陽炎:四話

彼あるいは彼女は便宜的にデフォルトと呼ばれている。この仕事における初期設定。彼あるいは彼女は優れている。組織のなかで最も優秀な一人だ。彼あるいは彼女を皆、目指すように求められている。組織のデフォルトとなるように仕込まれる。デフォルト。彼あるいは彼女は便宜的にそう呼ばれている。

「No.******の依頼人だが、状況はどうなっている」
「ワダと共に居るようです」
「ワダ、ワダか」
聞きたくない名前を聞いたようにcampusが言う。No.******の話をするならワダの話は除外できない。campusは芝居じみたところがあり、彼女は尤もらしく眉を潜めてみせた。デフォルトはそれには反応しない。
「あれも一種のバグだな。二人とも喰い合えば問題はないのだが。しかし、ワダの件もどうなっている?動画を流通させた犯人はまだ捕まってないのか?」
「最初に動画が発信された場所をたどっても複数のサーバーを経由しており、発信元を特定するのは難しいようです」
「問題だらけだな」
「ワダを切り捨てても良かったのでは」
campusは憂鬱に息を吐いた。
「それも問題がある。飼い殺ししていた方が得だ。こうならなければ、あいつは貴様にもなれたのにな」
デフォルトは答えなかった。
ワダは飛び抜けて優秀だった。天才といってもいい。他にうかうかと渡せば強力な競合相手になりうる。
「とにかく、シオリを片付けてくれ。貴様ならば容易だろう」
「依頼人を殺すのは規約違反ではありませんか」
「殺さなければいいのだ」
campusはウィンクする。デフォルトは無反応だ。campusが諦めたように片手をあげる。
「もういい、行ってくれ」
デフォルトは頭を下げる。彼あるいは彼女が意識を遮断するとすぐにcampusには知覚できなくなった。campusが意識する間もなくデフォルトは執行室を出た。そのまま喫茶店に向かう。近づくとギターの音色が聞こえる。伸びやかで透明感のある歌声が聞こえる。サウンド・オブ・ミュージックのエーデルワイスだ。彼ではなかった。

彼あるいは彼女は店内に入る。カウベルすら鳴らなかった。ふっと煙のように侵入し、ギターを鳴らしながら歌っているのがシオリだということが分かった。
常連客は聞き入っている。ワダだけが、子供じみた退屈の顔をしていた。歌うついでに瞼を上げたシオリと目があった。偶然だろうか。彼女は無邪気に微笑んだ。ついでワダに媚びるような視線を向ける。ワダは、あしらうように足を組んで座り直した。
歌が終わり、拍手が広がる。

デフォルトがカウンター席に座ると同時にマスターが声をかける。いつもの所作でコーヒーを淹れていた。それで、みんな彼あるいは彼女に気づいたが、一瞬で忘れてしまったようだった。ワダだけが、じっとりとした視線を向ける。焦燥のような執着なような、その癖、大好きな宝物に出会ったような瞳だ。デフォルトは帽子のつばを下げた。
ワダは夢から覚めたようにはっとした、同時にシオリがワダに抱きつく。
「わたしのギターどうでした~?」
「オレのほうがうまいね」
「え~?へたっぴだったじゃないですか」
「成長途中なんだよ」
「えー?」
シオリが笑う。ワダはうんざりとした顔をしてシオリから離れてギターを手に取った。ぎこちない手付きで弦を押さえ、演きはじめる。月の名前をもつ歌だ。前に聞いたときから進歩はないようだ。Malikaが言う。
「へたすぎ」
「かわいいですよぉ」
「かわいい?」
「ワダさんはかわいいんです」
ワダが露骨に顔をしかめた。
「依頼はまだ終わらないのかよ」
「継続しろって上が」
「お前、どんな権力あるんだよ」
「えー?シオリってよんでほしいなー?」
「呼ばねえ」
帰るわ、とワダが言う。わたしも帰る、とシオリが手を上げる。
「マスター、頼む」
ワダが言う。マスターは肩を竦めた。二人は結局連れ添って店を出ていく。絆されてるな、とハタナカが言い、Malikaが楽しそうに笑った。デフォルトはそれをないものとして見ている。
二人は自分達がごく自然に会話していることに気まずそうな顔して、それぞれ、そそくさと店を出ていく。

「シオリはずっと彼といるのか?」
「ああ、べったりとね。飽きないもんだ」
彼あるいは彼女はコーヒーを飲む。バインダーは出てこない。
「お前さんがでてこなくても、あいつなら片付けられると思うが」
「そう思う」
「大事にされているな」
「そうだな」
「シオリは危険だが無害な花というかんじだな」
「対応を誤らなければ、だろう」
「そうだ」
マスターがカウンターから出た。ギターを手に取る。
「そういえばあなたの曲は聴いたことがないな」
「昔のことさ」
マスターは笑った。シオリの正体は割れている。フリーランスの殺し屋で娼婦だ。彼女の身元保証したお得意様は既に処分されている。上の目論みは分かっている。デフォルトと対面したときのシオリの実力を計りたいのだ。場合によってはスカウトも考えているのだろう。その場合、ワダはいい餌になりうる。邪魔なら殺すまでだ。
campusは流れ者をスカウトするのは避けたがっている。一刻もシオリを処分して厄介事を避けたいのだ。
上も一枚岩ではない。デフォルトにある意味一存されている。

マスターがギターを弾きはじめる。店には誰もいないかのように。哀愁じみた掠れた低い声がギターの音色と絡む。もとのギターの持ち主だけあって、シオリの声よりもギターの音色に馴染んでいる気がした。マスターのオリジナル曲だ。失った恋を痛む歌。よくある陳腐なラブソング。

「マスター」
彼あるいは彼女は言う。
「彼の動画をアップロードしたのは私なんだよ」
マスターは歌い終えた。
カウンターの食器を下げ、彼あるいは彼女のカップにコーヒーのおかわりを注ぐ。
「知ってるさ」
彼あるいは彼女は微笑んだ。マスターも微笑んだ。店は静けさを取り戻す。ゆったりと時間を刻みながら、彼あるいは彼女は彼のことを考えている。

デフォルトという単語には元々、別の意味があった。不履行。果たすべき約束などを実行しないこと。
デフォルトはコーヒーを飲む。カフェインが巡り、音楽を奏でているみたいだった。

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