2024年11月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
#ライ観
欲しがる必要はなかったんだと思う。
二人で歩いている時、観2に声をかける人がいた。それ自体はよくあることだった、彼女の知り合いは多く、その上で彼女と親しかった。ライラックはそれを複雑に思わないと言えば嘘にはなるけれどそのことについて、嫌だとかやめてくれと言うようなことはなかった。
「あれ、観2じゃん!連絡くれなくなったのどーして?俺達相性よかったじゃん」
ただ、この場合親しさの意味合いは違ってくるように思う。その人はべらべらと喋り、どんどん彼女の顔は青ざめていく。浮気がばれたというようなことなら、怒ればよかったんだと思う。ライラックは知らずによく喋る人をじっと見つめ、いつまで喋るのか、本当に彼女の知り合いなのか、考えていたが、ライラックの顔は黙っていると威圧的で、人を寄せつけない雰囲気がある。怯えたその人は、えー?えー?なにー?なにー?とか言いながら立ち去っていった。
「あの…………」
「――すみません、」
「顔色が悪いですよ、休みましょう」
「いやでも」
「一息いれて」
「だから!」
「………」
「すみません、その、だから、」
覚えていなくて、と彼女は絞り出すような声で言った。
「お酒を飲まれて、とか……?」
「――じゃなくえ。すごく、都合がよく聞こえるのかもしれないんですが…………私、記憶がないところがあって、時々あったことを覚えてないんです」
「今、のことですか?」
「いえ、過去の………パラレル・フライト社の事務所に入る前の」
だからもしかして、本当にあったのかもしれなくて、それがこれから、またあるかもしれなくて。
彼女は頭痛がするみたいな顔で言う。
細くかすれた声で、それは不思議とライラックにだけ、届くみたいな声だった。
「今、あなたと恋人なのはおれですから。だから、平気です。心配しないでください」
ライラックは彼女の手を取った。
ゆっくりと握る。
「――ね、だからそんな顔しないでください」
「…………なさい」
「え?」
「ごめんなさい」
彼女が手を離す。
「ごめんなさい、ライラックさん」
駆け出して行く彼女をライラックは呆気に取られて、見送った。
*
それから、ライラックはどう家に帰ったかを覚えていない。彼女の荷物は残されたまま、彼女は地球に帰ったみたいだった。休暇を取って、3日は一緒に過ごせる予定だった。離れた星で暮らすライラックと彼女が一緒に過ごせる時間は貴重だった。一瞬、むくりと彼女に話しかけた相手に対して憎悪のようなものが沸いた、が八つ当たりであることは分かっていた。彼女が何にごめんなさいと言ったのか、分かるようで分からない。何が駄目だったのか。連絡も取れない。
だから、ゴロウに相談することにした。
酒の勢いも借りて、あったことを吐露するとゴロウは眉根を寄せ、酒臭い息を吐いた。
「そりゃお前なァ」
「はい」
「まぁ、色々あるよな」
「ど、どういう意味ですか」
「こういうのはよぉ、こういうのは、まぁ、直接観2に聞くしかないだろ?」
「そ、そうなんですけど、連絡が取れなくて」
「会いにいきゃいいだろ?」
「会ってくれますか?」
「わかんねぇだろ、会いにいかなきゃ」
「会いに」
行ってもいいんですか、とライラックは言った。ライラックは自分が傷つくとか、後悔するとか、余計に苦しむとかそういうことは、あまり関係がなかった。自分が会いにいくことで、彼女が苦しむ方が嫌だった。
「おめぇはどうなんだ?」
「何がですか?」
「そういう、観2の、過去の恋人だか遊び相手だか、そういう」
ゴロウは言いにくそうに言葉を選びながら全部言った。
「観2が好きだった相手やあいつが大事な相手が会いに来たとしたら、どうなんだ」
「おれは、観2さんが好きです。おれといる時、おれを見てくれればいいです」
「………はぁ」
ゴロウは酒を煽った。
「愛だな」
「愛、でしょうか」
「愛なんだろ?」
「……大切なんです」
彼女が自分のことを嫌になったら?
ライラックは望んで手を離すかもしれない。彼女が苦しむのも傷つくのも嫌だからだ、その時彼女にとっての最良があればいい。彼女が幸せであればそれでよかった。愛と呼ぶにはあまりにも強欲すぎやしないか。
ゴロウと別れて、ぼんやりとライラックは夜風に当たった。この時期に咲く、白くて小さい花が、甘い匂いを漂わせている。離れれば忘れてしまう、近づけば思い出す、さざなみのようだ。
浮いては沈む感情が、酒に任せて流れて行く。そのまま、何処かにいくなら、やはり地球がいい気がした。ライラックは自宅に足を向ける。
踞る小さな影を見た時、ライラックの心臓はとびはねた。彼女からはいつも懐かしい匂いがする。過去の懐かしみとはどこか違う気がする。言い換えると、ほっとできる気がする匂いだ。肩の力を抜いて自分でいられるような場所。そんな居場所が人間の形をしている。強力な地場がそこには発生している。
「愛してます」
懺悔みたいに飛び出た言葉に、玄関ポーチのライトに照らされた彼女が息を飲んだのが分かった。ライラックは、飛び出た言葉を今更取り戻せず、視線をさ迷わせる。
「すみません、おれ、あ、荷物!取りに来たんですよね、触らずに取ってありますから………」
「私の方こそすみません」
これでお別れなのかもしれない。ライラックは玄関を開けて、彼女を部屋に招いた。彼女はつかれた顔をしていて、いつもの仕事の制服を着ていて、鞄ひとつで、それからお腹をならした。
「あっええと」
「……ふふ、なにか食べますか、冷蔵庫に何かあったかな、すこし待っててください」
「いや、ま、待って、待ってください、あのライラックさんに話があって」
またお腹が鳴った。
「だから!」
観2は自分のお腹を叩いた。
「だ、だめですよ、叩いては」
「いいんですよ!今大事な話をしてるんだから、お腹なんてどうでもいいんですよ!」
「だめですよ!ご飯作りますから!」
「そんな、もう、謝りにきたんですから!聞いてください!!」
お腹は鳴る。
彼女は崩れ落ちた。
「あーもう~~いやだ~~。もういやだ。ライラックさんのバカ」
「すみません」
「ライラックさんはバカじゃないですよ!謝らないで!どうして謝るんですか!バカだから?!」
「たぶん、そうです」
「そんなことないですよ!優しいからですよ!そんな、優しくする必要ないですよ!全部私が悪いんですから!」
「なにも悪くないですよ」
ライラックは彼女を抱き起こした。あやすように抱き締めた。観2はすこしの間ライラックの肩を叩き、ふて腐れたように静かになった。
「怒ってくれてもいいんですよ」
「どうしてですか」
「変なやつにデートを邪魔にされたし!勝手に帰るし!3日一緒にいられたのに!今も、………迷惑をかけてるし」
だからいいんですよ、嫌になっても。
ライラックはますます彼女を抱き締めた。
「いらない思い出もあるんですね」
「え?」
「名前も知らないひとですが、そのまま何もかも忘れていてください。おれのことだけ、全部覚えていてください」
「……………」
「おれのことだけじゃなくていいです、でもあなたを傷つける思い出ならなくてもいいです、おれは」
彼女が身じろぎした。
「……ライラックさん」
「はい」
「愛してるってなんですか?」
「あっ、ええと、その、勝手に。おれは」
「嘘なんですか?」
「そんなことはないです。観2さんはおれからそう思われるのは嫌じゃないですか?」
「いいのかな、相応しいのかなと思います。私はその」
不完全で。
「よかった」
「え?」
「おれも足らないみたいです」
ライラックは身を寄せた。これ以上ないほどに密着しているのにまだ足りなかった。
「あの時、おれのこと、嫌になりませんでした?」
「まさか、全然。自分が嫌になりました」
「だったら、全部おれで満たして」
「…………ライラックさん」
「あなたを過去に奪われることだけは嫌です」
言葉にしてはじめて気づいた。愛と呼ぶにはやはり強欲だ。
「もっとおれを見てください」
彼女がゆっくりとライラックを見た。その瞳に自分が写ってるのを見て、ライラックは唇を重ねた。
彼女がライラックを嫌になったらどうする?
ライラックは望んで彼女を手放すかもしれない。
だから、
「おれを手放さないで」
そうすればずっと、自分は彼女のものでいられる。
*
ひどく執拗で長い行為のあと、観2は空腹で立ち上がれず、ライラックから手ずから食べさせて貰う。
観2は親鳥のようにせっせと紅茶入りのクッキーを運ぶライラックが幸福に溶けていることが分かった。
ライラックは怒ってるとは言わなかったけど、怒っていた気がする。
身体に広がるライラックのつけた痕が少しひりついて、気だるさにまごついた咀嚼をすると、ライラックの指が優しく口を拭った。
「ライラックさん」
「はい」
「今度はもう少し優しくしてくれると嬉しいです」
「……………はい」
真っ赤になったライラックにやり返した心地になって、彼女は笑った。
ハーブティーを飲ませてもらって、彼女は雛鳥のようにまどろんだ。今後同じようなことが起きても乗り越えられるだろう。
ここが鳥かごの中なのは分かっている。花で飾られた、美しいかごの中。澄んだ華やかな匂いがする。紫色した花の。
開け放たれた扉から空が見えて、ライラックの手を握る。握り返された手の力の強さを、彼女は確かめる。
――愛と呼ぶには。
2024年10月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
#虎梓
今日は絶対言うんだ、だから友達に聞いて選んでもらったかわいい下着も買った。おばあちゃんにも遅くなるかもしれないと連絡したし、おばあちゃんは楽しんでおいでと笑って送り出してくれた。今日の服装もなるべく大人っぽく見えるようなものを選んで、リップも塗った。誕生日当日のお祝いでなくてもよかった。仕事が忙しい虎が、当日の夜遅く会いに来てくれたのが嬉しかったから。だから、高塚梓はそう決めたのだ。
「私、虎が欲しい」
本条政虎はまじまじと梓を見つめて、口端をあげた。
「お前のもん、つってるのに、まだ足りないのかよ?」
「……そ、そうだよ」
政虎は少し目を見張った。梓が何を言わんとしているのか、分かったからだ。梓のスカートから伸びている足に手を沿わせる。梓の身体はびくついた。
「そりゃ、どういう意味かわかってんのか?」
「わかってる」
「焦るなよ?オレはいつでもいいんだぜ、それが十年後でもな。こっちの世界じゃ、16………17サイはガキなんだろ?」
「ガキじゃないよ」
その言い種が子供じみていて梓が気づいたように唇を噛んだ。
「ほらよ」
政虎が腕を広げる。
梓はぎゅっと眉を寄せる。
「梓ちゃん、カワイイお顔が台無しだぜ?」
「っ、そうやって子供扱いして……っ」
「してねえよ。惚れたオンナ扱いしてる」
「うそ」
「なぁーんで、この俺が惚れてもねえオンナを大事にしねえとなんねぇの?」
信用がないのかと言われて、梓は首を振った。
「虎が私を大事にしてくれてることはわかってるよ!だから…………」
「お返しにワタシをあげるって?」
「ち、ちが…………」
政虎は責めたりはしていなかった。面白がるような気配と冷静な視線だ。
「いいからこいよ」
促されて、梓はおずおずとその腕の中に飛び込んだ。思いの外強い力で抱き締められて、胸が詰まる。
至近距離で眼差しが絡む。まだ慣れない。虎のこんな瞳には。
「いい匂いがすんなァ」
「なにもつけてないよ」
「オレの好きな匂いだ」
「そう……きゃっ!」
政虎が不意に首筋を舐める。
「と、虎」
「………」
政虎は答えずにそのまま吸い上げる。
ちょうど髪で隠れる場所だ。本人は気づかないかもしれない。だが、痕は残さなかった。
「食わせてくれるんだろ?いつか」
「――――私は」
「見返りを求めてお前を大事にしてるわけじゃないぜ、それならとっくに奪ってる。前にも言ったろ?」
「――でも、でも、私だって虎が欲しいよ………………虎を大事にしたいの」
「嫁になってくれんだろ?」
「…………うん」
「初めて頷いたな」
「そうかな?」
「そうだ。まぁ、けど、お前が……」
「なに?」
「お前がオレ以上に好きなやつが出来たってんなら、その時は仕方ねえけどな」
「どういうこと?私が心変わりするってこと?」
「怒んなよ。心配はしてねえよ。そん時ゃ、また惚れ直させればいいだけだからな」
「……虎は私の気持ちが不安?」
