大事なもの
屋根裏のラジャーで子供だった自分が救われた話はそもそもが映画前にスタバでノート書いてたんですが、子供のとき自分はどうして欲しかったのか?という疑問をふと自分に向けて、ただ否定もせず笑われず、どうかした?大丈夫?って言われたかったなあってめそめそ泣いてた気持ちを、この映画をみて肯定してもらったんですよね。
以降自分語りなんですけど、子供のときはただ居場所がなくて辛かったな。一回そんな言うこときかんのやったら殺したるわ!って首絞められたんですけど嬉しかったな、死ねるんだなって。抵抗しなかったら絞めるの止められてひどく残念だったことを覚えている。わたしも親を殺そうと思って硬いものを親の頭にぶつけて血がでてなん針か縫ってたな。これで本当に死んだら終わりかなあと思って怖さもあったがもっとちゃんとやればよかったなと思ってました。まあ、二人とも生きています。察しの通り滅茶苦茶。
なのに周りからは平凡でふつうの問題ない家族に思われていて、片親や離婚があったから、あんたんところはええなと言われてて、どこが?ってなっていたりしたし、わたしの方が不幸みたいに言われてて、自分ってなんなんだろ?こんなに苦しいし誰も信用してないのに?と思ってました。親友やと思ってた!って怒られたこともあったけど、わたしをいじってからかってたのに?て思ってなんかよくわかんなかったです。そこから親友ってなに?て思ってたし親友ってそんなにすごいものとも思いませんでした。それから二十年たって相手にとって親友の子の不満言ってたらめちゃくちゃ怒られて、えぇ?これってそんなまずいの?だってみんな私がよく思ってるものでもしゃべってる相手でも好きなだけ不満ぶつけてくるのに?これって異常なことなのか?って自分って異常だったんだと気づいたのが今から2.3年前のことです。
でも思ったんですよね、私がこうやってインターネットで好きと嫌いを話すのって、ずっと好きも嫌いも踏みにじられた気がしてるからだと。嫌いなことを嫌いと言えなかった自分がずっと詰まって、それが成仏したがってるんじゃないかって。好きなものも好きって言ってもかろんじられてばかりで、だから必死に好き!を証明しようとガチャとかグッズとか課金してきたのかなって。大事なものを大事にやる方法もしらないから。
私からすぐ人が離れるのは、そういうことが出来てないからじゃないかなって。
なんとか会得しようとノート書いて、blog書いていて、今年親がそれぞれ入院して、それぞれと二人で暮らして、で、三人揃って少しして、思ったんですよね。
もうここでは暮らしたくないなって。
なんかやっと、そこに立てたから、今ずっと混乱というか動揺というか、なんかめちゃくちゃで。それこそ生きた年数の揺り戻しがあって、ささいなことで感情が動くし、パニックになってるみたいなところあって。
そして、今回屋根裏のラジャーがとどめをさしてくれて。
味方だし、自分の中にあるって言ってくれたし、その上で、ちゃんとアマンダはラジャーとお別れするでしょう。そこでほっと帰ってきたかんじがあって、自分の世界をつくらなきゃと思ったんですよね、そういうの感想っていうか対話で。
なんかスパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバースを見て動き始めた自分が、屋根裏のラジャーを見ることで、ちゃんと自分になったというか。戻ってきたというか。今年はそういう回帰みたいな、年でした。裏テーマが自分自身で、ずっとノートに書いてたんですよ。大事なものを大事にしたいって。
でも分かんなかったな。大事なものってなんだろ?て、分かんないのに大事なものを大事にしたいって書いてました、
で、昨日映画みてそれって、自分だったんだな、てやっと気づいて、自分が大事なものは自分だったのか、て思ったから、今日、自分にかわいいなって言いました。なんでもやりよる。えらいって。
