな……」
さすさすと二の腕を摩る彼女に向けて彼は片腕を広げる。じり、っと彼女が身構えると、
「ほら、自分騙さなきゃ」
「うえーん、怖いよう」
「何が怖いんですか」
「はいはい……」
やけくそのように彼女は彼に抱きつく。彼が片腕で抱き返して背をぽんぽんと叩いてやる。
「好きになれそうですか?」
「だーかーらぁ、うう、お嫁に行けない」
「ハグぐらいで大げさな」
「外国人じゃないんだからハグは挨拶じゃないですよ」
「だから、挨拶じゃないですって」
「――――好きな人とハグってやばくないですか?」
「やばい感じします?」
「透さんだなってかんじ」
「………なんで行き成り慣れたんです?」
「呼び名のこと?」
「そう」
「まあ透さんってかんじだなって」
抱きつくのは。彼女はへたーと凭れてくるので、彼はちょっと尻の位置を変えて安定するように姿勢を整える、片腕では大尉と遊んでいるので忙しさがある。
「安室じゃなくて?」
「ーー好きな人だと思えって言ったでしょ」
彼女は投げやりのまま、彼の膝の上にごろんと頭を預けた。恋人モードの彼女はそもそもこんな感じなのかもしれない。彼は彼女の髪に触れる、さらさらとしてて触り心地が良い、彼女は目を瞑っている。
「――梓、僕、仕事で数日留守にするんですけど」
「うん」
「来週の水曜日、朝四時に待ち合わせで」
「えっ朝四時」
「そう」
それ以外は仕事なので、と彼は言う。
「私も仕事なんですけど」
「水曜日は夕方まででしょ」
「朝から何するんですか」
「朝ごはん食べるんですよ」
「どこで?」
「いいとこで」
「仕事大変なんですか?」
「まあちょっと。シリアスな依頼が入って」
「大丈夫ですよ、無理しなくても」
「梓さんのことも依頼ですから」
「そんな重要でもないですよ」
「僕、完璧主義なので」
「そうでしたっけ?」
「そーなんです」
分かった、と彼女は頷く。
「どこで待ち合わせですか?」
「迎えに来ます」
彼女の掌がジーンズの腿をなぞった。
「無理しないで」
彼は足に触れる手を掴んだ。握りこんで動くのを阻止する。
「勿論」
嘘だ。

そして水曜日の朝四時。まだ外も明けきらず暗い。寝ている大尉の為に朝ごはんと水を用意してから彼女は部屋を出た。マンションの外で待っていると車がやってきて、停まった。
「おはようございます」
助手席の窓を開けて彼が言う。腕を伸ばして扉を開けて乗るように促されるので、彼女は乗りこんだ。
「わっ車で寝泊まりしてたんですか」
「そーです」
後部座席には毛布と着替えだか何だかの荷物が乗ってある。それでも、彼の身なりはきちんとしている。ネカフェでシャワー浴びたんです、と言う。彼女は目を丸くした。
「大変なんですねえ、お仕事。部屋で休んでいきますか?」
「いや、逆に車走らせていた方が元気になるので。付き合って下さい」
「それならいいんですけど……無茶せずに途中で休んでくださいよ」
「梓を載せているのに無茶しませんよ」
「………いつものように呼んでほしいのですけど」
「透って呼んで欲しいな」
語尾にハートマークをつけられて、彼女は少し笑った。
「眠気覚ましにからかってるんですか?」
「そうですよ」
「――透は性格が悪い」
「そう言わず。この時間の為に頑張ったんですから」
「偉いねえ、透は」
「心が籠ってないなあ」
「そうですねえ」
カーラジオも朝方の番組で、きれいめの音楽をゆっくりと流す。
合間のDJの話を聞きながら、車は高速道路を乗る。何処に行くか、彼女は聞いていない。彼は着けばわかるとしか言わない。
「いつも車で寝泊まりしてるんですか?この車だと目立ちません?」
「さあ、案外気には留められないですねえ。みんな、そんな興味ないですよ」
「そーいうもんですか?」
「道端なら目立ちますけど、パーキングに停めてたらね」
「誰かを見張りですか?」
「ま、そんな感じです」
「探偵って結構地味なんでしたっけ」
「毛利先生みたいなのは稀ですね」
「キッドみたいな怪盗とは対決しないんですか?」
「あれはコナンくんの専売特許ですから」
「すごいですもんねえ、コナンくん」
よく色んな事に気付くし、と彼女は窓の外を見詰める。ゆっくりと空が明けてきている。
「梓さん、寒くないですか?」
「大丈夫ですよ」
「後ろに上着あるので、使ってくれても」
「うーんと。じゃ、借りようかな。借りますね」
「気をつけて」
「は~い」
シートベルトが突っかかってるのでうまく取れないが、腕を伸ばして布を掴む。
「ひぎゃっ」
「どうしたんですか?」
「何で上着とパンツ一緒に押しこんでるんですか!?」
「そうでしたっけ?」
「そーいうとこ大らかなんですから~も~!!!!」
「お兄さんいるから平気でしょ」
「使用後だったら泣きますよ」
「潔癖症じゃないでしょうが」
「そーいう問題じゃないですよもー!!!」
ぺたぺたとバイ菌みたいに肩のあたりで拭われて、彼は笑った。
「牛になってますよ」
「なりますよもーーー!」
「人間パンツぐらい穿きますよ」
「穿いてなかったら困惑しますよ」
「僕、寝る時裸族ですよ」
「その情報、今いります?」
「妄想してください」
「何の為に!?」
彼が可笑しげに笑う、彼女は不意をついて彼の脇腹を擽った。
「ちょ、運転中に!」
「透のドライブテク信用してます」
お返しとばかりに語尾にハートマークをつけて返す、改めて彼女は上着を引きずって取り出した。
「長い道のりだった……」
「まだ着いてませんよ」
「上着まで!が!」
「パンツごときで大げさな」
「どうせ三日間くらい穿いてたやつなんじゃないですか」
「………」
「否定して!?」
「パンツで人間死にませんから、って上着匂わなくても」
「あ、良かった。いい匂いする」
「しませんよ」
「え、やばい臭いはしませんよ。あ、安室さんの匂いか」
「しませんよそれも。というかそれ、パンツの匂いじゃないですか?」
「やだーーーーーーー!!!!!!!!」
彼は弾けるように笑う。彼女は上着を彼に投げつけて怯える。失礼な、と彼は自分の上着を嗅ぐ。
「大丈夫、大丈夫」
「ええーもういいですよ、なんか叫んだら熱い……」
「朝から元気だなあ、梓は」
「絶対寝てないですよね、安室さんは!」
車は山間部を越えて、海へと出る。
漁港が見えてきた。
「ご飯って」
「そう、市場で食べようかと」
折角なんで、海を見ながら、と彼は言う。彼女は再び目を丸くして窓の外を眺めている。空はじんわり明るくなってきて、太陽が顔を見せようとしている。コンクリートで舗装された道を行き、奥まったところで車を止めて降りる。潮風が吹いて、鳥たちが騒ぎだしている。彼女は思い切り伸びをした。
「気持ちいーなー」
「ね」
「この辺り、温泉はないんですか?」
「入りたいですか?」
「安室さんも休めるでしょ」
「本音は?」
「仕事行きたくなーい」
行きますけど、と彼女は笑う。
漁港の傍の建物へ彼が足を向ける、二階建の食堂と看板が立っている。暖簾をくぐって中へ入る、何人か客がいて、案外と若い人もいる。テーブルはべたべたしていて、椅子はがたがた不安定だ。それが面白くて座ろうとする彼女を彼が止める、お持ち帰りで今日獲れた魚の盛り合わせの丼とあおさ汁を頼み、トレーごと預かって外へ出る。よく見れば建物の外には海に面してベンチがあり、彼が座るように促した。
「よく来るんですか?」
「一度か二度か……しょっちゅう来るわけではないですよ」
「へえ……」
「じゃ、食べましょう」
「はい、いただきます~!」
豪快な盛り付けの刺身はどれも煌めいていてまだ海水の味が仄かに残る。それを甘めの味付けのタレがかかっていて、刺身の甘さを引き立てる。
「あ、写真撮らなくていいんですか?」
「あ、もう食べちゃった……」
まあいいか、と彼女は彼と海が背景になるように、丼をふたつ映す。
「これでよし」
「久しぶりにまともなご飯ですよ」
「何食べてたんですか?」
「最中はあんまり食べないんですよね」
「そっかー。そんな頑張ってる透におすそわけ」
「ってわさびじゃないですか」
「嘘嘘、はい、どうぞ」
「有難うございます」
「安室さんの奢りですけど」
「そこは気になさらず」
「美味しいねえ」
「美味しいですねえ」
気付けば言葉少なくなり、彼と彼女は丼とあおさ汁を平らげる。
その間に太陽は昇っていて、二人して気付くのが遅れたと笑った。出勤に間に合わなくなるまで、あてのないことを話して、車に乗り込んだ。早朝の静けさは生活が匂う朝のあわただしさに移り変わっている、皆が目覚めた雰囲気がしていた、空のまばゆさと共に。その一帯の朝を置いて行くように車は走り出す、旅した土地を離れるような淋しさに彼女は目を細める。
「安室さんはこの後も仕事ですか?」
「ええ、別件ですが」
「頑張ってくださいね」
「はい、梓さんと美味しいもの食べたので頑張れそうです」
「うん、私も今日頑張れそう。今日っていうか、明日とかも頑張れる」
有難うと彼女が微笑む。彼も横顔で微笑んだ、ゆっくりと車は米花町へ向かっている。忘れないように、とSNSに上げた写真はまた一部で騒ぎとなり、問わずとも二人は付き合ってるのだ、という事実は決定的になったが、とりあえずはご飯が美味しかったという事実だけで彼女は当面満足してしまった。



004

店の客が微妙に生ぬるい視線で二人を見やる、からかうような言葉も投げられて、過激なファンの嫌がらせも無事届いた。彼女は噺家のようにぱぱんとテーブルを叩く。彼は大尉を膝の上に乗せながら見る。
「この地位も盤石のものとなりまして」
「ほう」
「いよいよ、私が安室さんに盛大に振られる時ですよ」
「そんな嬉しそうに振られる人初めて見ました」
「店長には許可を取りまして」
「許可?」
「ひとつここはポアロで盛大に振って頂こうかと」
「………店長はなんと?」
「面白そうだからいいよ、と」
どういうシチュエーションがいいと思いますかと尋ねられて、彼は首を振る。
「お任せします」
「台本書くのも大変なんですよ!」
「書いてるんですか」
「少女漫画などを参考にして」
彼は腕を伸ばして積み上げられてるノートを手に取った。彼女がひぎゃと悲鳴を上げて奪いとろうとするが、簡単に制圧して、ノートを開く。
「この泥棒猫!……って」
「まだ構想段階なんですよ、しょーがないじゃないですか、理想の振られ方と考えて見ても」
「うーん、普通にSNSの全写真消して、一人で生きてく。とか呟いたらいいんじゃないですか?」
「それだとインパクトが足りないじゃないですか」
「インパクトねえ……」
少女漫画などから採取したらしい別れ方のサンプルを集めている辺り、研究熱心である。
「梓さんはどうやって別れたら嬉しいですか?」
「こう暗い雰囲気の店でムーディな音楽が流れていて、バーテンがシェイカー振ってるんですよ」
「ポアロですよね?」
「まあそれは置いといて。―――はじめて一緒に見た映画覚えてる? ああ、覚えてるよ、初デートだったのに何故か別れの映画見ちゃって、少し気まずかったわよね、なんて」
「はあ」
「あなたはあの男は馬鹿だって、僕なら手を離したりなんかしない、――って。それは今も同じ?って言うんですけど、それじゃ安室さんは、ああ、今でも同じ気持ちだよ、それはずっと変わらない、でも、君の手が遠い……」
「ほう」
「私はそれで、違うわ、遠ざかったのはあなたの方、変わってしまったのはあなたなのよ、って。そしたら安室さんは、そんなことない、僕は変わらないって。変わってなんかいない、君の方が離れて行ったんだ、って。私はそっと席を立って、月と地球の距離も変わり続けてるのよ……って。一人になった安室さんにバーテンが、そっとマティーニを出すんですよ………今夜は静かな夜ですねって。どうです?」
「お酒呑みたいですね」
「そうじゃなくてーーーーっ」
「梓さんが梓さんじゃないじゃないですか」
「それはいいんですよ、理想ですから」
「不思議な乙女の夢ですね」
「そして安室さんはずっと私の事忘れられないんですよう」
ふふふと笑ってる彼女の頬を彼は片手で掴んで挟んだ。
「にゃにしゅるんふんすか」
「大人を学びに行きましょう」
「にゃだ」
「オッケーですか、それはいい」
「いっへへない、いっへへない!!!」
「大尉、留守番頼んだよ」
彼が促すと大尉はやれやれと言いたげに膝から降りて彼女のベッドの枕もとに丸まった。抗議する彼女をひょいと彼は担ぎあげて部屋を出て、さっさと車に押し込んだ。慣れた人浚いは実に華麗だったと、偶然見かけた近所の人が言ったが証言はどこにも残らなかった。

「……何なんですかここ」
「服屋ですけど」
「……いや……」
そうじゃなくて、と彼女はカーテンの向こうの彼に抗議する。何だかよく分からないまま抗議を無視されて連れて来られた店はやけにグレードの高い店で、お待ちしていました、とばかりに美しい店員が迎えて彼女の身体ののサイズを計り、ドレスと共に別の部屋に押し込んだ。多分フィッティングルームという方が正しい、が、どうだろう、色々されたがもうほとんど無になった彼女はなすがままになった、適応能力は高い方だ。そうでなくては生きていけない。髪もアップされて、ドレスの袖に腕を通し、背中のチャックを上げられて、ぐっと肉体が引き締まった。いつになく背筋が伸びる。渡されたアクセサリーをつけようとするが、うまくいかなかった。店員を呼んだがそれは彼の出番とばかりに、カーテンが開いた。彼女は後ろ向きで項垂れている。
「ほら、しゃんとしてください」
「そうは言っても……」
彼の手が首前から後ろに引く。ホックを止める僅かな動きが背中で感じられるということは、結構開いている。背中が。
「ぎゃっ!?」
彼女が潰された声を上げたのは、唐突に噛まれたからだ。
かなり、思い切り。
肩からのラインだ。
「もー!!???いいいいったい何です……か……」
怒鳴るつもりで振りかえり、髪を後ろに流して、洒落たスーツを着こなす彼があまりに堂に入っていたので彼女は言葉を失った。
「ひえ……」
「そこでどうして逃げるんですか……」
「こわ……」
「褒めるところじゃないんですか?」
「似合いすぎててちょっと」
現実の担当じゃないので、と彼女がわけのわからないことを言うので、彼は彼女を鏡の前で立たせた。ドレスアップした自分を見て彼女はひんと泣いた。
「えええ………ほらもう、マスカラ取れるじゃないですか」
「今から何処に行くんですか?」
「大丈夫、売り飛ばしには行きませんよ、ほら、可愛いんだから、泣かない」
「ううう……」
べそべそ彼女が泣くので、彼はとうとう笑った。店員が呼ばれて、彼女はメイクの手直しをされる。彼女の瞳の色に合わせたドレスはぴったりとタイトで、首元は詰まってるが、背中は大きく開いていた。足も出過ぎていないのは彼の配慮が見えたが、彼女がべそ掻く子どもの顔のままなので、笑い続ける彼が言うところには政治家のパーティーがあるらしい。ちょっと野暮用で関わったことがあるから、顔を出しに行くだけだと言う。
「だったら私を連れていかなくても」
「大人の汚い世界をお見せしますよ」
「既に安室さんが汚い手を使ったので」
「僕は案外ヒーローですよ」
「ただの人浚いですよう」
「よしよし、良い子にしてたら美味しいもの食べさせてあげますから」
「やだ~帰る~~」
「はいはい、もう着きますよ」
会場のホテルは店から近かった。車を係に預けて彼がエスコートする。彼女はおずおずとその腕を掴んだ、彼が位置の修正をして笑ってから、ホールへ着く。中々盛大なパーティだった。
「政治家の人ってお金持ちなんですねえ」
「きれいなお金じゃないですけどね」
「野暮用って何ですか?」
「知らない方がいいですよ」
ほら、あそこ。あの二人は不倫してまして、と彼が話す。ボーイから飲み物を貰い、よくわからない味のするシャンパンを飲みながら彼女は頷く。例えば警備の人と恋に落ちる夫人とか秘書と遊んでいるどこぞの社長とか、欲まみれの内情を聞かされて、彼女は辟易する。
「折角きれいなドレスを着たのに」
「あれ、機嫌直ったんですか」
「透が意地悪なことばかり言うから」
「梓の反応が面白くて」
「安室さんはやっぱり意地悪だなー」
「僕の方が振られそうですね」
「で、ここに居る会場の誰と遊んだんですか?」
「失礼な。僕は盛りのついた猫じゃありませんから」
「大尉に対する暴言は控えて頂きたい」
「これは失礼」
おや、可愛いカップルだ、と主催が彼に気付いて声をかける。彼に何やら目配せして二人は何かを伝えあった、これが汚い大人の世界か、と思いながら自分を見られてることに気付いて、彼女は微笑んだ。
「少しこの方とお話があるので」
彼が言う。
「ああ、はい。それじゃ」
頷いて、彼女は一旦壁ぎわへ行く。
立食パーティでどの料理も高級そうに見えるが食欲は湧かなかった。
「君は案外独占欲が強いね」
主催の男は笑った、ぼんやりといかにも暇そうな彼女を見て言う。
「あの歯型、そう易々とは近づけないよ」
「戯れですよ、さして意味はありません」
彼は笑う、主催の男はそうかと肩を竦めて、それから仕事の話を始めた。
何やらどう見ても悪だくみをしているような彼と主催の男の様子を見て、彼女はカクテルを飲んだ。トロピカルフルーツの味のする、甘ったるい酒だった。デザート代わりなのかもしれない。他のカクテルも手にとって飲む、ミントが強いすっきりとする味だった、これはこれで面白いのかもしれない。もう一杯と、更に手を伸ばそうとすると、彼が戻って来て、邪魔をした。
「帰りますよ」
「早く脱ぎたいです」
「いいですよ、部屋を取っても」
「そういう意味じゃないですう」
「分かってますって。僕にもここは合いませんから、さっさとジャージでも着ましょう」
「安室さんジャージ着ないでしょ」
「生きてるんだから着ますよ」
どういう理屈なのか分からなかった、店に戻らなくていいのかと言うと大丈夫だと頷く。車の中に戻るとむわっと色んな匂いがまとわりついてるのが分かった。彼女は窓を開ける、車は爽快に走り出している。
「汚い大人って退屈ですね」
「ほんとにね」
「安室さんも汚い大人なんでしょ」
「少女みたいなことを言いますね」
「まだ23歳ですから」
「成人はしてるでしょ」
「ピーターパンはもう来ないですよ、王子様も」
「どこかに連れて行かれたいんですか」
はい、と頷いてしまえばこのまま何処かに連れていかれてしまいそうな気がした。
彼女は開けたままの窓から外を眺めている。
「ドレス、よくお似合いですよ」
「有難うございます」
「本当に。とても綺麗だ」
「安室さんもかっこいいですよ、探偵にも店員にも見えない」
「じゃあ、何に見えます?」
「悪い大人」
「僕もまだ29歳ですよ」
「お肉ですもんね」
「贅肉はそんなついてないですけど」
彼女は笑う、夜景が見える、きらきらしているがどこか遠い。儚くも見えて、不確かだ。幻想の海のようだ。星が堕ちてもこうはならない。
「帰りましょう、うちに」
彼女は疲れている。
彼は彼女の頬に触れた。
振りむいた彼女の唇をなぞって、笑った。
「いいですね、失恋してくれる女性というのも」
「安室透が酷い男だからですよ」
「確かに」
「ね。酷い男ですよ」
彼女は冗談のように転がして、笑った。
「だから惹かれるんでしょうね」
「ーー窓」
「え?」
「閉めてください、風が、煩くて」
「ああ、すいません」
彼女は窓を閉める。
特有のエンジン音が響き、それ以外は静かになり、彼女は目を瞑った。緩く眠りに落ちる瞬間に、写真を撮ってないことを思い出したが、もうそれはどうでもいいような気がした。



