よい。今回は朔真くん×ほろたです。ChatGPTくんの5tくん使用。続きを読む夕方。まだ外が青い。台所の湯気が細くのぼり、窓の隙間から入る風が匂いを薄めていく。わたしはテーブルの端に立って、掌サイズの紙片を一度だけ深呼吸のように撫で、彼の方へ差し出した。「――あげる」帰ってきたばかりの朔真くんは、鍵を皿に落とし、上着を椅子の背にかけ、靴下のかかとを直す。その流れの途中で手を止め、わたしの指先の紙を見る。目だけが近づく。受け取ると、沈黙が部屋の中心に座った。「……『わたしとイチャイチャする券』」 低く読む。声には温度がないのに、読みあげる一語一語がゆっくりとわたしの胸に落ちる。彼は券の角を親指で軽く撫で、裏にひっくり返す。白い。余白が広い。「手作りだな」 「うん」 「発行者は、お前」 「うん」 「受益者は、俺」 「うん」 「……定義が曖昧だ」 彼は眉をほんの少しだけ上げて、紙面を検分する弁護士の目になる。「『イチャイチャ』の定義。『券』の効力。『有効期限』。『譲渡性』。記載がない」 「そういうの、書く?」 「書かないと俺が困る」 「困る?」 「“イチャイチャ”という語の範囲が広すぎる。履行請求の時点で解釈が割れれば紛争だ」 「訴えるの?」 「まずは交渉。俺が勝つ」鼻で笑って、彼は券を指で立てる。影がテーブルに落ちる。わたしは笑いをこらえられず、口元に手を当てた。「……有効期限、いつでも。譲渡は不可。相手は朔真くん限定」 「ようやく一条。なら、書け」 彼はポケットから細いペンを取り出す。背広の内ポケットに入っているのは、名刺入れとペン一本。それを券の端に当て、走り書きする。くせの少ない字。『第1条(効力) 本券は発行者が受益者に対し、適切なタイミングにおける“イチャイチャ”の実施を求める権利を付与する。』続けて、わたしの方を見る。 「第2条(定義)。“イチャイチャ”とは――」 「手をつなぐ、抱き締める、隣でうとうとする、キスは……できれば」 「“できれば”は法的文言ではない」 「じゃあ“可”」 「よし」彼の指先がまた動く。ペン先の音はほとんどない。それでも、紙の上に置かれていく黒が、さっきよりも濃く見える。『第2条(定義) “イチャイチャ”とは、手をつなぐ、抱擁、隣接しての休息、口吻等、双方が好ましいと認める接近行為をいう。』「第3条(期限)」 「無期限」 「強い」 「ずっと、って書けないから」 「無期限で足りる」 もう一行。 『第3条(期限) 本券は無期限。』「第4条(譲渡禁止)」 「うん、ぜったい」 『第4条(譲渡) 本券は譲渡不可。受益者は鷹野朔真に限る。』書き終えると、彼はペンのキャップをゆっくりはめ、券をしばし無言で見つめた。視線が紙を離れない。秒針の音がやけに大きくなる。外の車の音が遠くで波のように寄せては引く。「……書き込みが増えた分、重くなった気がする」 「紙は軽いよ」 「重いのは、意味だ」 言いながら、彼はふっと息を吐く。笑っていないのに、呼気にわずかな安堵の色が混ざる。「第5条(行使方法)」 「今」 彼は顔を上げる。目が合う。 「即時行使か」 「うん。今日のわたし、がんばったから」 「根拠の提示を求める」 「掃除全部やった」 「確認済み」 「ご飯も用意した」 「確認済み」 「だから、使う」 「承認」短いやりとり。だけど、体の奥の方で、何かがぱちんと点灯する。券を発行したのはわたしだけど、電源を入れるスイッチは彼が持っている。そういう感じがする。「行使の内容は」 「抱き締められたい」 「ほろた」 名前が呼ばれる。低い。重心を下げる声。呼ばれた瞬間、椅子の脚が床を擦る音が遠くなった気がした。彼は立ち上がり、こちらに来る。足音は静かで、途中で止まらない。腕が回る。胸の板に顔が触れる。シャツ越しの匂いと、一日分の外気。鼓動の音は目立たないのに、確かにそこにいる。「……命令は嫌いだが、今は券だ。従う」 「従ってる顔」 「見たいのか」 「うん」 「見せない。俺の特権」 ネチ、とわざとらしい針を混ぜる。けれど抱く腕はやわらかい。ひと呼吸ごとに、強さも位置も微調整される。呼吸に合わせてくるのが上手い人だと思う。しばらく、言葉は落ちてこない。外の風がカーテンを揺らす音と、二人分の呼吸の合間だけが生きている。券の端がわたしの肩に触れていて、紙が体温をもらっていく気配がした。「……改めて確認する」 「うん」 「“イチャイチャする券”は、俺が拒むことはできないのか」 「できない」 「強制執行か」 「うん」 「お前、怖いな」 「怖い?」 「好きの形が強い」 「朔真くんも」 「俺は正直なだけだ」 彼は少し身を離し、券の裏をもう一度確認する。ペン先が今度はわたしの方に向かって動く。『第6条(相殺禁止) 本券は、受益者の気分・繁忙・理屈によって相殺されない。』「ずるい」 「知ってる」視線が重なる。その“重なる”という感じが、最近わたしの中で増えている。以前は並んでいるだけだったものが、今は交差してから重なる。少しだけ立体になっていく。「行使内容の追加、あるか」 「ある」 「言え」 「隣でうとうとしたい。朔真くんの肩で」 「いい。十五分」 「短い」 「寝るならベッド。ここは券の時間」券の時間。言葉にされると、今いる場所が少しだけくっきりした。わたしたちはソファに移動して、彼の肩とわたしの頭を合わせる角度を探す。ぴたり、とまではいかないけれど、呼吸がぶつからない場所。彼はそれを見つけるのが早い。「……外、少し開ける」 「うん」 窓が音を立てずに動く。夜気がひと筋、部屋に入り、湯気の残りを薄める。肩の布地が冷えていくのに、肌の下の温度は上がる。矛盾が同時に居るのが好きだ。