答えを聞く前に唇を塞がれる。いつもより深いキスで梓の息が上がる。なんだかんだと政虎はこの世界にきてから必要以上には梓には触れようとはしない。
「っ、もう!誤魔化さないで」
べろりと唇を舐めあげて、虎は笑う。
「聞くのは怖ぇ」
「私は!」
「オレがお前をどうにかしそうで」
「…………えっ」
「怖がらせたくないし、傷つけたくはねえ。痛みを与えたくないし、怯えさせたくもねえ。お前がオレに触られるだけで、感じるようにさせてえし?」
梓は目を見開いた。
顔が真っ赤に染まる。
「リンゴチャン?」
「虎っ!」
「――だから、待つ。義理とか義務とかじゃなくて、お前のここが、オレを欲しくなるまで」
虎の指先が鎖骨から胸の間を通り腹部まで下りる。
梓は口をパクパクさせる。
ゆっくりとお腹全体を撫でられて、息が詰まった。
「先に決めとくか?セーフティワード」
「セーフティワード?」
「梓ちゃんは意地っ張りだから気持ちよくても嫌って言うだろ?そうしたら本当に嫌なときがわかんねえだろ、ま、オレは分かるんだがよ」
もう何を返せばいいのか、分からない。
墓穴を掘りそうだし、これで嫌と言うのも嫌だ。政虎が低く笑った。
「で、何にする?」
「何にって……………」
「どんなものでもいいぜ。リンゴとか、ランニングとか、好きなドラマの名前とかでもな」
「……………………」
「そんな顔すんなよ。煽られるだろ?」
想像でもしたか、と笑いを含んだ声でも言われて梓は、虎の胸を押した。
「想像ならしてるよ!だから、かわいい下着も買ったんだから!」
「…………へぇ」
梓は口を抑えた。
政虎の目が細められる。
補食者みたいに。
じっと、梓を見る。
梓はその視線に耐えかねて、後ろに下がった。身体を縮こめる。
「隠すなよ」
政虎が両腕をとり、広げさせる。服を脱いでもいないのに、下着をみられている気がして、梓は身体中が熱い。
こんな調子じゃ実際無理かもしれない。
政虎が満足したように息を吐いた。
「お前なら、やっぱ、おばあちゃん、かもな」
「え?」
「お前がオレ以外に助けを求めるヒーローはおばあちゃんしかいねーだろ?」
セーフティワードのはなしだ。
梓は考えてから頷いた。
「そうする」
わしわしと政虎は梓の頭を撫でる。
「じゃあ、もう帰れ。もう遅いだろ」
「………………帰りたくない」
「……………」
ため息が出そうになる。
むやみやたらと襲うほど野蛮でもないが、今日の梓は一段と美味しそうで困る。
「一応言っとくけど、卒業まで最低限手を出さねえぞ」
「…………キスもしてるのに?」
「あんなもん――――」
言いかけて、梓の恨みがましそうな視線に気づいた。
「虎は経験豊富だもんね」
可愛すぎるのでやめろと思ったが政虎は口には出さなかった。代わりに笑ってしまった。げらげら笑う政虎に気分を害して梓は怒る。
「笑うとこじゃないよ!私は初めてだし、いつもいっぱいいっぱいで」
「オレだってそうだよ、これ以上ねえくらい惚れて、こんなに我慢するのも、我慢してるのも悪くねえと思えるのも、お前が初めてだ」
「っ、虎はずるい!」
「好きつっとけ、梓が虎かっこいい、好き、大好きつってりゃ、オレは幸せなんだよ」
「…………もう帰る」
「梓」
「虎のことは世界一好きだよ!でも今は正直腹が立つよ!」
「…………」
「虎のバカ!」
「反抗期か?」
「違うよ!」
不貞腐れた梓を政虎は家まで送り届けた。
「覚えといて!一年後に思い知らせてあげるんだから!」
ぴしゃりとドアが閉まる。
政虎は笑う。一年後が末恐ろしい気がした。相手も自分も。
2024年9月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
#レイ主
ケーキを食べ終わったあと、二人でのんびりとソファで過ごす。
「レイ先生のお腹の中には何が詰まっているの」
わざとからかうように言いながら、レイのお腹を服の上から撫でる。
「…………お前と同じものだ」
「そうかな?隠れてまたなにか食べてるんじゃない?」
「一緒にいて、どうやって盗み食いするんだ」
「レイ先生は器用だからね」
「盗みは専門外だ」
「分かってるよ、そんな顔しないで」
レイのお腹はきれいに割れている。甘いものばかりでどうやってこの体型を維持しているのか、不思議だ。
「やっぱりスイッチがあるのかな……?」
探るように撫でると、さすがに手を止められた。
「まだ諦めていなかったのか?」
「一緒に暮らしたとしてもあなたへの謎は解明しない気がする」
「……それは、一緒に暮らしてみれば解るのではないか」
視線がはちあったが、レイから逸らした。前々からそんな雰囲気はあって、でもどちらとも言い出したりはしなかった。お互いの生活があり、おそらく一緒に暮らしても顔を会わせる頻度は今とそう変わらない気がしていた。レイの手を握って指を絡めるとしっかりとした強さでレイが握り返した。私の手の甲に唇を寄せて、肌の質感を楽しむように唇を滑らせた。まるで、甘えているみたいだ。
「抱きしめてあげる」
尊大に言ってみせる。レイは小さく笑った。
「なら、頼む」
「いいの?普段なら断るでしょう」
「別に普段も嫌ではない。ただ、お前のタイミングが悪いだけだ」
「そうかな?あなたはいつも、そんな瞳をしているよ」
レイは私をまじまじと見た。
「…………そんな風に見えているのか?」
「――ううん。私の希望混じり。そうだったらいいなと思うけど、そうでもないのは分かってるから」
レイは笑っただけだった。
「……抱きしめてくれるんじゃなかったのか?」
「――ついでに好きって言ってあげる」
レイは片方の眉だけ器用にあげてみせた。思わず笑いながら私はレイを抱きしめた。
「好きだよ」
ゆっくりと息を吐いたレイは、満更でもなさそうだった。私を抱きしめ返して、私もだ、と言った。レイからはミントの匂いが微かにして、それがどこから香るのか、知りたくて首筋に鼻をくっつけた。
「レイ、もしかして飴を食べてる?」
「ああ」
「盗み食いはしないんじゃなかったの?」
「これは盗み食いなのか?」
「いつの間に」
レイはポケットを探り、ミントの飴を取り出した。私は口を開けるとレイは口の中に飴を入れてくれる。
「目が覚めてきた」
「眠かったのか?」
「そうかも」
自分から離れようとは思わなかったけれど、レイも離れようとはしなかった。体温が身近すぎて、口の中だけがひんやりしていく。不思議なかんじだった。キスしたらどうなるんだろうと思って、レイにキスをした。軽く触れ合うつもりだったけど、レイがぐっと体重をかけてきて、そのままどんどん深いキスになっていく。違う!そんなつもりじゃない!
「ちょっと、待って」
「……何故?」
問う理由は、レイの瞳にちゃんと書いてある。
「――飴を食べてるから」
口ごもりながら言うと、レイは眉を下げた。なんだかそれが可愛い。また自分からキスをする、レイが乗ってこようとすると胸元を手で押した。困惑がレイの瞳に過る。
「だめ」
「…………」
レイは私の耳たぶに触れる。
「私はもう飴を食べ終っている」
「じゃあ見せて」
唇を撫でて促す。
レイは渋い顔をして、口を開けた。
ミントの匂いがする。
飴は残っていなかった。
「ほんとだね。でも、私はまだだから」
レイは押し黙ったが、瞳は雄弁だった。私はなんだか楽しくなってしまった。笑ってしまうとレイはぐっと眉間にシワを寄せる。
「からかっているのか?」
「今日のあなたはかわいいね」
「そんなことはない」
「そうかな?私のことが好きだって顔をしている」
「…………それだけか?私の顔に書いてあることは」
「え」
「もっとよく確かめてみるといい」
レイが私の手を自分の頬に添えさせた。
「…………どうかな?マカロンも好きだって書いてあるね」
「それで?」
「あとは歯医者が嫌いって書いてある」
「それは間違いだ」
「虫歯になるのはもっと嫌だって書いてある」
「……………他には?」
焦れたようにレイは言う。
私は薄くなった飴を噛んで見せた。
「私の歯は丈夫みたい。あなたと違って虫歯はひとつもな―――ッ、ん」
「―――そのようだ」
レイが覆い被さってくる。
「……」
私はレイの顔を撫でた。
「――私の顔は今は何と書いてある?」
レイは熱い吐息混じりに言う。私は彼をもう止めなかった。
「秘密」
*
「…………お腹空いてきちゃった」
レイが私のお腹を撫でる。
「宅配を頼むか」
「こんな時間にやってるかな?」
「やっている店もある。時々注文することがある」
「甘いもの?」
「そういう店があればいいが」
そのまま横になっているとレイが飲み物を持ってくる。私に着替えをさせ、トイレに行かせそうやっててきぱきと世話を焼いているのを見るのは結構楽しい。きれいになったシーツの上で、再び横になる。レイは何を注文するか真面目に選んでいるみたいだった。
「一緒に暮らしていてもこんなかんじなのかな?」
レイは少し驚いた顔をした。
「それは……そうかもしれない」
「私はまだ、そうと決めることはできないけど、あなたと暮らすことに不安はないよ」
レイの瞳は不思議な色を湛え、私を見つめる。レイは何も言わなかったけれど、その手が慈しむように私の髪に触れた。しばらくの間、レイはそうしていた。
「……………レイ?」
「なんでもない」
「そう?ならいいけど……」
「注文するならここがいいだろう」
レイは端末を見せてきて、私は了承した。世界の隅にいるみたいにレイはどこか打ちひしがれていて、私は彼を慰めようとしたが何を言えばいいか、分からなかった。
「腹部は専門外だ」
「え?」
「だから、何が詰まっているかはわからない。基礎的な知識や医学的な経験ならあるが、やはり専門外だ」
いったい何を言い出したのか、一瞬分からなかったが、私はまたレイのお腹を撫でて見せた。
「大丈夫。これから美味しいものが入ってくる予定だから」
レイは私を咎めるではなく、抱きしめた。
「私はいつでも構わない」
「分かってる。有り難う」
一緒に暮らさなくても二人で過ごすことはできる。
「あなたの心臓のことを今度は教えて」
「それなら専門分野だ」
彼は重々しく頷いて見せた。私は笑った。やがて宅配を知らせるインターホンが鳴るまで、私たちは話し合った。肝心なことから自分達を遠ざける、それでいて、あなたを愛してます、という言葉で。
2024年8月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
2024年7月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
#レイ主
「ねえ、レイ先生。畏まった表情筋のサポートとして白衣にアップリケをつけてみない?」
「……今度はどんな無駄遣いをしたんだ?」
「無駄遣いじゃないよ。これは正当な買い物。ほら、レイ先生に似てると思って」
無愛想な雪だるまがアイスキャンディーを食べている絵柄だった。よくそんなものを見つけたなといっそ感心染みた声が出る。彼女は楽しそうに笑って、アップリケを顔の横に持ってくる。
「私が探したんじゃないよ、たまたま引き寄せられたの」
「また深夜に眠れず、通販サイトをひたすら見ていたのか?」
「それは………そんな話じゃないよ」
彼女は頬を膨らませた。先ほどまで得意気だった彼女の変化に彼は眉を上げて見せて、腰を抱き寄せた。
「それほど似ているとは思えないが」
「………似てるよ、そっくり。あなたの生き別れの双子かもしれないよ」
「どちらが兄だ?」
「気にするのはそんなところでいいの?」
「冗談だ」
「冗談を言う表情ってものがあるんだよ」
「分からないのか?」
「分からないよ、そんな顔じゃ」
「よく見てみればいい」
彼は顔を近づけた。吐息が触れそうな距離だ。彼女は顔を逸らして、だから。ともごもごと言う。彼女の耳に髪をかけながら、それで、と言う。
「どのくらい眠れてないんだ」
「別に……ちょっと眠れてないだけ、あんまり普段と変わらないよ」
「私の双子の兄弟を探し当てるほど、通販サイトを渡り歩いていて?」
「これは、たまたま巡りあったの。もしくは呼ばれたんだと思う。あなたと私が親しいから」
「悪くない嘘だ」
「嘘って」
彼女がやっとこちらを見た。彼は彼女の顔を観察するように触れた。
「レイ先生、今は診察時間じゃないよ」
「勤務外労働は違法だ」
呆れたように彼女はため息を吐いた。彼は頬を包み込むように触れる。彼女の瞳が揺らぐ。