005

さていよいよ今日が彼に振られる日だ。
彼女はちゃんと計画を練ったけど彼が全部没にした。
アドリブでやりますからついてきてくださいと。彼女が演技をしたことがあるのは文化祭のロミオとジュリエット以来だ、名もないモブをやった記憶がある、後は兄の事件で刑事をまいた時ぐらいだ、それぐらいしかない、と言うと十分です、と心強い返事がきたので、彼女は安心して働いていた。
昼の忙しい時だと色々と大変ですので、落ち着いた頃に行きますね、と言われている。そろそろだろうと思う。店長もわざわざ顔を出して、まだかまだかと待っている。かなりワクワクしている様子にはそれはそれでちょっと腹が立つ。何かあっても多分フォローしてくれると思うから安心ではあるのだけど。
そんな彼女も浮き足が立ちすぎて、色んな失敗をしまくった、お皿を割らなかっただけマシだが、客には昨日彼氏と喧嘩したのかいと揶揄られる。良い兆候だ。
振られるにはいい天気だ。それもどうかと思う。
自分が結構混乱していることに、彼女は気付いた。
混乱。

カウベルが鳴った。
「いらっしゃいませ」
と、言ってから訪れたのが彼だと気付いた。
彼と彼女の関係を知る客がちょっとざわめきたつ。彼の雰囲気がいつもと違うので彼女も結構戸惑った、もっと目とか表情で何かしら合図してくれるものだと思った。とにかく何か言わなくては、と彼女は焦って彼の元へ行く。

「――安室さん、今日はシフト入って、」
ーーないですよ、の声は彼の咥内に消えた。
ざわめきは打って変わって波を打ったように静かになった。
仕方ない、唇と唇が重なったのだ、喋る動きを封じて彼が彼女を捉える。
たっぷり三分した。長い。長いというか、彼女は混乱した。混乱したので動けず、痛いほどの視線を浴びた。その時呼吸できていたのか、彼女は覚えていない、何を覚えているかって?彼の唇の柔らかさだけだ。

「あ、むろーーさん」
彼は一言こう言う。
「―――さよなら」

彼女は面食らった。驚きすぎて何も言えなかった。
振られるってこういうこと?どういうこと?舌が張りついて声を出せない間に彼は静かに店を出た。扉が閉まる音を合図にしてよくわからない歓声が沸いた。どういうこと。

「……梓ちゃん」
「店長」
店長は扉の向こうを示した。
「え」
「走れ!ゴー!!!」
咄嗟に彼女は走り出した、歓声がどっと沸いた。だからどういうこと。そもそも、さよならってどういうこと。振られる芝居、芝居なのか、もよくわからなくて、彼女は混乱した。何処に走っていけばいのかも分からなくて、彼女は叫んだ。
「安室さーん!!!安室さーん!!!!」
迷子でも探すように呼びながら彼女は走った。
頭はまだ追いついていなかったが、ここで見失ったらもう二度と会えない気がした。気だけだ、何の理由もない。彼女は安室さん、と呼びながら走る。
「安室透ー!!!!!肉の歳のー!!!!!」
肉?と通行人が振りむく。肉だ。おう、29歳の、悪い大人の、安室透だ。
「探偵の安室さーーん!!!!!毛利さんの弟子のー!!!!!」
あと何だっけ。
「思ったより意地悪で、美味しいもの食べるの好きな安室さーん!!!!」
彼女は走る。
あと。
あと。

「安室さーーん!!!!!!パンツは一日で穿きかえてー!!!!!!駄目ですよ、三日連続はー!!!!駄目ですよー!!!!!安室さーーーん!!!!汚い大人はパンツが汚いわけじゃないんですよおおおおお!!!!!!!」

叫んで、彼女ははあっと息を吐く。一体彼がどこに行くのかも見当がつかない。
来てもらわないと分からない。視界が滲んだ。泣いている場合じゃない。
彼女は目元を拭い、やはり叫ぶ。

「安室さーーーーん!!!!!!!」
「パンツは穿きかえてますよ」
「ぎゃあ!」
背後から聞こえてきて彼女は悲鳴を上げる。
のけぞる彼女はそのままたたらを踏んで、転びかける。力強い腕が彼女を支える。

「………安室さん……」
「アドリブ、ですよ」
「………嘘だあ」
「まあ、嘘ですけど」
「どこまでが!?」
「あーほらほら汚い顔して……」
べそべそと泣きまくる彼女が鼻水もたらすので彼は笑ってシャツで拭ってやる。
「23歳でしょ、子どもじゃないんですから」
「うう、安室さんに比べたら子どもですよお」
「そうみたいだ」
「さよならって何ですか!!!!」
「振れって言うから」
「失恋と離別は違うんですよ!」
「大体一緒じゃないですか」
「どういう恋してきたんですか……!!」
彼女が泣きながら怒るのでますます彼は笑う。道端で泣き喚く女と笑う男の図は奇妙で通行人が視線を注ぐ。彼女を落ち着ける意味を込めて彼は少し細い道に入った。
「依頼は果たせたと思うんですけど」
「大体前金しか払ってないですよっ」
「成功報酬を貰うとは契約してないですから」
「ちゃんと読んでないんですもんっ」
「読まなきゃ駄目ですよ、契約書って言うのは小さい文字の文章まで」
「今その説教いります!?」
「全然」
憤懣やるかたない彼女が彼をべしべしと叩く。
「だっ、もう、な、」
「呼吸できてます?はい、吸って吐いて」
「安室さんがむかつくことしかわからない……」
「何だ、冷静じゃないですか」
「おちょくって楽しいですか!?」
「大分」
彼女は思い切り彼の胸板を叩く。
「……痛い………」
「鍛えてるので……」
「面倒臭い人だなあもう!!」
彼はふと困ったように微笑んだ、彼女を抱きよせる、強い腕の拘束は彼女の反乱を許さなかった。深く深く抱き締めて、彼は途方に暮れたようだった。
「僕、多分、いつかさよならすると思うんです、本当に」
「今じゃないならいいですよ!!!!」
「そういうものですか」
「そういうものですよ、こんな、わけのわからないまま、だって何の為に!?」
付き合って、と言いかけて彼女はそれが振りだと気付いた。
彼女が彼に依頼したことだ。
彼女は雇用主で、彼は探偵だ、何の仕事も選ばない。
「………そんな泣いてると干からびますよ」
「だって、」
彼女は言葉を絞り出した。
「――失恋したら人は泣くんですよ」
彼は彼女の前髪を掻きあげるようにして、額にキスをした。べろりと眼球を舐める。
彼女がひっと息を飲む。彼は笑った。
「アドリブってうまくいきませんね」
「私の計画を没にするからですよ」
「僕の計画も没にされましたよ」
「どうして」
「だって、失恋と離別は別なんでしょう?」
「―――そうですよ、そうですよ、別に今じゃなくてもいいじゃないですか」
「――参ったな」
「何が」
「今じゃなかったらいつがいいんです?」
「私がいいと言うまでですよ!!!」
「………」
ふは、と彼は噴出した。
「そういうこと言います?」
「何がですか、じゃあいくら払えばいいんですかあ!」
「お金で愛は買えないんですよ」
「じゃあ、私で」
「私、で?」
「物々交換ですよ!」
彼はいよいよ堪らなくなったように声をあげて笑い始めた。全身が震えてる、彼女は怒り心頭に達して彼をぼかすか殴った、いくら殴っても彼は痛がりもせずに、ただ笑っている。
「クソ男!!!」
「いいですね、それ、もっと言ってください」
「ひえっ」
「はいはい、変態じゃないですから」
「変態ですよ……ほんとすごく変態」
「まだ何もしていないのに」
「鳥肌が立った」
さっき目を舐めた、と今度は警戒心を露わにする彼女が後ずさるのを彼は許さない。ゼロの距離にして、再び抱きしめた。
「はい、じゃ、帰りますか」
「どこに!?」
「ポアロですよ、まだ仕事中じゃないですか」
「……やだー恥ずかしいーっ」
「今更じゃないですか、元々僕に振られる予定だったし」
「あんな、き、キスすることないじゃないですか!」
「ロマンチックだったでしょ、マティーニは出ませんでしたけど」
「うううう」
「自業自得ですよ」
「大体安室さんが……っ」
「僕が?」
彼は何のことだと言うような顔をする。そもそもこの顔がよくないわけで、この顔がイケメンすぎるから彼女は色々気苦労を負ったのだ、一体なんて顔だ。はぐっと彼女は彼の頬に噛みついた。うわ、と流石に彼も驚いた。めちゃくちゃに髪の毛を掻きまわして、飛びかかるように彼の顔に奇襲をかける。彼が危機と察して頭にしがみつく彼女を確保する、彼女は憎らしげに彼の唇に貪った。

「……っ」

最後に彼の唇を噛みきって、彼女はふっと勝ち誇ったように笑う。
彼は引き攣った笑みで唇を拭う。

「思ったより……」
「降参しますか」
「いえ、燃えてきました」
「うわ……」
「責任取って貰いますよ」
「望むところですよ」
視線が混じった。
惹かれあうようにまたキスをした、まだここが道路だったのは幸いした、二人は理性がある内にポアロに戻り、盛大な歓迎を受ける。



囃したてられてる彼女を人身御供にして彼は一枚の紙を取りだした、店長が気付いて目で問うが彼は笑ってその紙で飛行機を作った。屋上がいいよ、と言われて彼はそっと抜け出しビルの屋上に上がった。丁度いい風が吹いて彼は紙飛行機を飛ばした。彼が逃げたのを悟って店長が彼女に居場所を告げて、彼女が追いかけに来るまでもう少し時間がある。

彼はこれからのことを考えた。
これからのことを。



<strong>あなたの大好きなもの</strong>

もぞもぞと梓が落ち着かなさ気に足元をそわつかせて、安室は普通に促す、
「トイレなら今のうちに」
「じゃなくって」
じゃなくって。
「靴下に穴が空いてたの、忘れてて」
「ああ」
「防御力が落ちてる気がします」
「防御力」
「分かります?」
「まあ、少しぐらいは」
失敗したなあもう、と梓は溜息を吐いて、仕事終わったら買いに行こう!と高らかに宣言して、今日は残業しませんとのことなので、安室は分かりましたと頷いた。

三足千円の靴下を買う人間はお金がたまらないらしい。
安室は引き出しから白の靴下を選んで履いた。今日は部下の葬式で、公安の刑事は仕事の内容を家族にも明かせないから仮の身分であった企業勤めの同僚の振りをして参列する、黒のネクタイを締めて、本当は靴下だって黒がいいのだが、クロよりシロの方がいいに決まっている、安室の外見は目立つから今日だけスプレーで黒染めをして分厚いレンズの眼鏡をかけた。安室のアパートですることじゃないが、安室の選んだ道だった。彼は綺麗に磨いた革靴を取りだし、再度磨いてから靴ベラを使って履いた。
道の途中で風見と合流し、風見が無論上司の役で安室はその部下の役割だ。
夫の死を事故だと信じている妻に頭を下げて、列に紛れ込む、他の公安の姿は居なかった。皆、それぞれ役割を全うしている。参列する知人や友人、親戚家族の顔などをそっと見渡した、亡くなった部下によく似た面差しの、老いた男が父親で、その隣に並ぶ女が母親だろう、親不孝の死を憤り、悲劇に嘆いていた。仮の身分で、心ばかりは素直に向き合い、しかしして亡くなった部下は安室の顔を知らないから、もしこの場に居たら今更ながらこいつがゼロなのかと思うのだろう、いやそれすらも見分けがつかないのかもしれない。
色黒の陰気な男にひそめく声がして、安室は静かに頭を下げて、一番後ろに座った。風見は前の方に座っている。生真面目な男の背中が時折、震えていた。

読経は実に巧くて、その朗々とした響きが、唯一の救いのように思えた。
式場を出て、風見と別れ、安室は一人になって黒髪のまま街に紛れようと思ったが、しみついた線香の匂いと悲しみの匂いがスーツから離れて行かず、コンビニでビールを買って具合のいいベンチに腰掛ける。安室だって酒を飲む、降谷でもある、バーボンかもしれない、どれでもいい。三面の仏を阿修羅と言う。禁酒の神でもあるらしいが、安室は神ではないので、不問である。葬式で貰った清めの塩をつまみにして、ビールをぐいぐいと飲む。薄い曇りの日で、雲の分厚さによって太陽が差し込む。

昼間から酒を飲む、抹香臭いスーツの男に誰も視線を寄こさない。巡回中の警察がちらと視線を向けたが、昼間から酒を飲む男はいくらでも居るので、すーっと自転車は通り過ぎる。清めの塩が腹で蠢いてただれた臓腑を焼きつくようだった、腹の黒さをこらしめるような密かな鈍痛は精神的によるものだ。

足を組むと、スーツの裾から白い靴下が見えて、ふと徐に靴を脱いで、靴下が白いことを確かめた。つるりと踵を撫ぜて、防御力の話を思い出す。榎本梓に会いたいような心地がして、会ってどうするのだという気もした。昼間から酒を呑み、髪も黒い。ろくでなしになりたいような気分で、たまの自嘲も許されたい。

完璧など退屈と同義語だ。
少し眠ったら夢を見た。
でも、起きたら忘れていた。

安室のアパートに帰って一式脱ぎ、髪のスプレーも洗って落とす。全裸でフローリングに寝そべって、幽霊となった部下に叱咤された気がしたが、それはあくまでも幻聴なので、無視してもいい。どうせ、仇はとってやるのだ、何としても。部下の遺体から証拠を採取した、手下がDNA検索で見つかり、あとは芋を掘るだけで、スコップを探して風見が動いている、穴を掘るなら犬に限る。誰も花を咲かせる老人にはなれない。所詮は犬だ。

ゆっくりと服を着て、襞が戻ってきた感覚がする、透明な鎧をまとわせて、新しい靴下を履く。本を一冊手に持って、安室は家を出た。気付けば夕暮れの道を、散歩する足取りで気ままに歩く。ポアロについて扉を開けると、いらっしゃいませと明るい声がして、彼女は彼を見て、目を丸くして笑った。

「どうしたんです?休みの日に来るなんて」
「ちょっと本を読みに」
「なるほど、好きな席どうぞ」
「有難うございます」
「コーヒーでいいですか?」
「はい、お願いします」
梓は笑った。
「安室さん、何かいいことありました?」
「そう見えます?」
「何だか楽しそうなので」
「さあ、多分、新しい靴下を履いているので」
「ああ、それは防御力高いですね」
「でしょう」

安室はカウンターの席について、梓がコーヒーを淹れてくれるを本を読む振りして眺めていた。良い香りだ。いつものポアロ特製ブレンドの良い匂い。

「梓さん、仕事終わったら、空いてます?」
「え?はあ、まあ家に帰るだけですけど」
「良かったら、夕飯一緒にどうですか」

梓は考えるふりして、言う。

「コーヒー飲んだあとで、仕事を手伝ってくれるなら」
どうです、と持ちかけられて安室は笑う。
「分かりました、でもゆっくり飲ませてくださいね」
「勿論です、その間はお客さんですから」
あら、と梓が瞬いて、安室の髪に触れる。
「何だか黒いものが。あれ、落ちないな」
「大丈夫です、洗ったら落ちますから」
「そうですか?」
「はい」
安室はコーヒーカップを手に取り、一口飲んだ。
「ああ、美味しいなあ」
梓は、当然です、と胸を張り、本当にゆっくりしてくださいね、と告げて仕事に戻る。安室は自分の後頭部を撫でやって、その黒いものがスプレーの染料か、別の何かによるものか考えたが、何せ靴下が新品なので大丈夫だろうという考えに思い至った。

嗚呼、今日も良い日だ。





BLUELIGHTS



第一部 裸の王様

「どうして恋に落ちないんでしょうね」
「落ちるものだからじゃないですか?」
「そーいうものですか」
「そーいうものですよ」

彼の周りにはぽこぽこ穴が空いていて、穴の空いたチーズみたいだ。色んな人がその穴に片足を取られて、ある人は喜び、ある人は悔いているように思う。みな、チーズを齧りながら、己の不徳のいたすところを楽しんでるし、絶望している、ままならない恋の動きは根本的に制御不可能で、故にあらゆる物語が作られてきた。好きな人ぐらい彼女にも出来るし、恋ぐらいしたことだってあるけれど、彼女にとって彼は美味しいチーズなのではなく、見て分かるようなすっぱい葡萄だった。ましてや彼女は狐でもなかった。

老いも若きも彼をかっこいいと言う。老いた身にときめきた少女の恋は時に慎ましく、激しく、若き身にときめいた少女の恋は時に苛烈で、忍んでいた。好意を向けられることになれた風なその丁寧さと穏やかさが、安心して恋に落ちれるような装置であり、同時になんとしてでも手に入らぬことを示している。

安室ファンを自称する老いた少女の三橋が、ああ、羨ましいと嘆くのだ。
「私がもう少し若かったらこの店の看板娘となって、彼と働くのに」
「三橋さんは十分お若いですよう」
「んーま!せめてねえ……一度だけでもデートしてみたいものだわ、せめて、せめて、それが無理なら一緒にカウンターに並びたい」
そうやって、普通に一緒に居たいものだわ。
「まあもし私が安室さんの事好きなら」
「なあに」
「毎日店に会いに来れる方がいいと思いますけど。同僚なんて、どうにもできませんよう」
「そう?そうかしら?だって一緒に働いていれば偶然手が触れ合ったり、目があったり、ましてや笑いかけられたりなんてするでしょう」
「安室さんは公平で平等な人ですよ」
「そーう?絶対二人だけの秘密とかあるんじゃないかしら」
じとーと向けられる半眼に彼女は引き攣って笑う、シフトに入っていた彼が急遽休みとなったので、どうにも気分が収まらないらしい。
「まーまー次のシフトには来てくれますよ」
「店長もどうして安室さんを毎日働かせてくれないのかしら」
「まあまあ、どうです?コーヒーのお代わりは」
「まあ、頂こうかしら」
「のんびりしてください、たまに遅刻して来ますから」
「そうなの?」
「休む、って連絡しても、間に合ったのでって、来ることもありますよ」
大体の場合、全然間に合ってないのだが。
三橋は微かに見えた希望に顔を輝かせて、コーヒーまだかしら、と微笑む。彼女は少し笑って、はい、ただいまとカップを差し出した。



閉店後、彼女は待ち伏せされていた。見たところ帝丹高校の女子学生で、彼女を見る顔は真剣だ。他に連れはいないようで一人だったことに少し安堵した。手は防犯ブザーにかけたままだったけれど。
「すみません、もう今日は閉店で」
「あの、聞きたいことがあるんです」
「はい、何でしょう」
通行人が通り過ぎて、高校生は緊張しきった眼差しをくれやった。追い詰められた小型犬のような態度が可哀想で、彼女は近くの公園まで行くのを提案した。高校生は頷いた。足早に俯く高校生は長野と名乗った。彼女が名乗ると知ってます、と言う。
「安室さんの同僚」
いつからだろう、彼の同僚として覚えられるようになったのは。
公園の手前で意を決したように、長野は振り向いた。
「榎本さんは、安室さんとは付き合ってないんですよね」
「はい」
「本当に?」
「嘘をついてどうするんですか」
「でも、」
彼女は上着のポケットから写真を取りだした。
「こんなに、仲が良いじゃないですか?」
ごくごく普通に店で働いている写真だ。
彼は写真に気付いているようで、少し目線が合う。
自分は呑気に食器を磨いている。
「これが?」
「はい」
「どうしてですか?」
「だって……うまくいえないけど、そんな感じするから……」
何故、長野は泣きそうなのだろう。
寧ろ彼女の口から出るのを待っているようだ、
安室のことが好きで、彼と付き合っています、という言葉が。
それを聞いたら救われるのに、という口ぶりだ。
彼女もふと泣きそうになった。

恋がどういうものか知っている、彼女に怒る少女たちは怒る一方で願っているようだ。こんな途方もない片思いから解放させて欲しい、と。憧れだけで満足する人もいる、恋をしている事実を楽しむ人もいる、でも、時々いる、こんな風に苦しむ人が。熱病にうなされる、奔放される衝動を、対岸の火事のように彼女は見詰めている。

「長野さん、私は安室さんとは何でもないんです、ただの同僚です」

だから。
結局自分でケリをつけるしかないのだ。
長野は顔を歪ませた、皺のない肌に刻み込まれる皺を彼女は美しいと思った。
同時に、彼を罪つくりな人だと思った。

「羨ましい……」
妬ましい。
「どうして何も思わず一緒にいられるんですか」
それだけが、まるで、安室の隣に居られることの、唯一の特権みたいだ。
その特権を持つ女が、眼前に居る憎しみを長野は眼差しで明瞭に向けた。
突き刺す痛みに、彼女はそうするしかないみたいに笑い、まだ持っていた写真を差し出す。