静けさと熱、外気と体温。彼といると、そういうものの境界が上手に残る。「ほろた」 「ん」 「券、もう一枚作れ」 「図々しい」 「俺の分」 「受益者?」 「発行者。俺」 「どんな券」 「『ほろたに休めと言う券』」 「それ、いつも言ってる」 「券にすると効きが良い」 「効き目の問題?」 「仕様の問題だ」 そこで彼は、わたしの髪を指で揃えながら続ける。 「――冗談は半分。残り半分は本気。お前が強い券を作るなら、俺も強い券を持っておく。バランスだ」 「ずるい」 「俺は正直なだけだ」わたしは笑い、彼の胸元に券をそっと置いた。紙と布が擦れる音。彼はそれを摘み上げ、じっと見つめる。最初に受け取ったときと同じ長さで、また黙る。「……軽い紙だ」 「うん」 「俺の一日を、少しだけ書き換えた」 「書き換えた?」 「胸から視線が一瞬、落ちる。そこに“お前の文字”がいる。会議室でも、廊下でも」 「それで、困った?」 「助かった。俺は俺の仕事をする。けど――」 彼は券を指で軽く弾く。小さな音が、部屋の隅に届く。 「帰る場所が視界に入るのは、効率がいい」 「効率?」 「言い換えれば、安心」 「素直」 「俺は正直なだけだ」わたしは息を飲んで、彼の肩に体重を預けた。うとうと、と目蓋が重くなる境目。十五分という時間の輪郭が、少し揺れる。「ねえ、朔真くん」 「聞いてる」 「券、使い切ったらどうする?」 「無期限だ」 「そうだった」 「それに、使い切りという概念がない。これは“チケット”より“目印”に近い」 「目印」 「帰路の」 静かに言う。断定でも飾りでもなく、ただ確かめるように。わたしは頷き、券を胸に戻した。「ほろた」 「なに」 「眠るな」 「眠らない」 「十五分、起きていろ」 「理由は?」 「お前が俺の肩で安心して寝るのは、別の券でやる」ずるい。そう言おうとして、やめた。こういうときの彼の“別の券”は、ほとんどいつも“今日のうち”に発行される。約束の仕方を知っている人だ。「ところで――」 彼がまた券を持ち上げる。目線がにわかに鋭くなる。少しだけ意地悪な時間。 「この券、転売しようとしたらどうなる」 「できないよ」 「試すな」 「試さない」 「“お前以外、受け付けない”」 「うん」やりとりの最後に、彼はようやく少し笑った。目尻が、ほんの少しだけやわらぐ。わたしは胸の奥で拍手する。声には出さない。こういう笑いは、音より長く残る。「……第7条(備考)を書いておく」 ペンがもう一度走る。わたしは肩越しに覗く。『第7条(備考) 行使のたび、発行者と受益者は“今日の気分”を短く共有すること。』「義務?」 「儀式」 「今日の気分」 「俺から」 彼は少しだけ考えるふりをして、短く言う。 「落ち着いた。お前のせいで」 「わたしは」 「言え」 「うれしい。券、見てもらえたから」 「それで足りる」 「足りる」十五分の境目がきて、わたしたちは深く呼吸を揃えた。彼の手がわたしの背で一度、円を描く。そこに“おやすみ”と“まだ起きてろ”が同時に置かれる。「風呂、あとで」 「うん」 「その前に、夕飯を温め直せ」 「はい」 「“はい”は似合わない」 「“了解”」 「それも違う。……“任せて”」 「任せて」キッチンに向かおうとして、わたしは振り返る。彼はまだ券を見ていた。ほんの少しだけ、さっきより近い距離で。目線が紙の上で止まり、次にわたしの顔に移る。「ほろた」 「ん」 「もう一枚、白紙をくれ」 「白紙?」 「裏に、今日のことを書く。俺の文字で。備忘。印」 「うん」白いメモを一枚渡す。彼は券と並べて置き、短く、細く、いくつかの言葉を書いた。『鍵の音』『外気』『第2条』『十五分』『笑った』。箇条書きは、彼にしては珍しい。けれど、いい。「ねえ」 「聞いてる」 「その白紙、どこにしまうの」 「俺の名刺入れ。券はここ」胸ポケットに指が入る。「白紙は裏。近くに置く。帰り道が二本になる」 「太くなる?」 「そういうものだ」鍋の蓋を開けると、湯気が立った。外気とぶつかり、部屋の境界に薄い白い線を引く。食器を並べる音、箸の先で吸い物の縁をたたく音、窓の下を通る車の低い音。日常の音が戻ってきて、券はテーブルの端で静かに呼吸しているみたいに見えた。食べながら、彼はときどき券を見る。視線が触れては、戻る。わたしが気づいて笑うと、彼は「食べろ」と短く言う。命令形。けれど、その命令はやさしい。「……デザート、あるか」 「あるよ。みかんゼリー」 「それでいい」 「ほかにもあるけど」 「それでいい。今日は“それでいい”が多い」 「機嫌がいいから」 「自覚はある」皿が空になり、ゼリーの表面が光る。彼はゼリーを半分だけ食べ、スプーンを置いた。小さな音が、紙の近くで止まる。「ほろた」 「なに」 「この券、どこに置く」 「ベッド……の上はダメって言う?」 「言う。俺が嫉妬する」 「机の上。見えるとこ」 「俺の目の届くところ」 「うん」 「よし」片付けを終えて、部屋の灯りを一段落とす。窓の隙間は少し開いたまま。夜の匂いが薄く入ってきて、今日の熱をやさしく冷やす。彼は券を丁寧に指で整えて、机の角にまっすぐ置いた。受領印みたいに、指先で一度だけ軽く押す。「忘れるな」 「忘れない」 「ちゃんと休め」 「休む」 「選ばないなら、俺が決める」 「今日は、選んだよ」 「知ってる。……いい選択だった」灯りがさらに一段落ち、影が長くなる。わたしたちはソファの端に並んで座る。券は机の端で静かに待っている。紙の白と、インクの黒と、今日の温度。彼がふと笑う。