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#特殊設定梓さん先天性男性化と安室くんの話続きを読む安室くんが店に入ってきて、自…
首輪の話
#特殊設定
#あむあず
「犬……」
「……犬……」
奇怪な部屋が喫茶店からの帰り道にあった。別段二人で帰ったというわけではなく、安室がついでに送っていきますよと言うので、梓はまあいいかと思って応じたのだ。安室は珍しく電車で移動するらしく、終電まで少し間がある帰り道で、二人であてもない話をしていたときに建物と建物の間にそれはあった。安室はこの辺一帯の建物を認識していて、ちょっと待ってください、こんな建物は確かなかったはずと、当然と踏み込む安室にちょっと不法侵入では、と梓が腕をつかんだ折にまるで吸い込まれるようにして、部屋に引き込まれたのだ。決して安室が招いたわけではないのだが、実際彼の油断なのでそうと言えばそうだ。反省は直にするとして、気づいたときにはそっけない謎の空間に二人して立っていたのだ。ひとつあるディスプレイのような画面に、「犬プレイをしたら出られます」と書いてあった。言うに事欠いて、犬プレイときた。
「犬プレイってなんですか……?」
「犬になりきるプレイですかね」
「どういう目的なんですか……?」
「人が犬になっているところを見たいという変態欲求ですかね……?」
「犯罪なのでは……?」
「まあ色々と法には触れていますね……」
さて、犬である。
きちんと首輪とリードが用意されていた。念のため、扉やらなんやら確認してみたがロックがかかっており、携帯は使えない。もう一台の携帯と無線もそうだ。はて、と安室は考え込んでみたが、少し面倒になった。
「じゃあ、梓さん、僕が犬をしますから飼い主ということで」
「ちょっと待って、どういうことですか、やるんですか、犬プレイ」
「さっさと終わらせましょう」
安室が仕事の顏になった。無駄にきりりとし、なおかつ、にこやかだ。
「梓さん、どうせなら首輪つけてくださいよ」
「うぇええええええ」
「嫌なんですか?」
「いやあ、まあ……はい……」
嫌と言えばかなり、嫌だ。
安室は何故か満面の笑顔だ。
あれ?断れない空気?と気づいて、梓は引きつった。だがまあ、彼女も順応が早いのである。
「わかりました、こうとなれば犬プレイでも猫プレイでもして、さっさと帰りましょう!大尉が待ってるし!」
「その意気です。さすが、梓さんです」
拍手喝采、実際は軽い拍手をして、おだててみる安室だった。
首輪を手に取って、梓は安室の首にかけた。
ベルトを止めるところで、忘れておいた理性が、ぴくりと動いたが、気づかないふりをして、留めた。
首輪をつけた安室と梓は対峙する。
安室の瞳の色がふと揺れて、それが証明みたいに安室は微笑んだ。
「ワンッ」
「え?えー?えー…」
あはは、と妙な笑いを梓は浮かべる。
まるで散歩に行こうというように安室がリードを咥えて持ってきた。
すっと安室が四つん這いになる。
梓は半歩下がった。
が、わんちゃんがしっぽを振ってお散歩を待っている。
「よ、よーしよし」
梓はその髪をなでた。
色だけ見るとゴールデンレトリーバーだ。
首輪の先のカンにリードをつける。
わん、と安室が鳴いた。
いや、犬が鳴いた。
ぐるぐると梓は浸食される気がした。
梓はリードを持った。
金色の毛皮を持つ犬は、ゆっくりと歩き始めた。
梓との散歩を楽しむように、時折ちらちらと梓の顔を見上げる。
かわいい。
もうよくわからなくなってきた。
尊厳とか、人権、とかそういうものを。
壊されているのは自分のような気がした。
人は犬になれるのか。
人を犬と思えるのか。
梓が止まったら、犬も足を止めた。
その前足で、梓の様子を窺うように梓の足を触った。
梓はしゃがみ込む。
わしゃわしゃと頭をなでる。
後頭部から背筋を撫でると尻尾は盛んに揺れた。
犬は、もっと、と欲しがるように前足を掻いて要求する。
犬は梓の顔を舐める。
くすぐったかった。
んぎゅ、と抱いて、一頻り撫でると、耳元で引く声がした。
「開いた」
梓は目を見開く。
安室は何故か、梓にキスをして、ゆっくりと立ち上がった。
上背のある、すらっとした男の人がそこに立っている。
「帰りましょう、梓さん」
梓はなんだかふわふわした頭で頷いた。
それから、外して、と強請られて梓は首輪とリードを外した。
安室は微笑む。
―――気づいたらいつもの帰り道だ。すべては、夢だったのかもしれない。嘘だったかもしれない。酔っぱらっているのかもしれない。酒を飲んでもいないが、コーヒーは飲んだから。いろんなことを聞きたかったが、言葉にはならなかった。取り留めのない話をして、二人は別れた。梓を待っていたのは、大尉で、梓にすり寄って甘えた。そのふわふわの毛並みを撫でながら、梓は今日の出来事をすべて忘れようと思った。
――数日後、梓の許に安室からの荷物が届く。中身を見ないようにしたが、気になった。封を開けると、首輪とリードが入っていた。梓は呆然と、それを眺めた。
犬って。
安室が嬉しそうに微笑んでいる気がした。
畳む
#あむあず
#特殊設定
君が死んだ。
彼はしばらく使っていない携帯電話の電源を入れた。
ネットの回線につなぐとメールを受信してゆく。
彼は一つ一つゴミ箱に投げ込んだ、削除、削除、削除、名前、榎本梓、手を止める。メールの本文を見る。
――御無沙汰しています。 兄の杉人です。 妹の梓が亡くなりました。
以下云々。彼は彼女の情報を受け取っていなかった、もう用が済んだので観察対象から外したのだ。
彼は座っている椅子に深く背を預けて、息を吐く。今更、手を合わせる権利はあるだろうか。
しかし彼は何も考えずに彼女の地元まで車で行く。
事前に連絡せず訪れた男に両親は驚き、事情を話すと受け入れてくれた。
仏壇には彼女の笑顔の写真があり、果物やお菓子が供えられていた。手土産をいったん彼女に供える。
「……ご焼香に伺うのが遅くなり、大変申し訳ありません」
「いいえ、……あの子の知り合いにこんなかっこいい人がいただなんて、びっくりしました」
母親は淋しそうに笑った。
「もし宜しければ」
父親が同じく頬を歪めて言う。
「店でのことをお話していただけませんか、良かったら……」
「はい、もちろん、是非」
彼女に良く似た両親は彼の話を時に笑い時に泣くのを堪えて聞く。
実直な人柄が見て取れた、裏表が無くそのままの人柄で、そうか、彼女はここで育ったんだなあと彼は思う、資料では知っていた、直接足を運ぶのは始めてたった、父親は彼と酒を呑みたがったが彼は車で来ているので、と辞退する。泊まっていくのはどうですか、と言われて流石に断った、正気でいられる自信がなかった。
昼過ぎに訪れて、夕暮れ前に出る、墓の場所を教えてもらい、両親はこぞってまた来てくださいと言い、彼ははい、と頷いたが二度と来るつもりはなかった。
車を走らせ、寺の近くの墓地に来た。花を買うのを忘れていたし、何も持って来なかった。身一つで、彼は彼女の墓の前に立つ。正しくは彼女の一族の墓だ。
「……どうしてあなたまで」
「――会えるとは思わなかったな」
聞き覚えのある声だった、ざりと肌が粟立ち、彼は咄嗟に振り返る。
「ふふ。お久しぶりです、安室さん」
彼女だ。
「…………え」
素っ頓狂な声が出る。
「………梓さん死んだんじゃ」