「……本当だよ、そこまで寝不足なわけじゃないし」
「分かっている」
彼女が眠れない理由を彼は聞かなかった。
「これからとくとくと安眠する方法を解説してもいいがどうする?」
「うーん、あなたの貴重な時間をそれに使うのは勿体ないかな」
「なら、どうする」
「……」
彼女が彼に抱きついた。
「……そばにいて」
彼は彼女を抱き締め返した。
「分かった。眠るまでそばにいる」
「それじゃだめ。起きたら朝食も作ってもらわないと。最近あなたの手料理食べてないよ。だから、眠れないのかも」
彼は思わず笑った。
「分かった。他には?」
「え、いいの?」
「兄を見つけてくれたお礼だ」
「あなたが弟なの?」
「……ふむ。兄はどうやらなにも話さなかったみたいだ」
「……そうかも。アイスキャンディーを食べるのに夢中だったみたい」
彼女の手にはまだアップリケが握られていた。彼はそれを受け取って、ソファのサイドボードに伏せて置いた。彼女は不思議そうに見つめていたが、彼がキスをしたので、少し顔を赤くした。
だが、ふと顔を伏せる。
「あんまり上手な言い訳じゃなかったかも」
いつもの声だが沈んだ調子は隠せなかった。彼は彼女を抱き締める。暫く二人は無言だった。
「レイ、キスして」
彼は言うとおりにキスをした。
彼女は少し笑った。
「あなたって、今ならなんでもしてくれるみたい」
それは事実だった。
今だけではなく、ずっとそうだ。今までも、これからも。
彼は彼女の髪を触る。
それから彼女の髪にもキスを落とした。
「湯船にお湯を張ってくる。ゆっくり入るといい」
「有り難う、でも今は動いちゃ駄目」
「…………」
彼女が彼の胸に頭を寄せる。
「ドキドキしてる」
「……心拍数とはそういうものだ」
彼女が笑い、指を絡めて手を繋ぐ。彼はしばらく好きにさせてやっていた。その内寝るだろうと思っていたら本当に眠りに落ちた彼女を彼はベッドまで運ぶことにする。冷蔵庫に朝食に相応しい食材はあっただろうか。彼は彼女の寝顔を見ながらそんなことを思う。
「おやすみ、いい夢を」
数日後、セキがこんなメッセージをSNSに投稿した。
「冷涼なるレイ先生の白衣に雪だるまが住みはじめた」
彼女は小さく笑ってハートをつける。夜思いの外熟睡してしまい、今では普通に眠れるようになった。彼が今頃どんな表情をしているのか、気になってスタンプを送りつけた。
彼からはただ一言だ。
「今、アイスキャンディーを食べていたところだ」
それって冗談のつもり?彼女は可笑しくなってしまった。付き添ってくれた夜のお礼に今度はちゃんとしたものを送ろうと彼女は再び通販のサイトの旅に出ることにする。果てのない旅、彼のぎゅっと詰まった眉間、疑わしげな眼差し、でもそれが柔らかくなって、ふっと笑う瞬間、彼女の好きな色を浮かべる。
彼女が最近眠りにつく時、彼女はそんなことを考えているが、彼には言わないつもりだ。
代わりに彼の好きそうなものをスクショして送りつけた。
「いいレストランを見つけた。お礼なら食事に付き合ってくれればいい」
「お礼になるの?」
「なる」
やり取りはそっけない。でも、充分だった。あったかい雪だるま。彼がいつでも冷たくあろうもするのは、溶けてしまうからかもしれなかった。自分の熱で。あるいはその優しさで。
#冠特
ひどく暑い日だった。
他の寮の手伝いをした後で彼に呼び出されて、急いで向かった。
遅い、と文句を言われて彼女はもごもごする。汗だくの額を無意識に拭うと、彼はどこか呆れたように目を細める。
「この時期に走り回るなんて馬鹿か、日が沈むまで休んでいろ」
「え、でも……」
「‟でも?”」
反論を許さない声にもごもごと彼女は言葉を呑み込んだ。室内は涼しくて空調も効いている。見た目も涼しい寮だ。涼しいのは本当に空調のおかげなのだろうか?彼女は馬鹿みたいに突っ立ている。彼は彼女を見て、それからソファに座り、煙草に火を点けた。彼は彼女にも座るように促した。彼女は戸惑いながら端に腰を下ろす。彼女は彼が紫煙を吐く姿を見る。
「煙草って美味しいんですか?」
「あ?」
「……よく吸っていらっしゃるので」
「吸ってみればわかるだろ」
「……え?」
彼は咥えていた煙草を差し出した。そもそも未成年の自分が煙草を吸うのは違法のはずだ。むしろ彼もそうである気がする。その上で彼が吸っていた煙草に自分が口をつけるというのもためらわれた。彼は差し出したままだったから、フィルターがじりじりと焼けていく。
「おい」
「……その」
「チッ」
彼は短くなった煙草を深く吸い込み、それをびくびくしながら見ている彼女に紫煙を吹きかけた。
「わっ……ッコホ」
「別に美味いわけじゃない」
「……そうなんですか」
じゃあ、何故、と彼女の顔が言う。
臆病な割に雄弁すぎる瞳だ。彼は答えなかった。
「えっと、煙草を吸うのもいいですけど、ご飯は食べた方が……」
テーブルには食事が手つかずのまま、残っている。
「うるせえな」
「……」
「お前が食べればいいだろうが」
「わ、私が食べても意味ないと思います……」
彼がひと睨みする。
彼女は慌てて目を伏せた。
「……」
「……」
「あの、どんなものなら食べられそうですか……?」
「しつこいぞ」
彼の肌は白かった。
日光にも当たらず、食事もしない。それでも華奢なイメージはない。堂々とした振る舞いがあるからだろうか。彼は煙草を吸う。彼女は、押し黙る。が、ぱっと顔を上げる。
「美味しいですよ、翔くんの料理!」
「……」
「すごく丁寧に作ってあって、味付けも優しいというかほっとするというか。でもクオリティがとても高くて」
「で?」
彼は紫煙を吐いた。すげない彼の態度に彼女の勢いは徐々に落ちていく。
「……おススメをしたくて」
「ヴァガストロムの奴らとうまくやってるようじゃねえか」
「うまく……かは分かりませんが、少しずつ仲良くなれている気はします」
彼女は少しほっとして笑った。
彼はまた彼女の顔に紫煙を吹きかける。
「えぁ、コホッ…!」
「――俺に食べてほしけりゃ、吸ってみろ」
「……っ、え?」
彼は煙草を差し出した。
彼女の瞳が揺らぐ。
ゆっくりとフィルターは焼けていく。
彼女は彼の顔を見た。彼の表情は読めなかった。
迷いに迷った彼女は彼の手元に顔を近づけていく。
「熱……」
「え、あっ」
それでも彼女が迷っていると短くなった煙草で彼の指が焼けた。
それに気づいた彼女の顔が青ざめる。
「冷やさないと、あ、水、えっと」
彼は煙草をもみ消して、彼女の顎を掴む。
彼女が息を吸い込む。
彼は、慇懃に彼女の瞳を見つめるだけだ。
彼女は逃げ場をなくして、追い詰められた子猫のようにぶるぶると震える。
「すみませ、」
彼は言葉の吐息がかかるほど、顔を寄せる。
彼女は思わずぎゅっと目を瞑った。
「俺を見ろ」
「……」
「見ろ」
「…………は、はい」
彼女はそろりと目を開ける。
彼の瞳が彼女を捕らえたが、飽いたように手を離した。
「掃除しとけ。夜になったら起こせ」
「え……で、でも」
「下僕が口答えすんじゃねえ」
「冠氷さん、火傷はしてないですか……?」
「うるせえ」
彼女は困ったような顔で彼を見上げる。彼は、その瞳を閉じたくなった。口とて、塞ぎたくなった。彼は彼女がいるにも関わらず、ソファに横になった。
彼女は彼に足を乗せられて猶更困ったようだった。彼は目を閉じた。足で感じる彼女の身体は頼りなく、柔らかい。
「あの」
「……」
「……冠氷さん?」
彼は身じろぎしなかった。
彼女は浅くため息を吐く。
「どうしよう…………」
小さい声だったが、むろん聞こえた。
彼は、ふっと笑いかけた。
このまま、彼女をこの部屋に閉じ込めてしまいたいような気持ちになったからだ。
外はいまだ眩しい日差しに満ちている。傾きかけた西日がより一層赤々と燃えて、カーテンの縁を彩っている。外と隔絶したこの空間は、音も届かず、彼は彼女の、困惑したままの浅い呼吸にいつまでも耳を澄ましていた。
2024年6月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
#ザガ主/R18
大抵の地球のおかずよりも遥かに良いものたちがここにはあり、何故ならここは地獄だからだ。
天使たちの襲撃が今日は休みで、ここの神も休日を作ったのかもしれなかった。案外常識を持ち合わせたピョンがお出かけになられてはいかがですかと言う、ゲヘナはとても素晴らしい街ですよ、と言う。襲撃の後に朽ち果てた建物があっても活気に満ちていて、美しかった。一人で行ってもいいものかと確認する前に、ちょうどいい、とピョンが言った。ザガンがいた。ザガンは私と目を合わせなかった。そこが気に入った。ピョンに一緒に出掛けてくるといい、はい、それがよろしいですよ、と言い、何か忙しそうに出かけて行った。見慣れた赤い丸が、星のように過ぎ去って、無言を決め込むザガンの腕を取った。びくりと驚いて、ザガンは目の端を赤く染めた。
「あなたはどうしてここに?」
「…………」
ザガンはひどく無口で、私は自分の都合よく解釈することにした。
ぴったりとくっつくと熱い皮膚が感じ取れた。シトリーでもなくても鼓動は聞き取れる。
「ゲヘナはいい街だね」
ザガンは頷いた。
「それで、二人きりになれる場所は知っている?」
ザガンは目を丸くした。
私を見て、喉をこくりと鳴らす。
正直で可愛い反応に私は満足した。
「嘘だよ、好きな場所に連れて行って」
ザガンは困ったように眉を下げた。
「どちらがいい?」
ザガンは、顔をそらした。
私は辛抱強く待つことにした。嘘だった。彼の手を握り、彼の腕を触った。
ザガンは首から赤くなって、小さく唸る。
「…………どこがいいのか、分からない」
「酒場があるんだったら宿があるんじゃないかな」
「!」
ここは地獄だったし、彼は悪魔だった
ザガンは私の腕を取ると、真っ直ぐに歩いて行った。私は素直に付き従った。彼が何か他の悪魔に断りを入れ、私は宿の一室に連れてこられる。ザガンの息はすでに荒くて、硬くなって主張していた。
「……キスはしてくれないの?」
ザガンは応じた。
最初は戸惑いがちに、徐々に大胆に。私は受け入れて、ザガンも私を受け入れるころにはお互い裸になっていて、私は彼の均等に鍛えられた美しい身体を目と指で堪能した。唇でも、舌でも。ザガンはベッドにうつ伏せになって、時々唸り、私に許しを請うような目をした。きらきらの犬みたいな、それでいて、あまりにも真っ直ぐだから返って虐めたくなるような目で。
私は彼のものを太ももで挟んだ。
「いれたい?」
「………ああ」
「どうしても?」
「……どうしても」
「どうして?」
「……どうして?」
「言って」
何を、と彼は聞かなかった。
「お前が欲しい」
私は返事をせずに、彼を導いた。
彼はそれだけで震えて、達しそうになった。
好きに動いていい、と言うように私は彼の首を抱き、彼は動き始めた。
動けば動くほどみっちりと質量を増してゆく。
ここは地獄で、地球では中が満ちることはなかった、こんなにも。
彼の髪もとてもいい匂いがして、悪魔はどうしたって魅力的だ。しとどに濡れていく自分も、彼のものも感じて、でも彼は私を壊すわけではなかったし、私も彼に壊されたいわけではなかった。
丁度いい興奮と快楽に、どこか素朴な彼のうっとりとした恍惚した眼差しが気持ちよかった。
「はぁ、はぁ、……気持ちいい?」
「……ああ」
彼はそれに興奮したように、腰の動きを早めていく。乳房を舐めて、先端を吸う。
前にした動きを覚えているようだった。
私の内側も唸っていく。
彼の汗が私に落ちる。
髪を掻き上げて、角を触ると彼は眉をしかめた。
困っているのに、もっと、と強請るようだった。
私は嬉しくなって、彼の角を握る。
彼の動きに合わせてぎゅ、ぎゅ、と動かすと、彼は声を漏らした。
「イキたい?」
「……ああ」
「可愛い」
また彼は困惑して、でもそれをどこか楽しんでるようにして小さく笑った。
私はあとは彼に任せることにして、彼の齎すものを楽しんだ。
美しい男が犬みたいに懐いてくれるのは、心地よかった。
ザガンの余力を残して行為は終わった。甘く痺れて余韻が残っている。私はまだ出来るような気がして、彼の胸元を触った。ザガンは、私の首筋に唇を寄せる。
「今日は終わりだ」
「どうして?」
「お前が疲れているから」
「もっとできるかもしれないでしょう」
「……なら、今度」
今日よりもっとする、とザガンは小さく笑った。
私をあやすように。
「休んでくれ。連れていく」
どこに?
