天落:一話
世界は一度終わった。
人類なら誰しも一度はそう考えるはずだ。ノストラダムスは真実だった!駆け抜ける路地はゲロと小便の臭いがする。湿度が高くて、風も届かない。ザッカスははあはあと舌がもつれそうになりながら走って行く。後ろにはラードの連中がやってきていた。この街の伝説的くそ野郎、ラードの連中は聞こえのいい言葉で優しく親切に金を貸すだけ貸して利息で溺れさせ最終的には臓器を分解して販売してしまう、表向きには小さな商店でしかし中々にウィンナーが旨い店だ。大きなウィンナーをボイルしただけのやつを100バイトで売っている。食べたくなった瞬間、足がもつれてしまった。咄嗟に壁に手をつくとぬるりとした感触がした。なんだこれ、ザッカスは不意に怯えてしまった。どっと恐怖が背後から回り込んできて心臓が大きく揺れた、と思ったら壁に身体を叩き込まれた。またぬるりとした感触がする、腐った油の臭いがした。壁の向こうは料理屋か。
「ザッカス、借りたものは返さないとなァ」
「俺が借りたんじゃないだろ?!」
「可笑しいな、連帯保証人のところにはお前の指が押されているぜ」
「それは!ボミアンが無理やり押させたんだよ!」
「そのボミアンにも金借りてたんだろ?そりゃしょうがねえよ」
頭を壁に押し付けられる度にぬめぬめと沈んでいく。積み重なった油汚れは、泥のようにザッカスを粛々と受け入れる。
「安心しな、美味しいウィンナーにしてやるからよ」
「え、……………は?!ちょっと待てよ、お前のところのウィンナーって?!」
「馬鹿か?食えるわけねえだろ、今時マジのウィンナーって」
ザッカスは吐き気に襲われてえづく。鬱陶しそうに首を捕まれて地面にぶん投げられたが路面も湿っていて臭かった。存外死ぬときというのはこういうものらしい。子供の時に漠然と夢見た死にかたはもっと清潔で、きっといい匂いがした。そんな暮らしはもう二度と出来ないというのに。
ラードの連中は顔を見合わせて、互いに頷きあった。奇妙に顔が似ている二人組の一人は包丁を取り出す、もう一人はザッカスを拘束した。
「嫌だ!離せ!ウィンナーになりたくない!」
「お前の血肉が明日をいきるための人間の腹に収まる。いい話だな」
「いい話だ。感動的だぜ」
「どこがだよ!」
「そうさ、クズが死ぬだけだ」
ザッカスは一瞬言葉に詰まった。自業自得の言葉が駆け回る、それでも嫌だった!どうせクズならクズらしく生きてやる!ザッカスは目一杯暴れはじめた。
「おいこら、やめろ!」
「クソが!落ち着けよ!死ぬだけだろ!」
「いーやーだー!ウィンナーは嫌だ!」
「ガキじゃねえんだからよ」
「仕方ねえな、おらっ!」
殴られる。殴られる。殴られる。まだ生きてる。生きてる。生きてる。鼻が折れて血が流れていく、自分の一部が抜けていく感覚がある、痛みはこの時なかった、衝撃と熱さがあって脳が誤作動を起こしているのが不思議と冷静によく分かった、どこか快楽にも似た頭の白さが、周囲の臭いさえ消した、だが背骨を踏まれて動けなくなった。かかってくる圧が、危機を痛感させる、恐怖が舞い戻ってくる。呼吸が詰まる。
「や、やめ」
「いいだろ?」
「よくはないだろうな」
「は?」
「あ?」
「え」
場違いな声がした。低くて艶がある。無意識に聞いてしまう声だった、耳を澄ませて次の言葉を図らずも待ってしまうような。
「ラード商店の従業員のお二人、彼をこちらに引き渡していただく」
ラードの響きに仄かな侮蔑があった。それもそのはずだ、声の持ち主は獣人だ。仕立てのよいスーツを品よく着こなして、頭部はドーベルマンのようだが目元にはゴーグルメガネをかけている。一定の間隔で光の線が走っており、みなさまごきげんようと、声がした。ゴーグルからだ。ラードの連中の名前をそれぞれ呼んで、つれつれと話し始めた。
「我々の関連する法的な調査において、大変恐縮ではございますが、お客様のご協力が必要となります。調査の円滑な進行のため、以下の物品を提出いただけますよう、お願い申し上げます。何卒ご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。