「そういうことみたい」
「ならあなたは?」
「うーん、榎本梓なんだけども、幽霊になるんですかね?多分」
「―――多分って……」
彼女は生きてる時と変わらないように見える。 パーカーにスカート姿で佇んでいる。 でも影はない。
「安室さん、普通ですね」
「まあ、元々狂ってるので……」
「どういうことなんですかそれ」
「―――さあ」
どういうことなんでしょう、と彼は言う。
「ちょっと、頭が動かなくて」
「そうですね、私も何か記憶飛んでますし」
「はあ……」
彼は空を見上げた。 太陽が赤々と燃えていて、彼の影は長く伸びている。
「――今は黄昏時ですもんねえ」
「明日は晴れかなあ」
「雨ですよ、天気予報で言ってしました」
「それは上々」
「いやちょっと待ってください」
「はい」
「僕、生きてます?」
「え、知りませんけど……」
「途中で事故ってないですよね」
「事故ったんですか?」
「いやあ、もうどこまで正気なのかよくわからず」
「夢みたいなかんじですか」
「触れるんですか」
「さあ……?」
彼はおもむろに彼女に手を伸ばす。ひやりとした感触があって、水中に手を突っ込んだような感覚があって、ずぼんと彼女の向こう側に手が突き抜けて行く。
「なんか変な感じ」
「僕もです」
「ちょっと試しますね」
言うや否や彼女は彼に触れようと手を伸ばす、しかし、先程と同じような感覚があってずぼん!とすりぬける。
「あら、残念」
「…………幽霊なんですか」
「よくわかんないんですってば」
「僕が幻覚見てるのかな」
「まあ、その可能性も」
「たまに薬飲んでるんですよね」
「そうなんですか」
「まあ、はい、まあそれはどうでも……よくないのかな、寝不足続いてたし、脳のダメージがあったのかも」
「何かよく分からないですけど、とりあえず寝てみたらいいんじゃないですか」
「ここで?」
「いやどこかで……うちの家とか?」
「嫌ですよ、梓さんの実家」
「どうしてですか」
「居心地悪いので」
「人の実家に失礼だなあ~」
「死ぬからでしょ」
「私の所為じゃないもん」
「それにしたって不注意ですよ」
「怒られても困るんですけど」
「…………寝ます」
「はい」
「……………梓さんは憑いてくるんですか?」
「付いていく、ですよね」
「さすがにまあちょっとはい、まあもういいです、寝てから考えます、一緒に来て」
「やけくそだなあ」
「ですよ、何か、泣きそびれた」
「いいですよ、泣いても」
「嫌ですよ、どうして今泣くんですか」
「泣きたいんじゃないですか」
「泣きたくないですよ全然!」
「ご、ごめん……」
「――――謝ってももう遅いですよ」
「まあ……………美味しいもの、食べない?」
「食べられるんですか?」
「食べてるの、見るぐらいならいけそう」
「そういう性癖みたいだなあ」
「………いいですよ、先に寝ても」
「…………起きたら居なくなるんですか」
「知りませんよ、私の問題じゃないし」
「やっぱり僕の幻覚というか妄想ですか、梓さんの所為で痛い人みたいじゃないですか」
「ええ~……」
彼は溜息を吐く。ぞんざいに車に向かって歩きだすが不意にぴたりと止まって、振り返る。
「憑いて来ないんですか」
「だって幻覚だし」
「…………」
「………行きますよ、はいはい」
彼女は肩を竦める、彼はまた溜息を吐く。 車に辿りついて、彼は一応助手席に彼女を促した。彼女は首をひねりながら椅子に腰かけようとする。ひゅるとすりぬける。
何度か試して、彼女は首を左右に振る。彼は三度目の溜息を吐いて、背もたれに体重を預ける。
起きたら居なくなるんだろうか。
それなら眠りたくない気もして、彼はうとうとしかけては目を覚ます。
そういうことを繰り返していると、彼女が気付いたようで、大丈夫ですよ、と言う。
「何が」
「なんとなく」
「いつも安請け合いして」
「すいませんねえ」
「本当ですよ」
「安室さんもでしょ」
「―――幻覚見るほど、会いたかったんですかね、僕って」
さあ、と彼女は笑った。 それを見て、彼はやっと眠った。夢の中で太平洋を背泳ぎしており、どうともならない無為なほどなだらかな雲が流れ、時折魚がはねている。船も通り過ぎて、何故か虹が出ていた。彼はゆっくり目を覚ました。周辺は暗闇にすっぽりと包まれており、携帯で時間を確認すると一時間半ほど眠っていたらしい。
「――梓さん?」
返事がない。ただの屍のようだ、全然洒落にならない。やっぱり幻覚だったのか。
彼は喉の渇きを覚える。
「起きました?」
「うわっ」
「うわっ、だってー」
「…………」
彼女はほんのり光っている。薄いベールで光沢があるかのように。丁度星の光のようだ。
「まだ居るんですか」
「らしいですなあ」
「ですなあって」
「安室さん、薬飲んだ方がいいんじゃないですか?」
「安定剤?」
「そう。よくわからないですけど、大事なんでしょ」
「持ってないですよ、今」
「いいんですか」
「よくないですよ」
「駄目じゃないですか」
「分かってますよ、煩いな」
「………煩いな、ってあのね、心配してるんですよ」
「死んだ人に心配されても迷惑なので」
「生きてる時はあんなに優しかったのに……」
「そりゃそうでしょう、死ぬ時点で好感度ゼロですよ」
「えぇ………まあ、もういいですけど、とりあえず身体大事にしてくださいね」
「―――――もういいです、どこかに行ってください」
「はいはい、そうしますよ、こういうのよくないでしょうし」
「………行く宛てあるんですか」
「はは、天国には行けると思うんですけどねえ」
いきなりクラクションが鳴った。 彼女がびくと驚く、彼はハンドルに突っ伏してる。
「………………………泣いてる」
「――ないですよ」
「泣いてるでしょ」
「泣いてないですよ」
「分かりますよ」
「何が」
「泣きたいですもん」
「泣いてくださいよ」
「泣けませんもん、感情どっか行ってて」
「どういうことですか」
「ほら、もう、人じゃないんでしょう」
「………そういうことを」
彼の頭の辺りでざわっとした感覚が広がった。 彼女が頭を撫でようとしたものらしい。
彼女は失敗したポリゴンみたいに座席の間に立っている。
「――とりあえず、ここ、出ます」
「はい」
「この付近にホテルあります?」
「駅前あたりにはあると思いますよ、泊まるんですか」
「一晩だけどね」 「うん、食べるもの食べてシャワー浴びて寝てください」
「………余計なお世話なんですよ」
彼はエンジンをかけた。車を走らせたら彼女はどうなるんだろうと思いながら、もう何も見たくなくて、彼は車を走らせた。ホテルはすぐ見つかり、部屋も取れて、近場のコンビニで飯を買いこみ、部屋で飲み喰いしてシャワーを浴びて、寝る。朝起きてぼんやりと瞬く。部屋に彼女は居ない。それはそうだろう、死んだのならば生きている必要がないからだ。
―――彼女は信号無視の車に轢かれて、亡くなった。
夜のことだったらしい、人通りのいない道で人知れず轢かれ、まだ少しその時は息が合った。
でも車は逃げて行き、彼女は一人息絶えて行く。
警察の捜査で犯人は三カ月ほどして逮捕された。飲酒していたのだという、それで怖くなって逃げた。
あっけなく人は死ぬ。
心残りがあると幽霊になると言うが。矢張り自分の方に問題があるのだろうか。どうともいえない心地だ。
彼は朝食も食べず、チェックインしてホテルを出た。 車を走らせる。