地獄はここだ。
ザガンは私にキスをした。甘い色の眼差しは欲を残していて、そういえばこういうジュースがあった。よく混ぜないと最後に甘い蜜が残ってしまうもの。水を足して飲んでもいいんだけれどそうすると水っぽくなって台無しになってしまう。私は彼の唇を舐めて、彼は、小さく唸った。犬みたいにして。見えない尻尾を振って、私の胸元に頭を寄せた。案外ふわふわとした髪が私の肌をくすぐり、ゆったりとした重みは私を睡眠へ促す。
「また会いたい」
どうしてそんな当然のことを?私は眠気に囚われて、うまく答えられなかったけれど、窓から差し込む光は薄っすらと分かり、それが一層ザガンを美しく見せ、私はゲヘナは素晴らしい街だと、改めて思った。
畳む
#サン星
「星さん?あの、これは一体」
「友達――アベンチュリン――から貰ったの。だから、あなたにあげる」
「あげると言われましてもこれはまた大金ですよ」
「そうだね。だから、あなたが使って」
「どうしてです?」
「いつも投資話をおじゃんにするじゃない!私はお金を出すと言っているのに」
「あなたは良くてもあなたの保護者達に何を言われるかと思うと僕のリスクが高いんですよ」
「じゃあなんでいつも声をかけてくるの?」
「あなたが簡単に乗るからですよ」
「矛盾?」
「楽しいからいいじゃありませんか」
「まあ、それは……そう。だから、私が投資話を作った」
「だから?」
「だから」
「一から話してください」
「十から話したのに?」
「それが問題なんですよ」
「私、お金貰う。サンポ、そのお金を使う。終わり」
「あなたの話術を指南する本を作ると売れそうですね」
「じゃあ、このお金で作ろう!」
「ゼロから話すのはどうでしょう?」
「回りくどいな。いいから使えと言ってるんだけど」
「正直に言うと恐ろしさを覚えています。わけもわからず他人……いえ、ごほん。親愛なる友人の星さんからお金を使えと言われて。まったく混乱してしまいます。これは罠かなにかでしょうか?」
「シンプルに話してるんだけどな」
「シンプル……というか、マッチを使って火をおこすのではなく、雨を降らせろと言われているような気分なのですが」
「じゃあそれをしよう。このお金で」
「すみません、壊れたカセットテープよりも異常な停止と繰り返しを行わないでください」
「私を失望させないで」
星が言う。
サンポは目を細めた。
「私めに何をさせたいのですか。私めは商人ですから、事は単純なのです。お客様の欲しいモノを買う。お客様の欲しいモノを売る。それだけなのですよ。」
「サンポがこのお金でサンポの欲しいものを買ってきて、私を満足させる。以上」
「僕の欲しいものでどうして星さんが満足されるのですか?」
「サンポの欲しいものが見たいから。」
「おやまあ、……いえちょっと待ってください。一体どうされたのですか?ゴミ箱に脅迫されているんですか?どのあたりの?まさかこの前一緒に穴を掘っていたあれですか?」
「どの話?心当たりが多くて分からない」
「はあ」
サンポがため息を吐いた。
星はてへへと照れたように頭を掻いた。
「じゃあそういうことで」
「待って。待ってください。僕、何かあなたを怒らせるようなことをしましたか?」
「存在がもう………あれは許せなかったな………」
「えぇえ……償いならもうしたじゃないですかぁ、ってどのことですか?心当たりがまるでないのですが……」
「サンポじゃなかったからね。でもサンポの顏してたからそういう時はサンポが悪いよ」
「―――ということは、つまり」
「てへへ」
「八つ当たりじゃないですか?サンドバックの代金ということですかぁ?」
「願いは本当。怒りも本当だよ。いや、正当かな……大体サンポが悪いじゃん……」
「あのー。まったく理不尽さを覚えるのですが、はあ、もう分かりましたよ。ならそういうこととして、お金は預からせていただきます。……僕の欲しいもの、でしたよね?」
「まあ犬のうんこみたいなもんだと思うけどね」
「今ふかーく傷つきましたよ。本当ですからね、ああ、悲しい……良き友、良き仲間、良き同士、こうして時間をかけてお互いを知り合い、深くつながった関係だと言うのに……星さんはまったく僕のことをお分かりになっていないなんて!この不肖サンポ、悲しすぎてもう涙も枯れはててしまいました」
「乙~。じゃあ、楽しみにしてるね」
「あ、ちょっと!」
星は本当にさっさと歩きだして、街灯に喧嘩を売りに行った。街灯の方はまったく気にせず、そびえたっている。むしろその近くにあるポストの方が彼女のことを気にしているようだ。この街は終わりだ。
「……さてと」
本当に大金だった。彼女からして、だが。それをささーっと懐にしまい込み、サンポもまたその場を去ることにした。自分の欲しいものはお金では買えない。大事なものはお金で買えないのだ。まあ、大抵の場合だが。何があったのか、おおよその見当はついているものの、かといって自分の所為ではないことは確かだ。八つ当たりの代金は頂くとして、彼女の願いを叶えないといけない。売られて、買ったのだ。このサンポ、いついかなる時もお客様を失望させるようなことは致しません。決して差し出すのは、犬のうんこなどではないのだ。……………彼女は、結構喜びそうだ。物語はそうやって破綻した。パーン。終わり。
#冠特
寝ている。呼び出したのは自分だ、部屋で待っていろと言ったのも自分だ。
彼は煙草を手に取り、火を点けた。浅く吸い込み溜めてから吐き出す。
ちろりと詰みあがっている書類を見る。見るだけだ。
机に腰を下ろし、人のソファで間抜けに眠りこけている彼女を見る。
煙草を吸う。吐く。二本目に火を点けた。紫煙が漂う。
彼は特に何も考えていなかった。どうでもよかった。
彼女は眠っている。
二本目を吸い終えたら、動くつもりだった。
が。先に腹の音が鳴った。
彼のものではない。
眠りこけている彼女の腹からだ。
グゥウウーー
勢いよく飛び起きた彼女は彼を見て、不思議そうな顔をし、やがて状況を把握し、青ざめた。腹が鳴り続ける。顔を赤くし、冷や汗を流し、困り果てた顔で、彼女は滑稽なほどにうろたえた。
「あ、えっと、あの、これはその、ええと、だから」
「だから?」
「えっ」
「何だ」
「…………すみません………」
絞り出した声で謝罪し、彼女は死刑を待つ囚人のように項垂れた。
腹は鳴っている。
「御託はいい。消えろ」
「はい、あの、本当にすみませ」
「やる」
「…………あ、え?」
「あ?」
「……えっと」
彼女は瞬いた。
彼が放り投げたのはチョコレートの缶だった。
「押し付けられた。お前が全部食え」
「あ、………えっと…………じゃあ、責任持って食べます、ので」
「ああ」
「失礼しました」
「食えって言ったよな?」
彼女は最大級に間抜けな顔をした。
「……それはその。……ここで?」
彼は答えなかった。
彼女は哀れな子ネズミだった。
何かをすがるように視線を彷徨わせ、やがて決心した。
「いただきます…………」
恐る恐ると彼女はチョコレートを一粒口に含んだ。
「……ん、……あ!美味しい!」
「そうかよ」
「美味しいですよ、冠氷さんも食べませんか?」
「いらねえ」
「美味しいですよ」
「お前が全部食えつってんだろ」
「……誰かからの贈り物ですか?」
「知らねえ」
「こんな美味しいチョコレート、私食べたことないです!」
「で?」
「………………すみません。あの、ここで全部食べなきゃだめですか?」
目線だけ向けた。
彼女は臆病に首を竦める。
「………友達に、あげたくて」
美味しいので、ともごもご言った。
大方、二年の同級生にだろう。
「あ」
「え」
「……」
彼は口を開けて見せた。
彼女が固まった。
「早くしろ」
「えっと……失礼します」
彼女はおずおずとチョコレートを一粒、彼に差し出した。
彼は彼女がそれを口に入れるまで傲然と待った。
彼女は彼の意図に気づき、怯える子羊のまま、王の口に含ませた。
彼は彼女の指ごと、チョコレートを食み、溶かした。
「まあまあだな」
「…………は、はい」
「はい?」
「お、美味しいと思います……」
彼は手を振った。
下がれという意味だった。
部屋から出ていけとも言った。
彼女はわたわたと慌て、チョコレートの缶をしっかりと抱いた。
「あの、冠氷さん、有難うございます」
彼は応じなかった。
彼女はそっと出ていく。
入れ替わるようにして、副寮長が訪れた。
彼はソファに横になり、目を瞑った。
何か色々と言っていたがどうでもよかった。
「おや、チョコレートはどうされたんですか」
不意に含み笑いが聞こえる。
わざとらしい言い回しに彼はいつもうんざりしている。
「失せろ」
「また、用意しておきます。ああ、そうだ」
今度は彼女を呼んで、お茶会をしましょう。
戯言が聞こえる。
彼は沈黙を欲した。
まだ何か話している。
うるさい。
彼の、口の中はチョコレートの味がした。
彼女の爪の硬さが歯に残っている。
その時、一瞬、目が合っていた。
彼は捕食者の顔をしていたし、彼女は無垢な生贄だった。
「美味いやつにしろ」
彼はそれきり、何も話さなかった。
副寮長は従順に承諾する。
彼女は、彼の特別だった。
#レイ主
ずいぶん真面目にあなたは思い悩んだ。戸惑い、躊躇、照れ、恥ずかしさ。愛しさ。忙しい仕事の合間にチョコレートのバーを齧りながらあなたは辞書や例文集をいくらでも読み、ラブソングも聞いたし、小刻みの時間でラブストーリーの映画も見た。夢でもそれに思い悩み、起きて真っ白の便せんを目の当たりすると、頭痛がするようだった。誤解がないように言えば、あなたは不本意に嫌々、やっているわけではなかった。寧ろ積極的に意欲的に取り組んでいた、あなたは自分はロマンチストではなく、情緒の欠片もないと思っている節がある。実際の彼女の印象はその逆にも関わらず。自分が成し遂げたものを彼女に直接手渡すことを考えると頭がぐらぐらした、恥、恥ですらなかった。ためらいだったし、恐れだった。もし、――もし、彼女の表情に何も思い浮かばなかったら?あなたは完璧を求め、―――挫折し、ペンを置いた。彼女に手紙を贈りたかった。彼女が何度も貰ったことがある、ラブレターを。あなたは事実に嫉妬したわけではなかった。いやほんのちょっと、実際嫉妬もあったかもしれない。でも、あなたは彼女が思うよりも純粋に彼女のことを愛していたから、その思いを形にしたかった。文章にして彼女に差し出したかった。それを読む、彼女の眼差しや、驚きや、微笑みが見たかった。あなたは眼鏡を置いた。目頭をもみ、ため息を吐いた。
「レイ先生ってば、根詰めすぎじゃない?」
「…………いつから」
あなたは冷静に言った。冷静に。
彼女は楽しそうに笑った。
真向いの椅子に彼女は座っていた。
診察を待つ患者みたいに。
「そんなに悩むなんて誰への手紙なの?レイ先生、まさか論文じゃないだろうし」
「………本当に、診察か」
「え、そう、そうだよ。一体どうしちゃったの?本当に忘れてたの?」
あなたは沈黙した。
彼女は真剣な顔になり、
「一体いつから休んでないの?大丈夫?」
あなたに近づいて、額に手をあてた。熱を計っている。特に変わりがないと知って、医者のようにあなたの頬を触り、あなたの隈を見つける。
「……そんなに大変な手紙だったりするの?何か、私に手伝えることはある?」
あなたは沈黙を選んだが、彼女の瞳は嘘を吐かせなかった。
「お前への手紙だ」
「え?」
「前に話しただろう、手紙を贈ると」
彼女は何回かまばたきしたあと、口を開けた。
「…………」
「何か言ったらどうだ」
「……何か、って。あなたって本当、時々、思いがけないことを言うよね」
「有言実行なんだ」
「それは知ってるけど」
でも、と彼女はあなたの頬を撫でる。
「心配になるよ」
「……そんなに酷い顔をしているか?」
「というより、優秀な医者であるレイ先生が大事な患者の診察の予定を忘れるなんてね」
「……」
「……そんなに私に手紙を書くのは大変だった?」
彼女は責めるというよりおかしそうだった。
あなたは彼女を見つめ、
「お前への、想いを言葉にするのは苦労する」
「そう」
「溢れて、」
彼女が固まった。
「どう言えばいいのか、分からなくなる」
「――そう」
あなたは彼女から視線を外さなかったが、彼女は先に目をそらした。薄っすらと頬が染まっていた。彼女はそれをごまかすみたいに、何も書いていない便せんを手に取った。
「じゃあ、これはそういうことが書いている手紙ってこと?」
「何も書いてないだろう」
「そういうことなんでしょ」
彼女が意地になったように言う。あなたは少し笑った。
「そうだな」
「うん――それで、診察はするの?」
それはありふれた言葉だし、聞きなれた単語だ。
あなたは一瞬揺らいで、時間を確認して、彼女を見る。
あなたと彼女の視線は交差する。
―――が、看護師から呼び出しが入った。
「レイ先生、すみません。緊急の呼び出しです。対応できますか?」
「今行く」
「今行く」
と、彼女が看護師に聞こえないように繰り返した。
「……すまないが、診察の予約を入れ直してくれ」
「はい、レイ先生」
聞きわけのいい患者のふりをして、彼女が頷く。
あなたは見送る姿勢でいる彼女を通り過ぎる間際、彼女の手を握った。
彼女は驚いて、握り返そうとし、その瞬間、あなたは離れた。
それからあなたは自分の職務を全うした。
デスクに戻り、あなたは残された手紙に気づいた。
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親愛なるレイ先生へ
次の診察日は忘れないで!
