陽炎:三話

「お願いします、お願いします、この子だけは、子供だけは殺さないでくださいッ」
彼はもう何も喋れなくなった青白い顔の子供を見る。こういう時の子供は老人なようにも見え、達観じみた眼差しはすべてを悟っている。
彼は言う。
「親を殺された子供がまともに育つと思ってるのか?」
相手は顔を歪めた。絶望にも憤怒のようにも思う。お前がそれをいうのか、と言いたいようにも思う。相手が抱える子供を奪い取って殺し、獣のような息を洩らした親を殺した。彼の依頼はこれで完了だ。彼は老若男女殺すことで依頼を受けている。殺しを専門とする人間のなかには子供は殺さないといった主義を掲げるものもいる。彼はそれは欺瞞だと思っている。親を殺された人間がろくな人間になるわけはない。彼はーーハタナカ自身が、そうだったからだ。

マスターがコーヒーを淹れる。いつもの手順、いつもの香り、いつもの音、変わらないもの。バインダーを添えられて、ハタナカは一瞥する。コーヒーに砂糖とミルクを入れてかき混ぜる。
「やだーっ!おいしそう~!」
大体いつもと同じだが、いつもと違うこともある。
ワダがげんなりと顔をしかめる。その腕に絡み付くのは女だ。身体全体が柔らかいもので出来ているみたいな、妙に甘ったるい匂いが彼女から漂っている。
「ねー。これ、もっとホイップふやせないんですかー?」
「足せるよ」
「えーっ、じゃ、もっとやまもりがいいなー?」
マスターが一度差し出したカップを引っ込めた。たたでさえクリームに満ちたカップに器用に追加していく。彼女が嬉しそうにムービーを撮っている。ワダはずっとげんなりしている。
ワダに一目惚れしたから会いたいという馬鹿げた依頼を会社の人間は通したらしい。
「誰だよこんな依頼通したやつ」
「あたしだけど」
「うわっ」
Malikaが音を立てて乱暴に座った。ハタナカとはひとつ空けてある。元々知り合ったときもそういう席順だった。別れた後もお互い律儀に店に顔をだしては同じカウンター席に座りつづけている。そのことに、意味があるように思えてしまう。Malikaはまだ俺のことを好きなんじゃないか。ハタナカは、そう思ってはそんなわけはないだろ、と自分で否定する。今日も自分にきっちり否定してから、マスターにホットサンドを頼むMalikaに恐る恐る視線を向ける。Malikaはこちらに目も向けない。代わりにワダに絡む彼女を見る。
「良かったね、シオリちゃん」
「えへ、ありがとー。おかげで、いま、ラブラブでーす」
ぐいっと腕を引き寄せて彼女ことシオリがワダにくっつく。ワダは無反応を決めたようだった。
「Malikaさんにききたいんですけどぉ、ついかりょーきんってありなんですか?」
「申請してみて。その時に決めるから」
「ありがとーございまぁすー」
依頼の延長が決まったような口ぶりだ。
「いいのかよ」
ハタナカは堪らずMalikaに話しかけた。Malikaは冷たい一瞥をくれる。
「何が?」
何がって。よく考えなくてもこれは異常なことだ。ワダの動画からワダの素性がばれ、その上常連客にも繋がりが出来て、会社のことも知られている。シオリがただものではないことは明白で、それを踏まえてこの喫茶店にもいる。ハタナカの考えをMalikaは見透かしたように、鼻をならした。
「なにか出来るの?」
冷たさにハタナカは言葉をなくすが、絞り出す。
「こんな依頼通すべきじゃないだろ、お前だって分かってるはずだ」
「あたしの何を分かってるの?」
Malikaの苛立ちに感化されてハタナカも苛立ってくる。いま、こんな関係になっているのもお前が俺との結婚を拒否したからだろ!
「あれー?おふたりさん、わたしのことでけんか、しちゃったりしてます?」
シオリに同時に反論しかけて、Malikaはホットサンドにかぶりつき、ハタナカは別に、と首を振った。喧嘩したいわけではなかった。ただもっと話をしたかった。結婚が嫌なら別の形もある。ハタナカはMalikaと一緒に過ごせるならどんな形でも良かった。
不意にワダがシオリを振り払った。
「邪魔」
「えぇー?」
「オレ、あんた嫌いだから」
自ずとみんなの視線がワダに向かう。その次にシオリへ。シオリは何か言いかけたような口の形で半笑いのような困ったような顔をしていた。ワダが店を出ようとすると新しい客が現れた。この辺りじゃ特別な魔女みたいな帽子と嘘みたいなマントを翻すその人は、ワダにぶつかることはなく、猫みたいにしなやかに入店する。ワダが一瞬戸惑ったように立ち止まった。その隙をついて、シオリがワダに飛び付く。
「じゃ、いまからわたしのこと、もーっと、すきになってもらいますね」
彼あるいは彼女は二人を一瞥し、カウンター席に座る。
ワダが大きなため息を吐いて、しがみつくシオリをそのままに店から無理矢理出ていった。二人のやり取りが僅か聞こえてくるがそれも聞こえなくなる。
「彼はまた厄介な立場らしいですね」
彼あるいは彼女を知覚しつづけるのは難しかった。ハタナカは感覚を鋭くさせたが日常生活でそれを維持しつづけるのは、労力に見合わなかった。マスターが応じる。二人は会話しているようだが、それは別空間のような響きを伴っている。自ずとMalikaと店に二人だけのような気分になり、ハタナカはコーヒーを半分ほど一気に飲んだ。
「仕事だから行くわ」
言わなくてもよかったと、言った後に気づいた。そしてMalikaが、
「そう、いってらっしゃい」
と、言った後にハタナカと同じことを考えたらしかった。二人は一瞬顔を見合わせて、互いに目をそらした。
ハタナカの尻は中々椅子からは浮かなかった。Malikaが言う。
「………………別にあんたとは、もとは友達だったんだし、それでいいけど」
「俺は嫌だ」
はっきりとしたハタナカの声は別空間の二人にまで届いた。
「そんなの、なれるわけないだろ、俺は、俺はまだ」
「いいから」
「は」
「仕事、行けば」
ハタナカは言葉を返せなかった。そしてまた仕事に行き、依頼通りに親と子供を殺した。ペットの犬と猫と鳥まで殺した。その後家に火を放った。火は燃え上がって近隣にまで及び、煙を吸って何人か緊急搬送された。一人意識が戻らないひとがいるらしいがそれはハタナカの預かりしらぬところだった。
ハタナカの親は殺されたが、自分は殺されなかった。わしは子供は殺されねえ。だから好きに生きろと言われた。この仕事についてからその殺し屋を調べたが酒の飲みすぎて肝臓をやられ、大分前にの垂れ死んでいた。

ハタナカは、家に帰る。部屋にはまだMalikaの私物や残り香が残っている。なるべくその空気を壊さないようにして、今のハタナカは虫のように部屋に住んでいる。天井を見つめ、Malikaを思い出しながらオナニーをして、ゆっくりと息を吐いた。自分が子供をもつことは考えられなかったが、Malikaとセックスをしていたのは結構不思議だった。子供が生まれるとして、老人に良く似た面差しの子供が生まれるだろうと思った。それがMalikaの乳房を掴んで乳を吸っていきようとするなら、ハタナカはたぶん、首を捻って殺すだろうと思った。

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