また昨日と同じ場所。
車の扉を閉める、バタン、という音がやけに響く。周囲が静かすぎる。安穏とした場所であり、淋しすぎる。
「――どうして」
「え」
「ポアロに出ないんですか」
「おはよう。何の話ですか?」
彼女の墓の位置まで行く。 彼が認識すると同時に強く輪郭を持った。
自分の幻覚と彼は対峙する。 彼女は不思議そうに笑っている。
「梓さん、こんな場所に居ないでしょう」
「ええと、だから何の話?」
「墓場になんて出ないでしょう、普通は」
「普通は墓場に出るんじゃないの」
「そんなことないですよ、生前愛着のあった場所や人にだって」
幽霊ならどこへでも行けるんじゃないですか。 彼女は彼の瞳を見詰める。
「分かるでしょう、死んだら終わり」
「ならどうしているんですか」
「一応一晩考えたよ、多分、一晩、記憶がとんでいて分からないけど」
「一晩中こんなところに居たんですか?」
「安室さん、言ってることめちゃくちゃ」
「全然冷静になれない」
「そうだね」
「こんなところより家に行けばいいじゃないですか」
「行こうとしたよ」
「行けないんですか」
「分からないんだよね」
「何が」
「ぼやけていくから」
「消えるんですか」
「今ははっきりしてるけど」
「僕が居ると、ですか」
「はっきりするの?」
「そう」
「そうかも」
「僕が居なくなると消えるんですか」
「ぼんやりするかなあ」
「……残酷だ」
「安室さん」
「はい」
「もう、私、死んでるから」
「――気が狂っちゃったんですよ、誰が死んでもこうならなかったのに、限界だったのかな、僕、そうなんでしょうか」
「どうしたの、いつになく弱気で」
「弱気にもなるでしょう、こんなところで非実在の人間と話してる」
彼女は愉快そうに笑う。
「そういうのやめてくれません?」
「え?」
「笑うの」
「どうして」
「感情ないんでしょ」
「大らかなのはあるよ」
「どういうことですか」
「楽しい、面白い、可愛い、慈しみたい、愛したい、そういうの」
「人間じゃないじゃないですか」
「だから、そう言ってるのに」
「……………はぁ」
彼は大きく息を吐く。
「嫌になってきた」
「………」
その場に座り込んで、胡坐を掻いて彼女の墓を見詰める。ポケットから煙草を取りだした。風があっけらかんとしすぎてうまく火が点かなかった。一分ほど苦戦する、指先が震えてる所為だ。なんとか点けて、深く吸い込む。
「吸うんだ」
「たまに」
「そう」
「なに」
「何もないよ」
「言いたいことがあるなら」
「言いたいことなー………」
「連絡もしなかった」
「うん」
「いきなり、別れてそのまま」
「そんなもんだと思ってたから」
「信用してなかった?」
「そういうのじゃなくない?」
彼女は笑う。
「俺のこと、好きじゃなかった?」
「俺って言ってる」
「そこはいいでしょう」
「好きだったけど、一生一緒にいることはないだろう、と思ってた」
「そうだよな」
「自分が一番分かってるでしょう」
「分かってる」
「罪悪心あったんだね」
「酷い男みたいだ」
「酷い男でしょう」
「――――梓さんに許されたら、生きていけると思ってた」
「うん」
「わりと酷い仕事してて。普通の人に、愛されて許されたら、それでいいんじゃないかって」
「うん」
「でも、結構、自分の愛が重たかった」
「うん、知ってる」
「何を知ってるの」
「何も」
「話合わせただけ?」
「そうかも」
「酷いな」
「酷いよ」
「俺、話したっけ?」
「何も」
「何か話さなかった?」
「何も話してないよ、安室さんは」
「何も話さなかった……」
何も話さなかった、と彼女は頷く。責めているわけでもなく、悲しんでいる素振りもない、そもそも感情が欠落しているという。喜びしか受け取られないなど酷い話だ、生きていたら。死んでいるから関係ないのだろう、煙草をその後二本吸い、彼は立ちあがった。彼女の手を握りたかったがずぶんとまた水中に潜った感触しかしない、透明なゼリーのような、そうだとしたらきっとラムネ味だ。
「帰ります」
仕事があるので、と言う。彼女は笑って頷いた。挨拶はしなかった、してどうするという話だ、彼は車に戻り、自分の居場所に帰った。 それで暫く働いた。 人を騙し追い詰め暴き、真実を引きずりだし、正義を遂行する。国の為に生きて、それだけの日々を彼は愛している。彼の人生で喪ったものは幾つかあり、重要なものもその中にはあった、根底を支え彼を彼たらしめるものがあった、彼の軸と言っても良かった。彼はそれでも、生きていた。人によっては悲愴で哀れな人生だろう、彼が生きて行く理由などどこにもないような、儚げですらある、影が濃ゆく暗がりに歩むような、しかし彼は単純であった、明快であった、過去を思えどそれはそれであった、誰かが思うよりも哀れではなかった、少なくとも何も見いだせずぐだぐだと駄々をこねながら生きる人間よりは遙かマシであった、比べて得る肯定など大したことはなくても、彼は生きることに溢れていたからだ。 彼は生きている男であり、止まらぬ人であり、彼は闇でもあったが、同時に光でもあった。
彼は長い長い手紙を書く。昨日食べたものや最近見つけた気のいい店、お気に入りの肌触りの服の話、道端にあった石の形、掠れて意味が通じなくなった看板、破れたフェンスから顔をのぞかせるランドセルが重たげな子ども、ゆっくりと横断歩道を渡る老人の足の細さ、大声で笑いながらクレープを頬張る女子高生の鞄のキーホルダー、電車のつり革に凭れてむっつりと眉を寄せる男の話、疲れた顔で自転車をこぐ女の話、二人だけで生きているみたいなカップル、氷の解けたアイスミルクティー、日々出来あがっていく建物と、壊されて更地になってゆく買い取り手を探している土地、ずっと落ちたままの帽子、誰かが捨てた弁当の空き箱、今日の空の色。誰かが誰かを殺して謎を生んだ話、血を流しながら搬送された誰か、欲しいものを奪われた誰か、笑顔のまま傷ついている誰か、誇らしげに働く店員の姿、仲間を呼ぶ烏、小石をつつく鳩、どなり声に頭を下げる人間、目の前で乗ろうとしていた電車の扉が閉まった、顔。カっと目を見開いた魚、からっと揚がったコロッケの匂い、季節になって咲いた花で満ちる歩道の甘やかさ、遠くから聞こえてくるごみ収集の音、何を書けばいいか分からなくなって、何でもいいから彼は書いた、ラジオのDJの話も書いてゆく、アーティストと対談して、笑っている。チューニングはエロい、どういう話なんだろう、分からないから書いた、正義とか真実とか信念とか悪とか、大事なものとか、夢とか希望とか絶望とか、悲しみとか怒りとか、憎しみとか興奮とか、幸福と過ち、謝罪と肯定、許しはどこにもなかった。今日懺悔したことを、あの犬は笑うかもしれない。見捨てた野良猫の子どもはもう、見かけなくなった。彼は綺麗にシャツにアイロンをかけた。ラベンダーの水をかける、良い匂いがする。リラックス効果もある。夕飯はコーヒーとハムサンドだった。冷やしたトマトを齧り、デザートにした。最近の果物は甘いから。彼はゆったりと窓の外を眺めた、歓楽街の端でネズミが通りすぎて行った、結構太っていて、大変だなと彼は思う。
手紙に封をして、彼は天井を見詰める。
「――安室さん」
「来るんですか」
「来ちゃいました」
いつかの彼女がぼんやりと立っている。彼が見詰めるごとにくっきりと解像度が上がっていき、まるでこの世に生きているみたいになる。