引き渡すべき物品:ザッカス
調査の目的は、法的手続きに必要な情報を収集することであり、お客様のプライバシーや利益に影響を与えることはございません。調査に関するご質問やご不明点がございましたら、お気軽にお問い合わせください。ご協力に心より感謝申し上げます」
「…………………はあ?」
「尚この件に関しては店舗責任者より了承を得ており、ご不明点や疑問等がございましたら、直接ご連絡いただきますようお願い申し上げます。何かお手伝いできることがございましたら、お気軽にお知らせください」
ラードの連中は目配せしあった。ザッカスは展開についていけていない。そもそも誰かも知らなかった。だが、ラードの連中は店舗責任者より了承、というくだりでこの場を引き下がることを決めたようだ。念のため、とラードの連中は言う。
「あんたたちの身分を証明するものが欲しい」
「そうだ、これであんたたちが俺たちを騙してこいつをまんまと取り上げられたということになったら、俺たちがウィンナーにされちまう」
「ご尤もです。ではこちらを。私の名刺です」
構えることない相手から差し出された名刺をラードの連中が受けとる。
「あんた、バルルダの」
「はい。以後お見知りおきを」
ラードの連中は一度ザッカスに目をやると首を振ったり、肩を竦めたりした。そのまま何も言うことはなく去って行く。やはりザッカスは訳が分からない。
獣人に知り合いはいなかった。
「立ち上がられますか?」
「あ、いや……………というか、どちらさまだ?それとも何だ?って言った方がいいのか?」
獣人はザッカスを立ち上がらせた。
ゴーグルにまた光の線が走る。ザッカスの怪我の具合を調べている気がして、不快になる。死ぬところを助けられたはずだが、これまでバルルダの連中とお知り合いになったことはなかった。
無論、ザッカスとて名前だけは知っている。バルルダ・トライ。人類史上もっとも罪深き悪人、獣人史上もっとも慈悲深き賢人。一度世界を終わらせ、そして世界を救った者の名前だ。
そのバルルダ没後、関係者は現在バルルダ協会という組織を運営している。表立って政治的な組織ではないものの、陰謀論者によれば世界を牛耳っているのは政府ではなく、バルルダ協会であるという。だからこそ、ごみ溜めで死にかけるような自分自身と関わり合うことはないとザッカスは思っている。
獣人は再び名刺を取り出し、ザッカスに差し出す。ザッカスは名刺を受け取らず文字だけ読んだ。
バルルダ協会 顧問会計士
マイクロフト・デモア
「会計士?デモアさん?だからどうして?」
「あなたの、」
「……………」
「……ご祖父様と顔見知りなんです」
「何故?」
ザッカスは警戒を強めた。身体は痛むが逃げるに越したことはない。デモアはゆっくりと低くてずっと聞いていたくなる声で言う。
「あなたに、頼みたいことがあります。どうぞ、我が事務所にお越しくださいようお願いします」
怪我のこともありますから。デモアが付け加えた一言は不思議とそれだけは本心からのようにザッカスには聞こえた。あとは彼あるいは彼女が引き取った。
「事務所までの道のりをご案内いたします。まず、こちらの路地を出て右に進んでください。次に、ロザーナ法律事務所までまっすぐ進んでいただきますと、隣のカフェの入ったビルの左手にエレベーターがございますので、そちらをご利用ください。エレベーターで3階へお上がりいただきますと、右手に我々の事務所がございますので、そちらにお進みください。ご不明点がございましたら、お気軽にお尋ねください。」
デモアは丁寧だが有無をいわさない雰囲気があった。ザッカスは疲れはてた心地で尋ねる。
「なにか食わせてくれる?できれば、ウィンナー以外で」
「もちろん」
差し出された手を、ザッカスは握らなかった。デモアは何もなかった素振りで、ザッカスをエスコートするように歩き出した。
後ろを歩くと眼前にはデモアの尻尾が揺れている。艶やかな毛並みは宝石のように美しかった。というより、マイクロフト・デモアは美しかった。ザッカスは意識を反らすために、腫れた頬の痛みを確かめるようにしきりと撫でた。