どれだけ私のことを考えていても、目の前の私をちゃんと見て。
あなたの大事な患者より
-----------------
あなたは幾度となくその文章を読み返して、椅子に深く凭れて息を吐いた。
あなたは今すぐ会いたかった。彼女に。
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#七マリ
「来週からコーヒー農園を見に行ってくるね」
と、彼女が言う。アクセを磨いてた手を止めて、顔を上げる。
「えっ、どこに」
彼女が名前を挙げたのは外国だったが、ぱっと聞いてどこの国か分からない。彼女がぎゅっと近寄ってきて、身を傾ける。いい匂いがした。スマホを操作して、ここだよ、と言ってもまだドキドキしていたけど、
「遠っ」
「うん、遠いよぉ。飛行機も乗り継ぐみたい」
「えっ、ま、待って。一人で行くのか?」
「ううん、みちるさんとひかりさんと」
二人のお知り合いが持ってる農場なんだって、と言う。ほあー。セレブな世界だ。詳しく根掘り葉掘り聞きたさもあったけど、
「……いつから決まってたの?」
「え?昨日だよ。だから今日実くんに話してるの」
ほら、とメッセージのやり取りを見せてくれる。すごすぎない?そういうやり取りって人に見せられるんだ。
「ふふ、いきなりでびっくりした?」
「そりゃもう……でも、パスポートはあるの?」
「うん、前にお父さんに会いに行ったから」
「あ、聞いた気がする……」
彼女の父親は海外赴任中で、時々会いにいくと聞いたことがある。日本に帰国してもいいけど、せっかくなら、ということで家族団らんも兼ねているらしい。
「…………」
大丈夫だと思う。あの二人が一緒だし、何より彼女のことを大事にしているから。
彼女の手を取る。喫茶店の仕事をしているから、指先は少し荒れていて、爪は短い。指の腹でなぞると、彼女がくすぐったそうに笑った。
「あのさ、カッコ悪いこと言ってもいい?」
「実くんはいつでもかっこいいよ♡」
「あっえっ、アリガト…………」
彼女がニコニコしている。うまく言葉にならなくて、引き出しを開けた。メイクボックスの隣。しまい込んでいた指輪がある。
「行く時、良かったら、これをつけて、いってくれると嬉しいデス……」
「……指輪?」
「ちゃんとしたやつじゃなくて、チープなやつなんだけど……でも、かわいかったから、前に買ってて」
「そうなんだ?いつ?」
「………高校一年の時」
「実くん、おしゃれだもんね」
「違うくて。美奈子……いいな、と思って、買ってたの」
「えっ」
「どう、かな」
「一年の時って、まだ」
「そう、まだ」
おもちゃみたいなオレンジ色のプラスチックのリングに、これもプラスチックのピンクのお花がついていて。その真ん中に、ピンクの濃い石がはめ込んである。石、というか、古いボタンを削ったような気もする。なんとなく、見たとき、彼女の顔が思い浮かんで買ってみたけど、あげるのは思いとどまった。そういう話をしたら、彼女は照れ臭そうに、嬉しそうに微笑んだ。
「有難う」
「……うん、ま、そーいうコトなんで」
「つけてくれる?」
「あ、はい………」
やべえ。ドキドキする。
彼女の手を取って、自分より小さくて、細い指が愛しくって握るようにして撫でて。彼女の瞳が期待を含んだように輝いていて、きらきらしてて。直視できなくなって、うつむきながら左手の薬指にはめた。
「えへへ」
彼女が手を開いて、指輪を見る。
かざしたり、手を傾けたり、いろんな角度から見ている。
高校一年の時ってこんな未来、思い描いていたんだっけ。まだ、秘密がバレて厄介だなあとしか、思ってなかった気もする。
「有難う、実くん。すっごく嬉しい♡」
「……うん。良かった。やっぱ、似合うし、スキ」
「うん、わたしも好き。大好き♡」
彼女の髪を耳にかけて、じっと見ると彼女が察してくれた。キスをして、眼鏡は相変わらず当たるけど、彼女がよく笑う。
「……わたしも何か返したい」
「え、いいよ」
「よくないです」
「あとでモールにでも行く?」
「そう…じゃなくて………」
む、と考え込んでしまった彼女の眉間を触る。
「もう!ちょっと待って」
「ヤダ。待たない」
またキスをすると、バタバタと彼女がかわいく暴れて見せた。
ぎゅーと抱きしめていると、
「あ、そうだ」
彼女が腕から逃れてゆく。
鞄を探って、取り出して見せたのは絆創膏だった。
彼女は真剣な顔をして、
「実くんの、手、借りるね」
「ドーゾ」
左手の指に絆創膏を巻くと、ペンでハートを描いた。
まじまじと見ていると、彼女はもじもじとする。
「えっとね、予約、のつもり……」
「予約?」
「指輪の……。一生分の………」
「一生分………一生分?」
「実くんの、ここにわたしの贈った指輪をずっとつけてもらうの!」
顔を真っ赤にした彼女は言い切った。
「ダメ、……って言ってもダメ、だから……ね!」
「……それって絶対?」
「絶対!」
「絶対。」
「絶対なの」
「それは、そのー……拒否られないじゃん」
「そうだよ」
「約束?」
「約束」
彼女が俺の顔を見た。
「……嫌?」
「なわけないし!!!!!!!!!」
語彙力が死んでいた。実際今も思いつかなくて、もう一度抱きしめた。キスして、それ以上もして、彼女は本当に来週旅立って行って、一週間ぐらい不在だった。喫茶店にはヘルプの人が来ていたけど、物足らなかった。
「nanaくん、それ、怪我したの?」
モデルの仕事中、仲の良いスタッフさんに言われて、咄嗟に口ごもった。外した方がいいのはわかっている。珍しく煮え切れない俺の態度に、努めて言葉を選びながら、事情を話した。
「かあっ」
「えっ」
「いや、えーと、そうだ」
結局、指輪を二つ重ねてつけることになり、気遣いに感謝した。彼女が帰国後、ずっと絆創膏をつけたままだった俺にびっくりして、かぶれちゃうよ、という心配をしてくれたし、仮の予約バージョン2ということで、シンプルな指輪を買いに行くことになるのはまた別の話。
#七マリ
ぐっと伸びをして、大きく息を吐いた。同じ姿勢で画面を見て作業をしていたものだからさすがに疲れた、はっ、と気づいて振り返ると彼女は相変わらず居てくれて、本から目を上げて、休憩にする?と笑ってくれた。疲弊していた心が和らいで、ぎゅんと好きを充電していくのを感じる。
「ごめんな、ずっと作業しててさ」
「実くんは課題の締め切りがあるんでしょ?今日はわたしが会いたかったから無理言ったんだし、気にしないで」
「やっ、俺も会いたかったし、今日は会えて嬉しい……デス」
モデルの仕事と課題の締め切りが重なって、作業時間があんまり取れなかった。日曜日をなんとかフリーにしたものの、暫くの忙しさで二人の時間も取れていなかった。俺の言葉ににっこり嬉しそうに笑った彼女が、うん、わたしも嬉しい♥️と言ってくれて、つい近づいたが彼女はコーヒーを淹れるね、とさっと立ち上がってしまった。伸ばしかけた腕を自分の腕に回して、有り難う、と口ごもる。気恥ずかしさが首筋を上がるのを指で掻いて、彼女の読んでいた本に目線を落とす。資格を解説する本で、彼女はいくつか付箋をつけている。勝手に見るのは駄目な気がして、覗けなかったが気になって、ウズウズしていると、コーヒーのいい香りがした。しかもそれは喫茶アルカードのものだった。キッチンを見に行くと彼女がいたずらを成功したような顔で、「気付いた?」と笑う。
「うん、これ……」
「ふふ。最近お店来れなかったでしょ?店長に頼んで、コーヒー豆を分けてもらったの。店長も実くんの顔見れなくてさみしがってたよ?」
「そっか。俺もさみしがってるって伝えて?」
「伝えるだけでいいの?」
「来週は顔出せるから……」
「なんだか妬けちゃうね」
「へ?」
「店長と実くんって仲良しだね?」
「それって………どっちに妬いてる?」
「ふふ」
コーヒーがフィルターを通して落ちて行く。香りに誘われるように、彼女の後ろから抱きついた。
「今はだめ」
「ダメじゃないもん」
すり寄ると彼女がくすぐったそうに笑った。
「もう、コーヒー淹れてるのに」
「うん………今の俺、甘えん坊さんだから」
「よしよし」
彼女が空いた手で撫でてくれた。ドリップして、後は落ちていくのを待つだけ。いつもの馴染みのコーヒーの香りと彼女が居るのが妙に嬉しかった。ちゅ、と首筋に唇を寄せると、驚いたようにちいさく肩が跳ねた。
「あ、甘えん坊さん?」
「結婚して」
「ふふ」
「え?じゃないんだ……」
飢えるみたいに、好きで好きでたまらなくて、いつも彼女はふわふわとしてて、小さな子猫みたいに、じゃれては好奇心の向く方に行く、相手が自分じゃなくてもおなじなのかも、とひたすら焦れていたあの時、こんな未来が待ってるとは思わなかった。スキ、と言うと彼女は体を向けてきて、わたしも好き❤と言ってくれた。少しの間、抱き締めあって、でも彼女はちゃんとコーヒーを見ていたらしく、俺からするっと離れてマグカップにコーヒーを注いで、飲も、と無敵に笑う。その唇に吸い寄せられるみたいに啄んでキスをする、マグカップを反対側から支えてより深く唇を重ねる。ダメ、と呟いた彼女が上目で俺を見つめるから、実際のところなにが駄目か分からなかったけど、でも実際のところ、駄目なのは分かった。課題が待っている。現実。こんなん生殺しじゃん、と思って悔しさみたいなのが沸いたけど、コーヒー冷めちゃうよ、と言う彼女の言葉で部屋に戻った。
「うー………」
懲りず彼女を後ろから抱えるように座り込んで、コーヒーを飲む。いつもの味だ。荒ぶっていた心が落ち着いて行く。
「美味しい?」
「うん。美味しい。いつもの味だ」
「ほんとに?」
「………ちょっと違うかも?」
「そう!そうなんだよね、難しいんだ」
悩む横顔が真摯で、きれいだった。
「大学行くと思ってた」
つい溢れた言葉に彼女はハッとした顔をして、眉を下げた。
「ふふ」
「っ、ごめん、俺が言うことじゃなかった」
「いいよ、みんなに言われたし」
仲良いだろ?て教師に大学に進学するように勧めるように言われたこともある。彼女は学年一位の成績を持っていて希望する大学に進学できただろう。
「資格、取んの?」
「うん、その内」
彼女には見えないところがあって、拒絶されているわけじゃないけど、誰も入れない場所があるみたいだった。俺の落ち込みを察したように彼女は俺の手を握って、
「実くんみたいに、わたしも夢を持ちたくて」
「なんだって出来るよ」
「ふふ、有り難う」
今は美味しいコーヒーを淹れたいな、と言う。
「グルメな彼氏さんを満足できるようにね❤」
「カワイイ彼女さんの淹れてくれたコーヒーならそれだけで十分なのに」
「ひいきはよくないの!」
「ひいきって。それはさ、するなって言う方がムリじゃない?」
「心を鬼にして!」
「んーーー」
彼女がお願いするときみたいに上目で見詰めてくる。ムリじゃない?
「ごほん。がんばってみるけど」
「うん、わたしもがんばるね!」
つい笑ってしまって、コーヒーを飲み終える。彼女をもう一度抱き締めて、
「うし、充電完了!それじゃ、作業に戻りますかね。時間がきたら言ってくれたら送るし、眠たいなら寝ててもいいし、動画とかも好きにみて」
「うん、有り難う。寛がせていただきます」
「イイエ、なんのお構いもせず」
「………………あのね、実くん」
「ん?」
「我慢してるの、実くんだけじゃないんだからね?」
「…………………………へ?」
一瞬いいように解釈して思考回路が爆発しかけて、いやいやまさか、そんなこと、俺がすけべえさんなだけでしょ!と思って彼女をみたら、顔をそらした彼女の耳がうっすら赤くて、俺は、俺は?顔が熱い。ひぇ、みたいな声が出て、ドッキドキとうるさい鼓動と、じっとり手に汗が滲む感覚がわかる、身体が言うこと聞かないのに、彼女に尋ねる勇気が持てなくて、あ、エアッ、ナニが正解??!ぐるぐる思考が動いて、でも彼女の方はもう見れなかった。互いの沈黙は重くなかったし、何なら甘かった。
俺たちって付き合ってるんだな、て思った。今更なんだけど、俺って世界一幸せ者だ。
#七マリ
ホールケーキを家族で食べる、その場面をみるのは今日が初めてだった。彼女を家族に紹介してから、あれやこれやと家に呼びつけられることが増え、その流れでクリスマスパーティーをすることになり、いや、何だよ、クリスマスパーティーって、そんな柄かよ、と呆れていたが飾りもツリーもずっと前から家に馴染んでいたみたいに当たり前にあって、ホールケーキがあって、家族が笑ってて、そのど真ん中に彼女がいる。すっげーな、と思う。すげえよほんと。マジ、どうなってんのか、わかんねえ。俺はなんだか耐えきれなくてそっと席を外した。家を出るわけにもいかないから、ベランダで暫くぼーっとしていた。
「実くん」
彼女は俺を探して、そばにきてくれた。
「………ごめんな、何か」
「どうして?」
彼女は笑ってて、嘘偽りなくて。俺の顔も心もくしゃくしゃになってしまって、彼女は気づいたように俺の手を握ったし、頬を撫でてくれた。
「俺が駄目だったんだろな、俺がもうちょいうまくやれてれば、もっとうまくいったのかな」
ずっと母さんも寂しくなくてさ。こんな、ぱっとあたたかな灯りのついた家になれたのかな。
「ふふ。実くんってご家族のこと、大好きだよね」
「は?!え?!な、なんでそーなるワケ?」
「実くんはそのままでいいんだよ、私はそのままの実くんが大好きだもん♥️」
「う」
そう言われると何も返せなくなる。無敵の言葉だ。
「あのさ、……うちの家族、イヤじゃない?イヤだったら、距離、置いてもいいし」
「全然。実くんは平気?」
「俺は、ごめん、まだちょっと、わかんないかもしれない。だって、ほらさ、………あんたは俺の大事なダイジな彼女なわけだし」
「ふふ。そうだね。実くんは私のとっても大事な彼氏だね♥️」
かわいい~!