「止めないで欲しいんですけれども」
「そういうわけにはいかなくて」
彼女は困ったように笑う。 彼の手には拳銃が握られている。
「思い出したんです、私、それを聞いてから」
「愉快な話ですか」
「まあ、そうなのかも」
「まあ、良かったら話してください。一応お茶淹れますから」
「お気づかいどうも、有難うございます」
「いいえ、お客さんではありますから」
彼はベッドから立ち上がって湯を沸かす。ポットを用意し、マグカップが一つだけだ。他に誰も来ないし、使わないから予備がない。
彼は念の為マグカップを洗い、ティッシュで水気を拭う。
「さっきまで、木とか花だったんですけど」
「え?」
「自然と同化してたみたいで」
「妖精?みたいなものですかね」
「どうなんでしょう、でも私が好きな漫画で、壊れた道具を最後に花を活ける器になってから、処分するっていう話があって、人間も多分そう言うことなのかなって」
「分かるような分からないような話ですね」
「そうですね」
「それが思い出した話ですか?」
「いやではなく」
「はい」
「どうも私が生きてた世界では安室さんが先に死んだんですよね」
「―――どういうことですか?」
「多分、恋人同士だったと思うんですけど」
「多分」
「全部はっきり覚えてなくて」
彼女は彼を見詰める。
「ある日、安室さんが死んだ、って聞かされたんです」
「…………死因は?」
「殺人じゃなくて、事故死?だったような」
「十中八九殺されてるんでしょうね」
「そうなんですか?」
「僕は何も話してませんか」
「話してませんね」
「僕が?」
「安室さんは、私には何も話さなかったですよ」
「恋人同士なのに?」
「多分ね」
「多分だとしても、それでも?」
「はい」
「許せたんですか」
「何を?」
「………何も、言わなかったこと」
「だって、何も言わないことと、愛されることは別ですから」
「………そうかな」
「赤ちゃん、何も知らなくても笑うでしょう」
「それは笑いたいから笑ってるわけじゃないでしょう」
「だから、愛を知ってるから、とか、愛したいからって、愛するわけでもないでしょう」
「それは、そうかもしれませんけど」
「まあそこはどうでもいいんですけどね」
「どうでもいいですか」
「――本当もう、安室さんって、ズレてますよね」
「ど、どこが?」
「話、進まないし、あと、沸騰してますよ」
「あ、え、あ、はい」
彼女は肩を竦める。
彼は紅茶のティーバックを取りだしてマグカップにいれて、お湯を注ぐ。透明だったお湯にじんわりと紅茶の色が滲んで行く。
「どうぞ」
「有難うございます」
「僕、死んでどうしたんですか」
「私、耐えきれなかったみたいで」
「と、言うと」
「自殺しちゃったみたい」
「え」
「びっくりですよね」
「本当に?」
「多分ですけど」
「どうしていつも多分なんですか」
「だったような、気が、ってかんじなので」
「うーん、僕の妄想だからかなあ、細部が適当」
「あ、まだその考え方」
「幻覚でしょう、あと、幻聴、脳のまやかし、どうでもいいですけど」
「投げやりだなあ」
「僕も自殺しようとしてるんですけど」
「私の事好きでもない癖に」
「……そんなに、梓さんは僕のこと好きだったんですか」
――壊れて、自殺するほどに。
「どう思います?妄想なんでしょう、これ、全部」
「分からないですよ、梓さんのこと、何も知らないし」
「そうなんですか?」 「梓さんだって何も話してくれなかったし」
「話してたでしょう、色々」
ひたりと目線がある。 常葉の色をしている。
「―――覚えてないんです、消しちゃって」
「ええっ」
「覚えてたくなかったみたいで、何か、駄目なんです、もう」
「いやでもポアロで一緒に働いてたのに」
「そういうことは覚えてるんです、でもそれ以外だとさっぱり」
「そんなに嫌いだったんですか?」
「分からないんですよ、本当、嫌になる」
「はあまあ、私は好きでしたよ、――不意に死んじゃうくらい」
「どういうことですか」
「ここから落ちたら、会えるのかなって。別に落ちなくていいのに、落ちちゃった」
で、どぼん、と言う。
「川?」
「そう、ハイキング途中で」
「大変でしたね」
「ね、一人だからよかったですよ、友達連れてたら可哀想でしたね」
「一人で登ってたんですか」
「気分転換にね」
「気分転換、失敗してるじゃないですか」
「参りましたねえ」
はは、と彼女は笑う。
「今、安室さんもそんな感じでしょう」
「……なのかな」
「死んだから言えますけど、死ななくても良かったですね」
「――僕のこと、好きじゃないから?」
「あっはっはっは」
「笑うほどですか」
「いやいや、どうして不貞腐れてるんです?」
「んーどうしてでしょう……」
わかりますけど、と彼女は言い、マグカップに手を伸ばした。やはり掴めず、すりぬける。何度か彼女は繰り返す。駄目だなあ、とそして笑う。感情が欠落していなかったら、どういう顔をしたんだろうと彼は考える。
「妄想でも幻覚でもいいですけど、多分また会えますよ」
「…………会いたいわけじゃないんです」
「うん」
「申し訳なさがあって」
「何の」
「どうして僕って生きてるんですかね」
「それはよくあるやつなんじゃないですか」
「そうなんですけど、たまにはパっと死んでみてもいいのかなって思って」
「温泉行ったらいいんじゃないですか?」
「僕、思ってる以上に梓さんのこと好きだったみたいで」
「愛が重いですもんね」
「そう、死にたいですね」
「頑張って」
「それ禁止ワードですよ」
「知ってますけど、それしか言えないでしょう」
「そっちの殺された僕」
「うん」
「喜んでたと思いますよ、梓さんが自殺して」
あきれ果てたように彼女が彼を見る。
彼は少し居た堪れなくなってベッドに腰掛ける。
「というのは冗談ですけど」
「嘘でしょう」
「嘘ですけど」
「私は嫌です」
「死ぬのですか」
「幸せになって欲しいですね」
「はー……そんなありきたりなこと言われても」
「いいじゃないですか、ありきたり。それしかないですよ」
「そうかな」 「とりあえず今はいいでしょ」
「明日からは?」
「まあ、頑張ってください、としか」
「どうして肝心なところで適当なんですか」
「安室さん、生きるの好きでしょ」
「そこに好き嫌いとか発生します?」
「うん」
彼は深いため息を吐く。
「僕の妄想、酷くないですか?」
「まあねえ。じゃあこうしましょう」
「はい?」
「花くださいよ」
「献花?」
「かな、その時に綺麗だと思った花を私にください」
「―――思ったんですけど」
「はい」
「こっちの梓さんは?」
「私じゃないから分からないです」
「よその女に花を貢ぐわけですか」
「好きでしょ、安室さん、ひねくれてるから」
「いや、…………」
彼は首裏を摩った。
「好きですけど」
「じゃ、それで」
彼女が良かった良かったと笑う。それでいいのかなあと彼は首を傾げて、 「というか」 と、言ったところで既に彼女の姿は無かった。
脳のしくじりはどこまでもしくじりだ。
彼は立ちあがって拳銃を引き出しに仕舞いこみ、銭湯に向かった。大きい湯船に浸かって昔懐かしいままのタイルで出来た富士山の姿を眺めて、彼女が死んだとしたらどこの山だろうかと考える。湯あがりにビール一杯飲みほして椅子に座りこんで扇風機の風に当たる。部屋に帰って拳銃を取り出し、米神に銃口を押しつけて引き金を引いた。空ぶった音がして、中を見ると不発だった。