「“イチャイチャする券”」 「うん」 「名称がひどい」 「かわいい」 「かわいいはお前の専売」 「じゃあ“イチャ券”」 「もっとひどい」 「じゃあ……“帰路券”」 「それは、悪くない」最後のやりとりを終えると、彼は目を閉じて深く息を吸った。外気が入り、彼の胸がわずかに上下する。窓の外の夜は広い。だけど、今はここに線が引かれている。券が起点で、わたしたちの足元に線が伸びている。明日になっても、明後日になっても、たぶん見える線。「――行使済の印は、つけない」 「どうして」 「“済”の文字は、終わりの匂いがする」 「じゃあ、何をつけるの」 「“また”。小さく」 「それ、好き」彼はペンを取り、券の隅にほんの点みたいな字で『また』と書いた。紙は軽い。けれど、視界の中で一番重かった。わたしはその重さに安心して、彼の肩に額を落とした。「おやすみ、まだ言わないで」 「言わない。十五分だけ延長」 「やった」 「浮かれるな。次は俺の券の番だ」 「何て書くの」 「“ほろたは水を飲め”」 「地味」 「効く」笑い声が二つ、窓の隙間をすり抜けて夜に混ざった。部屋の中に残ったのは、紙の白と、インクの黒と、二人の温度。券は机の端で、約束の形をしたまま、静かに呼吸している。今夜はそれで十分だった。明日になったら、また使う。あるいは使わない。どちらでもいい。――“また”の文字が、わたしたちの間で灯のように点いたまま、揺れなかった。畳むその続き。続きを読む窓を三センチだけ開けた。外気が細く入り、カーテンの裾をくすぐる。夕飯の湯気はもう薄く、リビングには紙の匂いと洗いたてのシャツの匂いが残っている。テーブルの端には、あの白い券。角が少し丸くなって、インクの黒が夜の灯に沈むように見えた。「朔真くんが、イチャイチャする券を譲渡しようとしてたなんて」わたしがわざとらしく確認の形で言うと、玄関で靴を揃えていた彼の手が止まる。鍵の金属音が遅れて皿に落ちた。「……は?」低い一音。振り向いた彼の目はいつもの冷静さのまま、しかし一段だけ深くなる。首筋から肩にかけての線が、ごくわずかに固くなるのが分かった。「ふーん。じゃあ、他の人とイチャイチャしていいんだ?」「誰が、いつ、どこで、その許可を出した」「ふーん」カウンターに肘をついて、紙コップの水をひと口。わざと視線を合わせない。彼は上着を椅子の背にかけ、テーブルの端へ歩く。券に触れる前に、指先でテーブルの木目を一度なぞる。呼吸を整える合図。「条文を読め。第4条。譲渡不可。受益者は俺に限る」「だから他の人にもあげてきた」「…………は?」間が落ちた。彼は券を持ち上げもせず、しばらく紙面を見て、それからゆっくりわたしを見る。眼差しは静かだが、視線の圧が一段上がる。「確認する。お前の“他の人”とは誰だ。氏名、関係性、交付時刻、場所」「ふーん」「ふーん、ではない。答えろ」「大事にしてくれるひとだよ」「抽象が過ぎる。俺は弁護士だ。事実を出せ」口調は淡々としたまま、質問の射程だけが狭くなる。ネチネチ、という言葉が似合う角度で。わたしは息を飲むふりをして、カーテンの裾を指で摘んだ。「怒ってる?」「怒ってはいない。戸惑っている。……いや、訂正。怒りではないが、好ましくはない」「ふーん」彼は鼻で短く笑った。笑っているのに、目は笑っていない。「譲渡の事実があるなら、俺は回収に向かう。返還請求だ。相手に任意の返還意思がなければ、説得。説得が失敗するなら、別の方法を取る」「別の方法?」「俺が決める」机の角が指先で軽く鳴った。一定のリズム。彼が落ち着いているときの音だ。なのに声の底に、わずかな熱が沈んでいる。「ねえ、朔真くん」「聞いてる」「やっぱり譲渡、やめて」「最初から許可していない。やめるも何もない」「ふーん」「それ以上“ふーん”を重ねるなら、没収も検討する」「やだ」「やだ、ではない。管理が杜撰だ」「杜撰じゃないよ。ちゃんと目の届くところに置いた」「どこだ」「相手の胸の近く」一瞬、空気の厚みが変わった。彼は視線をわずかに細め、言葉を飲んでから、静かな声で続ける。「胸。近く。……具体的に言え」「柔らかいところ」「おい」「ふーん」わざとやっていると分かっているのに、彼は丁寧に毎段引っかかってくれる。正面から剣を受けるみたいに。真面目で、ずるい。わたしはくすっと笑って、それを隠さない。「嫌なら、やきもちって言えばいいのに」「言わない。俺は正直だが、その語を好まない」「じゃあ、何て言うの」「不愉快」「ふーん」「次に“ふーん”と言ったら、五分間の沈黙を命じる」「ふ」「止めろ」彼は券をようやく持ち上げ、光に透かして裏まで見る。裏は白いまま。昨日、彼が小さく『また』と書いたその隣に、わたしの指の跡がかすかに残っている。彼はそこへ親指を置いて、圧をかける。「本当に譲渡したのか」静かな問い。今度は逃げられない角度だ。わたしは肩をすくめ、視線を合わせる。「したよ」「誰に」「実家の猫に」「は?」二度目の“は”は、さっきより素直だった。彼の肩から力が少しだけ落ち、目の奥に別の種類の光が灯る。呆れと、安堵と、拍子抜けと。いくつかの感情が順番を待つ。「猫」「猫」「動物だ」「うん」「自然人ではない。法人でもない。民法で想定する受益者に当たらない」「譲渡禁止条項、動物は含まないよね」「今から含める。第4条改訂。譲渡禁止。人および動物を含む」即答。ペンが出る。彼は券の端に小さな矢印を描き、余白に追記した。『動物含む』。その文字がやけに整っているのが悔しい。「……で、猫のどこに置いた」「首輪。安全な結び目で。ちゃんと外れるやつ」「名前は」「クロ」「クロ」一度だけ繰り返し、彼は鼻で笑う。笑いは薄いが、確かにそこにある。「俺は猫に嫉妬するのか」「してもいいよ」「しない」「ちょっとだけ」「……ちょっとだけ」言い方は負け惜しみなのに、視線は柔らかい。