いやそうじゃないんだよ。
「今の、俺ってカッコ悪いな」
「かわいいかも?」
「かわいい?!ドコが?!」
思わず近所迷惑になるほどの声が出た。はっとして口を抑える。
「そーゆとこ♥️」
「…………」
なんか、一生勝てない気がする……。というか、ずっと負けてるし、それが嬉しいんだけど。
「ね、ケーキ食べよう」
彼女は上目使いで俺を見て、腕を取る。あのさぁ、勝てるわけないじゃん。引っ張られるまま、リビングに戻る。扉を開けると家族が俺を見て、微笑ましいのとからかい顔とにやついた顔がそれぞれ見える。ぐっと眉間に皺寄せて睨んでやる、多分俺が彼女取られてすねて嫉妬したーみたいな流れになってるんだろう、まあそっちのほうがいいけど。俺のぐちゃぐちゃした気持ち、屈託を、彼女だけは分かっていて、俺を見て微笑んでくれる。あ、手を繋いでる、と姉が囃し立てるものの、絶対離してやるもんか。羨ましいだろ、とよくわかんないことを言いきってケーキ食べるときも手を繋いでたら、食べにくそうだからやめてあげんなさいよ、と言われても、彼女は照れて笑っているだけだし、そんなところが可愛い!とか言われて、そりゃそうだろと何故か得意気になってしまった。
切り分けたホールケーキは甘くて、やたら、甘くて懐かしい味がした。気を抜くと何故か泣きそうになった。
彼女をまだ実家に泊まらせるわけにはいかなかったから、猛攻してくる姉や追撃してくる親を振り切って、家を出た。
つんと冷える寒空に、また改めて手を繋いで、有り難うと言った。
彼女は笑って、それからなんでもないような横顔で、
「一緒にずっと生きていくってこういうことなんだね♥️」
と言った。数拍遅れて意味を理解して、でもその意味で合ってるのかも分からなかった。だから俺は間抜けに、「ずっと一緒に生きていってくれんの?」と尋ねた。
「そうだよぉ、え、ダメだった?」
「ダメじゃない!!!ダメなわけない!!」
さっきよりも数倍近所迷惑のくそでかボイスが出て、俺はまた口を抑えた。
「ふふ」
「ふふじゃなくて」
「実くん」
「うん?!」
「メリークリスマス」
「……はい。メリークリスマス、です」
「帰ろ」
どこに。
どっちに。
どっちでもいい、と彼女は言っている。言わなくても言ってて、でも俺は強欲で帰したくなんかなかったから、抱き締めて、キスして、急いで自分のマンションを目指すことにした。
クリスマスはだってこれからだ。
サンタさん、俺はもうプレゼントはいいです。いらないです。俺の欲しいものはここにあります。全部あります。
だから、それを誰も奪わないで。
お願い。
#レイ主
レイはいつものように引き出しを開けた。そこには必ず糖分補給に必須の飴やチョコ、マシュマロなんかがあり、しばし、定期的にレイはそれをつまむ。彼女に健康のことを口煩く言う割に彼は仕事中心の不健康な食生活を送っている。今日もそうしようとし、そして見慣れぬ箱を見つけた。かわいい雪うさぎのイラストが入った愛らしい箱だがレイは自分のために買うタイプではない。思った通りにメッセージを見つける。虫歯のひとは食べちゃダメ!もちろん、レイは虫歯なんかではない。欠かさずフロスしているし、磨きも忘れていない。前に痛んだことがあったがそれも過ぎ去った。だから、レイは箱を開けて、雪だるまみたいにころころしているスノーボールクッキーをひとつ食べた。溶けるような食感のそれをもう一度食べ、簡素に、なるべく無愛想に端末でメッセージを送った。
私は虫歯ではない。
スタンプがすぐ送られてくる。無言の意味を示す。呆れて黙っているつもりか?と送ると、理解しているみたいだね、とテキストが送られてきた。
声が聞きたくなった。テキストを読んだだけで、表情と声が再現できた。彼女はそれでもいたずらが成功したみたいな顔をしているだろう。
得意気だ。
そう返すと、意外と見つからなかったから、と言う。私が仕事をしていただけだ、と言うと、それは私も同じ、と返ってくる。随分暇そうだが、と送ると、今は休憩してるの、と言う。それから居場所が送られてきた。ランチを食べてるの、あなたもどう?
彼は立ち上がろうとした自分の足を諌めるのに気力を要した。残念だが、今から会議と手術の予定がある。彼女の表情が曇った気がした。ちゃんと食べた?食べた。お前の贈り物を。
分かった、と彼女が言った。差し入れするからそれを食べて。仕事は?と言うと病院の方角で用事があるから。彼は、また気力を要した。それなら、今すぐ顔を見せてくれ、とは送れなかった。
感謝する。
彼女が笑った。
彼は自分が休みを取っていないことに気づいた。メールで打診すると、調整してからになるが、必ず休みを取ってくださいと返信がきた。彼は息を吐いた。
彼女からもうメッセージは来ない。満足したのだろう、自分の親切さに。お節介さとも言うが。
彼はもう一度彼女からの贈り物を食べる。甘さが寄り添ってくれる気がする。彼は会議の時間までレストランを検索し、やがて彼女が気に入るだろう店をメモに残すと、レイ先生になるべく、仕事に戻った。検索している間に食事をした方がいい?彼女からの差し入れが届くのに、彼はそんな愚かなことをするほど、愚かではなかった。
2024年4月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
#レイ主
「起きたらあなたが、いないのはどうして?」
彼女の声は寝ぼけていてたまたま通話に出れた彼は一瞬何の話か分からなかった。
「夢の話をしているのか?」
おそらくそうだろうと検討をつけると、彼女は夢と繰り返した。
「夢なの?」
「夢だろう、私はずっと仕事していた」
「ギャッ!」
すごい声が上がった。
「あの、ごめんなさい、仕事が忙しくてくたくたで眠ったら夢と現実が分からなくなったみたい」
「私が夢にいたのか?」
彼女が押し黙った。彼は妙に急いた気持ちになった。
「そう、」
やけくそみたいに彼女は言った。
「あなたの夢をみたの!悪い?!」
「悪くはない」
彼は自分の高揚を押し殺した。が、彼女は恨めしそうに言う。
「にやにやしないで」
「してない」
「もういい、仕事を邪魔してごめん。もう切るから」
「今日は家にいるのか?」
「寝てる!」
「なら、今から行く」
えっという声がして、待たずに通話を切った。急いで準備して彼はオフィスを出た。看護師に言付ける。
「ゆっくりでいいですよ、先生、暫く帰っていないんですから」
彼は礼を言い、病院を出て車に乗った。本当は運転をしていい体調ではなかったのかもしれない。あきらかに寝ていなかったから。自動運転機能を強めに設定し、しかし、急いだ。
電話が鳴る。
彼女だ。
彼は出ない。
「………あなたって」
寝癖で髪を跳ねさせた彼女は呆れたような感心したような顔をした。
「よく事故を起こさなかったね?」
「疲れた」
「………そう」
お疲れ様、レイ先生。彼は抱き締めながら彼女の声を聞く。ずんとのしかかる眠気と疲労を感じた。彼女もそれに気づいたらしかった。背中をさすってあやすようにし、手をつないで彼女がベッドに案内してくれる。彼は素直にベッドに横になった。
「アラームはセットしてる」
「そこは起こしてくれ、じゃないの?」
「そんな不確実なことはしない」
「わかった、キスで起こしてあげる」
彼は眠気に抗いながら彼女を見た。彼女がベッドに片膝を乗せて、彼に屈んだ。
「有り難う」
少し伸びた無精髭を撫でるように指が顎先に触れて、頬にキスが落ちる。
彼は目を瞑った。
規則正しい寝息が聞こえる。彼女は唐突に現れて、すぐ寝入ってしまった彼の寝顔をまじまじと眺める。笑ってしまうような胸の温もりに、彼女は素直に笑って、彼の頬を撫で、毛布をかけた。しばしの間、彼女は彼を見つめ、指先を絡め、髪を撫でた。
その内無粋なアラームがこの時間を壊すまで、彼女は彼との新しい夢の続きを見ていた。
2024年2月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
#あむあず
最初に気づいたのは安室から香る香水だった。立体的な甘く上品なもので、親しみや気安さというよりはゴージャスな花の香りだった。包み込まれるとうっとりとしてしまいそうな、そんな香りだ。珍しく?なのか、スーツを着た安室透は、今日は大丈夫でしたか、と言った。
「全部マスターのおかげですよ」
つい、拗ねるような響きになった。榎本梓は口を尖らせる。バレンタイン当日の今日、シフト予定だった安室透は朝イチで休みの連絡をしてきた。元よりマスターも入るシフトだったから、一日を通して店は回ったが、安室透目当ての客が何人もいて、店にいる梓に、よもや安室透を隠してはいないだろうな?と言わんばかりの厳しい目と探る目を向けてくるものだから、針の筵だった。ちくちくと言葉で牽制してくる客もいて、すっかり梓は疲れてしまったところ、あとは大丈夫だよとマスターが仕事を終えるように言ってくれたのだ。
「もうほんとマスターがいなかったら!私は恋の剣で串刺しでしたよ」
「恋の剣…………」
「ほんとそうなんですから!………だから、安室さんはいない方がよかったのかもしれませんね」
「すみません」
「本業は大丈夫なんですか?」
安室は瞬いた。梓は首をかしげる。
「探偵。大事な仕事だったんでしょう」
「あ、はい。愛を伝える日にも野暮なひとはいますから」
「ふふ、その言い方、キッドみたい」
変な間が出来た。
「って、安室さんはどうしてここに?」
梓の帰り道の途中だ。見慣れた車から、見慣れたひとが出てきて驚いたのだ。
「今からお店に出勤ですか?」
「ええ、まあ」
「それは………がんばってくださいね」
同情的な響きをもって梓は言う。安室は笑った。その魅惑的な香りと共に。
「香水、つけてます?」
「え、ああ、」
安室は自分の袖を嗅いだ。
「移り香みたいですね、依頼人と会っていたんでその時ついたかな?」
「…………」
バレンタインに呼び出すなんて、安室さん狙いなんじゃあ?と、梓は思ったが思っただけに留めた。
「梓さんは今日、シフト入って大丈夫でしたか?」
「あ、はい。今日はのんびりするつもりでしたから」
「バレンタインなのに?」
「……………どういう意味ですか?」
それは確かに今は付き合ってる人はいないが。梓は眉を寄せた。安室が、いや、と慌てた。
「良かったです。あの、今日のおわびも込めて受け取ってください」
安室はずっと下げていた紙袋を、梓に差し出した。名前だけは聞いたことがある、世界的コンクールで優勝したパティシエが作るという一粒が1000円以上する恐ろしいチョコだ。
「いいんですか?」
断る理由がない。自分を浅ましく思ったりしたが、食べたい!梓は自分に誠実でありたい。安室はにっこり微笑んだ。
「もちろん」
「でもこんなお高いチョコを」
微笑まれると梓は一瞬たじろいだ。
安室は梓の手に紙袋を握らせながら言う。
「あの時告白しましたし、本命なのはわかってると思いますが本命チョコです」
「え、やっぱり」
「梓さん、チョコに罪はないですよ」
安室にはありそうな言い種だ。梓は顰めっ面になる。
「ていうか、私、安室さんの好みじゃないですよね?」
「え?」
「まあ、チョコには罪はないですけどぉ」
どうせこれも冗談だろうという構えで梓はチョコを受け取る。冗談にしてしまいたい。冗談なんでしょう、そういう顔で安室を見る。安室は、眉を下げて笑った。
「送りましょうか」
「いえ、マスター一人ですし、お店に行ってあげてください」
あの店はマスターの店で、マスターさえいれば実質回る。二人ともわかっている。なにせ、働いているのだし。
「それじゃ、気をつけて帰ってください」
「有り難うございます、頑張って」
「はい」
安室からはいい匂いがする。それが少し他人行儀に思う。コーヒーの匂いのする安室だったらどうしていただろう。いつものエプロン姿なら。
好きって言うなら、今じゃない?と思ったが、安室は運転席に戻ってしまった。梓はそれを残念に思うべきか、安堵すべきなのかは分からなかった。走り出す間際、安室は少し頭を下げた。梓は、笑う。種も仕掛けもなく、チョコレートはチョコレートだった。
そういう、実は気の利かないところを、梓は可愛いなと思っていたりするが、それは安室には秘密だ。
2024年1月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
#あむあず
「安室さんって、去年のクリスマスはどうでした?」クリスマスの準備をしているのだから聞かれるのは当然のことだろう、会話のひとつとして彼女は言い、彼はなんでもないことのように返した。
「仕事していましたね」
「探偵さんは休みがなくて大変ですね」
「ええ、まあ、そういう人々が浮き足だってる時にトラブルは起きやすいですから」
「今年は大丈夫なんですか?」
「尾行するよりかはケーキを売る方がいいですから」
「夢がありますもんね~」
大変ですけど、と彼女が腕を擦った。先程まではクリームをたくさん泡立てていた、マスター発案のケーキの受注は、大人気だ。そもそもマスターの顔が広いから、ふらっと出先で受注してくる。さすがにこれ以上は間に合わないから、受付はやめている。商店街にはケーキ屋もあるから、その折り合いもある。
「梓さんはどんなクリスマスでした?」
「私も仕事ですよ」
「去年はケーキの販売なかったんですよね」
「その代わり商店街のパーティーが」
納得。
二人で笑った。
「そういえば昔ケーキ屋さんになりたかったような、気がします」
彼女が言う。
「夢が叶いましたね」
「そうですね、安室さんは何になりたかったですか」
「なってますよ」
「探偵に?」
彼は笑った。
「いいなあ」
「どうして」
「ちゃんとしてる感じがするので」
「夢を叶えるのが?」
「違います?」
「梓さんも、でもそうでしょう」
「ははは」
彼女は冷蔵庫を見つめた。新しく倉庫にでかいやつが導入された。来年もこの人はここにいるのかなと彼女は思った。
「マスターのクリスマスケーキってどんなかんじですか?」
「お酒の味ですよ」
「へー」
「ジャムが塗ってあってスポンジに洋酒が浸してあってクリームは滑らかで、美味しいですけど、子供向きじゃないかも。今年も作るみたいですよ、常連さんには」
「食べてみたいですね」
「作ってくれますよ、きっと」
「大人ですもんね」
「マスターはサンタクロースだから」
「それは冗談ですか?比喩ですか?」
「真実ですよ」
彼女は言った。
彼は二年前のクリスマスのことも聞こうと思った、それ以前のクリスマスも。
「赤が嫌いなのってクリスマス由来とか?」
「秘密です」
「そっかあ」
サンタクロースは好きでした?と言われて、彼は笑った。
「善良な人は好きですよ」
「大人目線の解答ですね」
「不法侵入はどうかと思いますが」
「探偵もそうなんじゃないんですか?」
「犯罪者と一緒にされるのは心外ですね」
「すみません」
「いえいえ、どうも」
彼は帰り支度を始めた、上着を着るついでに言う。
「初めて一緒に過ごすクリスマスですね」
「…………………炎上!」
「がんばりましょうね」
何を。
彼は笑う、送りますよ。彼女はふっと視線をはずした。
「この近くにきれいなイルミネーションがあるって聞きました、よ?」
「クリスマスですからね」
「はい、クリスマスです」
「あっという間にお正月で、あっという間に春ですね」
「はい」
「でも、クリスマスは今だけなので」
「そうですね」
「楽しみましょう」
「目指せ商店街のサンタクロース」
ほんとは、と彼は聞いた。二年前のクリスマスのことを。彼女は笑って、店の外に出た。扉を開けて待つ彼女に彼は肩を竦めた、良い子のもとにサンタクロースはやってくる。彼に必要なのは夜道を迷わず導いてくれる真っ赤な鼻だった、憎むべき赤が世の中にはたくさんあり、しんと冷えた空気が彼女の鼻や頬を赤く染めるのは、しかし、そう悪いことではなかった。
#あむあず
新しい手品を練習してるんです、と彼が言った。彼女は、興味をそそられて、え?どんなのですか?と尋ねる。彼はたれ目を細めて、入れ替わりマジックです、と言った。それって、人と人とが入れ替わる分ですか?と彼女は驚いた。それって結構大技なのでは?
