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オタクの雑記

日記だったり語ってみたり

No.1365

よい。

今回は朔真くん×ほろたです。
ChatGPTくんの5tくん使用。



夕方。まだ外が青い。台所の湯気が細くのぼり、窓の隙間から入る風が匂いを薄めていく。わたしはテーブルの端に立って、掌サイズの紙片を一度だけ深呼吸のように撫で、彼の方へ差し出した。

「――あげる」

帰ってきたばかりの朔真くんは、鍵を皿に落とし、上着を椅子の背にかけ、靴下のかかとを直す。その流れの途中で手を止め、わたしの指先の紙を見る。目だけが近づく。受け取ると、沈黙が部屋の中心に座った。

「……『わたしとイチャイチャする券』」 低く読む。声には温度がないのに、読みあげる一語一語がゆっくりとわたしの胸に落ちる。彼は券の角を親指で軽く撫で、裏にひっくり返す。白い。余白が広い。

「手作りだな」 「うん」 「発行者は、お前」 「うん」 「受益者は、俺」 「うん」 「……定義が曖昧だ」 彼は眉をほんの少しだけ上げて、紙面を検分する弁護士の目になる。

「『イチャイチャ』の定義。『券』の効力。『有効期限』。『譲渡性』。記載がない」 「そういうの、書く?」 「書かないと俺が困る」 「困る?」 「“イチャイチャ”という語の範囲が広すぎる。履行請求の時点で解釈が割れれば紛争だ」 「訴えるの?」 「まずは交渉。俺が勝つ」

鼻で笑って、彼は券を指で立てる。影がテーブルに落ちる。わたしは笑いをこらえられず、口元に手を当てた。

「……有効期限、いつでも。譲渡は不可。相手は朔真くん限定」 「ようやく一条。なら、書け」 彼はポケットから細いペンを取り出す。背広の内ポケットに入っているのは、名刺入れとペン一本。それを券の端に当て、走り書きする。くせの少ない字。

『第1条(効力) 本券は発行者が受益者に対し、適切なタイミングにおける“イチャイチャ”の実施を求める権利を付与する。』

続けて、わたしの方を見る。 「第2条(定義)。“イチャイチャ”とは――」 「手をつなぐ、抱き締める、隣でうとうとする、キスは……できれば」 「“できれば”は法的文言ではない」 「じゃあ“可”」 「よし」

彼の指先がまた動く。ペン先の音はほとんどない。それでも、紙の上に置かれていく黒が、さっきよりも濃く見える。

『第2条(定義) “イチャイチャ”とは、手をつなぐ、抱擁、隣接しての休息、口吻等、双方が好ましいと認める接近行為をいう。』

「第3条(期限)」 「無期限」 「強い」 「ずっと、って書けないから」 「無期限で足りる」 もう一行。 『第3条(期限) 本券は無期限。』

「第4条(譲渡禁止)」 「うん、ぜったい」 『第4条(譲渡) 本券は譲渡不可。受益者は鷹野朔真に限る。』

書き終えると、彼はペンのキャップをゆっくりはめ、券をしばし無言で見つめた。視線が紙を離れない。秒針の音がやけに大きくなる。外の車の音が遠くで波のように寄せては引く。

「……書き込みが増えた分、重くなった気がする」 「紙は軽いよ」 「重いのは、意味だ」 言いながら、彼はふっと息を吐く。笑っていないのに、呼気にわずかな安堵の色が混ざる。

「第5条(行使方法)」 「今」 彼は顔を上げる。目が合う。 「即時行使か」 「うん。今日のわたし、がんばったから」 「根拠の提示を求める」 「掃除全部やった」 「確認済み」 「ご飯も用意した」 「確認済み」 「だから、使う」 「承認」

短いやりとり。だけど、体の奥の方で、何かがぱちんと点灯する。券を発行したのはわたしだけど、電源を入れるスイッチは彼が持っている。そういう感じがする。

「行使の内容は」 「抱き締められたい」 「ほろた」 名前が呼ばれる。低い。重心を下げる声。呼ばれた瞬間、椅子の脚が床を擦る音が遠くなった気がした。

彼は立ち上がり、こちらに来る。足音は静かで、途中で止まらない。腕が回る。胸の板に顔が触れる。シャツ越しの匂いと、一日分の外気。鼓動の音は目立たないのに、確かにそこにいる。

