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ほろた
2023-08-06



亡くなった祖父は広島で原爆に合った。少し前までは話さなかったが昔のことばかり繰り返して話すようになると、原爆に合った当時のことを繰り返し話すようになった。正直うんざりしていたし、外面ばかりのいいかっこつけの祖父のことを、あまり好きではなかったから聞き流していたものの、どこかに書いたほうがいい気がして書くことにする。

祖父は兵隊さんだった、宿舎の見張りを夜通し行い、朝ごろ他の兵隊に交代し、部屋に戻ったところでものすごい音がして建物全体が揺れた。敵襲かと表に出ると世界は一変しており、いろんなものが壊れ煙が上がっていたらしい。幸い祖父に怪我がなかったのは、宿舎の建物がかなり丈夫なものだったらしく、すぐに上官に呼ばれ、門に立ったらしい。交代直後のあの兵隊さんには可哀想なことをした、亡くなってしまっただろうと悔やむような顔をしていたのを覚えている。

皮膚のただれた、顔の皮がずるりと向けたひとたちが、祖父に向かって、兵隊さん水をください、水をくださいと呼び掛けるもののの、祖父はすまんなあ、ないんよ、と応じていたと言っていた。

川の水は?と聞くと人の脂や血で飲めたもんじゃなく、ましてや仮に飲んでもすぐ死ぬだろうと言っていた。そういう人ばかりが溢れ、すぐにグラウンドには死体ばかりが詰み上がっていったと言っていた。祖父はそういう話を飯の時にもよく話していたが、その時はボケてんなあと思っていたので根掘り葉掘り聞いたりはしなかったので今はそれを後悔しているものの、やはり祖父が生きていてもこのくそジジイが!という憎しみがあるため、聞かなかったことだろう。

一度わたしが病気をしていたときにひどく苦しい思いをしたので、藁にすがるような思いで、祖父に、じいちゃんは戦争のときのこと、どう忘れた?いやな思い出は忘れられる?と聞いたことがあった。祖父は苦い顔をして、忘れられんよ、と答えた。私はああ、ろくでもないことを聞いたなあと思って、そうか、とすぐに話を変えたことを覚えている。

祖父が広島で原爆にあったことは、結構当然なことだった、どう生き延びたのか、どんなに惨い経験だったのか、どこかで学ぶまではぼんやりしており、それをあの祖父が生き延びていたのかという驚きはいつでも新鮮にあり、しかし今ここに私がいることまでぼんやりとしている。

祖父の兄はひどく優秀な人で、すぐに軍事学校に入り、出世した。祖父の自慢の兄で、祖父の母親の自慢の息子だった。祖父も、その道に行こうとしていたらしいかった。だが、その自慢の兄は戦地ですぐに死んだらしい。そのことにショックを受けた祖父の母親は、祖父を軍事学校には進ませなかったと聞く。そのことも、祖父の命運を分けたのだろうし、やはり今の自分に繋がる。

戦争は望む大人がやるものばかりではなく、結局誰も彼も駆り出されて、弱いものから殺されて行く。昨晩、反戦の劇を見た。そして、祖父のことを思い出した。

私は最後には祖父からの電話を着信拒否し、電話にもでなかった。
それほど、憎かったのか。いや、ただ、煩わしかっただけなのだ。

人は死んでゆく。
8月6日。
たくさんの人が死んだ日だ。