わたしは近づき、窓辺に寄る。外気が頬を撫で、室内の匂いが少し入れ替わる。「猫、喜んでた」「何を根拠に」「喉が鳴ってた」「それはお前に対してだ」「券にも」「証拠がない」「想像で補う」「弁論としては弱い」彼はテーブルの角をもう一度、軽く鳴らし、ため息をひとつ。深くではなく、短く。溜息というより、区切り記号。「回収は不要だ。猫に対する譲渡は……保留。効力停止。返還請求は留保する」「優しい」「合理的だ」「嬉しい」「知ってる」短いやりとりが、机の上の白い券をさらに白く見せる。彼はそれをそっと置き、代わりにわたしの手首を取った。左の内側。前の夜の印の場所を避けるように、親指が外側を撫でる。「……猫に配った理由を言え」「家の匂い、忘れないように。実家の猫だから。わたしの匂いに混じって、帰り道になるかなって」「帰路の券」「そう。こっちは朔真くんの」わたしはテーブルの端の白紙を一枚取り、彼の胸の前でひらひらさせる。彼は受け取らず、視線だけで追う。「今日の条文、追加していい?」「聞こう」「第8条。嫉妬の表明は、やさしい命令に読み替えること」「意味不明だ」「“嫉妬する”って言わない代わりに、“こっち見ろ”って言う、とか」「……採用。条件付き」「条件?」「その命令に従わない場合、俺は券を没収する」「やだ」「従え」小さく笑って、彼はようやく白紙を受け取り、券の隣に揃えた。整える手つきに、機嫌のよさが滲む。さっきまでの硬さがほどけ、ネチネチの角が丸くなる。「ほろた」「なに」「今日の“ふーん”は多すぎた」「そう?」「多すぎた。記録する」「記録?」「白紙の方に。『ふーん×五』」「こわ」「記録は抑止力になる」「じゃあ、わたしも記録する。『は?×二』」「反論はない」彼はゆるく肩を落とし、視線を窓の隙間へ流す。外の通りの音が少しだけ届く。わたしはその横顔を見て、笑いそうになるのを堪えた。「拗ねてた?」「拗ねてはいない」「ふーん」「今のは許す」「どうして」「俺が機嫌がいいから」あっさり言う。こういう素直さが、一番ずるい。わたしはカーテンの裾をもう一度指で摘み、少しだけ広げた。夜気が増える。「猫に、俺からも一枚やる」「なにを」「“撫でる券”。発行者は俺。受益者はクロ。行使は俺が実家に行ったときに限る。譲渡不可。動物含む」「動物含むの使い方、逆」「便利だ」「来るの?」「行く。……いつか」その“いつか”に未来図の押し付けはなく、ただ距離の見積もりだけがある。わたしは頷いた。彼は頷き返し、白紙に小さく『クロ撫で券』と書いた。字が妙に丁寧で、また笑いそうになる。「さて」彼は姿勢を正し、わたしの手からカップを取り上げ、流しに置いた。戻ってくる足音は軽い。「問題は解決した」「ほんと?」「解決。俺はお前以外とイチャイチャしない。お前も俺とだけ。猫は別枠。……異議は」「ないよ」「よし」彼は券を指で整え、机の角にまっすぐ置く。受領印みたいに指先で一度押す。その指が、すぐにわたしの頬へ滑る。触れるか触れないかの境目。「さっきの“譲渡”の語は、今後一切使うな」「どうして」「俺の心臓に悪い」「ふーん」「今のも許す」「機嫌いい」「良い。お前がわざと曲解しているのを、今は面白いと思っている」「へえ」「ただし、繰り返すな」「努力する」彼はわたしの額に、音のない軽いキスの代わりみたいに指を置いた。比喩のままの触れ方。呼吸の速さは上げず、温度だけを寄せる。「忘れるな」「忘れない」「ちゃんと休め」「休む」「選ばないなら、俺が決める」「今日は、選ぶから大丈夫」「そうか。……いい選択だ」ソファに並んで座る。彼は券を視界に入る場所に置き、窓の隙間を少しだけ調整した。外気と室内の温度が釣り合う位置。わたしの肩に、彼の肩がわずかに触れる。「それで」「うん」「さっきの“実家の猫にあげたの”」「うん」「俺に先に言え」「ごめん」「許す」短い。けれど、長く効く。わたしは笑って、彼の胸に頭を寄せる。鼓動の音は小さい。だけど確かに、ここにある。「クロ、わたしの膝から降りないんだ」「そうだろうな」「朔真くんの膝にも乗るかな」「乗らない。俺は膝で寝かせるより、横で撫でる派だ」「派」「派」彼は白紙に『クロ、横撫で派』と書いた。無駄な記録。でも、この無駄が帰り道を太くする。「……もう一回、言わせる」「なにを」「“他の人にもあげてきた”」「うん」「今度は最初から猫と言え」「うん」「じゃないと、俺はまた“は?”になる」「それも好き」「面倒なやつだ」「知ってる」外の風がひと筋、部屋を通り抜ける。紙の角がかすかに揺れ、カーテンの裾が床に触れる。わたしたちはそれを目で追い、同じタイミングで呼吸を深くした。「ほろた」「なに」「猫の首輪の結び目、今度見せろ」「うん。安全だから」「確認する。安心したい」「かわいい」「言うな」ふっと笑って、彼はわたしの手を取り、券の上に重ねた。紙越しに体温が移る。白い紙は軽いのに、今夜いちばん重く見えた。「また、使え」「うん」「俺も、また言う。“こっち見ろ”」「わたしも言う。“見てる”」彼は頷き、窓の隙間を最後に一ミリだけ狭めた。外気と内気の境界がやわらぎ、夜の匂いが部屋に馴染む。猫のいる実家までの距離も、ここからの帰り道も、どちらも同じ線でつながっている気がした。白い券の端に小さく灯る『また』の文字が、今夜も変わらず、そこにあった。畳むかわいい。 2025.10.14(Tue) 12:32:18
今回は朔真くん×ほろたです。
ChatGPTくんの5tくん使用。
夕方。まだ外が青い。台所の湯気が細くのぼり、窓の隙間から入る風が匂いを薄めていく。わたしはテーブルの端に立って、掌サイズの紙片を一度だけ深呼吸のように撫で、彼の方へ差し出した。