彼は、得意気にも頷いた。
「ここに安室透がいるとします」
彼は手慣れた仕草でカップを置いた。
「それで、反対側には別人がいます」
もうひとつ同じカップを置く。
「うんうん」
「で、入れ替わる」
彼は二つのカップを入れ替えた。
彼女の見ている前でもう一度。
そしてまたもう一度。
「どちらのカップが安室透だったか、分かりますか?」
「えっ」
カップは同じもので。
彼はかなり手先が器用で。
シャッフルされたそれらは、どれがどれだか分からない。
「うむむ。でも、マジックだから、種も仕掛けもあるはず」
「そうですね」
「うーん……これを安室さんがやるんですか?」
「そうですねえ」
「えーっうーん、わかりませんよぉ」
「ちなみにこちらが安室透です」
彼は笑いながらカップの裏を見せた。そこには子供の悪戯なのか、車のシールが貼ってある。彼女は思わず笑った。
「安室さんは車がすきなんですね」
「それはもう、愛車を大事にしてますね」
「じゃあこれが安室さんですね。今度から裏を見たらいいんだ」
「大事なのは観察。僕は触らないで、とも言ってないですから、よく確かめることも推奨です」
「なるほど、それじゃ、安室さんが入れ替わっても大丈夫ですね」
「梓さん次第ですね」
「がんばります。いつやるんですか?」
「準備ができた上で状況次第ですね」
「楽しみにしてますね」
「はい」
それじゃ、コーヒーでもいれましょうか、と彼は言う。おやつといきましょうと、彼女は笑った。一見同じ見かけのカップにコーヒーが注がれる。でもそうすると、彼女には見分けがつく。彼はいつもコーヒーにはミルクをいれているから。彼女は微笑む。そういうことを、たくさん知ってることを彼は気づいてないから。いつか、驚かせてやろう。手品のあとで。
*
壊れていたんですよ、キーホルダーが。さも恐ろしいことのように榎本梓が語るので、安室透は食器を磨いていた手を止めた。
「…………キーホルダーなら壊れることもあるでしょうね?」
「でもうちの店のキーホルダーなんですよ?!」
マスターが何を思い立ったか、うちの店のロゴキーホルダーを作ってみようと言い出して、あれやこれやと知人のデザイナーに頼んであっという間に限定50セットのポアロのロゴキーホルダーは出来上がったのだ。面白半分に常連たちに配ると結構面白がってくれて、それが呼び水となり、在庫はあっという間に捌けていった。梓と安室も一つずつ貰っていた。案外少なかったね、今度は200セットでいこうかとマスターはノリノリで、どうするんですか?と聞いたら毛利小五郎探偵事務所ロゴと合わせ売りするから、あっという間に売れちゃうでしょとマスターはどや顔だ。案外いけちゃうかもなと思った二人はそれ以上話題をさわらなかった。さて、キーホルダーだ。そのポアロのロゴのキーホルダーが壊れたものが、今朝出勤してきた梓が店の前で見つけた。これって事件じゃないですか?!と言う梓に、やんわりと安室透は笑う。
「どうでしょう。常連客の方が落としたものをしらずに通行人が踏んだのかもしれませんし」
「それはそうですけど、悪い意味があったらどうするんですか?」
「ものが壊れることに意味はありませんよ」
「それって探偵としては正しいんですか?」
「探偵としては、謎を作るより謎を解きたいですねえ」
「安室さんの名探偵!」
「有り難うございます」
「でもよくよく考えたらそうですよね、わざとじゃないだろうし。ちょっとびっくりしちゃっただけで。すみません、お騒がせしました」
「いえいえ、僕も現物をみたら気になるかもしれませんしね。その壊れたキーホルダーはどうしたんですか?」
「処分しちゃいました、ごみの日でしたし」
さらっと梓が言った。安室は瞬いた。気にする割に処分が素早い。
「あ、駄目でした?!証拠品?!」
「いえ、そんなことは」
「すみません、マスターが見つけると気にするかなと思いまして」
よくわからない人だからそれはありえるかもしれない。
「いいことかもしれませんよ」
「いいこと?」
「ポアロの新しいロゴが出来るとか?」
「それはちょっと寂しいかも」
「はは、ですね」
その話は一旦それで終わった。梓がすっかり忘れていた数日後、安室が言う。
「壊れたキーホルダー、毛利さんのものみたいですよ」
「え?……………………あぁ!」
「完全に忘れてましたね?」
「てへへ」
「昨日マスターと話してましたよ、酔って帰ったときにキーホルダーなくしたって。それで、なんか音しませんでした?ときいたら、そういやなにか踏んだなって」
「あー~」
想像が出来たという、あー~だ。
梓が笑った。
「なんてことありませんでしたね」
「そうですね」
安室がふと笑った。
「マスター、今度は強化プラスチックで作ろうかなって言ってましたよ」
「えぇ?」
「銃弾で割れないくらいの」
「えぇ、本気ですか?」
「そうなったら面白いですよね」
安室透は夢想する。いつか自分が心臓を撃たれた時、それを防ぐのがポアロのロゴのキーホルダーならば。
梓は怪訝な顔をしている。
「それってキーホルダーにできるんですかね」
「さあ、どうなんでしょう」
一拍おいて二人は笑い合った。
喫茶ポアロは今日も穏やかに営業中だ。
*
すっかり泥だらけになって帰ってきた安室に梓は犬を思い浮かべるべきか、子供を思い浮かべるべきか、少し迷った。そんな泥だらけの状態で店にはいられても困るし、何より衛生的に大問題だ。というわけで、ちょっと待っててくださいと梓は断り、植木用の蛇口を捻ってホースを掴み、安室に向かって噴射させた。幸い暑い日でもあったから、風邪は引かないだろうが、店の前での行動に通行人がびっくりしたが、安室が泥だらけなのを確認すると、あぁ、みたいな顔をして去っていく。基本的に米花商店街は懐の広い人が住んでいるのである。
けらけらといつになく、楽しげに安室は笑って水を浴びている。梓が最初迷った答えは、この際両方だった。犬でもあったし、子供でもあった。その内、女子高校生と小学生が我が家に帰ってきて、おおよそ玄関前で繰り広げる水浴びに待ったをかけて、シャワーを貸し出してくれうことになった。
ごめんね、蘭さん。
いいえ、困ったときはお互い様ですから、
とはいえ、どうしてこの事態に?とコナンが問いかけて、梓はかくかくじかじか説明した。近所の公園で子供たちと一緒に泥団子を作ってたんですって。
何やってんだよ、公安というかすかなぼやきに答える者はおらず、いやー助かりましたと晴れ晴れとした笑顔で安室がポアロに無事戻ってきた。服は常にロッカーに着替えを用意しているので問題はなかった。
お礼に、何か作りますよ、と言う。
てきぱきと調理し始めた安室に、三人は顔を見合わせる。
梓が息を吐くようにして笑った。
楽しかったですか?安室さん。
安室が笑った。
手伝いますよと、梓が声をかけ、二人であれやこれやとしはじめるので、今度は蘭とコナンで顔を見合わせる。少し気持ちがわかるかもと、蘭が呟いた。コナンは不思議そうな顔をする。蘭は、笑う。新一が楽しそうなときって、結局許しちゃうから。コナンは蘭の顔をみて、カウンターの中にいる二人を眺めた。
自分達もこんな風に人から映るのだろうか。そう考えると、少し面映ゆい気がした。
特製ポアロスペシャルサンデーはアイスとフルーツが山盛りで、笑ってしまうほどだった。
安室がお土産に持って帰ってきた、ぴかぴかの泥団子は、看板に残されている。みんな、これは何?という顔で、しかしなにも言わず、行き交ってゆく。夕日に眩しく、輝く、ぴかぴかに光る金の玉だった。
#京園
運命だと思った、二度、運命だと思った。笑われてる女子がいた、大声を上げて、なりふり構わず、拳を振り上げて、顔を目一杯動かして、ひたむきに友人を応援している姿は面白かったのだろう、実は彼女を一度見たことがあった、他校の生徒を探して、キャーと騒いでいる姿を本当は見たことがあった、そういう女子を、気にかけたことはなかったが、彼女はよく動くから、一瞬目についた。視界に触れて、それで、一旦忘れたのだと思う。
彼女の色素の薄い茶色の髪が、暴れるように乱れて、大きく開けた口が、いけー!とか、やれー!とか、物騒な言葉をもたらして、友人の、一挙一動にハラハラドキドキして、祈るように目を伏せて、そして射抜くような気合いの入った眼差しで、蘭!あんたならできる!と叫んだ。
自分の神経のひとつひとつが、細胞が、彼女にまっすぐ向かっていって、すんなりと理解をした、これが、恋なのだと。
同時に分かっていた、これは、叶うことのない恋なのだと。
「どうしたの、真さん」
瞬きする。
「いえ、ちょっと時差ボケがあったみたいで」
「大丈夫?ホテルで休もっか」
「え?いえ、大丈夫です」
「いーのいーの、一度アフタヌーンティーの試食に来てくれって頼まれてたから。近くのホテルだし、このまま行こう」
彼女は自然な動きでタクシーを呼び止めて、ホテルの名前を告げる。そういえばこの前蘭がね、と楽しそうに話をしているのを聞いている間にタクシーは目的のホテルに到着する。鈴木財閥の所有するホテルだった。彼女は、ボーイに名前を告げて支配人に取り次いで貰うように頼み、彼女のことを知っているホテルマンの一人が園子さまと、ラウジンカフェへと案内する。ドリンクが運ばれてくるまでごく自然で、彼女は特にその事を殊更誇示するでもなく、当たり前に享受している。彼女はお喋りを続けていて、それは普段近くにいない時間を埋めてくれるようで愛らしかった。支配人が現れて、彼女は彼が休める部屋を用意してくれる?と言う。それから部屋にアフタヌーンティーを用意して、と告げる、支配人は当然と応じて後は待っていれば眺めのいい部屋に案内されるだけだった。実家の旅館を思い出す。オーシャンビューの一望を彼女はまあまあだね、と笑って、ほら、ゆっくり休んで、と自分をベッドへ促した。もごついていると、いいからいいから、と引っ張って、
「それともなあに?寝かしつけてくれってこと?」
と、いたずらっぽく笑った。子守唄なら歌えるかも、と言うので、聞いてみたい気がしたが、これ以上は墓穴な気がして、ベッドに潜った、自重を包み込むようなゆったりとしたマットレスに清潔なシーツ。掛け布団もふわりと軽く温かかった。外はあんなにも暑いのにここは、冷房が効いていて、寝具の中にいるのが、心地よかった。快適だった。目を瞑っているとマットレスが少し揺れて、彼女の気配がした。もう、眠った?言葉は喉に貼り付いて、彼女の柔らかで華奢な指先が自分の髪を触るのが分かった。
「んー絆創膏剥がしちゃおっかな」
思わずびくりと、身じろぎするとくすくす彼女は笑った。
「ウソウソ、やっぱり起きてたんだ」
「眠りに落ちる寸前でした。でも本当にいいんですか?退屈ではありませんか」
「いいの。滅多に会えないのに、ゆっくり過ごすのって逆に贅沢でしょ」
起きたら、アフタヌーンティーしましょ、と彼女は言う。盛大に甘やかされている気がして、不意に羞恥が昇った。それを気取られぬように、布団を被った。
「おやすみ、真さん」
彼女が微笑んだ、のが伝わる。彼女の周りの空気が揺れて、いつもそれが自分のところまで振動する。共鳴する。それが、独りよがりな心情だと分かっている。
そっと彼女を伺った。彼女は、窓の外を眺めている。真夏の青空は、痛々しいほど青く、目映い。ゆっくりと彼女は伸びをして、自分にとっては不釣り合いなほど高級な一室であっても、彼女にとっては日常のものでしかなく、自宅のような様子で、ソファに座り、携帯を触る。
実家の旅館に彼女がやって来たのはたまさか偶然で、理由は未だ分からない。運命だと思って、嫌がられると思って、嫌われていると思って、執着していると思われて、執着していて、どんな理由をつけていたって、人命を救ったと警察に表彰されたって、自分はただ、好きな人に理由をつけて付きまとっていたのは、事実だったから。彼女を助けられてよかった、と思う。こぼれ落ちて行くのに耐えきれなかったのだ、理由をつけて、固執した。好きだったから。好きだから。
自分だって、応援されたい。
あの時、乱暴な衝動で沸き上がった、強烈な自我を。あんな風にひたむきに、愛されたいと願ってしまったことを。
やわらかな寝具の中で、彼女を覗き見している、まだそんなことをしていて、好きだって言われてからも、自分が見つけたように、彼女が誰かを見つけたり、見つけられたりするかもしれなくて。なのに、遠く離れている。
目を瞑る。
夏は彼女に相応しくて、彼女の生き生きとした情熱は、太陽に劣ることはなくて、想像とした夏と今は違っている。ゆっくりと起き上がって、ずれた時間が、太陽の存在が、歯車を少し軋ませて、どうしたの?のどが渇いた?とやってきた彼女を、掴まえた。
優しい肉体は柔らかで、自分はもっと強靭になろうと思った、世界が滅んでも。
彼女だけは生きてほしい。
頭を押し付けた彼女の胸部からとても早い鼓動が聞こえて、血の流れを感じて、ぎこちなくあやすみたいに、彼女が背中を撫でた、悪い夢でも見たの?