彼は深く息を吐きだして、目を瞑る。
水に深く潜り空を見上げる夢を見た。
眩さに彼の眼は潰れたが気にはならなかった、そのまま深く水中の底に落ちて行き、彼は懐かしい顔ぶれに出会い、ゆっくりと浮上した。
窓の外を見ると、少し開けられたラブホの窓から喘ぎ声が響いていて、彼は少し笑った。
さあ、花を買いに行こう。
畳む
君が死んだ。
彼はしばらく使っていない携帯電話の電源を入れた。
ネットの回線につなぐとメールを受信してゆく。
彼は一つ一つゴミ箱に投げ込んだ、削除、削除、削除、名前、榎本梓、手を止める。メールの本文を見る。
――御無沙汰しています。 兄の杉人です。 妹の梓が亡くなりました。
以下云々。彼は彼女の情報を受け取っていなかった、もう用が済んだので観察対象から外したのだ。
彼は座っている椅子に深く背を預けて、息を吐く。今更、手を合わせる権利はあるだろうか。
しかし彼は何も考えずに彼女の地元まで車で行く。
事前に連絡せず訪れた男に両親は驚き、事情を話すと受け入れてくれた。
仏壇には彼女の笑顔の写真があり、果物やお菓子が供えられていた。手土産をいったん彼女に供える。
「……ご焼香に伺うのが遅くなり、大変申し訳ありません」
「いいえ、……あの子の知り合いにこんなかっこいい人がいただなんて、びっくりしました」
母親は淋しそうに笑った。
「もし宜しければ」
父親が同じく頬を歪めて言う。
「店でのことをお話していただけませんか、良かったら……」
「はい、もちろん、是非」
彼女に良く似た両親は彼の話を時に笑い時に泣くのを堪えて聞く。
実直な人柄が見て取れた、裏表が無くそのままの人柄で、そうか、彼女はここで育ったんだなあと彼は思う、資料では知っていた、直接足を運ぶのは始めてたった、父親は彼と酒を呑みたがったが彼は車で来ているので、と辞退する。泊まっていくのはどうですか、と言われて流石に断った、正気でいられる自信がなかった。
昼過ぎに訪れて、夕暮れ前に出る、墓の場所を教えてもらい、両親はこぞってまた来てくださいと言い、彼ははい、と頷いたが二度と来るつもりはなかった。
車を走らせ、寺の近くの墓地に来た。花を買うのを忘れていたし、何も持って来なかった。身一つで、彼は彼女の墓の前に立つ。正しくは彼女の一族の墓だ。
「……どうしてあなたまで」
「――会えるとは思わなかったな」
聞き覚えのある声だった、ざりと肌が粟立ち、彼は咄嗟に振り返る。
「ふふ。お久しぶりです、安室さん」
彼女だ。
「…………え」
素っ頓狂な声が出る。
「………梓さん死んだんじゃ」
「そういうことみたい」
「ならあなたは?」
「うーん、榎本梓なんだけども、幽霊になるんですかね?多分」
「―――多分って……」
彼女は生きてる時と変わらないように見える。 パーカーにスカート姿で佇んでいる。 でも影はない。
「安室さん、普通ですね」
「まあ、元々狂ってるので……」
「どういうことなんですかそれ」
「―――さあ」
どういうことなんでしょう、と彼は言う。
「ちょっと、頭が動かなくて」
「そうですね、私も何か記憶飛んでますし」
「はあ……」
彼は空を見上げた。 太陽が赤々と燃えていて、彼の影は長く伸びている。
「――今は黄昏時ですもんねえ」
「明日は晴れかなあ」
「雨ですよ、天気予報で言ってしました」
「それは上々」
「いやちょっと待ってください」
「はい」
「僕、生きてます?」
「え、知りませんけど……」
「途中で事故ってないですよね」
「事故ったんですか?」
「いやあ、もうどこまで正気なのかよくわからず」
「夢みたいなかんじですか」
「触れるんですか」
「さあ……?」
彼はおもむろに彼女に手を伸ばす。ひやりとした感触があって、水中に手を突っ込んだような感覚があって、ずぼんと彼女の向こう側に手が突き抜けて行く。
「なんか変な感じ」
「僕もです」
「ちょっと試しますね」
言うや否や彼女は彼に触れようと手を伸ばす、しかし、先程と同じような感覚があってずぼん!とすりぬける。
「あら、残念」
「…………幽霊なんですか」
「よくわかんないんですってば」
「僕が幻覚見てるのかな」
「まあ、その可能性も」
「たまに薬飲んでるんですよね」
「そうなんですか」
「まあ、はい、まあそれはどうでも……よくないのかな、寝不足続いてたし、脳のダメージがあったのかも」
「何かよく分からないですけど、とりあえず寝てみたらいいんじゃないですか」
「ここで?」
「いやどこかで……うちの家とか?」
「嫌ですよ、梓さんの実家」
「どうしてですか」
「居心地悪いので」
「人の実家に失礼だなあ~」
「死ぬからでしょ」
「私の所為じゃないもん」
「それにしたって不注意ですよ」
「怒られても困るんですけど」
「…………寝ます」
「はい」
「……………梓さんは憑いてくるんですか?」
「付いていく、ですよね」
「さすがにまあちょっとはい、まあもういいです、寝てから考えます、一緒に来て」
「やけくそだなあ」
「ですよ、何か、泣きそびれた」
「いいですよ、泣いても」
「嫌ですよ、どうして今泣くんですか」
「泣きたいんじゃないですか」
「泣きたくないですよ全然!」
「ご、ごめん……」
「――――謝ってももう遅いですよ」
「まあ……………美味しいもの、食べない?」
「食べられるんですか?」
「食べてるの、見るぐらいならいけそう」
「そういう性癖みたいだなあ」
「………いいですよ、先に寝ても」
「…………起きたら居なくなるんですか」
「知りませんよ、私の問題じゃないし」
「やっぱり僕の幻覚というか妄想ですか、梓さんの所為で痛い人みたいじゃないですか」
「ええ~……」
彼は溜息を吐く。ぞんざいに車に向かって歩きだすが不意にぴたりと止まって、振り返る。
「憑いて来ないんですか」
「だって幻覚だし」
「…………」
「………行きますよ、はいはい」
彼女は肩を竦める、彼はまた溜息を吐く。 車に辿りついて、彼は一応助手席に彼女を促した。彼女は首をひねりながら椅子に腰かけようとする。ひゅるとすりぬける。
何度か試して、彼女は首を左右に振る。彼は三度目の溜息を吐いて、背もたれに体重を預ける。
起きたら居なくなるんだろうか。
それなら眠りたくない気もして、彼はうとうとしかけては目を覚ます。
そういうことを繰り返していると、彼女が気付いたようで、大丈夫ですよ、と言う。
「何が」
「なんとなく」
「いつも安請け合いして」
「すいませんねえ」
「本当ですよ」
「安室さんもでしょ」
「―――幻覚見るほど、会いたかったんですかね、僕って」
さあ、と彼女は笑った。 それを見て、彼はやっと眠った。夢の中で太平洋を背泳ぎしており、どうともならない無為なほどなだらかな雲が流れ、時折魚がはねている。船も通り過ぎて、何故か虹が出ていた。彼はゆっくり目を覚ました。周辺は暗闇にすっぽりと包まれており、携帯で時間を確認すると一時間半ほど眠っていたらしい。
「――梓さん?」
返事がない。ただの屍のようだ、全然洒落にならない。やっぱり幻覚だったのか。
彼は喉の渇きを覚える。
「起きました?」
「うわっ」
「うわっ、だってー」
「…………」
彼女はほんのり光っている。薄いベールで光沢があるかのように。丁度星の光のようだ。
「まだ居るんですか」
