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あむあずバレンタイン
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最初に気づいたのは安室から香る香水だった。立体的な甘く上品なもので、親しみや気安さというよりはゴージャスな花の香りだった。包み込まれるとうっとりとしてしまいそうな、そんな香りだ。珍しく?なのか、スーツを着た安室透は、今日は大丈夫でしたか、と言った。
「全部マスターのおかげですよ」
つい、拗ねるような響きになった。榎本梓は口を尖らせる。バレンタイン当日の今日、シフト予定だった安室透は朝イチで休みの連絡をしてきた。元よりマスターも入るシフトだったから、一日を通して店は回ったが、安室透目当ての客が何人もいて、店にいる梓に、よもや安室透を隠してはいないだろうな?と言わんばかりの厳しい目と探る目を向けてくるものだから、針の筵だった。ちくちくと言葉で牽制してくる客もいて、すっかり梓は疲れてしまったところ、あとは大丈夫だよとマスターが仕事を終えるように言ってくれたのだ。
「もうほんとマスターがいなかったら!私は恋の剣で串刺しでしたよ」
「恋の剣…………」
「ほんとそうなんですから!………だから、安室さんはいない方がよかったのかもしれませんね」
「すみません」
「本業は大丈夫なんですか?」
安室は瞬いた。梓は首をかしげる。
「探偵。大事な仕事だったんでしょう」
「あ、はい。愛を伝える日にも野暮なひとはいますから」
「ふふ、その言い方、キッドみたい」
変な間が出来た。
「って、安室さんはどうしてここに?」
梓の帰り道の途中だ。見慣れた車から、見慣れたひとが出てきて驚いたのだ。
「今からお店に出勤ですか?」
「ええ、まあ」
「それは………がんばってくださいね」
同情的な響きをもって梓は言う。安室は笑った。その魅惑的な香りと共に。
「香水、つけてます?」
「え、ああ、」
安室は自分の袖を嗅いだ。
「移り香みたいですね、依頼人と会っていたのでその時ついたかな?」
「…………」
バレンタインに呼び出すなんて、安室さん狙いなんじゃあ?と、梓は思ったが思っただけに留めた。
「梓さんは今日、シフト入って大丈夫でしたか?」
「あ、はい。今日はのんびりするつもりでしたから」
「バレンタインなのに?」
「……………どういう意味ですか?」
それは確かに今は付き合ってる人はいないが。梓は眉を寄せた。安室が、いや、と慌てた。
「良かったです。あの、今日のおわびも込めて受け取ってください」
安室はずっと下げていた紙袋を、梓に差し出した。名前だけは聞いたことがある、世界的コンクールで優勝したパティシエが作るという一粒が1000円以上する恐ろしいチョコだ。
「いいんですか?」
断る理由がない。自分を浅ましく思ったりしたが、食べたい!梓は自分に誠実でありたい。安室はにっこり微笑んだ。
「もちろん」
「でもこんなお高いチョコを」
微笑まれると梓は一瞬たじろいだ。
安室は梓の手に紙袋を握らせながら言う。
「あの時告白しましたし、本命なのはわかってると思いますが本命チョコです」
「え、やっぱり」
「梓さん、チョコに罪はないですよ」
安室にはありそうな言い種だ。梓は顰めっ面になる。
「ていうか、私、安室さんの好みじゃないですよね?」
「え?」
「まあ、チョコには罪はないですけどぉ」
どうせこれも冗談だろうという構えで梓はチョコを受け取る。冗談にしてしまいたい。冗談なんでしょう、そういう顔で安室を見る。安室は、眉を下げて笑った。
「送りましょうか」
「いえ、マスター一人ですし、お店に行ってあげてください」
あの店はマスターの店で、マスターさえいれば実質回る。二人ともわかっている。なにせ、働いているのだし。
「それじゃ、気をつけて帰ってください」
「有り難うございます、頑張って」
「はい」
安室からはいい匂いがする。それが少し他人行儀に思う。コーヒーの匂いのする安室だったらどうしていただろう。いつものエプロン姿なら。
好きって言うなら、今じゃない?と思ったが、安室は運転席に戻ってしまった。梓はそれを残念に思うべきか、安堵すべきなのかは分からなかった。走り出す間際、安室は少し頭を下げた。梓は、笑う。種も仕掛けもなく、チョコレートはチョコレートだった。
そういう、実は気の利かないところを、梓は可愛いなと思っていたりするが、それは安室には秘密だ。