まだ揺れてはいるし、やっぱ滅茶苦茶で。でも一応書き留めておきます。
終わり
屋根裏のラジャーで子供だった自分が救われた話はそもそもが映画前にスタバでノート書いてたんですが、子供のとき自分はどうして欲しかったのか?という疑問をふと自分に向けて、ただ否定もせず笑われず、どうかした?大丈夫?って言われたかったなあってめそめそ泣いてた気持ちを、この映画をみて肯定してもらったんですよね。
以降自分語りなんですけど、子供のときはただ居場所がなくて辛かったな。一回そんな言うこときかんのやったら殺したるわ!って首絞められたんですけど嬉しかったな、死ねるんだなって。抵抗しなかったら絞めるの止められてひどく残念だったことを覚えている。わたしも親を殺そうと思って硬いものを親の頭にぶつけて血がでてなん針か縫ってたな。これで本当に死んだら終わりかなあと思って怖さもあったがもっとちゃんとやればよかったなと思ってました。まあ、二人とも生きています。察しの通り滅茶苦茶。
なのに周りからは平凡でふつうの問題ない家族に思われていて、片親や離婚があったから、あんたんところはええなと言われてて、どこが?ってなっていたりしたし、わたしの方が不幸みたいに言われてて、自分ってなんなんだろ?こんなに苦しいし誰も信用してないのに?と思ってました。親友やと思ってた!って怒られたこともあったけど、わたしをいじってからかってたのに?て思ってなんかよくわかんなかったです。そこから親友ってなに?て思ってたし親友ってそんなにすごいものとも思いませんでした。それから二十年たって相手にとって親友の子の不満言ってたらめちゃくちゃ怒られて、えぇ?これってそんなまずいの?だってみんな私がよく思ってるものでもしゃべってる相手でも好きなだけ不満ぶつけてくるのに?これって異常なことなのか?って自分って異常だったんだと気づいたのが今から2.3年前のことです。
でも思ったんですよね、私がこうやってインターネットで好きと嫌いを話すのって、ずっと好きも嫌いも踏みにじられた気がしてるからだと。嫌いなことを嫌いと言えなかった自分がずっと詰まって、それが成仏したがってるんじゃないかって。好きなものも好きって言ってもかろんじられてばかりで、だから必死に好き!を証明しようとガチャとかグッズとか課金してきたのかなって。大事なものを大事にやる方法もしらないから。
私からすぐ人が離れるのは、そういうことが出来てないからじゃないかなって。
なんとか会得しようとノート書いて、blog書いていて、今年親がそれぞれ入院して、それぞれと二人で暮らして、で、三人揃って少しして、思ったんですよね。
もうここでは暮らしたくないなって。
なんかやっと、そこに立てたから、今ずっと混乱というか動揺というか、なんかめちゃくちゃで。それこそ生きた年数の揺り戻しがあって、ささいなことで感情が動くし、パニックになってるみたいなところあって。
そして、今回屋根裏のラジャーがとどめをさしてくれて。
味方だし、自分の中にあるって言ってくれたし、その上で、ちゃんとアマンダはラジャーとお別れするでしょう。そこでほっと帰ってきたかんじがあって、自分の世界をつくらなきゃと思ったんですよね、そういうの感想っていうか対話で。
なんかスパイダーマン:アクロス・ザ・スパイダーバースを見て動き始めた自分が、屋根裏のラジャーを見ることで、ちゃんと自分になったというか。戻ってきたというか。今年はそういう回帰みたいな、年でした。裏テーマが自分自身で、ずっとノートに書いてたんですよ。大事なものを大事にしたいって。
でも分かんなかったな。大事なものってなんだろ?て、分かんないのに大事なものを大事にしたいって書いてました、
で、昨日映画みてそれって、自分だったんだな、てやっと気づいて、自分が大事なものは自分だったのか、て思ったから、今日、自分にかわいいなって言いました。なんでもやりよる。えらいって。
まだ揺れてはいるし、やっぱ滅茶苦茶で。でも一応書き留めておきます。
終わり