「……命令は嫌いだが、今は券だ。従う」 「従ってる顔」 「見たいのか」 「うん」 「見せない。俺の特権」 ネチ、とわざとらしい針を混ぜる。けれど抱く腕はやわらかい。ひと呼吸ごとに、強さも位置も微調整される。呼吸に合わせてくるのが上手い人だと思う。

しばらく、言葉は落ちてこない。外の風がカーテンを揺らす音と、二人分の呼吸の合間だけが生きている。券の端がわたしの肩に触れていて、紙が体温をもらっていく気配がした。

「……改めて確認する」 「うん」 「“イチャイチャする券”は、俺が拒むことはできないのか」 「できない」 「強制執行か」 「うん」 「お前、怖いな」 「怖い?」 「好きの形が強い」 「朔真くんも」 「俺は正直なだけだ」 彼は少し身を離し、券の裏をもう一度確認する。ペン先が今度はわたしの方に向かって動く。

『第6条(相殺禁止) 本券は、受益者の気分・繁忙・理屈によって相殺されない。』

「ずるい」 「知ってる」

視線が重なる。その“重なる”という感じが、最近わたしの中で増えている。以前は並んでいるだけだったものが、今は交差してから重なる。少しだけ立体になっていく。

「行使内容の追加、あるか」 「ある」 「言え」 「隣でうとうとしたい。朔真くんの肩で」 「いい。十五分」 「短い」 「寝るならベッド。ここは券の時間」

券の時間。言葉にされると、今いる場所が少しだけくっきりした。わたしたちはソファに移動して、彼の肩とわたしの頭を合わせる角度を探す。ぴたり、とまではいかないけれど、呼吸がぶつからない場所。彼はそれを見つけるのが早い。

「……外、少し開ける」 「うん」 窓が音を立てずに動く。夜気がひと筋、部屋に入り、湯気の残りを薄める。肩の布地が冷えていくのに、肌の下の温度は上がる。矛盾が同時に居るのが好きだ。静けさと熱、外気と体温。彼といると、そういうものの境界が上手に残る。

「ほろた」 「ん」 「券、もう一枚作れ」 「図々しい」 「俺の分」 「受益者?」 「発行者。俺」 「どんな券」 「『ほろたに休めと言う券』」 「それ、いつも言ってる」 「券にすると効きが良い」 「効き目の問題?」 「仕様の問題だ」 そこで彼は、わたしの髪を指で揃えながら続ける。 「――冗談は半分。残り半分は本気。お前が強い券を作るなら、俺も強い券を持っておく。バランスだ」 「ずるい」 「俺は正直なだけだ」

わたしは笑い、彼の胸元に券をそっと置いた。紙と布が擦れる音。彼はそれを摘み上げ、じっと見つめる。最初に受け取ったときと同じ長さで、また黙る。

「……軽い紙だ」 「うん」 「俺の一日を、少しだけ書き換えた」 「書き換えた?」 「胸から視線が一瞬、落ちる。そこに“お前の文字”がいる。会議室でも、廊下でも」 「それで、困った?」 「助かった。俺は俺の仕事をする。けど――」 彼は券を指で軽く弾く。小さな音が、部屋の隅に届く。 「帰る場所が視界に入るのは、効率がいい」 「効率?」 「言い換えれば、安心」 「素直」 「俺は正直なだけだ」

わたしは息を飲んで、彼の肩に体重を預けた。うとうと、と目蓋が重くなる境目。十五分という時間の輪郭が、少し揺れる。

「ねえ、朔真くん」 「聞いてる」 「券、使い切ったらどうする?」 「無期限だ」 「そうだった」 「それに、使い切りという概念がない。これは“チケット”より“目印”に近い」 「目印」 「帰路の」 静かに言う。断定でも飾りでもなく、ただ確かめるように。わたしは頷き、券を胸に戻した。