「らしいですなあ」
「ですなあって」
「安室さん、薬飲んだ方がいいんじゃないですか?」
「安定剤?」
「そう。よくわからないですけど、大事なんでしょ」
「持ってないですよ、今」
「いいんですか」
「よくないですよ」
「駄目じゃないですか」
「分かってますよ、煩いな」
「………煩いな、ってあのね、心配してるんですよ」
「死んだ人に心配されても迷惑なので」
「生きてる時はあんなに優しかったのに……」
「そりゃそうでしょう、死ぬ時点で好感度ゼロですよ」
「えぇ………まあ、もういいですけど、とりあえず身体大事にしてくださいね」
「―――――もういいです、どこかに行ってください」
「はいはい、そうしますよ、こういうのよくないでしょうし」
「………行く宛てあるんですか」
「はは、天国には行けると思うんですけどねえ」
いきなりクラクションが鳴った。 彼女がびくと驚く、彼はハンドルに突っ伏してる。
「………………………泣いてる」
「――ないですよ」
「泣いてるでしょ」
「泣いてないですよ」
「分かりますよ」
「何が」
「泣きたいですもん」
「泣いてくださいよ」
「泣けませんもん、感情どっか行ってて」
「どういうことですか」
「ほら、もう、人じゃないんでしょう」
「………そういうことを」
彼の頭の辺りでざわっとした感覚が広がった。 彼女が頭を撫でようとしたものらしい。
彼女は失敗したポリゴンみたいに座席の間に立っている。
「――とりあえず、ここ、出ます」
「はい」
「この付近にホテルあります?」
「駅前あたりにはあると思いますよ、泊まるんですか」
「一晩だけどね」 「うん、食べるもの食べてシャワー浴びて寝てください」
「………余計なお世話なんですよ」
彼はエンジンをかけた。車を走らせたら彼女はどうなるんだろうと思いながら、もう何も見たくなくて、彼は車を走らせた。ホテルはすぐ見つかり、部屋も取れて、近場のコンビニで飯を買いこみ、部屋で飲み喰いしてシャワーを浴びて、寝る。朝起きてぼんやりと瞬く。部屋に彼女は居ない。それはそうだろう、死んだのならば生きている必要がないからだ。
―――彼女は信号無視の車に轢かれて、亡くなった。
夜のことだったらしい、人通りのいない道で人知れず轢かれ、まだ少しその時は息が合った。
でも車は逃げて行き、彼女は一人息絶えて行く。
警察の捜査で犯人は三カ月ほどして逮捕された。飲酒していたのだという、それで怖くなって逃げた。
あっけなく人は死ぬ。
心残りがあると幽霊になると言うが。矢張り自分の方に問題があるのだろうか。どうともいえない心地だ。
彼は朝食も食べず、チェックインしてホテルを出た。 車を走らせる。
また昨日と同じ場所。
車の扉を閉める、バタン、という音がやけに響く。周囲が静かすぎる。安穏とした場所であり、淋しすぎる。
「――どうして」
「え」
「ポアロに出ないんですか」
「おはよう。何の話ですか?」
彼女の墓の位置まで行く。 彼が認識すると同時に強く輪郭を持った。
自分の幻覚と彼は対峙する。 彼女は不思議そうに笑っている。
「梓さん、こんな場所に居ないでしょう」
「ええと、だから何の話?」
「墓場になんて出ないでしょう、普通は」
「普通は墓場に出るんじゃないの」
「そんなことないですよ、生前愛着のあった場所や人にだって」
幽霊ならどこへでも行けるんじゃないですか。 彼女は彼の瞳を見詰める。
「分かるでしょう、死んだら終わり」
「ならどうしているんですか」
「一応一晩考えたよ、多分、一晩、記憶がとんでいて分からないけど」
「一晩中こんなところに居たんですか?」
「安室さん、言ってることめちゃくちゃ」
「全然冷静になれない」
「そうだね」
「こんなところより家に行けばいいじゃないですか」
「行こうとしたよ」
「行けないんですか」
「分からないんだよね」
「何が」
「ぼやけていくから」
「消えるんですか」
「今ははっきりしてるけど」
「僕が居ると、ですか」
「はっきりするの?」
「そう」
「そうかも」
「僕が居なくなると消えるんですか」
「ぼんやりするかなあ」
「……残酷だ」
「安室さん」
「はい」
「もう、私、死んでるから」
「――気が狂っちゃったんですよ、誰が死んでもこうならなかったのに、限界だったのかな、僕、そうなんでしょうか」
「どうしたの、いつになく弱気で」
「弱気にもなるでしょう、こんなところで非実在の人間と話してる」
彼女は愉快そうに笑う。
「そういうのやめてくれません?」
「え?」
「笑うの」
「どうして」
「感情ないんでしょ」
「大らかなのはあるよ」
「どういうことですか」
「楽しい、面白い、可愛い、慈しみたい、愛したい、そういうの」
「人間じゃないじゃないですか」
「だから、そう言ってるのに」
「……………はぁ」
彼は大きく息を吐く。
「嫌になってきた」
「………」
その場に座り込んで、胡坐を掻いて彼女の墓を見詰める。ポケットから煙草を取りだした。風があっけらかんとしすぎてうまく火が点かなかった。一分ほど苦戦する、指先が震えてる所為だ。なんとか点けて、深く吸い込む。
「吸うんだ」
「たまに」
「そう」
「なに」
「何もないよ」
「言いたいことがあるなら」
「言いたいことなー………」
「連絡もしなかった」
「うん」
「いきなり、別れてそのまま」
「そんなもんだと思ってたから」
「信用してなかった?」
「そういうのじゃなくない?」
彼女は笑う。
「俺のこと、好きじゃなかった?」
「俺って言ってる」
「そこはいいでしょう」
「好きだったけど、一生一緒にいることはないだろう、と思ってた」
「そうだよな」
「自分が一番分かってるでしょう」
「分かってる」
「罪悪心あったんだね」
「酷い男みたいだ」
「酷い男でしょう」
「――――梓さんに許されたら、生きていけると思ってた」
「うん」
「わりと酷い仕事してて。普通の人に、愛されて許されたら、それでいいんじゃないかって」
「うん」
「でも、結構、自分の愛が重たかった」
「うん、知ってる」
「何を知ってるの」
「何も」
「話合わせただけ?」
「そうかも」
「酷いな」
「酷いよ」
「俺、話したっけ?」
「何も」
「何か話さなかった?」
「何も話してないよ、安室さんは」
「何も話さなかった……」
何も話さなかった、と彼女は頷く。責めているわけでもなく、悲しんでいる素振りもない、そもそも感情が欠落しているという。喜びしか受け取られないなど酷い話だ、生きていたら。死んでいるから関係ないのだろう、煙草をその後二本吸い、彼は立ちあがった。彼女の手を握りたかったがずぶんとまた水中に潜った感触しかしない、透明なゼリーのような、そうだとしたらきっとラムネ味だ。
「帰ります」
仕事があるので、と言う。彼女は笑って頷いた。挨拶はしなかった、してどうするという話だ、彼は車に戻り、自分の居場所に帰った。 それで暫く働いた。 人を騙し追い詰め暴き、真実を引きずりだし、正義を遂行する。国の為に生きて、それだけの日々を彼は愛している。彼の人生で喪ったものは幾つかあり、重要なものもその中にはあった、根底を支え彼を彼たらしめるものがあった、彼の軸と言っても良かった。彼はそれでも、生きていた。人によっては悲愴で哀れな人生だろう、彼が生きて行く理由などどこにもないような、儚げですらある、影が濃ゆく暗がりに歩むような、しかし彼は単純であった、明快であった、過去を思えどそれはそれであった、誰かが思うよりも哀れではなかった、少なくとも何も見いだせずぐだぐだと駄々をこねながら生きる人間よりは遙かマシであった、比べて得る肯定など大したことはなくても、彼は生きることに溢れていたからだ。 彼は生きている男であり、止まらぬ人であり、彼は闇でもあったが、同時に光でもあった。