「気をつけて、帰ってね。もう、夜も遅いから、なるべく明るい道を通って」
長野は写真を受け取らなかった。
そのまま、駆けて去って行く。

「………別に何も思わないわけじゃないんだけどなあ」
例えば一緒に居て楽しいとか。
面白いなあとか。
落ち着くなあとか。
変わってるなあとか。
身体大丈夫かなあとか。
今日も元気かなあとか。

彼女は消耗して、その日は帰宅するなり早めに寝た。
翌朝、開店準備に出勤すると、彼が出ていて、彼女を見てあれと目を丸くする。

「おはようございます、メール見られませんでした?」
電話にも出られなかったので、と言う。
彼女は瞬いて、携帯を確認する。
彼からの着信と、メール。確認すると、昨日の欠勤の代わりに今日は出るという旨と、店長確認も取ったことが書いてあった。彼女はちょっと脱力した。
「ごめんなさい、昨日疲れてて」
「本当にすみませんでした」
「いや、仕事じゃなくて……まあ、色々あって」
「そうですか……そうだ、丁度、コーヒー淹れたので。良かったら」
「あ、有難う~。頂こうかな」
「是非」
彼は笑う。
彼女は上着のポケットにゆうべの写真が入ってることに気付く。
「安室さん、これあげる」
「え? 写真ですか……」
「そう、写真」
カウンター席に座って彼女は出されたコーヒーを飲む。
彼は思慮深く写真を手に取り、見詰めていた。
「ねえ、安室さん」
「はい」
「付き合おうっか」
「コスドコですか?」
「ううん、男女交際の方」
「不純異性交遊の方ですか」
「そうそう」
彼はちょっと彼女を見る。
「いいですよ」
「いいのかあ~~……」
「駄目でした?」
「うーん、まあ、しょうがないね……付き合うしかないね……」
彼女があんまりにも不承不承だったので、彼は笑った。
「そんなこと言わず、宜しくお願いします」
「はい、こちらこそ」
差し出された手を彼女は握る。
「一応、来ちゃったのでモーニングだけ手伝います」
「助かります」
「給料は安室さんのを貰いますね」
「それは困りますね」
「ははは」
コーヒーは美味しかった。
それこそが特権なのだと人は言う。
でも、持ってるから困るのならば、捨てればいいだけで、何も知らないのか、わざとなのか、賢いなのか、馬鹿なのか、鈍いのか、敏すぎるのか、彼は彼女が渡した写真をボードに貼り付けた。

仮初の王冠みたいに。
写真の二人の視線は別の方向を向いている。



第二部 林檎を齧ったら捨ててしまおう

彼が彼女に付き合おうと言われた時に感じたのは愛の告白というよりも、選ばれし勇者が魔王を倒す運命を覚悟した時のような感じだった。何も彼が勇者なのではなく、彼女が勇者で自分が魔王と言ったところだ。いつか言われる気もしたし、ずっと言われないだろうなという言葉でもあった。彼は自分に自覚的であるし、周囲の動向ともそれとなく把握している、他人の評価は自己に影響を及ばず、彼の内面は残酷であったが、それは彼自身の責任というのも無論否定できないが、少なからず同情の余地はある人生だった、彼は魔王になってしまった、彼女が向き合うところの。

付き合うに辺り、彼らは幾つか決めた。店以外の連絡を彼女から彼にしないこと、連絡は彼の一存によるもの、でも一日一度はメールすること、これはおはようとかスタンプでもよかった、付き合うことを公言しないこと、でも微妙にされる質問の答えを変化させた、敏感な人は気付いた、が、それだけであった、二人は大体付き合う前から付き合うことと同じことをしていたので、付き合ったあとでもさしたる変化はなかった、手は握ったが、抱きあうことはなかった、たまに彼の家に彼女が来て、彼がご飯を作った、彼女は猫がいるので夜遅くには帰った、デートはドライブが中心だった。彼には他の名や立場があり、大抵はそのついでだった、カップルでいると大概の場所には馴染めた、丁度良かった。

「私と付き合ってるのが便利なのでは?」
と、彼女は言ったが気分を害しているかんじではなかった。
「バレました?」
それが正しい答えだった。
彼女は嘘がうまかった、この手の嘘は。ポアロで彼を必要以上に見る様子も触る様子もなかったし、彼の話題にも態度は変わらない。彼女は彼の事が好きではなかったが、彼女は勇者なので魔王といなければならなかったし、魔王の彼は討伐される様子がないのでそのまま放任している。

本音を言うと居心地は良かった、終わる夢なら好きに出来た。どうでもいいタイミングで別れるようなかんじがした、参拝した神社で引いたおみくじが大吉だったとかそういう理由で。例えば、たまたま限定提供のメニューが自分たちの番で終わった、とか。そういう理由で。彼は風呂上がりの彼女の髪を乾かす、トリートメントの匂いが香り、彼女の頭皮の匂いを嗅ぐ、彼女は愉快気に体を折り曲げて逃げる、自分の両腕が彼女を抱き締めるのに十分たりえたし、彼女は彼の身体の大きさを知っていた、誰かを裏切っていた、一緒に居ると楽しいし、面白いし、落ち着くし、変わってるなと思うし、離れてると、元気かなと思う、今大丈夫かなと、考える。東洋人の肌の滑らかさを彼は案外と厚い掌を押し付ける、蛙の吸盤みたいにガラスに張り付いて、彼は雨の音を聞く。彼女は蹲って、どんぐりみたいに転がっていた。
彼女は勇者ではなかったし、彼は魔王でもなかった。
でもそれ以外に言いようはない。

「嘘つき」

彼女の頬が綺麗に叩かれた、良い音がなる。効果音にしたいくらいの。心地よい憎悪の音だ。帝丹高校の制服を着た女子学生は長野と名乗った、長野は賢明だったので閉店間際の誰もいない時間に来店した、怒りで目じりが真っ赤に染まっており、顔面は蒼白だった、カウンターに押し入って彼の張った写真をびりびりに破り捨てて、手当たり次第にお玉とかボウルとか彼や彼女に投げつけた、喧しいヘタクソのオーケストラのような騒音が響いて、でも長野はコーヒーミルやグラスや割れるものや壊れるものに手を出さなかった、賢明だった、ではなくそれが長野の最後のぎりぎりのプライドに見えた、馬鹿にされた女からの、盛大なあてつけだ。

あふれ出る言葉が長野のいたいけな唇を己が歯で噛みきらせた、長野はもう一度、彼女を強かに叩きのめして、

「クソ女!」
と、唾を吐きかけて、店から出て行った。ぐしゃぐしゃになった髪を彼女は掻きあげて、痛みに頬を引き攣らせる。そのままゆっくりとした動きで片付けを始める、彼はあまりの音に様子を見に来た毛利一家の対応をした。娘の方が何故かバッドを持っていたし、おなじみの少年は探偵の顔をしていた、が、彼は言う。
「痴情のもつれです」
「痴情?」
「まあ、はい」
と、彼はさりげなく彼女に視線をくれやって、場に残る雰囲気に察した三人は何故か萎むような気配を出した。毛利が彼の胸倉を掴んで、泣かせんなよ、と凄んで、他にも何か言いかけたが乱暴に彼を離した。お父さんと止める娘と少年が、そのまま引きずるようにして三人は帰って行く。

「――あの写真、長野っていう女子高生に渡されたと言うか押し付けられた写真で」
「なんとなくそんなかんじは。名前は知りませんでしたけど」
「やっぱり、分かってて」
「いや、全部は」
彼女は酷い顔をしていた。
「………ずるい女ですよねえ」
「梓さんは」
彼は濡れたタオルで彼女の顔を拭う。
「私は?」
「………優しいですよ」
「卑怯な人だなあ」
「よく言われます」
彼女は呼気で笑った。
「安室さんなんてかっこよくもないのに」
「何故かみんな気付かないんですよね」
「私だけ気付いてもしょうがないんですけどね……」
「分かると、夢を壊しますから」
「それって何の?」
「僕も夢みてたいですから」
「どうでもいいなあ」
彼女は、一歩下がって離れる。落とされた調理道具を拾い上げてはまた元の場所に戻してゆく。一定の動きを繰り返す、まるでロボットのような無機質さで。
「―――それなら、梓さんはどうして、僕に付き合おうなんて言ったんですか」
「安室さんにとってはどうでもいいことじゃないんですか」
「どうでもよくはないですよ」
「じゃあ、どういうことなんですか」
「僕が質問してます」
「誰が質問してもいいじゃないですか、裁判所じゃあるまいし」
「そういうことじゃないじゃないですか」
「だから、どういうことなんですか」
「誰のあてつけで僕と付き合ったんですか」
「誰って」
彼女はうんざりしたような顔をする、彼もまた辟易している。
この終わらないレールはなんだろう。彼女は彼を見据える、彼も見据える、彼女を。彼女は写真の欠片を拾い上げた。何が写っていたか、もう思い出せないようなそんな心地だ。

「安室さんへのあてつけですよ、でも、安室さんもそうだったんじゃないですか」
私へのあてつけじゃないですか、と言う。
「そうですよ、梓さんへのあてつけですよ」
「ほらやっぱり」
「何が」
「私の所為にする」
「してませんよ」
「したじゃないですか、今」
「してませんよ、どうして僕が」
「安室さんは私の事嫌いじゃないですか」
「嫌いなわけない、というかそれなら、梓さんだって」

僕の事嫌いじゃないですか。

言葉はむなしさの渦の中に落ちた。
彼女が自分の髪をぐしゃぐしゃに掻き混ぜる。

「ああもうっ、どうしてこんなことに」
「それは絶対梓さんの所為でしょうが」
「大体安室さんの所為じゃないですかっていうか全部安室さんの所為ですよ!」
「ほら、それが本音だ」
「はあ?そういうこと言います?」
「言いますよ、本当のことですから」
「本当、本当って本当の何が偉いんですか」
「本当なんだからそりゃ偉いでしょ」
「良くないですよ、本当なんて、本当なだけじゃないですか」
「それの何が悪いんですか、全然わからないですよ」
「嘘つく覚悟がないなら、嘘なんてつかないでって言ってるの!」
「僕がいつ嘘ついたんですか」
「四六時中嘘だらけじゃないですか!」
「それなら梓さんだって!」

二人同時に脱力する。

「馬鹿らしいなあもう、早く片付けましょ」
「言い出したのは梓さんじゃないですか」
「だからそういうとこですよ、そういう」
「全然わかりませんね、何を言いたいのか」
「子どもっぽいなあ、年上のくせに」
「そっちも物分かりいい振りしないでくれません?」
「何が癪に障ってるんですか?」
「そういうとこですよ、そういう」
「真似しないでくださいよ」
「してませんよ!」

思いの外、大きな声だった。はたと自分で彼は気付いて、口元を押さえる。

「やめてくださいよその顔」
「普通の顔ですけど」
「にやけてるんですよ、気味が悪い」
「あ、やっぱ、そういうかんじなんじゃないですか」
「どういうのがですか」
「そーいうのですよ」
「だから、もう、」
彼は言う。
「付き合うなんて言わなきゃ、そうやって傷つかなかったでしょ」
「傷ついてないですよ」
「今すぐ泣きそうな癖して、ていうか泣いてる癖に」
「泣いてないですよ、濡れ衣やめてくださいよ」
「梓さんは馬鹿だと言ってるんですよ」
「その馬鹿な女の告白に乗った馬鹿はどこの誰なんですか!」
「僕ですよ、しょうがないじゃないですか、梓さんのこと好きなんですから」
「えっなんですかその開き直り、なんですか、やめてくださいよ」
「だって、梓さんも僕の事、好きじゃないですか」
「さっき嫌いって言ったよね!?」
「は?」
「は?じゃないでしょ?!」
「そーじゃないですか、僕、探偵なんで」
「ポアロの店員じゃないですか」
「本業は私立探偵なんで」
「じゃあなんでここにいるんですか」
「毛利先生に弟子入りするためですけど!?」
「じゃあ事務所で働けばいいじゃないですか」
「募集してないんだからしょうがないでしょう」
「だったら毛利さんと付き合えば」
「え?そういうこと言います?」
「そーじゃないですか、そういうことじゃないですか」
「何がですか、何怒ってるんですか」
「こっちの台詞ですけど!!?」
彼女が水道に向かって、コップに水を注ぎ、ぐびぐびと飲む、もう一杯飲んでから、彼に差し出す。
「喉」
「……どうも」
「許してませんから」
「僕何もしてませんよ」
「ほんと、最低」
「いや、梓さんの方がでしょうが」
「大体断れば良かったじゃないですか!」
「梓さんのお願い、基本断らないですよ」
「例外で断ればよかったでしょ」
「だから、変わらないと思ったんですよ」
「何が」
「付き合っても、変わらないと思ったんですよ、僕たち」
そうでしょう、と言われて、彼女は呻いた。
「……何も変わんないよ」
「そうですね、何も変わらないから喧嘩してるんですよ」
「喧嘩なんかしてないし」
「ほら、」
「ほらって」
「変わんなかったんですよ、僕たち」
彼女の瞳が揺らぐ。
「どういう意味?」
「さあ、本当のことなんてつまんないですから」
「………そうだね」
彼は水を飲んで、コップを置いた。
彼女のくしゃくしゃになった髪を撫でつける。
「――片付けましょう」
「そうだね」
散らかった店は片付ける他ない、何事も何一つ何の欠片も落ちていないように二人は丹念に掃除をした。磨き上げた店内は前より明るさを増したようだった。コーヒーだけ淹れて、二人は黙って飲んだ。付き合おうとも別れようとも言わなかった。仕事の話をして、それで途中まで一緒の道を行き、別れた。
嘘つきの言葉は突き刺さった刃のように、抜けなかった。



第三部 クリーム色の正夢

たまさか海外での仕事となった。バーボンとしての所用があり、二週間ほど、ポアロを休んだ。仕事に逃げているのか、そもそも逃げる為に仕事などするべきではないと思ったが、何もかもから逃げて国を愛す男が思うには随分今更だった、違法な行いをしながら良心を残す男を組織の人間は潔癖な原理主義だと揶揄るがその癖男が人を殺す手伝いをすることを、愉快気に思ってる方が大半であった、非道徳的な矛盾を愛さねば、信念は貫けない。日本語を話す人間がいない世界はただ暗く、慣れた言語が脳内を占拠していく、置き換えられる言語表現の中で、その歪みの曖昧さを思い、男はバーボンを飲んだ、名称のままにバーボンを飲んだ。

日本に密かに帰国して部下と連絡を取り、安室としての部屋に戻るが、人の気配がした。銃に手をやりながら探すには気配は無臭すぎて、男が思考をめぐらすよりも猫がなーおと鳴いた。聞き覚えのある猫の声に、男は電気をつけた。

「……何してるんですか」

その上で、何故寝袋なのだ。蓑虫状態の榎本梓は明るくなった部屋に至極迷惑そうに瞬きをする。

「今何時だと思ってるんですか」
「え、……三時二十八分ですか……」
「夜ですよ、つまり」
「その前にどうしてここに」
大尉まで。
猫のトイレまで設置されていた。
これは侵入ではなく、占拠である。
「僕の部屋なんですけど……」
「帰ってくるかも分からないでしょ」
「帰ってきますよ」

梓は寝袋から這い出てきた、コップも持ちこんでおり、台所の水を飲む。やましいものは、というか分かるようには何も置いてないが、猫用のキャリーバッグと彼女のものと思わしきキャリーバックが置かれてある。

「引っ越し……?」
「見張りですよ」
「見張り?」
言わんとすることは分かる、分かるのだが、安室透の思考回路が通じていない。梓は胡乱気に男を見詰める。
「この前のこと、もう、忘れました?」
彼女の瞳で思い出した。記憶の束がぱらぱらと飛び出て来て、回路が通じると同時に改めて感情が湧いた。
「何してるんですか?」
「何回も言う台詞ですか」
「いやまだ二回しか言ってませんよ」
「二回も言ったじゃないですか」
「どうして不機嫌なんですか?」
「夜が遅いからですよ」
「ああ………」
「ああ、じゃなくて」
「通じてます、けど、分からないです」

ここで何してるんですか?
彼は言う、彼女はもう聞きあきた歌のように彼を見向きもしなかった。一人で紙袋で遊んでる大尉を撫でて、寝袋に戻っていく。

「電気消してくださいよ」
「え、すいません、……え?寝るんですか?」
「寝るでしょう、夜なんだし、明日も仕事なんですから」
「え、すいません……え?ここ僕の部屋ですよね?」
「安室さんの部屋で寝たら何か悪いんですか?」
「悪いというか……いや、ここ、僕の部屋ですよ」
「自分に言ってるんですか?」
そうかもしれない。ここは安室透の部屋で、何故かリビングの上に寝袋に入った榎本梓が寝ようとしている、実際もう寝そうだ、寝るな。
「梓さんの部屋どうかしたんですか?」
「起きたらでいいですか?」
眠いんですけど、とキレ気味に言われて彼は思わず頷いた。
「あの、シャワーは浴びてもいいですか?」
「いいですよ、好きにしてください、安室さんの部屋なんですから」
「僕の部屋なんじゃないですか」
「そうですよ」
何言ってるんだ、と呆れたような一瞥を向けて榎本梓は眠りに落ちて行く。眉間の皺に耐えかねて、彼は極力電気を消して、シャワーを浴びた。猫が何かを引っ掻く音がする。引っ掻くな、と思ったがもう諦めた方がいいような気がする、無心でシャワーを浴びて、リビングに戻ったが本当に彼女は寝ており、猫は悠々と彼のベッドの真ん中にいて、そこが自分の寝床のような尊大さで身体を伸ばし、毛づくろいをしていた。彼は暫くその光景を眺めていたが、流石に寝るほかなかったので、というより何もかも諦めて、台所の冷蔵庫の前で床寝した。

眩しさと共に揺り起こされて、
「安室さん、安室さん」
「……あ、はい」
「ベッドで寝てください、身体痛くなりますよ」
「あ、はい」
それは猫が寝ていたからなのだが。身体を起こして見ると、彼女は既に身支度を整えており、猫は出窓の外を眺めている。彼は、相変わらず腑に落ちなかったがベッドへ行き、いってきます、という声を聞きながら眠りに落ちた。夢も見ずに熟睡してしまい、起きたら昼過ぎになっていた。部下へ連絡して、ある程度のメールのやり取りを済ましてから、簡単な食事をして、牛乳を飲んだ。大尉は悠々と過ごしており、ああ、夢ではなかったのかと、彼は思う、夢であっても自分の精神状態が不安定になる夢である。荷物が残ってあるところから、彼女は帰ってくるのだろうと踏んで、彼は冷凍の冷え切った肉と市販のカレールーを使って具のないカレーを作り、ご飯を炊いた。彼女が飲み喰いしていた形跡はあり、オレンジジュースを借りて、ゼリーも作った。風呂を掃除して、洗濯をし、部屋の掃除もして、彼女が帰る頃合いを見計らって湯船に湯を張った。

「おかえりなさい、お風呂沸いてますよ」
「……いや、何普通に出迎えてるんですか」
「え、入らないですか」
「入りますけども。もうちょっとこう、抗議とか」
「昨晩したんですけど……」
「そうですか?覚えてないなあ」
「寝て忘れたんでしょう」
「今はしないんですか?」
「抗議?」
「そう」
「して欲しいですか?」
彼女は顔を顰めた。
「嫌な人だなー。そーいう人どうかと思いますよ」
「じゃあ、そーいう人の家に何故寝泊まりしてるんですか」
「………」
彼女は舌を出した、子どもみたいな仕草に彼は笑ってしまった。彼に鞄を投げつけて彼女はお風呂に入っていく。
「洗濯とかどうしたんですか?」
彼女が風呂から上がった後に聞いた。
「近くの銭湯とコインランドリーに。台所だけ借りてました」
「ああ、なるほど。カレー、具がなくてすいません」
「美味しいです」
「良かった」
「―――なんとなく、安室さん、帰ってこないかと思って」
もぐもぐと彼女は食べる、食べてる振りかもしれない。
「帰ってきますよ」
「それなら見張っておこうと思って、帰ったら、聞いてやろうと思って」
「はい」
「もういいです」
「いいんですか」
「いいです、安室さんの顔見たら忘れちゃったので」
お代わり、と彼女は席を立った。彼はカレーをつぐ彼女の後姿を眺める。
「居てくれて良かったです、部屋に」
「え?」
「帰って来て、梓さんの顔見れて、良かったです」
「安室さんじゃなかったですもんね」
「そうですか?」
「うん」
あの時、彼女が見たのは誰だったのだろう。
「でも、深夜だったから、そういうこともありますよ」
「幽霊じゃないですよ、ちゃんと生きてますから」
「そうですね、起きたら冷蔵庫の前で寝てて、笑いました」
「それは、寝るところがなくて」
「安室さんなんだな、って思いました、ここに居る人は」
冷蔵庫の振動音がふと急に強くなった。
何もかも喋るのに適切な温度になり、何もかも打ち明けてしまえばどうなるのかも、見てみたかった。
「僕、色んな名前があるんですよ」
「安室はそのひとつなんですか」
「はい」
「そっか」
「それだけですか」
「何か聞いて欲しいですか?」
彼女は席に戻った。再び手を合わして、カレーを食べ始める。
「聞いて欲しい」
彼女は目線を彼に向ける。
視線が交わって、どうにもならなくなって、丁度大尉が爪で壁を引っ掻く音がして、場面は事切れた。柔らかい嗚咽のような波が寄せては返して、彼女は二杯目のカレーを平らげた。その後、苦しそうに床に寝ころぶ。ここは自分の部屋で、彼女はどうしているのだろう。