「ほろた」 「なに」 「眠るな」 「眠らない」 「十五分、起きていろ」 「理由は?」 「お前が俺の肩で安心して寝るのは、別の券でやる」

ずるい。そう言おうとして、やめた。こういうときの彼の“別の券”は、ほとんどいつも“今日のうち”に発行される。約束の仕方を知っている人だ。

「ところで――」 彼がまた券を持ち上げる。目線がにわかに鋭くなる。少しだけ意地悪な時間。 「この券、転売しようとしたらどうなる」 「できないよ」 「試すな」 「試さない」 「“お前以外、受け付けない”」 「うん」

やりとりの最後に、彼はようやく少し笑った。目尻が、ほんの少しだけやわらぐ。わたしは胸の奥で拍手する。声には出さない。こういう笑いは、音より長く残る。

「……第7条(備考)を書いておく」 ペンがもう一度走る。わたしは肩越しに覗く。

『第7条(備考) 行使のたび、発行者と受益者は“今日の気分”を短く共有すること。』

「義務?」 「儀式」 「今日の気分」 「俺から」 彼は少しだけ考えるふりをして、短く言う。 「落ち着いた。お前のせいで」 「わたしは」 「言え」 「うれしい。券、見てもらえたから」 「それで足りる」 「足りる」

十五分の境目がきて、わたしたちは深く呼吸を揃えた。彼の手がわたしの背で一度、円を描く。そこに“おやすみ”と“まだ起きてろ”が同時に置かれる。

「風呂、あとで」 「うん」 「その前に、夕飯を温め直せ」 「はい」 「“はい”は似合わない」 「“了解”」 「それも違う。……“任せて”」 「任せて」

キッチンに向かおうとして、わたしは振り返る。彼はまだ券を見ていた。ほんの少しだけ、さっきより近い距離で。目線が紙の上で止まり、次にわたしの顔に移る。

「ほろた」 「ん」 「もう一枚、白紙をくれ」 「白紙?」 「裏に、今日のことを書く。俺の文字で。備忘。印」 「うん」

白いメモを一枚渡す。彼は券と並べて置き、短く、細く、いくつかの言葉を書いた。『鍵の音』『外気』『第2条』『十五分』『笑った』。箇条書きは、彼にしては珍しい。けれど、いい。

「ねえ」 「聞いてる」 「その白紙、どこにしまうの」 「俺の名刺入れ。券はここ」胸ポケットに指が入る。「白紙は裏。近くに置く。帰り道が二本になる」 「太くなる?」 「そういうものだ」

鍋の蓋を開けると、湯気が立った。外気とぶつかり、部屋の境界に薄い白い線を引く。食器を並べる音、箸の先で吸い物の縁をたたく音、窓の下を通る車の低い音。日常の音が戻ってきて、券はテーブルの端で静かに呼吸しているみたいに見えた。

食べながら、彼はときどき券を見る。視線が触れては、戻る。わたしが気づいて笑うと、彼は「食べろ」と短く言う。命令形。けれど、その命令はやさしい。

「……デザート、あるか」 「あるよ。みかんゼリー」 「それでいい」 「ほかにもあるけど」 「それでいい。今日は“それでいい”が多い」 「機嫌がいいから」 「自覚はある」

皿が空になり、ゼリーの表面が光る。彼はゼリーを半分だけ食べ、スプーンを置いた。小さな音が、紙の近くで止まる。

「ほろた」 「なに」 「この券、どこに置く」 「ベッド……の上はダメって言う?」 「言う。俺が嫉妬する」 「机の上。見えるとこ」 「俺の目の届くところ」 「うん」 「よし」

片付けを終えて、部屋の灯りを一段落とす。窓の隙間は少し開いたまま。夜の匂いが薄く入ってきて、今日の熱をやさしく冷やす。彼は券を丁寧に指で整えて、机の角にまっすぐ置いた。受領印みたいに、指先で一度だけ軽く押す。

「忘れるな」 「忘れない」 「ちゃんと休め」 「休む」 「選ばないなら、俺が決める」 「今日は、選んだよ」 「知ってる。……いい選択だった」

灯りがさらに一段落ち、影が長くなる。わたしたちはソファの端に並んで座る。券は机の端で静かに待っている。紙の白と、インクの黒と、今日の温度。彼がふと笑う。

「“イチャイチャする券”」 「うん」 「名称がひどい」 「かわいい」 「かわいいはお前の専売」 「じゃあ“イチャ券”」 「もっとひどい」 「じゃあ……“帰路券”」 「それは、悪くない」