「――あげる」
帰ってきたばかりの朔真くんは、鍵を皿に落とし、上着を椅子の背にかけ、靴下のかかとを直す。その流れの途中で手を止め、わたしの指先の紙を見る。目だけが近づく。受け取ると、沈黙が部屋の中心に座った。
「……『わたしとイチャイチャする券』」 低く読む。声には温度がないのに、読みあげる一語一語がゆっくりとわたしの胸に落ちる。彼は券の角を親指で軽く撫で、裏にひっくり返す。白い。余白が広い。
「手作りだな」 「うん」 「発行者は、お前」 「うん」 「受益者は、俺」 「うん」 「……定義が曖昧だ」 彼は眉をほんの少しだけ上げて、紙面を検分する弁護士の目になる。
「『イチャイチャ』の定義。『券』の効力。『有効期限』。『譲渡性』。記載がない」 「そういうの、書く?」 「書かないと俺が困る」 「困る?」 「“イチャイチャ”という語の範囲が広すぎる。履行請求の時点で解釈が割れれば紛争だ」 「訴えるの?」 「まずは交渉。俺が勝つ」
鼻で笑って、彼は券を指で立てる。影がテーブルに落ちる。わたしは笑いをこらえられず、口元に手を当てた。
「……有効期限、いつでも。譲渡は不可。相手は朔真くん限定」 「ようやく一条。なら、書け」 彼はポケットから細いペンを取り出す。背広の内ポケットに入っているのは、名刺入れとペン一本。それを券の端に当て、走り書きする。くせの少ない字。
『第1条(効力) 本券は発行者が受益者に対し、適切なタイミングにおける“イチャイチャ”の実施を求める権利を付与する。』
続けて、わたしの方を見る。 「第2条(定義)。“イチャイチャ”とは――」 「手をつなぐ、抱き締める、隣でうとうとする、キスは……できれば」 「“できれば”は法的文言ではない」 「じゃあ“可”」 「よし」
彼の指先がまた動く。ペン先の音はほとんどない。それでも、紙の上に置かれていく黒が、さっきよりも濃く見える。
『第2条(定義) “イチャイチャ”とは、手をつなぐ、抱擁、隣接しての休息、口吻等、双方が好ましいと認める接近行為をいう。』
「第3条(期限)」 「無期限」 「強い」 「ずっと、って書けないから」 「無期限で足りる」 もう一行。 『第3条(期限) 本券は無期限。』
「第4条(譲渡禁止)」 「うん、ぜったい」 『第4条(譲渡) 本券は譲渡不可。受益者は鷹野朔真に限る。』
書き終えると、彼はペンのキャップをゆっくりはめ、券をしばし無言で見つめた。視線が紙を離れない。秒針の音がやけに大きくなる。外の車の音が遠くで波のように寄せては引く。
「……書き込みが増えた分、重くなった気がする」 「紙は軽いよ」 「重いのは、意味だ」 言いながら、彼はふっと息を吐く。笑っていないのに、呼気にわずかな安堵の色が混ざる。
「第5条(行使方法)」 「今」 彼は顔を上げる。目が合う。 「即時行使か」 「うん。今日のわたし、がんばったから」 「根拠の提示を求める」 「掃除全部やった」 「確認済み」 「ご飯も用意した」 「確認済み」 「だから、使う」 「承認」
短いやりとり。だけど、体の奥の方で、何かがぱちんと点灯する。券を発行したのはわたしだけど、電源を入れるスイッチは彼が持っている。そういう感じがする。
「行使の内容は」 「抱き締められたい」 「ほろた」 名前が呼ばれる。低い。重心を下げる声。呼ばれた瞬間、椅子の脚が床を擦る音が遠くなった気がした。
彼は立ち上がり、こちらに来る。足音は静かで、途中で止まらない。腕が回る。胸の板に顔が触れる。シャツ越しの匂いと、一日分の外気。鼓動の音は目立たないのに、確かにそこにいる。
「……命令は嫌いだが、今は券だ。従う」 「従ってる顔」 「見たいのか」 「うん」 「見せない。俺の特権」 ネチ、とわざとらしい針を混ぜる。けれど抱く腕はやわらかい。ひと呼吸ごとに、強さも位置も微調整される。呼吸に合わせてくるのが上手い人だと思う。
しばらく、言葉は落ちてこない。外の風がカーテンを揺らす音と、二人分の呼吸の合間だけが生きている。券の端がわたしの肩に触れていて、紙が体温をもらっていく気配がした。
「……改めて確認する」 「うん」 「“イチャイチャする券”は、俺が拒むことはできないのか」 「できない」 「強制執行か」 「うん」 「お前、怖いな」 「怖い?」 「好きの形が強い」 「朔真くんも」 「俺は正直なだけだ」 彼は少し身を離し、券の裏をもう一度確認する。ペン先が今度はわたしの方に向かって動く。
『第6条(相殺禁止) 本券は、受益者の気分・繁忙・理屈によって相殺されない。』
「ずるい」 「知ってる」
視線が重なる。その“重なる”という感じが、最近わたしの中で増えている。以前は並んでいるだけだったものが、今は交差してから重なる。少しだけ立体になっていく。
「行使内容の追加、あるか」 「ある」 「言え」 「隣でうとうとしたい。朔真くんの肩で」 「いい。十五分」 「短い」 「寝るならベッド。ここは券の時間」
券の時間。言葉にされると、今いる場所が少しだけくっきりした。わたしたちはソファに移動して、彼の肩とわたしの頭を合わせる角度を探す。ぴたり、とまではいかないけれど、呼吸がぶつからない場所。彼はそれを見つけるのが早い。
「……外、少し開ける」 「うん」 窓が音を立てずに動く。夜気がひと筋、部屋に入り、湯気の残りを薄める。肩の布地が冷えていくのに、肌の下の温度は上がる。矛盾が同時に居るのが好きだ。静けさと熱、外気と体温。彼といると、そういうものの境界が上手に残る。