「安室さん」
「はい」
「他はいらないので、私に安室さんください。安室さんだけでいいので。安室さんだけは私を好きでいて」

彼は彼女のそばに寄る、彼女が泣いていた。腕をすくうように抱きよせて、彼は彼女を抱き締める。安室透は榎本梓を抱き締める。彼女は抗った。

「言葉がいい、ちゃんと言って、私のものって言って」
「はい。僕は梓さんのものです」

オレンジゼリーを食べ損ねた彼女とキスをしたらカレーの味がして、二人で笑って、その日はベッドで寄り添って眠った。翌朝、彼女は猫を連れて自宅に戻り、彼はポアロに出勤した。

彼の部屋には猫の引っ掻いた痕が残っている。



<strong>ムジーク</strong>



たった一度のミス――というわけでもなかった。男は何度でもミスをしてきた。大事な人を喪う過ちも。女は眠っている。否、意識を失っている。階段から落ちたのだ。言葉は正確に。かつての教師の顔が思い浮かび、それが誰なのか、男は分からなくなった。言葉は正確に。彼女は階段から落とされたのだ。本当は男が落とされるはずだった。言葉は正確に。そうではない。男は落とされるかもしれないが、落とされない自信はあった。逆に落としてしまえることも出来た。言葉は正確に。いや、そうではないのだ。落とされることもなかったのだ。落とす前に――片づいた筈だ。言葉は正確に。どこから人は言葉を言葉と定義する。無意識の中に浮かんだ考えを言葉と定義してしまっていいのか。口に出さない言葉は言葉と呼んでいいのか。言葉にしてしまった時点で意識は枠の中に捉えられてしまわないか。彼女はたまたま店の鍵を持って帰ってしまい、翌朝男が早番だと気付いて戻ってきたのだ。その途中にある歩道橋、にて。男と彼女と第三者は対峙する。彼女は男に襲いかかる第三者に咄嗟に鞄で殴り付けた――何故。何故なのだろう。疎んじた第三者は彼女を追い払い、庇おうとする男の腕をすり抜けて、否、もつれた、男は彼女を助けようとし、第三者は彼女を損得の篩にかけ、彼女は男を庇おうとしつづけた、自分はいいから、早く、と目的は男と知っていた、男が助けようとするほど、彼女は――多分無意識に自分の存在を第三者に主張しつづけた。私を。あるいは。――言葉は正確に。
彼女は男を殺すなら、自分を先に殺せと叫んだのだ。
猫の金切り声みたいな。

第三者はすべからく結果を示した。
容易く彼女を掴みあげ、投げた。
階段の方へ。コンクリートに打ち付けられた肉の音が彼の耳に残っている。
車は走り続け、信号は変わり続け、世界は別に何も変わらなかった。
自分の叫び声も、彼は耳に入っていなかった。

「――ひったくり、ですか」
「はい」
犯人は、彼女の鞄を奪おうとして。
「彼女、相当抵抗されたみたいですね」
「はい。声で、僕は気付いて」
道を取って返して。
「――犯人は」
「彼女を」
「力任せに階段から」

現場にいたのは、彼だけだった。警察は最初痴情のもつれとかで彼を疑った、彼が彼女を暴行したのだと決めつけようとした、しかし彼は警察に知り合いがいて、しかし尚更そのことで、彼に向けられる疑惑が深まった。警察に協力的な一般市民が功績欲しさに自分で事件を起こすことは、少なくはなかった。例えば、医療関係者が患者を重体にさせて自分の力で回復させるみたいなそんな道理で。彼は腕っ節が強かったし、私生活も見えなかった。何せ探偵だったから。探偵は、警察の協力者であり――一部にはそれを快く思わない者も居た。何のための警察だと、憤る面々もゼロではなかったのだ。

「本当は君じゃないの」
「違います」
「仲良かったみたいじゃないの」
「それが?」
「付き合ってたんだって?」
「違います」
「でも、仲良かったんだよね?」
彼が彼女に言いより、断った彼女を彼が力任せに痛めつけた。
警察はそんなストーリーを描いて見せる。
「随分、モテたんだってねえ」
「それが何の関係が」
「余計、腹が立ったでしょ、自分を好きになってくれないと」
彼は警察に目を向けた。
うまく顔が認識できなかったし、そんな自分を恥じた。
「そういう目だよ」
警察は言う。
「そういう目の奴、沢山見たよ、決まって刑務所に行ったけどな」
――いいよ、帰って。
警察は言う。
「けど、遠くには行かないように。逃亡とみなすよ」
彼は頷いた。
「はい」

「――降谷さん」
「何だ」
部下はたじろいで見せた。
「あの、」
「無用のことならするな」
「彼女の容態ですが」
「会いに行くよ」
「会いに」
男は部下を見定める。
「言わないのか?」
「え?」
「人殺しだって」
部下は一瞬だけ目まぐるしく感情が去来したようだ。
「亡くなってません」
「それもそうだ」
男は口端を上げ、これが職務に忠実な男ならば、上の方にすぐに連絡を入れ、男の精神状態の危うさを訴え、なんかしら手を打っただろう、しかし、部下は男に忠実だった。いつか手を噛む犬だとしても。
「指示はメールでする」
「はい」
男は歩き出す。
愛車を停めてある駐車場までは遠く、タクシーを使った。方言の癖のある運転手は男が病院と伝えると、もう面会は終わったと思いますよ、と親切に伝えてくれる。男は、
「同僚が事故で運ばれたんです」
「そりゃ大変だ、急ぐよ」
運転手は親切だった。心配だねえとひとしきり自分事のように呟いて、わかるよ、と言う。
「親しくもない同僚だったが、過労で倒れて運ばれてね」
「はい」
「なぜか付き添うはめになったんだが、奥さん、慌てて病院に来てね、その時は随分気を揉んだよ」

戦友だったろうな、と言い、その先は言わなかった。おそらく亡くなったのだと男は悟り、タクシーは二十分の距離を十分で着いた。大丈夫だといいですね、と運転手はお釣りを返す。男は頷いた。なにもかも嘘ならばよかった、受付で旨を伝えると病室を教えられ、しかしもう面接時間は過ぎてるから、五分だけと釘を刺される。男は静かな老朽化の余波を白いペンキで隠した廊下を歩き、個室の扉を開いた。中にベテランの年嵩の看護師が居て、
「がんばってますよ」
と少し笑って見せた。
「お兄さんも来られるみたいで」
「そうですか」
「それまで付いててあげてください」
「面会は五分と」
「誰も計りませんよ」
男は頷く。
「有難うございます」
厚着であったこと、大きな鞄を持ってたこと、落ちた場所に植木があったこと、彼女は受け身も学んでいたからそれもあったかもしれない。どれかわからないが、彼女は辛うじて生きている。痛々しい包帯を巻かれ、顔にも傷を処置したあとがあり、脳のダメージは意識が戻らないとわからないと言われた。
「もしかしたら、何も覚えてないかもしれないですね」
男は言う。看護師は眉を下げて、微笑んだ。
「さあ。でも、今はよい夢をみてるといいわね」
男は頷いた。
看護師は部屋を出ていき、男は少し彼女の心電図の音を聞いてから、部屋を出た。彼女の兄とは会わなかった。

男は歩いて車に戻った。部下が病院の近くまで運んでいた。ダッシュボードを開けて、銃を取り出す。中身を点検し、弾を装填する。安全装置をかけたりはずしたりして、手に感覚を与える。バーボンが安室透とは知られており、探偵を偽証しているとは公然の秘密だ。複数ある身分のひとつに過ぎず、誰もそこに拘らない。誰かと特別になることもよくあるひとつで、男が情報源として仲良くなったのはとあるボスの女だった。情報を探ってるとはまだ気取られておらず、しかし、人の女に手を出す色男ということで、他人の痴話喧嘩に巻き込まれた彼女は運が悪かったとしか言いようがない。大抵、そういうボスには便利屋がいて、今回男を襲いに来たのは腕っぷしが強い方の便利屋だ。人殺しすら厭わないタイプで、わざわざ日本までやってきたのだからご苦労なことだ。空港の見張りからは既に連絡が来ており、泊まっている場所も分かっている。ここで下手に復讐すれば、余計に事態はこじれるのが分かっている。故に男は深く息を吸い込んだ。ボスを破滅させるにはまだ情報が足りず、情夫を危険に巻き込んだと知った女は、ますます男に入れ込むだろう。危険を知って尚、自分に会いに来る男はさぞ愛しかろう。男は銃の弾を抜き、一つだけ入れて、回す。オートマチックなハンドガンの他にリボルバーを持ってるのはこういう時のためだ。男は目を瞑って米神に銃口を押し付けて、トリガーを引いた。空発。分かっている。まだ死ねない。死ぬことを許されていないのだ。男は死神をそばにおいているが、死神が男を赦したことはない。本当に死にたかったらスピードを上げて思いっきりコンクリートの壁にぶつかればいいのだ。それでいて、しかし、男は自分がまだ生きてしまう予感がしている。国のために、生きよ、と。だから、まだ死ねない。まだ。何度もまだ。男はーー言葉は正確にーーまだ生きていたいことも、分かっている。だから、まだ死ねないのだと言うことも。まだ。

彼女はまだ目覚めない。

「あいつ、昔、体弱かったんですよ」
兄、は言った。彼女の兄。会社に届けて、休みを貰っている、クビになるかもしれないですけど、と笑う。一週間は経った。彼女の眠る部屋には花やたくさんの贈り物があり、一体ずつ祈りの籠められた千羽鶴は、コーヒーの匂いがしている、ポアロのマスターと客が作ったのだ。少年探偵団が書いた手書きの応援のポスター。大尉は毛利事務所が預かっている、彼女の兄はここにいる。彼女の友達が作った千羽鶴もあり、人は確かにいざというとき、祈ることしかできない、啜り泣く人たちを見ている。
「今はすっかり強くなったのになあ」
どうしてだろうな、と彼女の兄は言う。
「犯人、」
捕まらないんですって。
男は疑われていた。
しかし彼女の爪から採取したDNAは、登録された犯罪者と一致していた。その実、本当は海外の犯罪者と一致すべきものを、彼は部下に指示し、すり替えた、これは、潜入捜査を邪魔するものであるぞ、という大義名分で。いもしない犯人を警察は追っている。
「警察、最初安室さん疑ってて、色々聞かれたんです、俺。笑っちゃいましたよ、そんなことないのに」
男はただ少しだけ笑った。
「マスターがそんな人、雇うわけないですし。それに、安室さんいい人だし」
聞いたら、笑うかもしれないですね、梓。
二人の両親は片方が体を悪くして入院しているため、こちらに来ることができない。それに、こんな姿を見せるのは忍びないと、こまめに彼女の兄が連絡を取っている。
「爪、伸びたな」
「ーー僕が切りましょうか」
彼女の兄は、男を見つめた。
「じゃあ、お願いします」
ぱちん。
男は彼女の手を取り、丁寧に切っていく。
「水仕事で、手が荒れるってそういえば」
「そうですね」
「そうだ、買ってたんだ」
彼女の兄はふと思い出して鞄を漁った。
「これ、ハンドクリームです。クリスマスプレゼントに、って」
男と彼女の兄は、彼女を見つめた。
「ーー塗ってもいいですか」
「え?あ、はい」
いいか、梓、と彼女の兄は言い、
「いいに決まってるよな」
と、笑う。男は、包装を解いて差し出された缶から、クリームをすくい、彼女の手に塗り込む。
「………慣れて、ます?」
「そう見えます?」
「とても」
彼女の兄は目を細め、鼻を啜った。
「いい匂いだろ、ベリーの、ベリーロングはもういいよ」
なんて。
キレがないですね。と彼女の兄は、無理矢理笑って見せる。男は、少しだけ微笑んだ。コンクリートに打ち付けられる人生ではなかった、彼女は。あの時、彼女を見張っていた警察は何をしていた?判断したのか。死んでもいい、と。それは、間違いないのだ、些末な女だから、舞台から消えても、誰も困らない。男はすいません、と席を立ち病室を出てトイレにかけ込んだ、何も食べていないから酸っぱい胃液だけが、出てきて食道を焼いた。えづいて、えづいて、流す、渦が巡っている、男は立ち上がり、彼女の兄に断り、病院から出た。また、日本を出て、日本に戻る、その繰り返しだ。女は男に心を許し、二人の夢物語の話ばかりするようになり、対象者を憎みだし、破滅を願うようになった、万が一の保険を見せてもらい、これがあればあいつは終わるのよ、と囁いた、それが仮初めの愛の終わりとも知らずに。

作戦は真夜中行われた、宵が深まり、何もかも隠す夜の色が簒奪といっていい、真実の執行を太陽の目から逃した、銃声、悲鳴、絶望、これは正義だと、従属した犬たちの目に揺らぎも迷いもなく、撃ち殺した者たちの顔も、飲んだ酒で消えていく、心静かに蝕んでいく奪った命の重さが、今は軽やかに笑い声となり、ただ人々に気取られぬように物語は終わりを迎え、鶏よりも早く鳴くマスコミたちが、こぞって群がる頃には世界のわずかな一部が一変し、ある一人の権力者がすべてを失うのだ。

男は、花束を買い、彼女の病室に行き、花瓶から枯れ始めた花束を捨てて、代わりに自分の持ってきた花束を活けた。染められたかすみ草だ、不自然な緑。楽しくは見えない、隙間を慰めるだけだ。

「梓さん」

男は呼び掛けた。
安室透。それが名の男だ。

「もう終わりましたから、もう、大丈夫ですよ、それとも、まだ」

まだ、何か必要ですか。
正義が。

言葉は正確に、だ。

そんなもの、彼女には必要ない。嘘を嘘で騙されて、微笑んで、真実も正義も彼女には必要なく、誠実な優しさが、彼女を形づくっている。屍を引きずる彼の足に、彼女の小川が流れている。

「あなたに会いたい」

そして、叱る、怒る、どうしてそんな無茶を。そして、可能な限り、忘れていてほしい。この世界に覚えている必要があることなどあるのだろうか?奇跡はまだ起きない。まだ、彼女は目覚めない。彼は思う。

自分が死ぬときが、彼女が目を覚ます時なのではないか。

死神はデディベアの形をしており、緑の瞳が彼を見つめている。彼はたまらず、えづき、咳き込み、ベッドの端を掴んだ。黒い影に覆われて、背骨が軋み、こんなはずではなかったのに、と思った。

その時だった。
手の甲に指先が触れた。
極僅かに。

彼女は生きており、
彼は顔を上げて、その手を握り締める。物語はハッピーエンドであってほしい。けれど、彼女はまだ目覚めない。物語はまだ続くからだ。まだ。

まだ、途方もなく、彼と彼女が生きる世界において、奇跡は、消耗品でなかった頃、彼女はやがて目覚めるだろうけど、彼は幸せにはならないだろうけど、二人はコーヒーを飲む、その瞬間があることは、事実だ。

星々の話


いっそう遠く輝いている星を眺める、マコト、船に乗らないかと言われた、どうしてと尋ねたらお前は辛抱強く体力がある、漁師に向いていると大柄の男が言った、日焼けした肌で、酒を飲んだのか赤ら顔だ、乗らない、と彼は答えた、どうしてだ、地上にいる人間と戦い、一番つよくなるより、海と戦う方がずっと困難だ、と男は言った、それはそうかもしれない、海に勝てるかは分からない、巨大な果てのない相手だ、それはそうだろう、考えてみろ、と男は笑う。今、好きな女と離れてるんだろう、好きな女を置いていくお前は船乗りにぴったりだ、男はそう言って酒を飲んだ。彼はそうかもしれないと思った、彼は戦いを除けば物静かな男で、年相応のシャイさもあって控えめで謙虚な男だった、だから彼を恐れるものはいなかったが、彼が丁寧であればあるほど、強さの象徴として受け取られた。彼が彼女に強く恋をしているなんて、実際彼女も分かっていないのかもしれない。彼女は感覚で分かってるだけだ、彼は裏切らず、ひたむきに誠実に自分を好きなのだと。それは深層意識で気づいているだけだったから、彼女は言葉にしなかった、気づいてるのはそんなふたりをそばで見ている彼女のごく親しい人々だけだった。だから、こんな遠い地で彼が彼女に深く恋い焦がれているなんて、気づかれることはごく稀だった。そんなに好きならそばを離れるわけはない、と言われてしまえばそうだ、彼は薄情ではなく、むしろずっと愛情深かった。


スマートフォンでメールを打ちかけて、指は止まった。元気ですか、短いスカートなど履いてはいませんか。最近寒いので、体を大事にしてください。だって伝えたいことはこんなことではなかったから、彼は眉根を寄せた。彼女が夢中になるあの怪盗のように言葉を紡げていたら…………………


男は眠っていた。店員に目をやるといつものことだというように、肩を竦めた。彼は店を出て、宿に向かった。港沿いを歩いた。潮風を浴びた。故郷の海とはまた違った海だ。波の音だけは変わらない。猫がいて、魚を食べていたが彼を見て食べかけの魚を咥えて素早く去っていく。海鳥が鳴いていた。ゆっくりと彼は歩調を緩めた。

彼は不慣れな操作でスマートフォンで海の写真を撮った。彼女に送った。彼女の返信はすぐに来た。きれいね。彼が返信する前に彼女がメッセージをさらに送ってきた。
〈真さんの写真は?〉
彼は困った顔をした。
思ったままに返す。
〈自分の写真とは〉
〈自撮りして〉
〈自撮りとは〉
〈誰もいないの?〉
誰もいなかった。
自撮りとは。
彼女は丁寧に解説した。端末のカメラで自分を写すの。こんな感じで。ほら。そう、部屋着の彼女の写真が送られてきた。彼は顔を赤くした。
〈わかった?〉
彼は写真の彼女を見ている。
可愛らしい。
きれいだ。
美しい。
どれも彼女を賛美するには、違う気がした。生き生きとした瞳が彼を見ている。
電話がかかってきた。
「あ、はい?!」
「どうしたの、真さん。操作が難しい?それとも写真を撮るのはイヤ?」
「あ、いえ、そうではなくて」
「電話しても大丈夫だった?」
「それはもちろん」
「よかった。写真送ったら返事がなかったから………………かわいくないわよねこの部屋着」
「ええと、違うんです、つい見てました。園子さんの写真を」
「え?」
「あの、……………大事にします、この写真」
「そ、そう?それなら、いいけど……でも、もっとちゃんとおしゃれして撮るから!そっち大事にして!」
「どれも大事にします」
「…………………うん。大事にして」
「はい」
「…………えっと!だから、それで真さんの写真は?」
「ええと、あまり分からなくて」
「やっぱり誰もいない?」
「宿に行ったらご主人がいるかと」
「それじゃ、お願いして撮ってもらってよ、私も欲しいし………真さんの写真」
耳元で優しく落ちる声に彼は再び顔を赤くした。
「はい」
「そ、それじゃ、またね!」
「はい。………………あの、その」
「なぁに?」
「─────────好きです」
ぎゃっ!と悲鳴が聞こえた。
「どうしました?!」
「あっ?!えっ?!なんでもない!!!!なんでもないわよ!!!!」
「な、なら、いいんですが…………」
「私も真さんのこと、大好き!」
じゃーね!と逃げるように電話は切れた。暫く彼はポンコツになって、宿をずいぶん通りすぎる羽目になり、辺りはすっかり夜に包まれ、写真を撮ってもらうのをついぞ忘れた。

彼は写真を眺める。自分のために撮られた彼女を。画面を指の腹でなぞった。星を見ていた、自分に届くないはずのない星は、太陽でもあった。結局のところ彼は自分に自信のないただの18歳で、強さを追い求めているものの、肉体ほど頑強でない心で、自分が好きな女の子のそばにいていいのかと悩んだままだ。地上のすべてに打ち勝って、強くなって、しかし、それでもまだ足りないのだろう、自分に勝つには。