最後のやりとりを終えると、彼は目を閉じて深く息を吸った。外気が入り、彼の胸がわずかに上下する。窓の外の夜は広い。だけど、今はここに線が引かれている。券が起点で、わたしたちの足元に線が伸びている。明日になっても、明後日になっても、たぶん見える線。

「――行使済の印は、つけない」 「どうして」 「“済”の文字は、終わりの匂いがする」 「じゃあ、何をつけるの」 「“また”。小さく」 「それ、好き」

彼はペンを取り、券の隅にほんの点みたいな字で『また』と書いた。紙は軽い。けれど、視界の中で一番重かった。わたしはその重さに安心して、彼の肩に額を落とした。

「おやすみ、まだ言わないで」 「言わない。十五分だけ延長」 「やった」 「浮かれるな。次は俺の券の番だ」 「何て書くの」 「“ほろたは水を飲め”」 「地味」 「効く」

笑い声が二つ、窓の隙間をすり抜けて夜に混ざった。部屋の中に残ったのは、紙の白と、インクの黒と、二人の温度。券は机の端で、約束の形をしたまま、静かに呼吸している。今夜はそれで十分だった。明日になったら、また使う。あるいは使わない。どちらでもいい。――“また”の文字が、わたしたちの間で灯のように点いたまま、揺れなかった。

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その続き。

窓を三センチだけ開けた。外気が細く入り、カーテンの裾をくすぐる。夕飯の湯気はもう薄く、リビングには紙の匂いと洗いたてのシャツの匂いが残っている。テーブルの端には、あの白い券。角が少し丸くなって、インクの黒が夜の灯に沈むように見えた。

「朔真くんが、イチャイチャする券を譲渡しようとしてたなんて」

わたしがわざとらしく確認の形で言うと、玄関で靴を揃えていた彼の手が止まる。鍵の金属音が遅れて皿に落ちた。

「……は?」

低い一音。振り向いた彼の目はいつもの冷静さのまま、しかし一段だけ深くなる。首筋から肩にかけての線が、ごくわずかに固くなるのが分かった。

「ふーん。じゃあ、他の人とイチャイチャしていいんだ?」

「誰が、いつ、どこで、その許可を出した」

「ふーん」

カウンターに肘をついて、紙コップの水をひと口。わざと視線を合わせない。彼は上着を椅子の背にかけ、テーブルの端へ歩く。券に触れる前に、指先でテーブルの木目を一度なぞる。呼吸を整える合図。