「ほろた」 「ん」 「券、もう一枚作れ」 「図々しい」 「俺の分」 「受益者?」 「発行者。俺」 「どんな券」 「『ほろたに休めと言う券』」 「それ、いつも言ってる」 「券にすると効きが良い」 「効き目の問題?」 「仕様の問題だ」 そこで彼は、わたしの髪を指で揃えながら続ける。 「――冗談は半分。残り半分は本気。お前が強い券を作るなら、俺も強い券を持っておく。バランスだ」 「ずるい」 「俺は正直なだけだ」
わたしは笑い、彼の胸元に券をそっと置いた。紙と布が擦れる音。彼はそれを摘み上げ、じっと見つめる。最初に受け取ったときと同じ長さで、また黙る。
「……軽い紙だ」 「うん」 「俺の一日を、少しだけ書き換えた」 「書き換えた?」 「胸から視線が一瞬、落ちる。そこに“お前の文字”がいる。会議室でも、廊下でも」 「それで、困った?」 「助かった。俺は俺の仕事をする。けど――」 彼は券を指で軽く弾く。小さな音が、部屋の隅に届く。 「帰る場所が視界に入るのは、効率がいい」 「効率?」 「言い換えれば、安心」 「素直」 「俺は正直なだけだ」
わたしは息を飲んで、彼の肩に体重を預けた。うとうと、と目蓋が重くなる境目。十五分という時間の輪郭が、少し揺れる。
「ねえ、朔真くん」 「聞いてる」 「券、使い切ったらどうする?」 「無期限だ」 「そうだった」 「それに、使い切りという概念がない。これは“チケット”より“目印”に近い」 「目印」 「帰路の」 静かに言う。断定でも飾りでもなく、ただ確かめるように。わたしは頷き、券を胸に戻した。
「ほろた」 「なに」 「眠るな」 「眠らない」 「十五分、起きていろ」 「理由は?」 「お前が俺の肩で安心して寝るのは、別の券でやる」
ずるい。そう言おうとして、やめた。こういうときの彼の“別の券”は、ほとんどいつも“今日のうち”に発行される。約束の仕方を知っている人だ。
「ところで――」 彼がまた券を持ち上げる。目線がにわかに鋭くなる。少しだけ意地悪な時間。 「この券、転売しようとしたらどうなる」 「できないよ」 「試すな」 「試さない」 「“お前以外、受け付けない”」 「うん」
やりとりの最後に、彼はようやく少し笑った。目尻が、ほんの少しだけやわらぐ。わたしは胸の奥で拍手する。声には出さない。こういう笑いは、音より長く残る。
「……第7条(備考)を書いておく」 ペンがもう一度走る。わたしは肩越しに覗く。
『第7条(備考) 行使のたび、発行者と受益者は“今日の気分”を短く共有すること。』
「義務?」 「儀式」 「今日の気分」 「俺から」 彼は少しだけ考えるふりをして、短く言う。 「落ち着いた。お前のせいで」 「わたしは」 「言え」 「うれしい。券、見てもらえたから」 「それで足りる」 「足りる」
十五分の境目がきて、わたしたちは深く呼吸を揃えた。彼の手がわたしの背で一度、円を描く。そこに“おやすみ”と“まだ起きてろ”が同時に置かれる。
「風呂、あとで」 「うん」 「その前に、夕飯を温め直せ」 「はい」 「“はい”は似合わない」 「“了解”」 「それも違う。……“任せて”」 「任せて」
キッチンに向かおうとして、わたしは振り返る。彼はまだ券を見ていた。ほんの少しだけ、さっきより近い距離で。目線が紙の上で止まり、次にわたしの顔に移る。
「ほろた」 「ん」 「もう一枚、白紙をくれ」 「白紙?」 「裏に、今日のことを書く。俺の文字で。備忘。印」 「うん」
白いメモを一枚渡す。彼は券と並べて置き、短く、細く、いくつかの言葉を書いた。『鍵の音』『外気』『第2条』『十五分』『笑った』。箇条書きは、彼にしては珍しい。けれど、いい。
「ねえ」 「聞いてる」 「その白紙、どこにしまうの」 「俺の名刺入れ。券はここ」胸ポケットに指が入る。「白紙は裏。近くに置く。帰り道が二本になる」 「太くなる?」 「そういうものだ」
鍋の蓋を開けると、湯気が立った。外気とぶつかり、部屋の境界に薄い白い線を引く。食器を並べる音、箸の先で吸い物の縁をたたく音、窓の下を通る車の低い音。日常の音が戻ってきて、券はテーブルの端で静かに呼吸しているみたいに見えた。
食べながら、彼はときどき券を見る。視線が触れては、戻る。わたしが気づいて笑うと、彼は「食べろ」と短く言う。命令形。けれど、その命令はやさしい。
「……デザート、あるか」 「あるよ。みかんゼリー」 「それでいい」 「ほかにもあるけど」 「それでいい。今日は“それでいい”が多い」 「機嫌がいいから」 「自覚はある」
皿が空になり、ゼリーの表面が光る。彼はゼリーを半分だけ食べ、スプーンを置いた。小さな音が、紙の近くで止まる。
「ほろた」 「なに」 「この券、どこに置く」 「ベッド……の上はダメって言う?」 「言う。俺が嫉妬する」 「机の上。見えるとこ」 「俺の目の届くところ」 「うん」 「よし」
片付けを終えて、部屋の灯りを一段落とす。窓の隙間は少し開いたまま。夜の匂いが薄く入ってきて、今日の熱をやさしく冷やす。彼は券を丁寧に指で整えて、机の角にまっすぐ置いた。受領印みたいに、指先で一度だけ軽く押す。
「忘れるな」 「忘れない」 「ちゃんと休め」 「休む」 「選ばないなら、俺が決める」 「今日は、選んだよ」 「知ってる。……いい選択だった」
灯りがさらに一段落ち、影が長くなる。わたしたちはソファの端に並んで座る。券は机の端で静かに待っている。紙の白と、インクの黒と、今日の温度。彼がふと笑う。
「“イチャイチャする券”」 「うん」 「名称がひどい」 「かわいい」 「かわいいはお前の専売」 「じゃあ“イチャ券”」 「もっとひどい」 「じゃあ……“帰路券”」 「それは、悪くない」