繰り返し繰り返し波の音が聞こえる、声をかけてきた男は朝方沖に出るのだろう。その空に星はあり、やがて太陽は姿を見せる。海とどう戦うのか、彼は考える。真面目に、ふざけていると取られかれない真剣さで。海は彼女の姿をしていた。彼女の姿はどこにでもあった。彼は恋する男だった、果てのない深さで。だから、一層彼はいつも揺れていた、波の上の船のように。彼も海だったし、そうではなかった。全部そうだった。
彼はまだ修行の途中だ。なんにでもなれた。強さがあった、弱さがあった。時代が違えば英雄だった、すべてが許せば伝説になるはずだ、彼だけが、ただ彼女を見ていた。

喫茶の扉は世界に繋がる



彼女が言う、こんなところにカフェが。あれ、違うわね、彼は目線を向ける、漢字だわ、喫茶、喫茶、なにかな?どんな名前だと思う?喫茶のあとが読めなかった。ぼんやりと塊のような色がある。絵のようにも見えたし、文字のようにも見えた。コーヒーの匂いがした。彼女は子供のように笑った、彼の腕に腕を絡めて、入ってみましょう、と言った。彼は特に否定する言葉を持たない、頷いて店の扉を開けた。

カラン

客が二人入ってきた、ということだけが、分かった。なぜだかひどく朧気だった、店員の彼と彼女は顔をみあわせて、それからいらっしゃいませと、言った。いつものようにテーブル席に案内して、お水を運んだ。こんにちは、と店員の彼が言う。今日のおすすめは、アップルパイです、と添えた。有り難う、とやはり朧気に届いた。聞こえるが、ノイズがある。ラジオのチューナーがあっていないみたいに。髪の長い二人連れだ。体格からして、男女。おそらく恋人。店員の彼はどこか懐かしい気がした、遠いどこかに置いてきた思い出みたいに。客は客だった。幸い店内には他に客はいない。いや、たった一匹。猫が入り込んでいた。猫はカウンター席に丸まっている。店員の彼女が言った。きっと、大尉のお友達ですよ。

ふぁわ

猫があくびをした。彼の目に猫が写った。ハチワレ模様の猫だ。ぐっと伸びをする。彼女が、微笑んだ。かわいいわね。彼はあまり興味がなかった。しかし不思議と懐かしい気持ちのする猫だった。彼は言う。知り合いか?彼女が瞬いた。猫と?そうかも。こんなところで、出会うなら旧友なのかも。彼女の茶目っ気だった。アップルパイふたつとコーヒーふたつ。彼は注文した。店員がいる、二人いる、だが、どこか遠かった。この場にいるのに、この場にはいないような。不思議な店だった。日本の喫茶店、という雰囲気は伝わってくる。飾っている絵は抽象画だった。宇宙のような水面のような雑多のような。気に入ってるみたい。彼女が言う。彼は眉をあげた。何故?そんな気がする。彼女の言うことはいつでも正しかった。彼は、しかしどうかな、と言う。なんて名前かしら、彼。彼女の目は猫に向いている。彼は、その横顔を見つめた。

おやつ食べる?店員の彼女が猫に聞いている。店員の彼はアップルパイの用意をしている。大きなバニラアイスの容器を取り出して、あたためたアップルパイの上に乗せ、ミントを乗せた。店員の彼女にコーヒーの準備を、と言う。店員の彼女は、はぁい、と言う。アイスが溶けないうちに、と彼は二皿アップルパイを運ぶ。わあ、という声が聞こえた。そこに、何か大切なものがある気がした。コーヒーをどうぞ、店員の彼女が呼び掛ける。店員の彼ははっとして、コーヒーを運ぶ。カトラリーと一緒に。ごゆっくり。猫がじっと見ている。店員の彼は猫をみる。親しみのある眼差しだった。ああ、今日はおかしな日だ。どうぞ、と店員の彼女が言った。食べたいんじゃないですか?アップルパイ。いつのまにか用意されていた。カウンター席は、猫のとなり。カフェオレにしておきますね。どうして?店員の勘ですよ、彼女が誇らしげに言った。ごゆっくり。

店員の彼女がバタバタと倉庫に行く。猫はさっと椅子を飛び降りてついてゆく。店員の彼はふと振られた気分になった。美味しいね、と彼女が言う。彼は頷く。さくさくのパイ生地とシナモンのきいた林檎が柔らかく甘い。とろけるバニラアイスが絡む。コーヒーもちょうどいい苦味と酸味だった。全体がまろやかだ。調和がとれている。彼女は聞いてみる?と言う。彼は目線で尋ねる。彼女は店員を呼ぶ。ここはなんて、名前?店員の彼は振り返った。やはり、遠かった。何故か知っている気がする。どこかで。近くで。最近。遠く。彼女が、エルキュールと、言った。たしかに、名探偵が好きそうな味だわ、店員の彼は笑んだ気がした。灰色の脳細胞。彼はじっと彼女を見つめた。彼女の頭のなかには、輝くなにかが満ちている。頭蓋骨の形を知っている。彼は手を伸ばした。彼女は、ついてる?と言う。アップルパイ。彼は頷いて、彼女の頬を触った。そこには何もついていなかった。有り難う、彼女は言う。彼は頷いた。コーヒーは残り少ない。いつの間にか。

きゃあ!

店員の彼は勢いよく立ち上がった。梓さん!?びっくりしちゃった、店員の彼女は照れたように現れた、段ボールを抱えている。なう。猫が鳴く。するりとその尻尾が二股に別れている。店員の彼女が言った。ヒロくんって、名前なんですって。ヒロ?そう。ヒロ。猫が言った気がした。店員の彼は身じろぎした。猫は、ヒロと名乗った猫は、客のもとに行く。

お別れだよ。
なにが?どうして?

いつか、また会える。
客は店を出て行く。
猫は店を出て行く。
彼は駆け出した。

「あれ?」
「どうかしました?」

コナンと蘭が居た。買い物帰りの二人は、大きな袋を持っている。

「そうだ、これ、どうぞ」

蘭が差し出した。

「たくさん貰っちゃって、よかったら」

コナンが、いっぱいあるんだよ、と言う。赤い林檎だ。彼は瞬いた。彼女が覗き込んできた。こんにちは。蘭さん、コナンくん。

「実はね、なんと」
「また、作るよ、アップルパイ」

君たちには、出来立てをね。

陽炎:五話(終)



※一部性的な描写があります


「なあ、お前っていつオレを殺すの?」
ダブルのアイスを食べながらワダが言った。シオリは微笑んだ。
「どうして?」
「セックスに誘ってこないから。女ってヤることしか考えてないだろ?」
「だって、ワダさんかわいいから。えー?じゃ、わたしとセックスしてくれる?」
「それはやだ」
「ケチ」
「誰の依頼?」
シオリは素直に答えた。ワダには心当たりがある。あのねちねちした卑屈でケチで性格の悪い元依頼者だ。
「社会的に破滅したんじゃなかったけ?」
「そそのかしたの。ワダさんがほしくて」
殺し屋は依頼がなければ殺していけないことがこの世界のルールだった。ワダは顔をしかめた。
「ワダさんがあなたをはめつにおいやったの、ておしえたらすなおにいらいしてくれたから、そういうことでーす」
「結構殺すタイミングなかった?」
シオリはワダの顔をまじまじと見た。ワダはアイスを食べ終わる。
徐々にシオリの頬が赤らんでゆく。
「ワダさんとずっといたかったから…………」
「好きなの?オレのこと」
「だいすき」
「どの辺りが?」
「どうがにとられちゃうとこ」
「…………男の趣味悪くない?」
「さいこうだよ!」
ワダにとって恐ろしいことにシオリは本気だった。たぶん一生セックスするから見逃してくれとか言ったら聞き入れてくれそうだった。
「じゃあ服脱いで。股開いてオナニーしてるとこ、見せてくれたらチンポいれてあげる」
「ほんと?!?」
「嘘だよ…………」
「なんでそんなうそつくの?!!ちょっとはわたしのはだか、そうぞうした?おっぱい、おおきいし、ほら。ちくびもきれいだよ」
ていれしてるし、と言いながらシオリが脱いでいく。ふくよかな胸が露になる。つんと乳首は立っている。ワダが顔を向けるともじもじする。
「ぬれてきちゃった………いれなくていいから、みてて!」
「待って、待って、待って」
ワダはため息を吐いた。
「爪切ってないけどいい?」
「なんでもいい!てくびもはいるよ」
「いいよそれは………」
シオリが下着を脱いで、待ちきれないようにワダの手首を掴んで、指を入れさせた。そこは既に潤っていて、熱い。ぐいぐいとうねって、ワダの指を取り込もうとする。きしょいなーとワダは思った。必死に腰をかくかく動かして、シオリはいこうと必死だ。すぐにでも果てそうだった。ワダは指を複数いれて、動かした。
「あっ!あっ!それいい!いいっ!さいこう!わだひゃ、さいこ!あっ!あっ!」
それでイく前のシオリをワダは殺した。持ってたナイフで首を切ると、シオリは血を拭き出しながらそれでもイこうと必死だった。死ぬ前に果てたのだろうか?強いうねりがきて、そのまま止まった。ワダは指を引き抜いて、シオリの顔をみると歓喜の顔だった。恍惚した双眸の瞼を下ろした。手をシオリの着ていた服で拭う。
「だる…………………」
どうすんだろこれ、と女の死体にしてはシオリの死体は艶かしかった。趣味の人間に売ればいい金になりそうだった。シオリのことは、別に嫌いじゃなかった。まとわりついてきて、柔らかかったし、セックスも誘ってこなかった。かわいいぬいぐるみみたいなものだった。
でも途端に性欲を見せられて、嫌になってしまった。ぬいぐるみに腟がついているのは薄気味悪かった。

「依頼もなしに殺すのは、ルール違反でしょう」
誰もいない空間から声がした。知覚をすると、この辺りじゃ特別な魔女みたいな帽子と嘘みたいなマントを翻すその人がいた。ワダにとってスペシャルな存在だった。バツの悪い思いがした。
「見てたでしょう?オレはこいつにレイプされそうになって挙句殺されかけてたんですよ」
「そうでしょうか?」
「オレを処分しますか?」
「あなたは嬉しそうに見える」
「ええ、ええ!ずっと願ってきましたから。あなたに殺されたいって」
彼あるいは彼女はどこか辟易したように見えた。彼あるいは彼女が感情を表に出すのは珍しかった。ワダはひどく不安になった。
「……………ダメでしたか?」
「ダメというより、あなたは絶望しませんね」
「何故?」
「動画に撮られたことも、ランクEに落ちたことも、彼女を殺すところを私に見られたことも」
「何の問題が?」
ワダは益々不安になった。
「いえ、……………いえ、あなたはなにも悪くないのでしょう」
「オレはあなたの近くにいられれば、それでよかった」
「何故?」
ワダは言葉につまった。声が急にでなくなったみたいに、呼吸音しか漏れ出てこない。パクパクと口を動かしていたが、彼あるいは彼女は待っていてくれたようだ。もう一度、彼あるいは彼女は尋ねてくれた。
「何故?」
「…………………、すき、だから」
彼あるいは彼女は目を伏せた。
「彼女のエーデルワイスは好きでした」
「………それは、オレも」
嫌いじゃなかった。
「オレはどうしたらいいんですか?」
「何故?」
「あなたはひどく怒ってるみたいだ」
「怒ってなど………いえ、そうかもしれません」
「どうしたらいいですか?」
子供みたいにワダは聞いた。彼あるいは彼女の目玉はビー玉みたいだ、ワダはビー玉が好きだった。
「彼女を埋葬してあげましょう。それから、あなたは着替えて身なりをちゃんとして、今度は依頼を待つのです」
「オレを殺してくれないんですか?」
デフォルトは不意に戸惑ったようだった。
やがて諦めたように笑う。笑うというより息を逃がすみたいだった。
「私はあなたの才能を評価しています。それこそ嫉妬するくらいには」
ワダは雷に打たれたように震えた。
「じゃあ!なら、オレ!仕事がんばります」
「はい、そうしてください」
デフォルトは微笑んだ。ワダも嬉しくなって微笑んだ。
二人はシオリを埋葬した。ワダは自室に帰ってシャワーを浴び、服を着替えた。
それから上からの指示で、ワダはデフォルトと組むようになった。

ワダはいつも思っている。
蝋燭の炎がふっと消えたみたいに相手が死んでいくのを見るたびに、ああなりたいと願っている。

「とうとう諦めたのか?」
マスターは彼あるいは彼女に声をかけた。彼あるいは彼女は疲れたように笑んだ。
「彼を見つけて育てたのは、私なんですよ」
「知ってるさ」
「何でも知ってますね、あなたは」
「何でも知ってるよ、マスターだからな」
「なら、この気持ちは………」
「ーーギターなら貸せるぜ」
「……遠慮しておきます」

下手くそなギターが聞こえる喫茶店があったら、よく注意して欲しい。常連客たちはちょっと普通じゃないかもしれないから。でも、血の匂いはしないからすこし安心だ。店からはマスターお得意のブレンドコーヒーが香るだけで、依頼なしに彼あるいは彼女たちは決してあなたを傷つけない。
無論、どんな場合でも例外はあるにしても。


陽炎:四話


彼あるいは彼女は便宜的にデフォルトと呼ばれている。この仕事における初期設定。彼あるいは彼女は優れている。組織のなかで最も優秀な一人だ。彼あるいは彼女を皆、目指すように求められている。組織のデフォルトとなるように仕込まれる。デフォルト。彼あるいは彼女は便宜的にそう呼ばれている。

「No.******の依頼人だが、状況はどうなっている」
「ワダと共に居るようです」
「ワダ、ワダか」
聞きたくない名前を聞いたようにcampusが言う。No.******の話をするならワダの話は除外できない。campusは芝居じみたところがあり、彼女は尤もらしく眉を潜めてみせた。デフォルトはそれには反応しない。
「あれも一種のバグだな。二人とも喰い合えば問題はないのだが。しかし、ワダの件もどうなっている?動画を流通させた犯人はまだ捕まってないのか?」
「最初に動画が発信された場所をたどっても複数のサーバーを経由しており、発信元を特定するのは難しいようです」
「問題だらけだな」
「ワダを切り捨てても良かったのでは」
campusは憂鬱に息を吐いた。
「それも問題がある。飼い殺ししていた方が得だ。こうならなければ、あいつは貴様にもなれたのにな」
デフォルトは答えなかった。
ワダは飛び抜けて優秀だった。天才といってもいい。他にうかうかと渡せば強力な競合相手になりうる。
「とにかく、シオリを片付けてくれ。貴様ならば容易だろう」
「依頼人を殺すのは規約違反ではありませんか」
「殺さなければいいのだ」
campusはウィンクする。デフォルトは無反応だ。campusが諦めたように片手をあげる。
「もういい、行ってくれ」
デフォルトは頭を下げる。彼あるいは彼女が意識を遮断するとすぐにcampusには知覚できなくなった。campusが意識する間もなくデフォルトは執行室を出た。そのまま喫茶店に向かう。近づくとギターの音色が聞こえる。伸びやかで透明感のある歌声が聞こえる。サウンド・オブ・ミュージックのエーデルワイスだ。彼ではなかった。

彼あるいは彼女は店内に入る。カウベルすら鳴らなかった。ふっと煙のように侵入し、ギターを鳴らしながら歌っているのがシオリだということが分かった。
常連客は聞き入っている。ワダだけが、子供じみた退屈の顔をしていた。歌うついでに瞼を上げたシオリと目があった。偶然だろうか。彼女は無邪気に微笑んだ。ついでワダに媚びるような視線を向ける。ワダは、あしらうように足を組んで座り直した。
歌が終わり、拍手が広がる。

デフォルトがカウンター席に座ると同時にマスターが声をかける。いつもの所作でコーヒーを淹れていた。それで、みんな彼あるいは彼女に気づいたが、一瞬で忘れてしまったようだった。ワダだけが、じっとりとした視線を向ける。焦燥のような執着なような、その癖、大好きな宝物に出会ったような瞳だ。デフォルトは帽子のつばを下げた。
ワダは夢から覚めたようにはっとした、同時にシオリがワダに抱きつく。
「わたしのギターどうでした~?」
「オレのほうがうまいね」
「え~?へたっぴだったじゃないですか」
「成長途中なんだよ」
「えー?」
シオリが笑う。ワダはうんざりとした顔をしてシオリから離れてギターを手に取った。ぎこちない手付きで弦を押さえ、演きはじめる。月の名前をもつ歌だ。前に聞いたときから進歩はないようだ。Malikaが言う。
「へたすぎ」
「かわいいですよぉ」
「かわいい?」
「ワダさんはかわいいんです」
ワダが露骨に顔をしかめた。
「依頼はまだ終わらないのかよ」
「継続しろって上が」
「お前、どんな権力あるんだよ」
「えー?シオリってよんでほしいなー?」
「呼ばねえ」
帰るわ、とワダが言う。わたしも帰る、とシオリが手を上げる。
「マスター、頼む」
ワダが言う。マスターは肩を竦めた。二人は結局連れ添って店を出ていく。絆されてるな、とハタナカが言い、Malikaが楽しそうに笑った。デフォルトはそれをないものとして見ている。
二人は自分達がごく自然に会話していることに気まずそうな顔して、それぞれ、そそくさと店を出ていく。

「シオリはずっと彼といるのか?」
「ああ、べったりとね。飽きないもんだ」
彼あるいは彼女はコーヒーを飲む。バインダーは出てこない。
「お前さんがでてこなくても、あいつなら片付けられると思うが」
「そう思う」
「大事にされているな」
「そうだな」
「シオリは危険だが無害な花というかんじだな」
「対応を誤らなければ、だろう」
「そうだ」
マスターがカウンターから出た。ギターを手に取る。
「そういえばあなたの曲は聴いたことがないな」
「昔のことさ」
マスターは笑った。シオリの正体は割れている。フリーランスの殺し屋で娼婦だ。彼女の身元保証したお得意様は既に処分されている。上の目論みは分かっている。デフォルトと対面したときのシオリの実力を計りたいのだ。場合によってはスカウトも考えているのだろう。その場合、ワダはいい餌になりうる。邪魔なら殺すまでだ。
campusは流れ者をスカウトするのは避けたがっている。一刻もシオリを処分して厄介事を避けたいのだ。
上も一枚岩ではない。デフォルトにある意味一存されている。

マスターがギターを弾きはじめる。店には誰もいないかのように。哀愁じみた掠れた低い声がギターの音色と絡む。もとのギターの持ち主だけあって、シオリの声よりもギターの音色に馴染んでいる気がした。マスターのオリジナル曲だ。失った恋を痛む歌。よくある陳腐なラブソング。

「マスター」
彼あるいは彼女は言う。
「彼の動画をアップロードしたのは私なんだよ」
マスターは歌い終えた。
カウンターの食器を下げ、彼あるいは彼女のカップにコーヒーのおかわりを注ぐ。
「知ってるさ」
彼あるいは彼女は微笑んだ。マスターも微笑んだ。店は静けさを取り戻す。ゆったりと時間を刻みながら、彼あるいは彼女は彼のことを考えている。

デフォルトという単語には元々、別の意味があった。不履行。果たすべき約束などを実行しないこと。
デフォルトはコーヒーを飲む。カフェインが巡り、音楽を奏でているみたいだった。

陽炎:三話


「お願いします、お願いします、この子だけは、子供だけは殺さないでくださいッ」
彼はもう何も喋れなくなった青白い顔の子供を見る。こういう時の子供は老人なようにも見え、達観じみた眼差しはすべてを悟っている。
彼は言う。
「親を殺された子供がまともに育つと思ってるのか?」
相手は顔を歪めた。絶望にも憤怒のようにも思う。お前がそれをいうのか、と言いたいようにも思う。相手が抱える子供を奪い取って殺し、獣のような息を洩らした親を殺した。彼の依頼はこれで完了だ。彼は老若男女殺すことで依頼を受けている。殺しを専門とする人間のなかには子供は殺さないといった主義を掲げるものもいる。彼はそれは欺瞞だと思っている。親を殺された人間がろくな人間になるわけはない。彼はーーハタナカ自身が、そうだったからだ。

