自己肯定感とは斉藤和義の曲を聞きながら、自己肯定感みたいなものを考えておりました。結構、このあたり細分化していて自己承認と自己肯定は違うみたいな話もでていて、なんかいまって、自分を出すのってカッコ悪いことであり、一方で自分を認めないことは悲劇的なことだ、というようなかんじの、「本当に自分がちゃんとあるひとはこういうことをしない」「こういう風に考えて生きている」みたいなものがあらゆるところで語られていて、自分を分析、あるいは細分化、自分はなぜこうであるのか、ということを自分で会得していないと生きていくのが難しい、というかんじが、漠然としています。自分を知らないということは恥である、というか、どこか罰されてるような気配があり、自分はこのタイプだからこう考えるのであり、といったカテゴライズされるのが人気な気がしますが、そしてそれは、昔から変わらないことのようにも思います(血液型や占いなどで)で、なにがいいたいのかというと、自己肯定ってちょっと邪魔だなと笑。べつにそれじゃないんだよな、大事なところって。というか、これはべつに自分を好きで、あるいは、嫌いであることの必要性が物事にたいしてさほどないというか笑。好き嫌いで左右されるものではそもそもないところがある、なと思ったんですよね。自分が好きでも嫌いでもやらなあかんことはやらなあかんし、やらなくてもいいことはやらんでいい。でもそこでそもそも好きか嫌いか?、あるいは肯定するか、否定するか、で、止まっていると、判断できないよな、て思ったんですよね。ただ、ストレスの部分、まじでやらんでいいことがあってそれを判断をする、というのに必要か?と思ったんですけど、それにもやっぱり必要ない。そればさっくばらんに、人間が善人か悪人かで人権が左右されないように、そもそもの土台として、やらんでええことはやらんでええし、やっぱり、やらなあかんことはやらなあかんことがある、というかんじがあるんですね。だからこう、まあ、邪魔だなと。そこじゃないんだよな?ていうのをね、今考えてました。 2025.9.10(Wed) 14:04:11
斉藤和義の曲を聞きながら、自己肯定感みたいなものを考えておりました。結構、このあたり細分化していて自己承認と自己肯定は違うみたいな話もでていて、なんかいまって、自分を出すのってカッコ悪いことであり、一方で自分を認めないことは悲劇的なことだ、というようなかんじの、「本当に自分がちゃんとあるひとはこういうことをしない」「こういう風に考えて生きている」みたいなものがあらゆるところで語られていて、自分を分析、あるいは細分化、自分はなぜこうであるのか、ということを自分で会得していないと生きていくのが難しい、というかんじが、漠然としています。自分を知らないということは恥である、というか、どこか罰されてるような気配があり、自分はこのタイプだからこう考えるのであり、といったカテゴライズされるのが人気な気がしますが、そしてそれは、昔から変わらないことのようにも思います(血液型や占いなどで)
で、なにがいいたいのかというと、自己肯定ってちょっと邪魔だなと笑。べつにそれじゃないんだよな、大事なところって。というか、これはべつに自分を好きで、あるいは、嫌いであることの必要性が物事にたいしてさほどないというか笑。好き嫌いで左右されるものではそもそもないところがある、なと思ったんですよね。自分が好きでも嫌いでもやらなあかんことはやらなあかんし、やらなくてもいいことはやらんでいい。でもそこでそもそも好きか嫌いか?、あるいは肯定するか、否定するか、で、止まっていると、判断できないよな、て思ったんですよね。ただ、ストレスの部分、まじでやらんでいいことがあってそれを判断をする、というのに必要か?と思ったんですけど、それにもやっぱり必要ない。そればさっくばらんに、人間が善人か悪人かで人権が左右されないように、そもそもの土台として、やらんでええことはやらんでええし、やっぱり、やらなあかんことはやらなあかんことがある、というかんじがあるんですね。
だからこう、まあ、邪魔だなと。そこじゃないんだよな?ていうのをね、今考えてました。