彼は長い長い手紙を書く。昨日食べたものや最近見つけた気のいい店、お気に入りの肌触りの服の話、道端にあった石の形、掠れて意味が通じなくなった看板、破れたフェンスから顔をのぞかせるランドセルが重たげな子ども、ゆっくりと横断歩道を渡る老人の足の細さ、大声で笑いながらクレープを頬張る女子高生の鞄のキーホルダー、電車のつり革に凭れてむっつりと眉を寄せる男の話、疲れた顔で自転車をこぐ女の話、二人だけで生きているみたいなカップル、氷の解けたアイスミルクティー、日々出来あがっていく建物と、壊されて更地になってゆく買い取り手を探している土地、ずっと落ちたままの帽子、誰かが捨てた弁当の空き箱、今日の空の色。誰かが誰かを殺して謎を生んだ話、血を流しながら搬送された誰か、欲しいものを奪われた誰か、笑顔のまま傷ついている誰か、誇らしげに働く店員の姿、仲間を呼ぶ烏、小石をつつく鳩、どなり声に頭を下げる人間、目の前で乗ろうとしていた電車の扉が閉まった、顔。カっと目を見開いた魚、からっと揚がったコロッケの匂い、季節になって咲いた花で満ちる歩道の甘やかさ、遠くから聞こえてくるごみ収集の音、何を書けばいいか分からなくなって、何でもいいから彼は書いた、ラジオのDJの話も書いてゆく、アーティストと対談して、笑っている。チューニングはエロい、どういう話なんだろう、分からないから書いた、正義とか真実とか信念とか悪とか、大事なものとか、夢とか希望とか絶望とか、悲しみとか怒りとか、憎しみとか興奮とか、幸福と過ち、謝罪と肯定、許しはどこにもなかった。今日懺悔したことを、あの犬は笑うかもしれない。見捨てた野良猫の子どもはもう、見かけなくなった。彼は綺麗にシャツにアイロンをかけた。ラベンダーの水をかける、良い匂いがする。リラックス効果もある。夕飯はコーヒーとハムサンドだった。冷やしたトマトを齧り、デザートにした。最近の果物は甘いから。彼はゆったりと窓の外を眺めた、歓楽街の端でネズミが通りすぎて行った、結構太っていて、大変だなと彼は思う。
手紙に封をして、彼は天井を見詰める。
「――安室さん」
「来るんですか」
「来ちゃいました」
いつかの彼女がぼんやりと立っている。彼が見詰めるごとにくっきりと解像度が上がっていき、まるでこの世に生きているみたいになる。
「止めないで欲しいんですけれども」
「そういうわけにはいかなくて」
彼女は困ったように笑う。 彼の手には拳銃が握られている。
「思い出したんです、私、それを聞いてから」
「愉快な話ですか」
「まあ、そうなのかも」
「まあ、良かったら話してください。一応お茶淹れますから」
「お気づかいどうも、有難うございます」
「いいえ、お客さんではありますから」
彼はベッドから立ち上がって湯を沸かす。ポットを用意し、マグカップが一つだけだ。他に誰も来ないし、使わないから予備がない。
彼は念の為マグカップを洗い、ティッシュで水気を拭う。
「さっきまで、木とか花だったんですけど」
「え?」
「自然と同化してたみたいで」
「妖精?みたいなものですかね」
「どうなんでしょう、でも私が好きな漫画で、壊れた道具を最後に花を活ける器になってから、処分するっていう話があって、人間も多分そう言うことなのかなって」
「分かるような分からないような話ですね」
「そうですね」
「それが思い出した話ですか?」
「いやではなく」
「はい」
「どうも私が生きてた世界では安室さんが先に死んだんですよね」
「―――どういうことですか?」
「多分、恋人同士だったと思うんですけど」
「多分」
「全部はっきり覚えてなくて」
彼女は彼を見詰める。
「ある日、安室さんが死んだ、って聞かされたんです」
「…………死因は?」
「殺人じゃなくて、事故死?だったような」
「十中八九殺されてるんでしょうね」
「そうなんですか?」
「僕は何も話してませんか」
「話してませんね」
「僕が?」
「安室さんは、私には何も話さなかったですよ」
「恋人同士なのに?」
「多分ね」
「多分だとしても、それでも?」
「はい」
「許せたんですか」
「何を?」
「………何も、言わなかったこと」
「だって、何も言わないことと、愛されることは別ですから」
「………そうかな」
「赤ちゃん、何も知らなくても笑うでしょう」
「それは笑いたいから笑ってるわけじゃないでしょう」
「だから、愛を知ってるから、とか、愛したいからって、愛するわけでもないでしょう」
「それは、そうかもしれませんけど」
「まあそこはどうでもいいんですけどね」
「どうでもいいですか」
「――本当もう、安室さんって、ズレてますよね」
「ど、どこが?」
「話、進まないし、あと、沸騰してますよ」
「あ、え、あ、はい」
彼女は肩を竦める。
彼は紅茶のティーバックを取りだしてマグカップにいれて、お湯を注ぐ。透明だったお湯にじんわりと紅茶の色が滲んで行く。
「どうぞ」
「有難うございます」
「僕、死んでどうしたんですか」
「私、耐えきれなかったみたいで」
「と、言うと」
「自殺しちゃったみたい」
「え」
「びっくりですよね」
「本当に?」
「多分ですけど」
「どうしていつも多分なんですか」
「だったような、気が、ってかんじなので」
「うーん、僕の妄想だからかなあ、細部が適当」
「あ、まだその考え方」
「幻覚でしょう、あと、幻聴、脳のまやかし、どうでもいいですけど」
「投げやりだなあ」
「僕も自殺しようとしてるんですけど」
「私の事好きでもない癖に」
「……そんなに、梓さんは僕のこと好きだったんですか」
――壊れて、自殺するほどに。
「どう思います?妄想なんでしょう、これ、全部」
「分からないですよ、梓さんのこと、何も知らないし」
「そうなんですか?」 「梓さんだって何も話してくれなかったし」
「話してたでしょう、色々」
ひたりと目線がある。 常葉の色をしている。
「―――覚えてないんです、消しちゃって」
「ええっ」
「覚えてたくなかったみたいで、何か、駄目なんです、もう」
「いやでもポアロで一緒に働いてたのに」
「そういうことは覚えてるんです、でもそれ以外だとさっぱり」
「そんなに嫌いだったんですか?」
「分からないんですよ、本当、嫌になる」
「はあまあ、私は好きでしたよ、――不意に死んじゃうくらい」
「どういうことですか」
「ここから落ちたら、会えるのかなって。別に落ちなくていいのに、落ちちゃった」
で、どぼん、と言う。
「川?」
「そう、ハイキング途中で」
「大変でしたね」
「ね、一人だからよかったですよ、友達連れてたら可哀想でしたね」
「一人で登ってたんですか」
「気分転換にね」
「気分転換、失敗してるじゃないですか」
「参りましたねえ」
はは、と彼女は笑う。
「今、安室さんもそんな感じでしょう」
「……なのかな」
「死んだから言えますけど、死ななくても良かったですね」
「――僕のこと、好きじゃないから?」
「あっはっはっは」
「笑うほどですか」