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最初に気づいたのは安室から香る香水だった。立体的な甘く上品なもので、親しみや気安さというよりはゴージャスな花の香りだった。包み込まれるとうっとりとしてしまいそうな、そんな香りだ。珍しく?なのか、スーツを着た安室透は、今日は大丈夫でしたか、と言った。
「全部マスターのおかげですよ」
つい、拗ねるような響きになった。榎本梓は口を尖らせる。バレンタイン当日の今日、シフト予定だった安室透は朝イチで休みの連絡をしてきた。元よりマスターも入るシフトだったから、一日を通して店は回ったが、安室透目当ての客が何人もいて、店にいる梓に、よもや安室透を隠してはいないだろうな?と言わんばかりの厳しい目と探る目を向けてくるものだから、針の筵だった。ちくちくと言葉で牽制してくる客もいて、すっかり梓は疲れてしまったところ、あとは大丈夫だよとマスターが仕事を終えるように言ってくれたのだ。
「もうほんとマスターがいなかったら!私は恋の剣で串刺しでしたよ」
「恋の剣…………」
「ほんとそうなんですから!………だから、安室さんはいない方がよかったのかもしれませんね」
「すみません」
「本業は大丈夫なんですか?」
安室は瞬いた。梓は首をかしげる。
「探偵。大事な仕事だったんでしょう」
「あ、はい。愛を伝える日にも野暮なひとはいますから」
「ふふ、その言い方、キッドみたい」
変な間が出来た。
「って、安室さんはどうしてここに?」
梓の帰り道の途中だ。見慣れた車から、見慣れたひとが出てきて驚いたのだ。
「今からお店に出勤ですか?」
「ええ、まあ」
「それは………がんばってくださいね」
同情的な響きをもって梓は言う。安室は笑った。その魅惑的な香りと共に。
「香水、つけてます?」
「え、ああ、」
安室は自分の袖を嗅いだ。
「移り香みたいですね、依頼人と会っていたのでその時ついたかな?」
「…………」
バレンタインに呼び出すなんて、安室さん狙いなんじゃあ?と、梓は思ったが思っただけに留めた。
「梓さんは今日、シフト入って大丈夫でしたか?」
「あ、はい。今日はのんびりするつもりでしたから」
「バレンタインなのに?」
「……………どういう意味ですか?」
それは確かに今は付き合ってる人はいないが。梓は眉を寄せた。安室が、いや、と慌てた。
「良かったです。あの、今日のおわびも込めて受け取ってください」
安室はずっと下げていた紙袋を、梓に差し出した。名前だけは聞いたことがある、世界的コンクールで優勝したパティシエが作るという一粒が1000円以上する恐ろしいチョコだ。
「いいんですか?」
断る理由がない。自分を浅ましく思ったりしたが、食べたい!梓は自分に誠実でありたい。安室はにっこり微笑んだ。
「もちろん」
「でもこんなお高いチョコを」
微笑まれると梓は一瞬たじろいだ。
安室は梓の手に紙袋を握らせながら言う。
「あの時告白しましたし、本命なのはわかってると思いますが本命チョコです」
「え、やっぱり」
「梓さん、チョコに罪はないですよ」
安室にはありそうな言い種だ。梓は顰めっ面になる。
「ていうか、私、安室さんの好みじゃないですよね?」
「え?」
「まあ、チョコには罪はないですけどぉ」
どうせこれも冗談だろうという構えで梓はチョコを受け取る。冗談にしてしまいたい。冗談なんでしょう、そういう顔で安室を見る。安室は、眉を下げて笑った。
「送りましょうか」
「いえ、マスター一人ですし、お店に行ってあげてください」
あの店はマスターの店で、マスターさえいれば実質回る。二人ともわかっている。なにせ、働いているのだし。
「それじゃ、気をつけて帰ってください」
「有り難うございます、頑張って」
「はい」
安室からはいい匂いがする。それが少し他人行儀に思う。コーヒーの匂いのする安室だったらどうしていただろう。いつものエプロン姿なら。
好きって言うなら、今じゃない?と思ったが、安室は運転席に戻ってしまった。梓はそれを残念に思うべきか、安堵すべきなのかは分からなかった。走り出す間際、安室は少し頭を下げた。梓は、笑う。種も仕掛けもなく、チョコレートはチョコレートだった。
そういう、実は気の利かないところを、梓は可愛いなと思っていたりするが、それは安室には秘密だ。
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