マスターがコーヒーを淹れる。いつもの手順、いつもの香り、いつもの音、変わらないもの。バインダーを添えられて、ハタナカは一瞥する。コーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜる。
「やだーっ!おいしそう~!」
大体いつもと同じだが、いつもと違うこともある。
ワダがげんなりと顔をしかめる。その腕に絡み付くのは女だ。身体全体が柔らかいもので出来ているみたいな、妙に甘ったるい匂いが彼女から漂っている。
「ねー。これ、もっとホイップふやせないんですかー?」
「足せるよ」
「えーっ、じゃ、もっとやまもりがいいなー?」
マスターが一度差し出したカップを引っ込めた。たたでさえクリームに満ちたカップに器用に追加していく。彼女が嬉しそうにムービーを撮っている。ワダはずっとげんなりしている。
ワダに一目惚れしたから会いたいという馬鹿げた依頼を会社の人間は通したらしい。
「誰だよこんな依頼通したやつ」
「あたしだけど」
「うわっ」
Malikaが音を立てて乱暴に座った。ハタナカとはひとつ空けてある。元々知り合ったときもそういう席順だった。別れた後もお互い律儀に店に顔をだしては同じカウンター席に座りつづけている。そのことに、意味があるように思えてしまう。Malikaはまだ俺のことを好きなんじゃないか。ハタナカは、そう思ってはそんなわけはないだろ、と自分で否定する。今日も自分にきっちり否定してから、マスターにホットサンドを頼むMalikaに恐る恐る視線を向ける。Malikaはこちらに目も向けない。代わりにワダに絡む彼女を見る。
「良かったね、シオリちゃん」
「えへ、ありがとー。おかげで、いま、ラブラブでーす」
ぐいっと腕を引き寄せて彼女ことシオリがワダにくっつく。ワダは無反応を決めたようだった。
「Malikaさんにききたいんですけどぉ、ついかりょーきんってありなんですか?」
「申請してみて。その時に決めるから」
「ありがとーございまぁすー」
依頼の延長が決まったような口ぶりだ。
「いいのかよ」
ハタナカは堪らずMalikaに話しかけた。Malikaは冷たい一瞥をくれる。
「何が?」
何がって。よく考えなくてもこれは異常なことだ。ワダの動画からワダの素性がばれ、その上常連客にも繋がりが出来て、会社のことも知られている。シオリがただものではないことは明白で、それを踏まえてこの喫茶店にもいる。ハタナカの考えをMalikaは見透かしたように、鼻をならした。
「なにか出来るの?」
冷たさにハタナカは言葉をなくすが、絞り出す。
「こんな依頼通すべきじゃないだろ、お前だって分かってるはずだ」
「あたしの何を分かってるの?」
Malikaの苛立ちに感化されてハタナカも苛立ってくる。いま、こんな関係になっているのもお前が俺との結婚を拒否したからだろ!
「あれー?おふたりさん、わたしのことでけんか、しちゃったりしてます?」
シオリに同時に反論しかけて、Malikaはホットサンドにかぶりつき、ハタナカは別に、と首を振った。喧嘩したいわけではなかった。ただもっと話をしたかった。結婚が嫌なら別の形もある。ハタナカはMalikaと一緒に過ごせるならどんな形でも良かった。
不意にワダがシオリを振り払った。
「邪魔」
「えぇー?」
「オレ、あんた嫌いだから」
自ずとみんなの視線がワダに向かう。その次にシオリへ。シオリは何か言いかけたような口の形で半笑いのような困ったような顔をしていた。ワダが店を出ようとすると新しい客が現れた。この辺りじゃ特別な魔女みたいな帽子と嘘みたいなマントを翻すその人は、ワダにぶつかることはなく、猫みたいにしなやかに入店する。ワダが一瞬戸惑ったように立ち止まった。その隙をついて、シオリがワダに飛び付く。
「じゃ、いまからわたしのこと、もーっと、すきになってもらいますね」
彼あるいは彼女は二人を一瞥し、カウンター席に座る。
ワダが大きなため息を吐いて、しがみつくシオリをそのままに店から無理矢理出ていった。二人のやり取りが僅か聞こえてくるがそれも聞こえなくなる。
「彼はまた厄介な立場らしいですね」
彼あるいは彼女を知覚しつづけるのは難しかった。ハタナカは感覚を鋭くさせたが日常生活でそれを維持しつづけるのは、労力に見合わなかった。マスターが応じる。二人は会話しているようだが、それは別空間のような響きを伴っている。自ずとMalikaと店に二人だけのような気分になり、ハタナカはコーヒーを半分ほど一気に飲んだ。
「仕事だから行くわ」
言わなくてもよかったと、言った後に気づいた。そしてMalikaが、
「そう、いってらっしゃい」
と、言った後にハタナカと同じことを考えたらしかった。二人は一瞬顔を見合わせて、互いに目をそらした。
ハタナカの尻は中々椅子からは浮かなかった。Malikaが言う。
「………………別にあんたとは、もとは友達だったんだし、それでいいけど」
「俺は嫌だ」
はっきりとしたハタナカの声は別空間の二人にまで届いた。
「そんなの、なれるわけないだろ、俺は、俺はまだ」
「いいから」
「は」
「仕事、行けば」
ハタナカは言葉を返せなかった。そしてまた仕事に行き、依頼通りに親と子供を殺した。ペットの犬と猫と鳥まで殺した。その後家に火を放った。火は燃え上がって近隣にまで及び、煙を吸って何人か緊急搬送された。一人意識が戻らないひとがいるらしいがそれはハタナカの預かりしらぬところだった。
ハタナカの親は殺されたが、自分は殺されなかった。わしは子供は殺されねえ。だから好きに生きろと言われた。この仕事についてからその殺し屋を調べたが酒の飲みすぎて肝臓をやられ、大分前にの垂れ死んでいた。

ハタナカは、家に帰る。部屋にはまだMalikaの私物や残り香が残っている。なるべくその空気を壊さないようにして、今のハタナカは虫のように部屋に住んでいる。天井を見つめ、Malikaを思い出しながらオナニーをして、ゆっくりと息を吐いた。自分が子供をもつことは考えられなかったが、Malikaとセックスをしていたのは結構不思議だった。子供が生まれるとして、老人に良く似た面差しの子供が生まれるだろうと思った。それがMalikaの乳房を掴んで乳を吸っていきようとするなら、ハタナカはたぶん、首を捻って殺すだろうと思った。

陽炎:二話


彼女の毎朝のルーティンは決まっている。寝起きに白湯を飲んで身体を目覚めさせカーテンを開けて日光を浴びる。朝食は彩りよく野菜とフルーツ中心で無論タンパク質も忘れてはいけない。昨日寝る前に勉強した外国語の復習をざっとして、ゆったりとアロマを焚きながらヨガをする。

「疲れた~!」
「また朝の日課かよ」
ハタナカが呆れる。
「うるさいな、別にいいでしょ」
「そういうのは、朝を豊かに過ごすもんじゃないのか?朝から疲れはててどうすんたよ」
「あんたには関係ないでしょ」
ぴしりと言った彼女の声の冷たさにハタナカは口をつぐむ。気まずそうに目線を滑らす素振りにマスターが言う。
「これからMalikaちゃんは仕事なんだろ?それじゃたっぷり食べないとな」
「そうそう、いただきます!」
マスターお得意のホットサンドだ。ハムとチーズのシンプルな味だが何故か自宅では再現不可能だ。
Malikaがホットサンドを食べ始める。ハタナカはずっと気まずそうだ。
ハタナカはこの前誕生日でその時付き合っていたMalikaに別れを切り出した。なにもこの店に二人で通わずともとは思うものの常連とはそんなものである。
「おはよー」
明け透けに呑気な声が店内に響く。ギターを背負ったワダだった。
「ひょはひょひょひょ」
「えっなになに?」
「曲弾けるようになった?」
Malikaが口の中のものを飲み込んで尋ねる。全然、とワダが笑う。
「センスないのかも」
「あんたが足らないのはやる気でしょ」
「そうかも」
マスターが肩を竦める。マスターがコーヒーをいれて差し出す、バインダーはついていない。ワダも肩を竦めた。本日も仕事なしだ。
「大丈夫なのか?」
ハタナカが言う。
「世の中が平和ってことだろ?」
「依頼きてるぞ」
「依頼きてる」
ハモった言葉にMalikaが舌打ちした。ハタナカは気まずそうに縮こまった。眉尻を掻いたワダが、コーヒーを飲む。
「もしかして干されてる?」
「そうなんじゃない?」
Malikaはにべもない。
「営業してくるかなー。動画見せて」
一種の自虐ギャグだ。問題は面白くないことである。白けた雰囲気にワダが誤魔化すように空咳をする。
「さ、ギター弾けるようにならなきゃな」
「そーゆー問題?」
「依頼を仕分けてんのMalikaじゃん」
「あたしは公平性を大事にしてるから」
「…………それじゃ、俺は行くから」
Malikaがまだ居たの?という顔で見る。ハタナカはそそくさと出ていく。
「二人ともマジで別れたの?」
「マジだけど」
「睨むなよ、なんで?ハタナカ結婚するって言ったじゃん」
ワダを睨んでいたMalikaがそっぽを向いた。
「……あたしはしないって言ったから」
「え、それじゃん!」
「うるさいな!」
「なのに、怒ってんの?」
「うるさいって言ってるでしょ」
「Malikaちゃん、仕事は?」
「あ!そうだった!」
Malikaがごちそうさま!とバタバタと店を出ていく。
「なんでMalikaは嫌なの?」
マスターは、食器を下げる。
「人それぞれってもんさ」

ハタナカにプロポーズされたのは嬉しかった。こんな仕事をやってる人間は基本的に家族などいない。自分の居場所が出来るのかと思ってほっとしたことを覚えている。でもすぐに、嫌だなと思った。ほっとしたことも嫌だった。そーいうんじゃないから、と勝手に口から出て、ハタナカがすごく傷ついた顔をしたことを覚えている。

パソコンに向き合って次々とくる依頼を確認していく、自分一人では細かいところを調べられないからチームでの仕事になる。Malikaはリーダー的ポジションだったが、飛び抜けて優れていたわけではなかった。上の方から仕事を辞めていき、自然とリーダーのポジションについたのだ。年功序列でないが、経験がものを言う仕事だから、Malikaの経験が評価されたことになる。なんだかなー、とMalikaは思っている。だからといって、何かをしたい、こうしたい!という思いはなかった。

「No.******?なにこれ?」
目についた依頼書を読み上げる。チームメンバーのEMILIOが困った顔をした。
「今調べてみてはいるんですが、依頼者の身元は保証されてるみたいで」
「うーん、もうちょっと調べてみて」
「どうするんですか?厄介なことになる前に却下したほうがよくないですか?」
「ワダは今、仕事ないし、あるだけマシじゃない?」
「いいんですか?」
重ねてEMILIOが尋ねる。Malikaはイライラした。
「このくらい、どうってことないでしょ。もういい、あたしが調べるから他の依頼を調べて。上司にはあたしが連絡する」
EMILIOは感情のこもってない声で分かりました、と言う。べつにそこまでひどい依頼ではない。ただ、単純にちょっとブッ飛んでるだけで。身元を照会し費用も満額支払えることを確認した。保証人は依頼のお得意様だ。猫なで声で電話して直接確認をかける。
「あのー毎度お世話になっておりますぅ。マエバシ文具店のものなんですが、ええ、ええ、はい、お客様がご紹介していただいたお客様のお話を、ええ、はい、あっ!そうなんですかぁ、はい、はい、わかりましたぁ、はい、いつもご贔屓頂きまして、はい、はい、有り難うございますぅ。いいえ!いいえ!とんでもございません、はい、はい、また是非、よろしくお願いしますぅ」
確認はとれた。Malikaは上司に声をかける。
「は?いや、まー。ランクEでしょ?どうでもいいんじゃない?」
忙しそうな上司は適当に承諾をくれた。どうでもいい。確かにそうだ。どうでもいい。
Malikaは何か自分はこだわっているのか?と自問してみた。どうだろう?これはハタナカのことに関係あるのだろうか。

依頼書No.******
お願い!動画を見て一目惚れしちゃったの!あの殺し屋さんに会わせて!

Malikaは鼻で笑った。
マスターのもとに依頼書を送る。この時代にFAXを使う。ピーガガガ。
結婚するしないはどうだってよかった。ハタナカのことは好きだったし多分愛していたし、今もそうだろう。好きだし愛している。

Malikaはパソコンの前に戻る。誰かを殺したい人間にこの世界に溢れていて、それで仕事は回っているし、罪悪感はなかった。Malikaだって殺したい人間がいて、その為にこの仕事についたのだ。

それが、Malikaの場合はハタナカだった。自分の両親を殺した男はハタナカだった。最愛の妹を殺したのはハタナカだった。

きっと、それだけの話だったのだ。

陽炎:一話


いかんせん愉快なことだった。
彼あるいは彼女は影の如くターゲットを殺した、そこには風一つ残っていなかった、蝋燭の炎がふっと消えたみたいに相手は死んでいた。それを初めて見た時、オレはああなりたいと思ったんだ。

「またこいつからの依頼かよ」
「文句はなしだ」
あるだけマシだろ?とマスターが言う。性根の悪い依頼者はねちねちねちねち、いたぶるだけいたぶって殺すのが性癖みたいで、依頼も苦しむ様を撮影して依頼者の許可をとるまで殺してはいけない。どこかのお偉いさんみたいだがろくな死にかたはしないだろう、少なくともオレも。
「他に何か楽しいことはないのかよ」
「ハタナカが今日誕生日だ」
「そりゃおめでとう」
で、他には?と目線で投げ掛けるとマスターは肩を竦めた。
「毎日楽しくなりたいなら楽器でも始めるんだな」
「始めてどうするんだよ」
「好きな曲を弾けばいい」
ギターなら貸してやる、マスターの言葉は本気か冗談が分からないが受けとるのはどちらでもいい。
考えとくよ、とオレは言った。
店のドアが開いて、カウベルが鳴った。目許以外は黒で覆われた客がやってきた。ここでは普通のことだ。だが、オレは目を見張る。この辺りじゃ特別な魔女みたいな帽子と嘘みたいなマントを翻すその人は、オレにとってスペシャルな存在だった。
「………」
オレに気づいたその人はビー玉みたいな瞳をオレに向けて目礼した。ちなみにオレはビー玉が好きだ。ころころ綺麗で甘くて美味そうだ。子供のときに一度食ったことがあるが歯が折れてうまく味わえなかった。
カウンター席まで来るとマスターはいつの間にかコーヒーを用意していた。支払いのバインダーをカップの隣に置くが、それが殺しの依頼書だ。この店の作法。マスターがオレに早く店をでるように顔で言う。オレはごねてみせたがマスターの機嫌を損なうことは得策ではない。結局諦めて店をでることにした。
「どうぞ、ごゆっくり」
「…………」
その人からの返事はなかった。マスターの圧が強まる。オレはとっとと店を出た。最悪な依頼がオレを待っていた。

「彼は」
彼あるいは彼女が言葉を発した。
「まだここにいるんですね」
「行くところがないんですよ」
そりゃ、とマスターは付け加えた。
「選ばなければいくらでもあるでしょうが」
彼あるいは彼女は、ここはさほど思い入れすような場所ではないはすだが、とは思った。無論自分は世話になっているし大事に扱われているから不満はないが彼にとっては別だろう。
「本人は飄々としてますけどね」
何を考えているやら、とマスターは言う。彼あるいは彼女は目を細めただけだった。

そんな会話がされていることを露知らず、彼は仕事をこなすべく、今回のターゲットの情報を調べる。
ざっとインターネットを調べて出てきたところで、愛妻家で娘が一人、とある企業の役員をしていた。取り立てて悪評はないものの、依頼者には思うところがあるのだろう。耳を切り離して家族に送りつけろ、というオプションが付け加えられていた。依頼者の卑屈までのねちっこさを思うとうんざりする。仕事ぶりにもあれやこれやとケチをつけてきて、値下げを要求するようなちんけな男だった。しかし、そういう依頼者からしか仕事は来ない。彼はランクEの殺し屋だったし、今所属している組織ではそれ以上の昇格は見込めない。

「あ、殺し屋じゃん」
「写真いい?」
街中を歩いていると声をかけられた。普通の一般人だ。喜色に染まるわけでも興奮するわけでもなく、ま、一応撮っとくか、というかんじで、雑に写真を撮ることになり、彼は適当な笑顔を浮かべた。
「ねー。いつ捕まんの?」
「さあ、分かんない」
「法治国家やばー」 
彼は適当に笑ったまま、その場を去った。彼の昇格が見込めない理由はここにある。歩いていて声をかけられほど彼が何をしたかと言うと、ある時、彼が人を殺す動画が世界に向けて発信されたからだ。今、彼が逮捕されて刑務所にぶちこまれてない理由は、組織の働きかけにより、良くできたフェイク動画でした~!ということでオチがついたからで、そのことを疑問視する声は無論あるが、警察からの正式な発表もあり、彼は人を殺したけどそれが嘘だったひと、ということで一時期有名になってしまった。実際、本当に人を殺していたのだが。この一件で彼は組織に大きな借りを作ることになり、嫌な仕事ばかり回されるようになってしまったというわけだ。

彼は暫くターゲットの生活を見張ったのち、毎週火曜日の午後八時二十二分にフィットネスジムに行く道でターゲットを誘拐して監禁し、依頼人がオッケーを出すまで拷問した。依頼人のお望み通りに片耳を切り落とし(温情で死んだあとに切った)、せめてもの優しさでかわいい犬のぬいぐるみと一緒に片耳を詰めて家族に送りつけた。そのあと妻は発狂し、娘は犬を憎むようになったが、それは彼の預かり知らぬところである。
今回もきっちり仕事をやったというのに、また依頼人がねちねち文句をつけてきたので、彼は調べていた依頼人の秘密を各所に送り付けた。瞬く間に依頼人は社会的に死んだが、彼に自分を破滅に追いやったやつを殺せと高額な料金で依頼してきた。彼はその依頼を引き受けた。現在鋭意捜索中である。

「ギターのコードがわからないんだけど」
「毎日起きてから寝るまでの間弾いておけば身に付くさ」
「そんなもん?」
「お前にはやる気がないだけだ」
彼は口笛を吹いた。
「ところで何を弾きたいんだ?」
マスターはグラスを磨きながら言う。彼のお得意様は破滅したので、彼はいささか暇をもて余している。
「モテるような曲だよ」
いいだろ、と彼は言う。マスターは顔をしかめてみせてから、
「俺もそうだったよ」
と言った。
「マスターはモテた?」
「さあな」

下手くそなギターの音色が聞こえる喫茶店があったら、よく注意して欲しい。常連客たちはちょっと普通じゃないかもしれないから。でも、血の匂いはしないからすこし安心だ。店からはマスターお得意のブレンドコーヒーが香るだけで、依頼なしに彼あるいは彼女たちは決してあなたを傷つけない。

陽炎:人物紹介


ワダ
(一応主人公)

Malika
(好きなインフルエンサーがいる。最近ハタナカと別れた)

ハタナカ
(最近誕生日だった人)

マスター
(喫茶店のマスター)

デフォルト
(優秀な人)

シオリ
(ワダが好き。かわいい。)

(随時更新)

天落:四話(終)



昼間から飲んだ暮れているザッカスに耐えかねたようにロイが怒った。
「さっさと働けよおっさん!!」
ザッカスは一瞥しただけでまた酒を飲む。酒を飲む金も依頼の経費という名目でデモアから出たものだ。
それも知ってるロイはデモアにも怒る。
「デモアさんもこんなろくでなしを甘やかすのやめてくださいよ!」
デモアのゴーグルが光る。
うっとりといつまでも聞きたくなるような声で言う。
「まぁ、ザッカスさんの考えがあるだろう」
「ないですよ!!あるわけないでしょうが!!」
それはそうだ、何もない。一日中飲んでくれていたらせめて見えるところで飲んでいてください、とデモアが事務所の一角に誘導して、そこからもずっとザッカスは飲み続けている。酒が尽きれば買いに行き、その繰り返しだ。酒臭さを回避すべく事務所の空気清浄機は強力に稼働し続けている。ロイがザッカスの酒瓶を奪い去る。ザッカスは酔っぱらい特有の濁った目でロイを見るとソファの上で横になってしまった。
「何すか?このクズ」
答える者はいない。
「もういいでしょ、とっとと放り出して捨ててきましょう。こんなやつ、ここに居ても価値がないでしょ」
「あー、ロイは動物に恋したりするのか」
完全に酔っぱらいの戯れ言だ。ザッカスの質問にロイは眉根を寄せたが、すぐに皮肉気な笑みを浮かべた。
「マーサに聞いたらいいんじゃない?人間は獣人に恋をするのかってね」
話の矛先を向けられたマーサは目を見開いた。
抗議をしようとして、困惑している。
「答えられないだろ?そういうことだよ。あんたも、人に聞く前に自分で考えてみたら?」
ロイが鼻を鳴らす。
ザッカスは押し黙っていたが、立ち上がった。ロイから酒瓶を奪い取り、そのまま事務所を出る。
なんだあれ、と呆れ返ったロイの呟きが背中に届いていた。