「いやいや、どうして不貞腐れてるんです?」
「んーどうしてでしょう……」
わかりますけど、と彼女は言い、マグカップに手を伸ばした。やはり掴めず、すりぬける。何度か彼女は繰り返す。駄目だなあ、とそして笑う。感情が欠落していなかったら、どういう顔をしたんだろうと彼は考える。
「妄想でも幻覚でもいいですけど、多分また会えますよ」
「…………会いたいわけじゃないんです」
「うん」
「申し訳なさがあって」
「何の」
「どうして僕って生きてるんですかね」
「それはよくあるやつなんじゃないですか」
「そうなんですけど、たまにはパっと死んでみてもいいのかなって思って」
「温泉行ったらいいんじゃないですか?」
「僕、思ってる以上に梓さんのこと好きだったみたいで」
「愛が重いですもんね」
「そう、死にたいですね」
「頑張って」
「それ禁止ワードですよ」
「知ってますけど、それしか言えないでしょう」
「そっちの殺された僕」
「うん」
「喜んでたと思いますよ、梓さんが自殺して」
あきれ果てたように彼女が彼を見る。
彼は少し居た堪れなくなってベッドに腰掛ける。
「というのは冗談ですけど」
「嘘でしょう」
「嘘ですけど」
「私は嫌です」
「死ぬのですか」
「幸せになって欲しいですね」
「はー……そんなありきたりなこと言われても」
「いいじゃないですか、ありきたり。それしかないですよ」
「そうかな」 「とりあえず今はいいでしょ」
「明日からは?」
「まあ、頑張ってください、としか」
「どうして肝心なところで適当なんですか」
「安室さん、生きるの好きでしょ」
「そこに好き嫌いとか発生します?」
「うん」
彼は深いため息を吐く。
「僕の妄想、酷くないですか?」
「まあねえ。じゃあこうしましょう」
「はい?」
「花くださいよ」
「献花?」
「かな、その時に綺麗だと思った花を私にください」
「―――思ったんですけど」
「はい」
「こっちの梓さんは?」
「私じゃないから分からないです」
「よその女に花を貢ぐわけですか」
「好きでしょ、安室さん、ひねくれてるから」
「いや、…………」
彼は首裏を摩った。
「好きですけど」
「じゃ、それで」
彼女が良かった良かったと笑う。それでいいのかなあと彼は首を傾げて、 「というか」 と、言ったところで既に彼女の姿は無かった。
脳のしくじりはどこまでもしくじりだ。
彼は立ちあがって拳銃を引き出しに仕舞いこみ、銭湯に向かった。大きい湯船に浸かって昔懐かしいままのタイルで出来た富士山の姿を眺めて、彼女が死んだとしたらどこの山だろうかと考える。湯あがりにビール一杯飲みほして椅子に座りこんで扇風機の風に当たる。部屋に帰って拳銃を取り出し、米神に銃口を押しつけて引き金を引いた。空ぶった音がして、中を見ると不発だった。
彼は深く息を吐きだして、目を瞑る。
水に深く潜り空を見上げる夢を見た。
眩さに彼の眼は潰れたが気にはならなかった、そのまま深く水中の底に落ちて行き、彼は懐かしい顔ぶれに出会い、ゆっくりと浮上した。
窓の外を見ると、少し開けられたラブホの窓から喘ぎ声が響いていて、彼は少し笑った。
さあ、花を買いに行こう。
畳む
アナウンス
※現在プレイを休止しているものあります。
倉庫としておいています。
受け攻め性別不問/男女恋愛要素あり
R18と特殊設定のものはワンクッション置いています。
年齢制限は守ってください。よろしくお願いします。
倉庫としておいています。
受け攻め性別不問/男女恋愛要素あり
R18と特殊設定のものはワンクッション置いています。
年齢制限は守ってください。よろしくお願いします。
梓さん先天性男性化と安室くんの話
安室くんが店に入ってきて、自分が外れの方になってしまった。まあそれはいつものことだから気にならない。かっこいい男がいつだって勝つ世の中だ。
「榎本さん、これでいいですか?」
コーヒーの試飲だ。一通り安室さんはハンドドリップの方法もわかっている、調理もできる、注文の取り方もすぐ覚えたし、なんならメニューを暗記している。一教えると十を知ることができるのだ。
「安室くんって、何でもできるね」
「そうですか?まだまだですよ。これならもご指導お願いします、榎本先輩」
僕は思わず肩を竦めた。童顔でタレ目、なんとなく油断してしまいそうな微笑みに対して安室くんの眼差しはどこか鋭い。狼が羊の皮をかぶってるみたいだ、なんて決めつける証拠はないんだけど、男同士の連帯にいまいち入りきれなかった自分からして、確実に上位プレイヤーだろう安室くんの柔らかさは少し胡散臭い。そしてそれが悪いわけではない。探偵をしているんだし、揉まれたところもあるのだろう。
「安室くんは今日は夕方までですよね、食べていきますか?それともお持ち帰り?」
「いいんですか?うーん、どうしようかな」
「マスターが新しいお米のブランドを仕入れしたみたいで、おにぎりでもいいですよ」
「いいですね、おかずは何か……」
「ウィンナーありますよ、パスタ詰めてもいいですよ、食べるでしょう」
「炭水化物ばかりはあんまり」
「えっ、あ、そうですか」
安室くんが可笑しそうに笑った。
「榎本さんは平気ですか?炭水化物に炭水化物」
「え、そりゃもう。食べますよ、食べません?」
「こう見えても三十手前なので」
「ほぼ同世代でしょう?」
「それは嬉しいですけど」
「フライは?」
「おにぎりだけで。あとは味噌汁作ります」
「じゃあ、ウィンナーも。オムレツ作りますから」
「食べさせようとしてます?」
「なんとなく悔しくて」
「君も通る道ですよ」
「本当ですか?」
「人によりますけどね」
「プリンはどうします?!」
「ははは」
てらいなく安室くんが笑う。笑い声にお客さんがカウンターを振り向いた。イケメンの屈託ない笑顔にあら、という顔をして、そもそも飲食店で雑談はどうなのかという問題は喫茶ポアロだから、ということで納得してもらいたい。マスターには、二人が喋ってるとお客さん受けががいいみたいだと言っていた。それはどういうことなのか。
「もしかして、榎本さん、今お腹空いてますか?」
「えっいや、そんなことは…………ありますが」
「いいですよ、食べてきても。何か作ります?」
「それは、うーん。あとで休憩がありますから」
「真面目ですねえ」
「違います、ごはんの話をしていたからですよ。ちゃっちゃと弁当つくっちゃいましょう」
「有り難うございます」
「それよりテーブル任せます、見ていてください」
「はい、お任せを」
安室くんは笑って敬礼して見せた。僕はオムレツを作って持ち帰り用のパックに詰めたあと、何かケチャップで文字を書いてやろうと考えた。ひとしきり悩んで、おつかれさま、にした。いつも大変だろうから。目敏く気づいた安室くんが、笑った。男の僕から見ても安室くんはかっこいい。でもやっぱりどこか胡散臭い。そしてそれは安室くんを毀損しないのだ。ラップでごはんをくるんで、おにぎりを握る。何を考えてるんですか、と安室くんが言った。空いたお皿を下げて、水に浸ける。僕は考えながら言う。
「安室くんが懐いたらいいなって」
「え?」
「いや、やっぱり今のなしで」
「聞いちゃいましたけど」
「安室くんは後輩だからね」
僕はおにぎりを作る。自分が食べられる量。安室くんは少し困った顔をした。僕はちょっと笑う。困ればいいんだ。たまには。時々、そっちのほうが気が楽だろうから。
畳む