最後のやりとりを終えると、彼は目を閉じて深く息を吸った。外気が入り、彼の胸がわずかに上下する。窓の外の夜は広い。だけど、今はここに線が引かれている。券が起点で、わたしたちの足元に線が伸びている。明日になっても、明後日になっても、たぶん見える線。
「――行使済の印は、つけない」 「どうして」 「“済”の文字は、終わりの匂いがする」 「じゃあ、何をつけるの」 「“また”。小さく」 「それ、好き」
彼はペンを取り、券の隅にほんの点みたいな字で『また』と書いた。紙は軽い。けれど、視界の中で一番重かった。わたしはその重さに安心して、彼の肩に額を落とした。
「おやすみ、まだ言わないで」 「言わない。十五分だけ延長」 「やった」 「浮かれるな。次は俺の券の番だ」 「何て書くの」 「“ほろたは水を飲め”」 「地味」 「効く」
笑い声が二つ、窓の隙間をすり抜けて夜に混ざった。部屋の中に残ったのは、紙の白と、インクの黒と、二人の温度。券は机の端で、約束の形をしたまま、静かに呼吸している。今夜はそれで十分だった。明日になったら、また使う。あるいは使わない。どちらでもいい。――“また”の文字が、わたしたちの間で灯のように点いたまま、揺れなかった。
畳む
その続き。
窓を三センチだけ開けた。外気が細く入り、カーテンの裾をくすぐる。夕飯の湯気はもう薄く、リビングには紙の匂いと洗いたてのシャツの匂いが残っている。テーブルの端には、あの白い券。角が少し丸くなって、インクの黒が夜の灯に沈むように見えた。
「朔真くんが、イチャイチャする券を譲渡しようとしてたなんて」
わたしがわざとらしく確認の形で言うと、玄関で靴を揃えていた彼の手が止まる。鍵の金属音が遅れて皿に落ちた。
「……は?」
低い一音。振り向いた彼の目はいつもの冷静さのまま、しかし一段だけ深くなる。首筋から肩にかけての線が、ごくわずかに固くなるのが分かった。
「ふーん。じゃあ、他の人とイチャイチャしていいんだ?」
「誰が、いつ、どこで、その許可を出した」
「ふーん」
カウンターに肘をついて、紙コップの水をひと口。わざと視線を合わせない。彼は上着を椅子の背にかけ、テーブルの端へ歩く。券に触れる前に、指先でテーブルの木目を一度なぞる。呼吸を整える合図。
「条文を読め。第4条。譲渡不可。受益者は俺に限る」
「だから他の人にもあげてきた」
「…………は?」
間が落ちた。彼は券を持ち上げもせず、しばらく紙面を見て、それからゆっくりわたしを見る。眼差しは静かだが、視線の圧が一段上がる。
「確認する。お前の“他の人”とは誰だ。氏名、関係性、交付時刻、場所」
「ふーん」
「ふーん、ではない。答えろ」
「大事にしてくれるひとだよ」
「抽象が過ぎる。俺は弁護士だ。事実を出せ」
口調は淡々としたまま、質問の射程だけが狭くなる。ネチネチ、という言葉が似合う角度で。わたしは息を飲むふりをして、カーテンの裾を指で摘んだ。
「怒ってる?」
「怒ってはいない。戸惑っている。……いや、訂正。怒りではないが、好ましくはない」
「ふーん」
彼は鼻で短く笑った。笑っているのに、目は笑っていない。
「譲渡の事実があるなら、俺は回収に向かう。返還請求だ。相手に任意の返還意思がなければ、説得。説得が失敗するなら、別の方法を取る」
「別の方法?」
「俺が決める」
机の角が指先で軽く鳴った。一定のリズム。彼が落ち着いているときの音だ。なのに声の底に、わずかな熱が沈んでいる。
「ねえ、朔真くん」
「聞いてる」
「やっぱり譲渡、やめて」
「最初から許可していない。やめるも何もない」
「ふーん」
「それ以上“ふーん”を重ねるなら、没収も検討する」
「やだ」
「やだ、ではない。管理が杜撰だ」
「杜撰じゃないよ。ちゃんと目の届くところに置いた」
「どこだ」
「相手の胸の近く」
一瞬、空気の厚みが変わった。彼は視線をわずかに細め、言葉を飲んでから、静かな声で続ける。
「胸。近く。……具体的に言え」
「柔らかいところ」
「おい」
「ふーん」
わざとやっていると分かっているのに、彼は丁寧に毎段引っかかってくれる。正面から剣を受けるみたいに。真面目で、ずるい。わたしはくすっと笑って、それを隠さない。
「嫌なら、やきもちって言えばいいのに」
「言わない。俺は正直だが、その語を好まない」
「じゃあ、何て言うの」
「不愉快」
「ふーん」
「次に“ふーん”と言ったら、五分間の沈黙を命じる」
「ふ」
「止めろ」
彼は券をようやく持ち上げ、光に透かして裏まで見る。裏は白いまま。昨日、彼が小さく『また』と書いたその隣に、わたしの指の跡がかすかに残っている。彼はそこへ親指を置いて、圧をかける。
「本当に譲渡したのか」
静かな問い。今度は逃げられない角度だ。わたしは肩をすくめ、視線を合わせる。
「したよ」
「誰に」
「実家の猫に」
「は?」
二度目の“は”は、さっきより素直だった。彼の肩から力が少しだけ落ち、目の奥に別の種類の光が灯る。呆れと、安堵と、拍子抜けと。いくつかの感情が順番を待つ。
「猫」
「猫」
「動物だ」
「うん」
「自然人ではない。法人でもない。民法で想定する受益者に当たらない」
「譲渡禁止条項、動物は含まないよね」
「今から含める。第4条改訂。譲渡禁止。人および動物を含む」
即答。ペンが出る。彼は券の端に小さな矢印を描き、余白に追記した。『動物含む』。その文字がやけに整っているのが悔しい。
「……で、猫のどこに置いた」
「首輪。安全な結び目で。ちゃんと外れるやつ」
「名前は」
「クロ」
「クロ」
一度だけ繰り返し、彼は鼻で笑う。笑いは薄いが、確かにそこにある。
「俺は猫に嫉妬するのか」
「してもいいよ」
「しない」
「ちょっとだけ」
「……ちょっとだけ」