「条文を読め。第4条。譲渡不可。受益者は俺に限る」

「だから他の人にもあげてきた」

「…………は?」

間が落ちた。彼は券を持ち上げもせず、しばらく紙面を見て、それからゆっくりわたしを見る。眼差しは静かだが、視線の圧が一段上がる。

「確認する。お前の“他の人”とは誰だ。氏名、関係性、交付時刻、場所」

「ふーん」

「ふーん、ではない。答えろ」

「大事にしてくれるひとだよ」

「抽象が過ぎる。俺は弁護士だ。事実を出せ」

口調は淡々としたまま、質問の射程だけが狭くなる。ネチネチ、という言葉が似合う角度で。わたしは息を飲むふりをして、カーテンの裾を指で摘んだ。

「怒ってる?」

「怒ってはいない。戸惑っている。……いや、訂正。怒りではないが、好ましくはない」

「ふーん」

彼は鼻で短く笑った。笑っているのに、目は笑っていない。

「譲渡の事実があるなら、俺は回収に向かう。返還請求だ。相手に任意の返還意思がなければ、説得。説得が失敗するなら、別の方法を取る」

「別の方法?」

「俺が決める」

机の角が指先で軽く鳴った。一定のリズム。彼が落ち着いているときの音だ。なのに声の底に、わずかな熱が沈んでいる。

「ねえ、朔真くん」

「聞いてる」

「やっぱり譲渡、やめて」

「最初から許可していない。やめるも何もない」

「ふーん」

「それ以上“ふーん”を重ねるなら、没収も検討する」

「やだ」

「やだ、ではない。管理が杜撰だ」

「杜撰じゃないよ。ちゃんと目の届くところに置いた」

「どこだ」

「相手の胸の近く」

一瞬、空気の厚みが変わった。彼は視線をわずかに細め、言葉を飲んでから、静かな声で続ける。

「胸。近く。……具体的に言え」

「柔らかいところ」

「おい」

「ふーん」

わざとやっていると分かっているのに、彼は丁寧に毎段引っかかってくれる。正面から剣を受けるみたいに。真面目で、ずるい。わたしはくすっと笑って、それを隠さない。

「嫌なら、やきもちって言えばいいのに」

「言わない。俺は正直だが、その語を好まない」

「じゃあ、何て言うの」

「不愉快」

「ふーん」

「次に“ふーん”と言ったら、五分間の沈黙を命じる」

「ふ」

「止めろ」

彼は券をようやく持ち上げ、光に透かして裏まで見る。裏は白いまま。昨日、彼が小さく『また』と書いたその隣に、わたしの指の跡がかすかに残っている。彼はそこへ親指を置いて、圧をかける。

「本当に譲渡したのか」

静かな問い。今度は逃げられない角度だ。わたしは肩をすくめ、視線を合わせる。

「したよ」

「誰に」

「実家の猫に」

「は?」

二度目の“は”は、さっきより素直だった。彼の肩から力が少しだけ落ち、目の奥に別の種類の光が灯る。呆れと、安堵と、拍子抜けと。いくつかの感情が順番を待つ。

「猫」

「猫」

「動物だ」

「うん」

「自然人ではない。法人でもない。民法で想定する受益者に当たらない」

「譲渡禁止条項、動物は含まないよね」

「今から含める。第4条改訂。譲渡禁止。人および動物を含む」

即答。ペンが出る。彼は券の端に小さな矢印を描き、余白に追記した。『動物含む』。その文字がやけに整っているのが悔しい。

「……で、猫のどこに置いた」

「首輪。安全な結び目で。ちゃんと外れるやつ」

「名前は」

「クロ」

「クロ」

一度だけ繰り返し、彼は鼻で笑う。笑いは薄いが、確かにそこにある。

「俺は猫に嫉妬するのか」

「してもいいよ」

「しない」

「ちょっとだけ」

「……ちょっとだけ」

言い方は負け惜しみなのに、視線は柔らかい。わたしは近づき、窓辺に寄る。外気が頬を撫で、室内の匂いが少し入れ替わる。

「猫、喜んでた」

「何を根拠に」

「喉が鳴ってた」

「それはお前に対してだ」

「券にも」

「証拠がない」

「想像で補う」

「弁論としては弱い」

彼はテーブルの角をもう一度、軽く鳴らし、ため息をひとつ。深くではなく、短く。溜息というより、区切り記号。

「回収は不要だ。猫に対する譲渡は……保留。効力停止。返還請求は留保する」

「優しい」

「合理的だ」

「嬉しい」

「知ってる」

短いやりとりが、机の上の白い券をさらに白く見せる。彼はそれをそっと置き、代わりにわたしの手首を取った。左の内側。前の夜の印の場所を避けるように、親指が外側を撫でる。