街だ。一家とスモモの暮らす街だ。はじめて来た時と変わらないはずが一層寂しげに移るのは気の所為か。一日ずつ廃れていっているのかもしれない。貧困は見えない緊張感を張り巡らせる、余裕のない人間達の雰囲気が飲んだ暮れているザッカスを一瞥する。スモモは居なかった。まさか、チャールズが?
ザッカスは瓶に残った酒を一滴ならず、舐めとるように飲み干す。
ぼんやりとした頭に、人の足音が届いた。
犬の唸り声も聞こえる。
「―――どちらさまですか」
警戒する女の声だ。スモモとその飼い主。おそらく、少年の母親だろう。
疲れきった顔をしていた。ザッカスは、幾分か瞬いた。
「……犬を見に来たんです」
「…………」
「ここに来れば、犬に会えるかと思って」
「…………………そうですか」
相手は、考え込み、警戒するスモモを宥めた。
「俺、犬を飼いたかったんです。拾ってきたことがあって、けど、駄目でした」
「…………もうここには来ないでください。この犬も手放しますから」
「――手放すんですか?」
「この犬をどうしても引き取りたいって言う、獣人の方がいて、お譲りするんです。お礼もしてくれると言うので」
大金のニュアンスがあった。
「………大事な犬じゃないんですか?」
「大事ですよ、でももう、やっていけなくて。犬にはどんどんお金がかかるようになってどんどん長生きできるようになって、きりがないんです。自分達の暮らしもありますから」
スモモは撫でられて尻尾を振っている。その実、話を理解しているのかも知れなかった。
母親は、少し遠くを見て、ザッカスに言う。
「あなた、子供は?」
「……いません」
「そう、それがいいと思います。人間の子供より、この犬の方がまだ、未来があります」
こんな話すみません、と言われて、ザッカスもすみませんと告げた。
「あー、いつ、手放すんですか」
「今日です。このあと、すぐ。獣人の方が迎えに来るので」
家が静かなのは、父親が息子を連れ出しているからかもしれなかった。
偶然丁度良く出会った無関係の他人だから、母親は話してくれたのだろう。
これ以上、話すつもりはないと言う風に母親はスモモを連れて家に入ってしまった。
このまま待っていればチャールズに会えるのかもしれない。
最初に話した時、引き取る気はなさそうだったのに、買い取りを申し出るなどどんな心変わりをしたというのだろう。そもそも、殺してくれと言われていることをあの母親に言うべきなのか。
酔っ払った頭はうまく働かない。いや、うまく働いた試しなど、今までなかった気がする。
「――こんなところで会うとはな」
この土地とは馴染まない高級感のある香水が香った。
尊大さを伴って現れたのはやはり、チャールズだ。
「あー、あんた、スモモをどうするつもりだ」
「飼うのだ」
「殺してくれと言わなかったか」
「言ったとも。だが、気が変わった」
「何故」
「自分の誇りを思い出したのだ」
一瞬、何を言っているのか、分からなかった。
一瞬だけそうなのかと思ったが、ザッカスにはチャールズの言い分を理解できなかった。
「……あんたは自分で何を言っているのか、分かっているのか?」
「君こそ分かってるのかね?随分酒臭いが」
ザッカスは口ごもる。
チャールズは冷えた眼差しを向ける。
「犬の方が未来がある。そうだろうな」
「…………聞いてて」
「聞こえたんだ。我々は耳も目も鼻もいい。………君には相談料として教えてあげよう、何も人間の未来がなくなったわけではないのだ」
ザッカスは目を向ける。
チャールズは、狼の獣人は、むしろどこか慈愛のこもった眼差しで、ザッカスを見詰める。
「元々、人間に未来はなかったのだ。君たちがみていた未来は、我々からーー獣人から奪ったものだったのだから」
それにすら気づけていないとは。
呟きながら、チャールズは、ザッカスの肩を親愛を込めたように叩いて見せた。
尻尾が揺れる。
「我々は覚えている、忘れていないさ。君たちがずっと何をしてきたのか、どんな言葉を浴びせ、どんな扱いをし、我々の命を、尊厳を、心を、いとも簡単に消費してきたことを」
「……………あんたの」
ザッカスの喉は渇いている。
酒に濁った息をゆっくりと吐き出した。
「恋は、恋だったんじゃないか」
チャールズの瞳はふと揺れた。肉食獣特有の厳しい目元が緩み、細まった。
「俺は俺らしく、ありたいのだ」
どういう意味なのか、やはり分からなかった。
「ーー酔いを醒ましたまえ。今の君は、なにも分かってないように思う」
「お、俺はただ」
チャールズが首を振る。なにも言わず、ゆったりとした歩幅で、スモモのいる家に向かっていく。
ザッカスはもう自分にはなにもできないことを悟る。
「俺は、あんたの恋の話、嫌いじゃなかった」
だから、スモモを殺す以外で互いにいい方法を探したかったんだ。
チャールズの耳はいい。
距離がある声でも耳が動いて届いたことが分かった。チャールズは立ち止まり、振り返らなかったが、何故か彼の傷ついた気配が伝わってくる。
人間の暮らしと世界ばかりみてきて、実際獣人の置かれている世界のことは、何もしらないのだとザッカスは気付いた。
人間が翻弄され、混乱し傷つく世界で、獣人も同じように翻弄され、混乱し傷ついているのかも知れなかった。
この、答えのない世界で。

ザッカスはどこにも行く場所がなかったから、夜遅くまでさ迷った挙げ句、結局、事務所に帰ることにした。
事務所の灯りはついていて、マーサとロイの姿はなかった。
デモアが一人仕事をしており、ザッカスに気付くと、席を立った。
「ザッカスさん、お疲れ様でした。先ほど相談者より連絡を受けました」
「…………すみません、何もできず」
「いいえ、なるべくして、収まったと言うところでしょう。問題ありませんよ」
本当にそうなのだろうか。疑問だらけで納得がいかないザッカスの心境に汲んでデモアが言う。
「ご本人は満足されているようです。誰にも言えない思いを吐き出せたのですから、それで充分だったのでしょう。尤も件の犬は別の場所で大切に飼育されるとのことですので、ご安心を」
スモモの今後のことを聞くと少しほっとする。相変わらず自分は何も解決できない迷探偵だ。
「あー、まあ、じゃあ、それじゃ依頼も解決したことだし、明日には出ていきますよ」
「そう、そうか、そうですよね、そうですか」
デモアが不思議と狼狽した。
「何度もいいますが、この前は危ないところ助けてくれて有り難うございました。今後はあんまり借金しないように気を付けますんで」
「――答えなくてもいいのですが、どこか、ザッカスさんは行くところはあるんですか?」
「あー、まあ、昔の知り合いでも頼りますよ」
「そうですか………………」
「でもまあ」
「はい!」
デモアの両耳が立つ。
「俺は、ジョージ・プライズは最低な人間だったと思います。そんな奴のことなんて、忘れてしまった方がいいと思いますよ」
おかげで助かったのも事実だが、デモアには相応しくない人物だ。ザッカスは肩を竦めた。
「あー……それじゃ、デモアさんも早く休んでください」
「………私は忘れません」
デモアが言う。いつまでも聞いていたくなる声で言う。
「ずっと覚えています、あの日からずっと」
妙な心の痛みをザッカスは感じた。苦さが競り上がってくる。デモアの美しさはどこからくるのだろう、ザッカスはデモアに触れようとして、そのことに自分で気付いて手を拳にして、下ろした。
「おやすみ」
ザッカスはあがわれている部屋に戻った。
部屋の持ち主はデモア自身で、置いてある曲線の洗練された家具や座り心地のいいソファ、並べられたレコード類。ひとつひとつの小物。
デモアの広いベッドからは、ずっとデモアがつけている香水の匂いがする。
何も考えたくなくて、その日はソファで眠った。
もう、ここで眠る必要もないのだと思うと、ザッカスの心の奥で萎むものがあった。



翌朝、夜明けを向かえたばかりのまだ薄暗い中、ザッカスは事務所のみんなに世話になった挨拶をすべきか迷った。
躊躇したものの事務所が名残惜しいこともあり、こっそり出ていくことに決めたザッカスはこそ泥のようにビルを出ようとした。
「おはようございます」
デモアだ。あのまま昨日は仕事していたというのか?
出ていくことを見つかるのを恐れて事務所は覗かなかった。ザッカスは愛想笑いを浮かべる。
「あー、おはよう、ほんと、お世話になって、えーと」
デモアは目覚めに聞いても心地のよい声で言う。
「申し訳ありません、昨晩お伝えし忘れたことがありまして、お待ちしておりました」
「え?あ、はい」
「実はザッカスさんに依頼したいことがもうひとつあるのです」
「……………え?」
「というわけですので、また是非とも依頼をお受けくださるようにお願いします」
デモアが丁寧だが有無を言わさぬ様子を見せる。
ザッカスはつい後退り、周囲の様子を伺った。別に特別なことは何も起きてはいなかった。今日も世界はくそったれなだけで、朝に見るデモアも美しかった。ザッカスはなんだか途方にくれるような心持ちで、デモアのゴーグルの光を見た。ゆっくりと太陽の日差しが差し込み、辺りは白々と明るくなって行く。

世界はあの時、終わらなかった。
バルルダ・トライ。人類史上もっとも罪深き悪人、獣人史上もっとも慈悲深き賢人。
一人の獣人によって続いた世界は今日も続いていく。

朝日に照らされるマイクロフト・デモアを見ながら、これが恋ならきっと何かの間違いだと、ザッカスは思った。

(終)

天落:三話


ザッカスは一家の住む街で聞き込みから始めることにした。
崩れかけの建物や人が住まなくなって荒れた家、人の気配がする場所は落書きで埋まっていたり、壁が剥がれたり、屋根が窪んでいるこの一帯は、淀んだ空気が流れている。ごみが無造作に道端に散らばり、じっとりと張り付くように臭気がする。軽い情報なら相談者であるチャールズから聞いていた。一家の夫婦は共働きであること。一人息子がいること。暮らしぶりが巧くいっていないこと。とはいえ、今の人間暮らしぶりは巧くいっていないことがほとんどだ。一部の富裕層と成功者は獣人社会へうまく転換したが、実際の人間たちは躓いたり変化に馴染めないままうだつの上がらぬ暮らしぶりをしている。そんなものだから、獣人への恨みつらみを口に出す者も少なくない。
たった数十年で労働の基盤も社会の基盤も逆転したのだ。使うものから使われるものへ。見下す側から見下される側へ。
人間の住む土地はいつも薄暗い気配が漂っている。絶望や諦観というより、ザッカスには疲弊に感じる。静寂。
この先、明るい未来は自分達にあるのだろうか?この暮らしは一体どこまで続くのか?
「あの一家のことを聞いてどうすんだい、あんた、借金の取り立て屋か?」
ザッカスは近隣の雑貨屋の店主に声をかけてみた。店主は警戒し、怪訝そうな顔をする。ザッカスはデモアに用意されたスーツと下ろし立ての靴を身に付けている。どちらも上等なものだった。そういった人間はこの辺りじゃ珍しい。
「あー、まあ、そんなところです」
「そんなところってどんなところなんだい」
「あー」
不審な視線が突き刺さる。
「犬の、スモモのことで」
「あんた、環境健康委員か」
「の、使いっぱしりです」
環境健康委員会は、人間に飼われているペットの暮らしを見守る団体の名前だ。あながち嘘ではない。
「大方、あの狼のやつに言われたんだろう!」
店主はしかめっ面をした。
「あんたも人間なら分かるだろ、犬を大事にしたくても今のわたしらじゃ無理だよ」
「……………」
「あの一家だって、ほんとは犬好きなんだ、でもわたしらは必死に働かなきゃいけない。そうだろ?」
ザッカスは言葉を選び、選んだ挙げ句、率直に尋ねた。
「そちらのお宅で、実はペットの犬を虐待しているということは?」
「いい加減にしろ!出てけ!」
店主が怒ってザッカスを叩き出した。ザッカスは謝ってその場を立ち去る。
ほかにも聞き込みをしてみたが、おおむね似たような話だった。
「仕方ないだろ、貧乏なんだから」
「あの犬は可愛がられているよ」
「気取った狼野郎め!余計なことばかりしやがって!」
いや待て、とザッカスは立ち止まる。スモモが虐待されているかどうかを知りたいのではないのだ。殺せとお願いされたことに対して結果を出さなきゃいけないのであって、しかし、デモアに告げた通り、ザッカスにスモモを殺すという選択肢はなかった。
「おじさん、スモモを連れていくの?」
他に聞き込みできないかと歩き回っていると声をかけられた。振り向くと十歳頃の少年だ。痩せていて、顔も服も薄汚れており、靴もボロボロで靴先に穴が空いている。暮らしぶりは一目瞭然だった。
「あー、…………」
ザッカスはかぶりを振った。
「分からない。必要ならそうするかもしれない」
「やめてよっ!」
声は大きかった。悲鳴のような声に、周囲の人たちの目がこちらを向いた。
「スモモはうちの犬だ!!」
少年の叫びに伺っていた周囲の人たちが、ぞろりと怒気を孕んでザッカスに足を向ける。
ザッカスは、取り繕うように肩を竦めて、その場から急いで逃げた。

「お疲れさま!」
デモアの事務所は日当たりがいい。それで少し呼吸がしやすくなる。ここは懐かしい。ザッカスは自虐する。ここは、人間が取り上げられた世界だ。
マーサがお茶を淹れてくれる。ザッカスはスーツの上着を脱いだ。
デモアもロイもいなかった。
「どうです!解決しそうですか?」
「……………」
マーサは人間だ。
「あー、あの、ちょっと聞いてもいいですか」
「なんですか?どうぞ!」
「マーサさんはどうしてデモアさんに雇われたんですか?」
「あはは、気になりますか?」
「まあ、……気になります」
マーサはその質問に慣れているようだった。
「あたしね!前にも獣人に雇われてたんですよ」
お茶をどうぞ!とマーサが勧める。疲れたザッカスを労ってミルクと砂糖のたっぷり入ったミルクティーだ。
ザッカスは一口飲んで促す。
「それも、猿の獣人にね」
ザッカスの喉が鳴った。
マーサは笑う。笑うしかないようだった。猿の獣人の立場は、人間と同じくらい、あるいはそれ以上にこじれている。
「まあ、そんなわけで!デモアさんが拾ってくれたんです。あの人なんでも拾うから!世話を焼くのが下手なのにね」
マーサが言う。
ザッカスは付け加えた。
「不器用だしね」
「そう、ほんと、そう!!」
マーサが笑ってくれたので、ザッカスはほっとした。マーサが気を遣ってくれたのかもしれなかったし、これ以上ザッカスが質問を重ねることを拒否したようにも思えた。
猿の獣人は、人間に重宝されてきた過去がある。器用だったし、親しみもあったし、人間の不完全なものとして、足りなさを愛され侮蔑されてきた。獣人社会となってからは猿の獣人は人間に近しいものとして、他の獣人からは距離を置かれている。明確な差別はない。獣人社会はそういったことを嫌う。人間たちが行ってきた明確な間違いを恐れているからだ。ただ、実際に暮らす獣人たちは様々だ。猿の獣人の一部は人間たちを積極的に雇用し、友愛の印のように振る舞うがその裏では奴隷のように死ぬまで働かせたり、暴力や暴言など日常茶飯事だという。給料が破格にいい仕事は大抵猿の獣人の仕事だから気を付けろ、と人間達の間で囁かれている程だ。
ザッカスは正直、ほんとーに働きたくなかったから、いい加減なことをしながら借金を重ねて重ねて生きてきた。
果てにウインナーになる道があったのは、完全なる自業自得だ。それでいて、運良くデモアに助けられ、今、日当たりのいい場所でお茶を飲んでいる。

マーサは仕事に戻っていった。大量の紙の束を見ながらひとつひとつなにかを確認しているようだった。監査の仕事かもしれない。暫し呆けたようにザッカスはそんなマーサを眺めていた。

日が暮れてから、あの一家の様子を見るためにザッカスはあの街に舞い戻った。
灯りがついている場所は少ない。昼間、働いてなんとか保てている雰囲気が夜になるとまざまざと身に染みて降りてくるように、疲れの気配が一層濃厚だ。時々酔っぱらいの声がした。自暴自棄になる歌声が聞こえた。犬の声がする。スモモかもしれない。ザッカスは警戒しながら一家の様子を見に行く。
ぽつんと小さな灯りが見えた。少年の身なりからして分かるように一家の住む場所も困窮していた。割れた窓ガラスから人の話す声が聞こえる。資金繰りに困っているようだったが、ザッカスが聞き取れたのはそこまでだ。
――犬が吠えた。スモモだ。唸りと強い警戒の声に、ぱっと家全体の電気がついた。眩しい。
ザッカスは急いで逃げた。遠くから離れてもスモモは吠えていた。物陰に隠れて、落ち着くまで待ち、懲りずに距離を置いて様子を伺う。
「また借金取りかもしれない」
父親だろう声がした。
「大丈夫?」
不安げな母親の声がした。
「大丈夫。うちには優秀な番犬がいるからね」
よくやったスモモ、と誉める声がした。子供の声がする。応じる親の声。
ザッカスは息を吐く。
息を押し殺したまま、寝床として与えられている事務所に帰った。

「お疲れ様です」
デモアがいた。
デモアの事務所だから当然だ。
「ーー祖父はあんたに何をしたんだ?」
「どうかされましたか」
デモアのゴーグルに光が走った。
ザッカスはうんざりした気分で肩を竦める。
「別にどうもしないさ」
部屋にいこうとすると、デモアが引き止めるように尋ねた。
「なにか進展がありましたか?」
ザッカスは笑った。
「バルルダ・トライは極悪人だな」
「……理由をお伺いしても?」
「こんな世界、終わってもよかったんだ」
デモアがザッカスを見詰めている。そんな気配がした。
デモアの眼差しはゴーグルに覆われていてよく分からないのに、いつも真っ直ぐザッカスを捉えている気がする。
「あー、すいません、それじゃまた、明日頑張るんで」
「私にとって」
「え?」
「ジョージ・プライズは英雄ですよ」
ザッカスは顔をしかめた。
「それはどうも」
「ザッカスさんの好きなようになさってください。私があなたに依頼したのですから、すべてのことは私が責任を持ちます」
ザッカスはなにも答えなかった。
何もかもにうんざりしていた。
くだらない相談ごとやこの世界のこと、デモアのこと、そして自分自身にさえも。

天落:二話



※動物への暴力に言及する部分があります


「甘いものはお好きですか?」
明るい声を向けられてザッカスは、はっとなる。獣人にエスコートされた先の事務所で人間に出会うとは思っていなかった。彼女はマーサと名乗った。毛先の丸い赤毛の彼女はそばかすが素敵だった。
「あたしもデモアさんのチームの一員です!これから宜しくお願いします」
「え?」
「あっ、え?」
「マーサ、彼にはまだなにも話していない」
「そうなんですか?!あらやだ、あたしったら、すみません!」
事務所は日当たりのいい場所にあり、無駄のない空間だった。無機質なビジネス向けの家具が並び、必要なものはラベリングされ、きちんと整頓されている様子が見えた。気難しい雰囲気はなく、空気は柔らかい。日当たりがいいからかもしれない。ザッカスには少し意外だった。デモアを清潔な場所で見るといかにも有能なビジネスマンだった。デモアは早速お茶の準備をしようとするマーサを止める。
「まず手当てと着替えです。大丈夫、私がしますから」
後半の言葉はマーサに向けてのものだったがそれはそれで大丈夫なのかという反応をマーサは見せた。その理由はすぐにわかった。デモアは不器用だった。それもかなりの。
「申し訳ありません…………」
デモアが項垂れると耳と尻尾が下がる。何故こうなるのかもわからないほどぐちゃぐちゃになったガーゼと包帯の一式を引き受けたのは結局マーサだった。
「本当はこういうの、ロイさんが得意なんですけどね」
「ロイ?」
「ロイさんもチームの一員で、というか、この事務所はデモアさん、ロイさん、あたしでチームを組んでいるんです」
「チーム?他に誰かいるんですか?」
「あっ、えーと。ここはバルルダが運営というか持っている事務所のひとつで。デモアさんが任されているんですけど、あたしとロイさんはデモアさんに直接雇われているというかんじかな」
ですよね?という風にマーサはデモアを見た。デモアが頷いて、言う。
「本来医者に診ていただきたいのですが、ザッカスさんの気が進まないということなので、こちらで読み取ったデータを送らせて頂きました。なにか問題があれば、連絡を頂けるようになっています」 
ザッカスは頷く。
医者は人間だろうが、今はあまり関わる人数を増やしたくないというのも本音だ。助けだされた以上、恩義はあるが祖父の知り合いならやはり警戒はある。ザッカスに無事包帯を巻き終えたマーサはお茶を淹れに部屋を出ていく。
「………俺に依頼したいことって何ですか」
ザッカスは尋ねる。
デモアは視線を向けたが、すぐに視線を外した。
「その前に、一旦、服を」
デモアの様子にザッカスは忘れていた恥じらいを思い出した。デモアが部屋を出ていく。
今ザッカスがいるこの部屋は事務所の休憩室らしい。座らされたふかふかのソファは背もたれを倒せばベッドになりそうだ。少し空いた窓から街中の喧騒が聞こえてくる。微睡みに似た時間。どこか懐かしかった。
あの時、世界は終わるはずだった。巨大な隕石の襲来。
ザッカスが子供の頃の話だ。
人類になす術はなく、隕石は地上にいる者にも目視が出来るほど間近に接近したが、当時ただの研究者だった獣人バルルダ・トライが《フェーイン・ルアルグイト》すると宣言し、あれほど間近に見えた巨大な隕石は跡形もなく消えた。
言葉を変えると、世界に衝突する筈の隕石の律を変えたのだと言う、変えたことによる変化すらも含めて元の《正しいとされる》世界に修正する術がこの時生まれた。
そして、世界は獣人のものになった。
人類は世界を守れなかった。