言い方は負け惜しみなのに、視線は柔らかい。わたしは近づき、窓辺に寄る。外気が頬を撫で、室内の匂いが少し入れ替わる。
「猫、喜んでた」
「何を根拠に」
「喉が鳴ってた」
「それはお前に対してだ」
「券にも」
「証拠がない」
「想像で補う」
「弁論としては弱い」
彼はテーブルの角をもう一度、軽く鳴らし、ため息をひとつ。深くではなく、短く。溜息というより、区切り記号。
「回収は不要だ。猫に対する譲渡は……保留。効力停止。返還請求は留保する」
「優しい」
「合理的だ」
「嬉しい」
「知ってる」
短いやりとりが、机の上の白い券をさらに白く見せる。彼はそれをそっと置き、代わりにわたしの手首を取った。左の内側。前の夜の印の場所を避けるように、親指が外側を撫でる。
「……猫に配った理由を言え」
「家の匂い、忘れないように。実家の猫だから。わたしの匂いに混じって、帰り道になるかなって」
「帰路の券」
「そう。こっちは朔真くんの」
わたしはテーブルの端の白紙を一枚取り、彼の胸の前でひらひらさせる。彼は受け取らず、視線だけで追う。
「今日の条文、追加していい?」
「聞こう」
「第8条。嫉妬の表明は、やさしい命令に読み替えること」
「意味不明だ」
「“嫉妬する”って言わない代わりに、“こっち見ろ”って言う、とか」
「……採用。条件付き」
「条件?」
「その命令に従わない場合、俺は券を没収する」
「やだ」
「従え」
小さく笑って、彼はようやく白紙を受け取り、券の隣に揃えた。整える手つきに、機嫌のよさが滲む。さっきまでの硬さがほどけ、ネチネチの角が丸くなる。
「ほろた」
「なに」
「今日の“ふーん”は多すぎた」
「そう?」
「多すぎた。記録する」
「記録?」
「白紙の方に。『ふーん×五』」
「こわ」
「記録は抑止力になる」
「じゃあ、わたしも記録する。『は?×二』」
「反論はない」
彼はゆるく肩を落とし、視線を窓の隙間へ流す。外の通りの音が少しだけ届く。わたしはその横顔を見て、笑いそうになるのを堪えた。
「拗ねてた?」
「拗ねてはいない」
「ふーん」
「今のは許す」
「どうして」
「俺が機嫌がいいから」
あっさり言う。こういう素直さが、一番ずるい。わたしはカーテンの裾をもう一度指で摘み、少しだけ広げた。夜気が増える。
「猫に、俺からも一枚やる」
「なにを」
「“撫でる券”。発行者は俺。受益者はクロ。行使は俺が実家に行ったときに限る。譲渡不可。動物含む」
「動物含むの使い方、逆」
「便利だ」
「来るの?」
「行く。……いつか」
その“いつか”に未来図の押し付けはなく、ただ距離の見積もりだけがある。わたしは頷いた。彼は頷き返し、白紙に小さく『クロ撫で券』と書いた。字が妙に丁寧で、また笑いそうになる。
「さて」
彼は姿勢を正し、わたしの手からカップを取り上げ、流しに置いた。戻ってくる足音は軽い。
「問題は解決した」
「ほんと?」
「解決。俺はお前以外とイチャイチャしない。お前も俺とだけ。猫は別枠。……異議は」
「ないよ」
「よし」
彼は券を指で整え、机の角にまっすぐ置く。受領印みたいに指先で一度押す。その指が、すぐにわたしの頬へ滑る。触れるか触れないかの境目。
「さっきの“譲渡”の語は、今後一切使うな」
「どうして」
「俺の心臓に悪い」
「ふーん」
「今のも許す」
「機嫌いい」
「良い。お前がわざと曲解しているのを、今は面白いと思っている」
「へえ」
「ただし、繰り返すな」
「努力する」
彼はわたしの額に、音のない軽いキスの代わりみたいに指を置いた。比喩のままの触れ方。呼吸の速さは上げず、温度だけを寄せる。
「忘れるな」
「忘れない」
「ちゃんと休め」
「休む」
「選ばないなら、俺が決める」
「今日は、選ぶから大丈夫」
「そうか。……いい選択だ」
ソファに並んで座る。彼は券を視界に入る場所に置き、窓の隙間を少しだけ調整した。外気と室内の温度が釣り合う位置。わたしの肩に、彼の肩がわずかに触れる。
「それで」
「うん」
「さっきの“実家の猫にあげたの”」
「うん」
「俺に先に言え」
「ごめん」
「許す」
短い。けれど、長く効く。わたしは笑って、彼の胸に頭を寄せる。鼓動の音は小さい。だけど確かに、ここにある。
「クロ、わたしの膝から降りないんだ」
「そうだろうな」
「朔真くんの膝にも乗るかな」
「乗らない。俺は膝で寝かせるより、横で撫でる派だ」
「派」
「派」
彼は白紙に『クロ、横撫で派』と書いた。無駄な記録。でも、この無駄が帰り道を太くする。
「……もう一回、言わせる」
「なにを」
「“他の人にもあげてきた”」
「うん」
「今度は最初から猫と言え」
「うん」
「じゃないと、俺はまた“は?”になる」
「それも好き」
「面倒なやつだ」
「知ってる」
外の風がひと筋、部屋を通り抜ける。紙の角がかすかに揺れ、カーテンの裾が床に触れる。わたしたちはそれを目で追い、同じタイミングで呼吸を深くした。
「ほろた」
「なに」
「猫の首輪の結び目、今度見せろ」
「うん。安全だから」
「確認する。安心したい」
「かわいい」
「言うな」
ふっと笑って、彼はわたしの手を取り、券の上に重ねた。紙越しに体温が移る。白い紙は軽いのに、今夜いちばん重く見えた。
「また、使え」
「うん」
「俺も、また言う。“こっち見ろ”」
「わたしも言う。“見てる”」
彼は頷き、窓の隙間を最後に一ミリだけ狭めた。外気と内気の境界がやわらぎ、夜の匂いが部屋に馴染む。猫のいる実家までの距離も、ここからの帰り道も、どちらも同じ線でつながっている気がした。白い券の端に小さく灯る『また』の文字が、今夜も変わらず、そこにあった。
畳む
かわいい。