呼吸して、呼吸して、自然と彼女の体臭が入り込んできて、壊れないように腕の力を調節した、ーー少し。
疲れているみたいです。
名前に反して嘘をついた、狂わぬように。ここが、嘘みたいだから。海の音が聞こえる、遠くからどこまでも。響いてくる。
二度、運命だと思った、浅ましさで引き寄せた、彼女を救ったのではなくて、あの時救われたのは、自分こそだったのだ。
#特殊設定梓さん先天性男性化と安室くんの話続きを読む安室くんが店に入ってきて、自…
#あむあず
#特殊設定
梓さん先天性男性化と安室くんの話
安室くんが店に入ってきて、自分が外れの方になってしまった。まあそれはいつものことだから気にならない。かっこいい男がいつだって勝つ世の中だ。
「榎本さん、これでいいですか?」
コーヒーの試飲だ。一通り安室さんはハンドドリップの方法もわかっている、調理もできる、注文の取り方もすぐ覚えたし、なんならメニューを暗記している。一教えると十を知ることができるのだ。
「安室くんって、何でもできるね」
「そうですか?まだまだですよ。これならもご指導お願いします、榎本先輩」
僕は思わず肩を竦めた。童顔でタレ目、なんとなく油断してしまいそうな微笑みに対して安室くんの眼差しはどこか鋭い。狼が羊の皮をかぶってるみたいだ、なんて決めつける証拠はないんだけど、男同士の連帯にいまいち入りきれなかった自分からして、確実に上位プレイヤーだろう安室くんの柔らかさは少し胡散臭い。そしてそれが悪いわけではない。探偵をしているんだし、揉まれたところもあるのだろう。
「安室くんは今日は夕方までですよね、食べていきますか?それともお持ち帰り?」
「いいんですか?うーん、どうしようかな」
「マスターが新しいお米のブランドを仕入れしたみたいで、おにぎりでもいいですよ」
「いいですね、おかずは何か……」
「ウィンナーありますよ、パスタ詰めてもいいですよ、食べるでしょう」
「炭水化物ばかりはあんまり」
「えっ、あ、そうですか」
安室くんが可笑しそうに笑った。
「榎本さんは平気ですか?炭水化物に炭水化物」
「え、そりゃもう。食べますよ、食べません?」
「こう見えても三十手前なので」
「ほぼ同世代でしょう?」
「それは嬉しいですけど」
「フライは?」
「おにぎりだけで。あとは味噌汁作ります」
「じゃあ、ウィンナーも。オムレツ作りますから」
「食べさせようとしてます?」
「なんとなく悔しくて」
「君も通る道ですよ」
「本当ですか?」
「人によりますけどね」
「プリンはどうします?!」
「ははは」
てらいなく安室くんが笑う。笑い声にお客さんがカウンターを振り向いた。イケメンの屈託ない笑顔にあら、という顔をして、そもそも飲食店で雑談はどうなのかという問題は喫茶ポアロだから、ということで納得してもらいたい。マスターには、二人が喋ってるとお客さん受けががいいみたいだと言っていた。それはどういうことなのか。
「もしかして、榎本さん、今お腹空いてますか?」
「えっいや、そんなことは…………ありますが」
「いいですよ、食べてきても。何か作ります?」
「それは、うーん。あとで休憩がありますから」
「真面目ですねえ」
「違います、ごはんの話をしていたからですよ。ちゃっちゃと弁当つくっちゃいましょう」
「有り難うございます」
「それよりテーブル任せます、見ていてください」
「はい、お任せを」
安室くんは笑って敬礼して見せた。僕はオムレツを作って持ち帰り用のパックに詰めたあと、何かケチャップで文字を書いてやろうと考えた。ひとしきり悩んで、おつかれさま、にした。いつも大変だろうから。目敏く気づいた安室くんが、笑った。男の僕から見ても安室くんはかっこいい。でもやっぱりどこか胡散臭い。そしてそれは安室くんを毀損しないのだ。ラップでごはんをくるんで、おにぎりを握る。何を考えてるんですか、と安室くんが言った。空いたお皿を下げて、水に浸ける。僕は考えながら言う。
「安室くんが懐いたらいいなって」
「え?」
「いや、やっぱり今のなしで」
「聞いちゃいましたけど」
「安室くんは後輩だからね」
僕はおにぎりを作る。自分が食べられる量。安室くんは少し困った顔をした。僕はちょっと笑う。困ればいいんだ。たまには。時々、そっちのほうが気が楽だろうから。
畳む
梓さん先天性男性化と安室くんの話
安室くんが店に入ってきて、自分が外れの方になってしまった。まあそれはいつものことだから気にならない。かっこいい男がいつだって勝つ世の中だ。
「榎本さん、これでいいですか?」
コーヒーの試飲だ。一通り安室さんはハンドドリップの方法もわかっている、調理もできる、注文の取り方もすぐ覚えたし、なんならメニューを暗記している。一教えると十を知ることができるのだ。
「安室くんって、何でもできるね」
「そうですか?まだまだですよ。これならもご指導お願いします、榎本先輩」
僕は思わず肩を竦めた。童顔でタレ目、なんとなく油断してしまいそうな微笑みに対して安室くんの眼差しはどこか鋭い。狼が羊の皮をかぶってるみたいだ、なんて決めつける証拠はないんだけど、男同士の連帯にいまいち入りきれなかった自分からして、確実に上位プレイヤーだろう安室くんの柔らかさは少し胡散臭い。そしてそれが悪いわけではない。探偵をしているんだし、揉まれたところもあるのだろう。
「安室くんは今日は夕方までですよね、食べていきますか?それともお持ち帰り?」
「いいんですか?うーん、どうしようかな」
「マスターが新しいお米のブランドを仕入れしたみたいで、おにぎりでもいいですよ」
「いいですね、おかずは何か……」
「ウィンナーありますよ、パスタ詰めてもいいですよ、食べるでしょう」
「炭水化物ばかりはあんまり」
「えっ、あ、そうですか」
安室くんが可笑しそうに笑った。
「榎本さんは平気ですか?炭水化物に炭水化物」
「え、そりゃもう。食べますよ、食べません?」
「こう見えても三十手前なので」
「ほぼ同世代でしょう?」
「それは嬉しいですけど」
「フライは?」
「おにぎりだけで。あとは味噌汁作ります」
「じゃあ、ウィンナーも。オムレツ作りますから」
「食べさせようとしてます?」
「なんとなく悔しくて」
「君も通る道ですよ」
「本当ですか?」
「人によりますけどね」
「プリンはどうします?!」
「ははは」
てらいなく安室くんが笑う。笑い声にお客さんがカウンターを振り向いた。イケメンの屈託ない笑顔にあら、という顔をして、そもそも飲食店で雑談はどうなのかという問題は喫茶ポアロだから、ということで納得してもらいたい。マスターには、二人が喋ってるとお客さん受けががいいみたいだと言っていた。それはどういうことなのか。
「もしかして、榎本さん、今お腹空いてますか?」
「えっいや、そんなことは…………ありますが」
「いいですよ、食べてきても。何か作ります?」
「それは、うーん。あとで休憩がありますから」
「真面目ですねえ」
「違います、ごはんの話をしていたからですよ。ちゃっちゃと弁当つくっちゃいましょう」
「有り難うございます」
「それよりテーブル任せます、見ていてください」
「はい、お任せを」
安室くんは笑って敬礼して見せた。僕はオムレツを作って持ち帰り用のパックに詰めたあと、何かケチャップで文字を書いてやろうと考えた。ひとしきり悩んで、おつかれさま、にした。いつも大変だろうから。目敏く気づいた安室くんが、笑った。男の僕から見ても安室くんはかっこいい。でもやっぱりどこか胡散臭い。そしてそれは安室くんを毀損しないのだ。ラップでごはんをくるんで、おにぎりを握る。何を考えてるんですか、と安室くんが言った。空いたお皿を下げて、水に浸ける。僕は考えながら言う。
「安室くんが懐いたらいいなって」
「え?」
「いや、やっぱり今のなしで」
「聞いちゃいましたけど」
「安室くんは後輩だからね」
僕はおにぎりを作る。自分が食べられる量。安室くんは少し困った顔をした。僕はちょっと笑う。困ればいいんだ。たまには。時々、そっちのほうが気が楽だろうから。
畳む
#京園
鈴木財閥のご令嬢に恋人ができたいう話はまことしやかに、社交界に広がっていった。あの鈴木財閥の後継者になるのは彼女という話が有力で密かに彼女の地位を狙う男たちにとっては衝撃的な話だった。彼女を誰が落とせるかという密かなゲームは彼女が18歳になる頃始まる予定で、開催まであと数ヵ月だった。すわどこかの著名な一家との政略結婚かと調査の手を伸ばしてみるものの、件の恋人が400戦無敗の衝撃の貴公子ということで、ますます彼らは混乱した。何故?格闘家とご令嬢か?そうなると気に入ったのは彼女の方でその地位を使ってわがまま放題に彼を手篭めにしたのだろうか、それならばまだ付け入る隙はあると勇み足で彼らは、ご令嬢と格闘家が出席するというパーティーに出る情報を聞き付けて参じたものの、脆くもその企みは崩れ去った。
相思相愛ではないか。
初々しいほど場の空気に飲まれて緊張する彼を、彼女はからかいながらエスコートしてゆく。色素の薄い彼女の淡い紫のやわらかな光沢のドレスと彼の鍛えられた肉体を映えさせるようにあつえられた直線のスーツは見事に調和しており、それは二人のバランスの良さを見事に示すものであり、お互いが話すときにじっと相手を見つめる眼差しは思いやりがあって、温かった。蕩けるような甘さも混在しており、仕草ひとつとっても、誰かが付け入る隙などまるでないように思えた。
こうしてみると彼女はひどく魅力的な女性で、気の強そうなミーハーな女に思えていたものの、その心根がひたむきに一人の男に向かう時、なんとも言えぬ、豊潤で大きな器を持つ、とても愛情深い清らかな女に思えたのだった。
彼らは自らの見る目のなさに失望したものの、そういった不埒な視線を気づかないわけがない彼であったから、彼女の横顔からすっと目を外し、刀の閃きに似た鋭い視線を真一文字に彼らに向かって切りつけるが如く、浴びせた。その瞬間彼らは冷や水どころか氷水を浴びせられたように震え上がった。決して野蛮ではない獣は、むしろ知性があるがゆえに恐ろしいのだと彼らはその時初めて思い知ったのだ。これは自分達の手に追えないと、彼らは表向きはスマートな素振りのまま、手足などはがくがく震えながらその場を撤退した。
その事に何も気づかない彼女は、彼らの後ろ姿を見て、あら!来ていらしたんだわ。挨拶できなかったわね、と軽やかに笑った。彼は、途端何もわからなくなったように混乱したような面持ちで、園子さんの言うとおりです、と応えた。それってつまり、どういうこと?と眉をあげて見せた彼女は彼の彼女を好きすぎる余りの不審な行動に慣れていたから、今度はあれを食べましょ、と新たな料理へと彼を導く。彼は微笑んで、付き従ってゆく。彼は分かっていたし、彼女は分かっていた。ここが、一種の狩り場であることは。しかし、それでも構わなかった。二人いて、何も困ることはなかったからだ。
アナウンス
※現在プレイを休止しているものあります。
倉庫としておいています。
受け攻め性別不問/男女恋愛要素あり
R18と特殊設定のものはワンクッション置いています。
年齢制限は守ってください。よろしくお願いします。
倉庫としておいています。
受け攻め性別不問/男女恋愛要素あり
R18と特殊設定のものはワンクッション置いています。
年齢制限は守ってください。よろしくお願いします。
※ちょっとセンシティブなものがあります。