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オタクの雑記

日記だったり語ってみたり

No.1023

放サモ「聖夜に変身!?マジカルスノーランド」イベントについて考えたこと
特に大前提は説明しないのでわかる人だけ読んでほしい。

今回のイベントは魔法少女という外枠を用意している。新キャラクターである「スネグーラチカ」は魔法少女で、サンタクロースの神話からもってきている、一般的に彼女は「春や夏までは生きられない」期間限定の命だという前提がある。そこでなんやかんやとジャックと出会い、なんやかんや二人は仲良くなり、なんやかんや冬を終える。二人はどのルートでも「長く生きられないこと」を知り、解決しようとして、自分を捧げて相手を生きながえさせたりする。二人はどのループ軸でも「共に生きること」はできなかった。それを見守っているのがコロポックルというキャラクターで彼は二人が助からない結末を何度となく見てきた。今回のイベント軸では、そのことが「他者に伝えられ」「主人公」が「他に手があるはずだ」と駄々をこねる。そのことによって今までになかった選択が得られる。それは「東京の信仰に新しく上書きをする」というものだ。それは大前提として、スネグーラチカやジャックという存在が「伝承」の生き物ではなく「魔法少女とそのキャラクター」としての信仰を得るということでもある。しかしその手段は「東京の大多数」という「数の多さ」によって支持されるものである。ということは「社会の支持」なくば「生きていけないのではないか」という一種、依存関係めいたものも見出させるのである。

というのが、希望と夢の物語で基本的には「みんなたすけて!」「がんばれぷいきゅあ!」という流れによるものなのですが、この「愛され支持をされ信じなければ」死んでしまうという構図がほろたには「まじで怖いんだが」という気持ちになるという思いがあります。奇跡を起こすには信じる力が必要なのだが、愛され望まなければ生きていけないのでは?というのは、やっぱり社会の物語のメッセージとして怖すぎるんだが、の気持ちになります。かといってそれを否定することは「社会の通りに死ね」ということであり、それはやっぱり間違っているなと思う。二人は生きることを望んでそのあと押しをしただけなんですがその方法が「人に認められること」だったのが、どうにも言えず、複雑な気持ちに陥りました。社会と個人と自由みたいなそんなかんじの気持ちでぐるぐるしているけど、その複雑さが「放サモ」なんかなという気持ちもあります。

どういう決着であれば、納得がいったのか、というと、「大多数の肯定、承認」の部分がなければよかったんだとおもいます。でも社会の運命には向かうのに、社会を利用したという側面もあり、それは「自発的につかんだ結果」ともいえるのかなとも思います。

だからこそずっと「どうであったのか」というのと、「自分がなぜ複雑に陥るのか…」を考えているのは、これが「俺の物語だったら嫌だな」と思うからかもしれません。自分であれば、二人で一緒に死んでその思い出を新しく物語として残してくれる方がよかったのかもしれません。でも彼女と彼は「生きたかったし」思い出を作りたかったといっている。そういう意味で「俺の物語」ではありません。「俺の物語」でないからこそ救いや希望を感じず、一方で二人の結論に納得がいっていないのかもしれません。これは果たして「誰の物語なのか?」

もちろん二人のものです。二人が、望んだ結末がこれだったんだと思う。だから「希望と夢の話」であると思うし、「オタク」であることの肯定でもあるから「ファンへの祝福」だと思う。一方で、これは本当に「希望と夢なのか」という思いもある。

しばらく考えているけど、答えは出ない気がする。
社会と個人の関わり方の話だから。
矛盾を見つめてゆくしかないです。

#放サモ
#感想

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