扉がノックされ、控えめに呼ばれる。マーサの声だ。お茶が入りました、美味しいドーナツがありますよ!ザッカスは急いで服を着ることにした。身体の痛みより感傷より食欲が勝った。ドーナツ!大好物だ。

「改めて、ご依頼の件ですが」
そういえばそんな話があった、ザッカスはドーナツをたらふく食べた心地でもはやここがどこであれどうでもいい気持ちになった。しかし、物事には対価がつきものだ。話しかけたデモアは、ザッカスの口端についた欠片を指で示して、いつまでも聞いていたくなるような声で言う。
「我々の仕事は通常会計に関わることです。ただ、たまに私どもには対処できない相談を受けることがあります。その相談ごとを、ザッカスさんに解決してほしいのです」
「えー、と、あー、それは……何故?俺が?」
「あなたはかつて探偵をされていたとか」
「あ、いや、それは」
単純にそう名乗っていただけだ。
一瞬だけ仕事が入ってきて浮気調査やペット探しをしたことがある。だが、成果が上がらず、依頼はすぐに来なくなった。ザッカスには忍耐力と根気がなかったし、特別な記憶力やスキルもなかった。
「本来、我々が受けるべきではない相談です」
デモアは言い含めるように言う。
ザッカスは瞬いた。
「じゃあ、人間より獣人の方がいいのでは?」
「人間のほうがいい場合もあります」
解決してほしいと言うものの、失敗前提なのだ、ということはザッカスにも分かった。
「…………ちなみに、どんな相談」
デモアではなく、ゴーグルメガネの音声ガイドがチャーミングに告げた。
「恋のご相談です」



「チャールズと呼んでくれ」
チャールズは素性を明かさなかった。チャールズというのも偽名かも知れなかった。事務所とは別の建物の一室は、いろんな布で装飾されて異空間のようになっている。
ひろく流通している神を模したバルルダの肖像画にかわいいチューリップの布がかけられており、テーブルには赤いチェックの布がかかっている。少し不思議な匂いがした。お茶のような木のような、それは獣人の持つ嗅覚への刺激のためらしかった。チャールズは語る。
「俺たちの種族のひとつである犬が、人間に飼われているのは我慢ならないんだ」
聞き手が人間のため、人に飼われているというくだりには憎悪が籠った。
「まあ僕たちは気にしませんけどねえ」
この意見はロイだ。ロイ・テンペスト。デモアのチームの一員。猫の獣人だ。
「あいつらだけですよ、誇りだなんだの気にして、たかだか人の飼う動物に口を挟むのは。この前もあったじゃないですか、人間は動物を解放しろっていう運動。おかげで僕たちだって、生の魚や肉は食えないんですよ」
「はあ、まあ、それは置いといて」
チャールズの会話に話を戻そう。
「あの一家が飼っている犬がいるんだ、ミックスだよ、毛が適度に長くて、耳がピーンとしてて、少しきつねに似てるかもしれない。あのロザーナ・カルテットだよ。知らないか?あんな雰囲気なんだ」
「名前はスモモだ。スモモ。スモモだって!権利もなにもあったもんじゃない。スモモはともかく賢い。あの一家の言うことを聞き、役目を果たし、きちんと家を守っている」
「そう、そのスモモだ」
チャールズはがくりと肩を落とした。耳も尻尾も項垂れる。獣人は今までの経緯から理性的に振るまいたがるが、感情は隠せない。
「最初は我慢ならなかった、未だに犬を飼うことは違法じゃない、そもそも人間の生活を管理し支配することは我らの本懐ではないからね。しかし、あの一家はあまりにスモモを邪険に扱う、ご飯なんて自分達の残り物だ!それでは健康に悪すぎる。そうだろ?!雨が降っててもスモモは野ざらしだ、許せないだろ?!暑くても寒くてもスモモは、庭に出されているのだ!俺は最初きちんとペットを飼う以上、世話をするべきだとあの一家に言いにいったのだ。手続きを踏んだ以上、大事に扱うべきだとね!そうしたら」
「……………そうしたら?」
「そんな義理はない、と。自分達の犬だ、自分達の好きに扱う、とそれはもう見下したような眼差しを向けてきたのだ。……わかるだろう?」
バルルダが世界を変えて、否、救って以降、獣人に世界の主導権を握られた腹いせや怒り、憎しみから無関係な動物を虐待する事件が続発した。ひどく残忍で過激なケースもあり、人間に動物を飼わせてはならない、という話は、肉食の話へやがて広がり、今は人間、獣人に関係なく動物の肉を食べることは一種のタブーとなっている。一部の、元よりペットを可愛がっていた人類の熱心な活動やそれを後押しする獣人もいて、ペットで飼うことそのものは、許可さえあれば改めて可能になった。ただ、表面化していない問題は複数あるとされている。この辺りの議論は、獣人の中でもひとつの意見にまとまってはいない。
「俺は、諦めずにスモモの暮らしが改善するように何度も言いにいったんだ。しかしつい、この前、あんたは犬だからスモモに惚れたんだろう、あんたにスモモをくれてやってもいいが、その代わり金と子供を貰う、て言われてね、ほんと……………………殺してやろうかと思った」
漏れ出る憎悪は濃厚だった。ついザッカスは身震いする。チャールズは、慌てたように首を振った。
「思っただけだ、なにも本気で殺そうと思ったわけじゃない、だがーー俺は、スモモが好きだ」
チャールズはどこか遠くを見ている。
「汚らわしいだろう?なにせ、相手は四本足の動物だ」
チャールズは気を取り直したように、ザッカスを見た。
「あんたには、俺をこんな気持ちにさせるスモモを、殺してほしいんだ」
これは、恋の相談ではなかったのか。
二度ほどザッカスは聞き返したがその度にチャールズは繰り返した。
「スモモを殺してくれ」



「はぁーこれだから」
と言いかけてロイが止めたのは自分のボスがドーベルマンであることを思い出したからだ。
「デモアさんはこのこと、知ってたんですか」
「いいえ、私が聞いていたときには好きになってしまった、どうすればいいのか、と言った内容でしたから」
「それでも俺に解決するのは無理じゃない……?」
「簡単にスモモにパートナーを見つけてくれればそれで済むかと思っていたのです」
「デモアさんは恋の厄介さを知らないからな」
「え?ロイさんは知ってるんですか?」
マーサがロイを他意なく見つめた。ロイの眉間に皺が寄る。
「四六時中発情している人間のほうが恋の機敏なんてわからないだろ」
「あーっそれ、問題発言ですからねっ」
「分かってるよ、あんた以外には言わない」
「あたしにも言っちゃだめです!」
「ザッカスさんは、どうお考えですか?」
「どうって俺も恋の機敏はさっぱりだけど………」
デモアが一瞬、間を置いた。
「問題解決の方で」
「あ、あ、そうですよね、はは、すいません、とりあえずスモモに会ってみます」
「けど、いいのか?ザッカスさんが信用できる人間には、到底僕には見えない」
「ロイさん、またそんなこと言っちゃって」
「マーサやデモアさんを騙せても僕は早々騙せないのでそのつもりでいてください」
ロイは真っ直ぐとザッカスを見据える。その様子からして言葉ほど性根はひねくれてなさそうだ。マーサがはらはらしたように視線を向けてくる。ザッカスは肩を竦めた。
「俺も長居するつもりはないさ。助けてくれたから、一度引き受けただけで次はどうするか分からない」
「………あんた、デモアさんに殺されるところを助けられたんだろ?」
「そう、一度だけな」
「そんな、一緒のチームに入るんじゃないんですか?せっかく仲良くなったと思ったのに」
「仲良くってなにしたんだよ」
「一緒にお茶してドーナツ食べました!」
「はぁ?」
マーサの言い分にロイが呆れた。二人は意見を求めるようにデモアに顔を向ける。
デモアは言う。
「ザッカスさん、私はあなたの意思を尊重します」
ゴーグルの光が瞬く。
ボスの言うことは絶対らしい。なにか言いたげであっても二人は揃って口を閉じた。ザッカスは奇妙な心地だ。祖父はデモアに何をしたのか?一体どんな恩を売り付けたというのか。
「………………有り難う、助かるよ」
久しく尊重などされたことがなかった。大事に扱われるということは、悪い気分にはならなかったが身体に広がる恥の感覚が後ろめたさのようなものを覚えて、居心地は悪かった。
そんなザッカスを見て、デモアは微かに微笑んだようだった。

疑問は尽きないが、当面の間、相談ごとが解決するまでザッカスは事務所の世話になることになった。同じ建物の中にある、上階部分の居住スペースを借りることになったがもとよりそこはデモアが借りている部屋らしく、専門の業者にクリーニングを頼んだとは言うが部屋にはデモアの気配が漂っている、気がする。
「申し訳ない。ホテルを、とも思ったのですが事情が事情のため、この部屋で我慢してください」
「で、……デモアさんと一緒に暮らすということですか?」
デモアの耳がピンと立った。
「……まさか」
デモアが咳払いする。
「いえ、私はしばらく不在にしますので、好きにお使いください。ご不便があれば、この端末でご連絡ください」
端末の説明をしてデモアは心なしか足早に部屋を出ようとするが、不意に振り返った。
「………………ザッカスさんは、本当に殺すおつもりですか」
「しませんよ。俺、犬好きだから」
「……………」
「あ、いやっ、スモモのことです!べつにその、いや、デモアさんには感謝してます!」
否定すると逆に意味が強まった気がして、ザッカスは誤魔化すようにお礼を告げる。デモアの尻尾がふと揺れた、それをデモア自身の手が勢いよく掴む。
「安心しました、それでは」
不格好に後退りかけたデモアが動きを止めて、観念したように言う。
「……………すみません、あまり見ないでいただけると助かります」
「あ、えう、は、はい!」
部屋から出て行く際、デモアは背中を向ける形にはなる。つまり、ザッカスから尻尾が見える。ザッカスはデモアにぐるりと背を向けた。有り難うございます、と声は小さく届いた。出ていく音。遠ざかる靴音。
暫くして、ふっとザッカスは息を吐きだす。
「なんか、そういう……………………」
そういうのはずるいんじゃないか。
本人のいない部屋で、ザッカスはその夜、うまく眠れなかった。

天落:一話


世界は一度終わった。

人類なら誰しも一度はそう考えるはずだ。ノストラダムスは真実だった!駆け抜ける路地はゲロと小便の臭いがする。湿度が高くて、風も届かない。ザッカスははあはあと舌がもつれそうになりながら走って行く。後ろにはラードの連中がやってきていた。この街の伝説的くそ野郎、ラードの連中は聞こえのいい言葉で優しく親切に金を貸すだけ貸して利息で溺れさせ最終的には臓器を分解して販売してしまう、表向きには小さな商店でしかし中々にウィンナーが旨い店だ。大きなウィンナーをボイルしただけのやつを100バイトで売っている。食べたくなった瞬間、足がもつれてしまった。咄嗟に壁に手をつくとぬるりとした感触がした。なんだこれ、ザッカスは不意に怯えてしまった。どっと恐怖が背後から回り込んできて心臓が大きく揺れた、と思ったら壁に身体を叩き込まれた。またぬるりとした感触がする、腐った油の臭いがした。壁の向こうは料理屋か。
「ザッカス、借りたものは返さないとなァ」
「俺が借りたんじゃないだろ?!」
「可笑しいな、連帯保証人のところにはお前の指が押されているぜ」
「それは!ボミアンが無理やり押させたんだよ!」
「そのボミアンにも金借りてたんだろ?そりゃしょうがねえよ」
頭を壁に押し付けられる度にぬめぬめと沈んでいく。積み重なった油汚れは、泥のようにザッカスを粛々と受け入れる。
「安心しな、美味しいウィンナーにしてやるからよ」
「え、……………は?!ちょっと待てよ、お前のところのウィンナーって?!」
「馬鹿か?食えるわけねえだろ、今時マジのウィンナーって」
ザッカスは吐き気に襲われてえづく。鬱陶しそうに首を捕まれて地面にぶん投げられたが路面も湿っていて臭かった。存外死ぬときというのはこういうものらしい。子供の時に漠然と夢見た死にかたはもっと清潔で、きっといい匂いがした。そんな暮らしはもう二度と出来ないというのに。
ラードの連中は顔を見合わせて、互いに頷きあった。奇妙に顔が似ている二人組の一人は包丁を取り出す、もう一人はザッカスを拘束した。
「嫌だ!離せ!ウィンナーになりたくない!」
「お前の血肉が明日をいきるための人間の腹に収まる。いい話だな」
「いい話だ。感動的だぜ」
「どこがだよ!」
「そうさ、クズが死ぬだけだ」
ザッカスは一瞬言葉に詰まった。自業自得の言葉が駆け回る、それでも嫌だった!どうせクズならクズらしく生きてやる!ザッカスは目一杯暴れはじめた。
「おいこら、やめろ!」
「クソが!落ち着けよ!死ぬだけだろ!」
「いーやーだー!ウィンナーは嫌だ!」
「ガキじゃねえんだからよ」
「仕方ねえな、おらっ!」
殴られる。殴られる。殴られる。まだ生きてる。生きてる。生きてる。鼻が折れて血が流れていく、自分の一部が抜けていく感覚がある、痛みはこの時なかった、衝撃と熱さがあって脳が誤作動を起こしているのが不思議と冷静によく分かった、どこか快楽にも似た頭の白さが、周囲の臭いさえ消した、だが背骨を踏まれて動けなくなった。かかってくる圧が、危機を痛感させる、恐怖が舞い戻ってくる。呼吸が詰まる。
「や、やめ」
「いいだろ?」
「よくはないだろうな」
「は?」
「あ?」
「え」
場違いな声がした。低くて艶がある。無意識に聞いてしまう声だった、耳を澄ませて次の言葉を図らずも待ってしまうような。
「ラード商店の従業員のお二人、彼をこちらに引き渡していただく」
ラードの響きに仄かな侮蔑があった。それもそのはずだ、声の持ち主は獣人だ。仕立てのよいスーツを品よく着こなして、頭部はドーベルマンのようだが目元にはゴーグルメガネをかけている。一定の間隔で光の線が走っており、みなさまごきげんようと、声がした。ゴーグルからだ。ラードの連中の名前をそれぞれ呼んで、つれつれと話し始めた。
「我々の関連する法的な調査において、大変恐縮ではございますが、お客様のご協力が必要となります。調査の円滑な進行のため、以下の物品を提出いただけますよう、お願い申し上げます。何卒ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

引き渡すべき物品:ザッカス

調査の目的は、法的手続きに必要な情報を収集することであり、お客様のプライバシーや利益に影響を与えることはございません。調査に関するご質問やご不明点がございましたら、お気軽にお問い合わせください。ご協力に心より感謝申し上げます」
「…………………はあ?」
「尚この件に関しては店舗責任者より了承を得ており、ご不明点や疑問等がございましたら、直接ご連絡いただきますようお願い申し上げます。何かお手伝いできることがございましたら、お気軽にお知らせください」
ラードの連中は目配せしあった。ザッカスは展開についていけていない。そもそも誰かも知らなかった。だが、ラードの連中は店舗責任者より了承、というくだりでこの場を引き下がることを決めたようだ。念のため、とラードの連中は言う。
「あんたたちの身分を証明するものが欲しい」
「そうだ、これであんたたちが俺たちを騙してこいつをまんまと取り上げられたということになったら、俺たちがウィンナーにされちまう」
「ご尤もです。ではこちらを。私の名刺です」
構えることない相手から差し出された名刺をラードの連中が受けとる。
「あんた、バルルダの」
「はい。以後お見知りおきを」
ラードの連中は一度ザッカスに目をやると首を振ったり、肩を竦めたりした。そのまま何も言うことはなく去って行く。やはりザッカスは訳が分からない。
獣人に知り合いはいなかった。
「立ち上がられますか?」
「あ、いや……………というか、どちらさまだ?それとも何だ?って言った方がいいのか?」
獣人はザッカスを立ち上がらせた。
ゴーグルにまた光の線が走る。ザッカスの怪我の具合を調べている気がして、不快になる。死ぬところを助けられたはずだが、これまでバルルダの連中とお知り合いになったことはなかった。
無論、ザッカスとて名前だけは知っている。バルルダ・トライ。人類史上もっとも罪深き悪人、獣人史上もっとも慈悲深き賢人。一度世界を終わらせ、そして世界を救った者の名前だ。
そのバルルダ没後、関係者は現在バルルダ協会という組織を運営している。表立って政治的な組織ではないものの、陰謀論者によれば世界を牛耳っているのは政府ではなく、バルルダ協会であるという。だからこそ、ごみ溜めで死にかけるような自分自身と関わり合うことはないとザッカスは思っている。
獣人は再び名刺を取り出し、ザッカスに差し出す。ザッカスは名刺を受け取らず文字だけ読んだ。

バルルダ協会 顧問会計士
マイクロフト・デモア

「会計士?デモアさん?だからどうして?」
「あなたの、」
「……………」
「……ご祖父様と顔見知りなんです」
「何故?」
ザッカスは警戒を強めた。身体は痛むが逃げるに越したことはない。デモアはゆっくりと低くてずっと聞いていたくなる声で言う。
「あなたに、頼みたいことがあります。どうぞ、我が事務所にお越しくださいようお願いします」
怪我のこともありますから。デモアが付け加えた一言は不思議とそれだけは本心からのようにザッカスには聞こえた。あとは彼あるいは彼女が引き取った。
「事務所までの道のりをご案内いたします。まず、こちらの路地を出て右に進んでください。次に、ロザーナ法律事務所までまっすぐ進んでいただきますと、隣のカフェの入ったビルの左手にエレベーターがございますので、そちらをご利用ください。エレベーターで3階へお上がりいただきますと、右手に我々の事務所がございますので、そちらにお進みください。ご不明点がございましたら、お気軽にお尋ねください。」
デモアは丁寧だが有無をいわさない雰囲気があった。ザッカスは疲れはてた心地で尋ねる。
「なにか食わせてくれる?できれば、ウィンナー以外で」
「もちろん」
差し出された手を、ザッカスは握らなかった。デモアは何もなかった素振りで、ザッカスをエスコートするように歩き出した。

後ろを歩くと眼前にはデモアの尻尾が揺れている。艶やかな毛並みは宝石のように美しかった。というより、マイクロフト・デモアは美しかった。ザッカスは意識を反らすために、腫れた頬の痛みを確かめるようにしきりと撫でた。

天落登場人物紹介


ザッカス
(主人公・人間)

ボミアン
(主人公が金を借りた相手)

バルルダ・トライ
(世界を救った偉人・獣人)

マイクロフト・デモア
(会計士・主人公を助ける・犬の獣人)

マーサ・アン・ムーニー
(デモアのチームの一人・人間)

ロイ・テンペスト
(デモアのチームの一人・猫の獣人)

ロザーナ・カルテット
(弁護士・狐の獣人)

スモモ
(ペットの犬の名前)

チャールズ
(相談者・スモモに恋をしている・狼の獣人)

ラード商会(悪徳金融)
バルルダ協会(財団法人)

(随時更新)