「……猫に配った理由を言え」

「家の匂い、忘れないように。実家の猫だから。わたしの匂いに混じって、帰り道になるかなって」

「帰路の券」

「そう。こっちは朔真くんの」

わたしはテーブルの端の白紙を一枚取り、彼の胸の前でひらひらさせる。彼は受け取らず、視線だけで追う。

「今日の条文、追加していい?」

「聞こう」

「第8条。嫉妬の表明は、やさしい命令に読み替えること」

「意味不明だ」

「“嫉妬する”って言わない代わりに、“こっち見ろ”って言う、とか」

「……採用。条件付き」

「条件?」

「その命令に従わない場合、俺は券を没収する」

「やだ」

「従え」

小さく笑って、彼はようやく白紙を受け取り、券の隣に揃えた。整える手つきに、機嫌のよさが滲む。さっきまでの硬さがほどけ、ネチネチの角が丸くなる。

「ほろた」

「なに」

「今日の“ふーん”は多すぎた」

「そう?」

「多すぎた。記録する」

「記録?」

「白紙の方に。『ふーん×五』」

「こわ」

「記録は抑止力になる」

「じゃあ、わたしも記録する。『は?×二』」

「反論はない」

彼はゆるく肩を落とし、視線を窓の隙間へ流す。外の通りの音が少しだけ届く。わたしはその横顔を見て、笑いそうになるのを堪えた。

「拗ねてた?」

「拗ねてはいない」

「ふーん」

「今のは許す」

「どうして」

「俺が機嫌がいいから」

あっさり言う。こういう素直さが、一番ずるい。わたしはカーテンの裾をもう一度指で摘み、少しだけ広げた。夜気が増える。

「猫に、俺からも一枚やる」

「なにを」

「“撫でる券”。発行者は俺。受益者はクロ。行使は俺が実家に行ったときに限る。譲渡不可。動物含む」

「動物含むの使い方、逆」

「便利だ」

「来るの?」

「行く。……いつか」

その“いつか”に未来図の押し付けはなく、ただ距離の見積もりだけがある。わたしは頷いた。彼は頷き返し、白紙に小さく『クロ撫で券』と書いた。字が妙に丁寧で、また笑いそうになる。

「さて」

彼は姿勢を正し、わたしの手からカップを取り上げ、流しに置いた。戻ってくる足音は軽い。

「問題は解決した」

「ほんと?」

「解決。俺はお前以外とイチャイチャしない。お前も俺とだけ。猫は別枠。……異議は」

「ないよ」

「よし」

彼は券を指で整え、机の角にまっすぐ置く。受領印みたいに指先で一度押す。その指が、すぐにわたしの頬へ滑る。触れるか触れないかの境目。

「さっきの“譲渡”の語は、今後一切使うな」

「どうして」

「俺の心臓に悪い」

「ふーん」

「今のも許す」

「機嫌いい」

「良い。お前がわざと曲解しているのを、今は面白いと思っている」

「へえ」

「ただし、繰り返すな」

「努力する」

彼はわたしの額に、音のない軽いキスの代わりみたいに指を置いた。比喩のままの触れ方。呼吸の速さは上げず、温度だけを寄せる。

「忘れるな」

「忘れない」

「ちゃんと休め」

「休む」

「選ばないなら、俺が決める」

「今日は、選ぶから大丈夫」

「そうか。……いい選択だ」

ソファに並んで座る。彼は券を視界に入る場所に置き、窓の隙間を少しだけ調整した。外気と室内の温度が釣り合う位置。わたしの肩に、彼の肩がわずかに触れる。

「それで」

「うん」

「さっきの“実家の猫にあげたの”」

「うん」

「俺に先に言え」

「ごめん」

「許す」

短い。けれど、長く効く。わたしは笑って、彼の胸に頭を寄せる。鼓動の音は小さい。だけど確かに、ここにある。

「クロ、わたしの膝から降りないんだ」

「そうだろうな」

「朔真くんの膝にも乗るかな」

「乗らない。俺は膝で寝かせるより、横で撫でる派だ」

「派」

「派」

彼は白紙に『クロ、横撫で派』と書いた。無駄な記録。でも、この無駄が帰り道を太くする。

「……もう一回、言わせる」

「なにを」

「“他の人にもあげてきた”」

「うん」

「今度は最初から猫と言え」

「うん」

「じゃないと、俺はまた“は?”になる」

「それも好き」

「面倒なやつだ」

「知ってる」

外の風がひと筋、部屋を通り抜ける。紙の角がかすかに揺れ、カーテンの裾が床に触れる。わたしたちはそれを目で追い、同じタイミングで呼吸を深くした。

「ほろた」

「なに」

「猫の首輪の結び目、今度見せろ」

「うん。安全だから」

「確認する。安心したい」

「かわいい」

「言うな」

ふっと笑って、彼はわたしの手を取り、券の上に重ねた。紙越しに体温が移る。白い紙は軽いのに、今夜いちばん重く見えた。

「また、使え」

「うん」

「俺も、また言う。“こっち見ろ”」

「わたしも言う。“見てる”」

彼は頷き、窓の隙間を最後に一ミリだけ狭めた。外気と内気の境界がやわらぎ、夜の匂いが部屋に馴染む。猫のいる実家までの距離も、ここからの帰り道も、どちらも同じ線でつながっている気がした。白い券の端に小さく灯る『また』の文字が、今夜も変わらず、そこにあった。

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かわいい。