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浸かっている。体温と温泉の温度は似ているかもしれないが完全に別物だろう。視線の先…
文章,短編
2024.1.29 No.18
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浸かっている。体温と温泉の温度は似ているかもしれないが完全に別物だろう。視線の先の浸かっているその人を、もとより人をじろじろ不遜なことなれど、よりにもって裸の女の人を見るなど逮捕案件だ。同性だからってセーフでもないだろうし。でも見ちゃう。
その人が持って浸かっているのが脳だからだ。脳が入っている透明なバッグがちゃぽんと湯に浸かっている。
視線が合う。
「………あ、」
「………」
「………あの、その、あの、お湯にバッグを浸けるのはどうかなとか……………」
語尾につれて声は小さくなった。
その人は目を細めるようにして、笑った。
「ダメですよね、ダメだと思ってました」
「あ、あ、じゃあ…………」
「やってしまいましたから」
殺ってしまいましたから?いや、違う。そんなわけはない。そうだったら怖い。
「……………」
「どうせ怒られるでしょう?だからこのままで」
どういう意味か尋ねるのが怖かった。
「一種のアトラクションと思ってください、すみません」
どうしたらいいか分からず曖昧な笑みを浮かべた。
「これ、何だと思います?」
「え、あ、……………………脳?」
「そう見えます?」
怖い。
怖すぎる。
自分が全裸なのも怖いし相手が全裸なのも怖いし、ここが温泉なのも怖い。
「えっと…………………?」
「実はこれ、脳で」
「あっはい、はは、はい、そうですよね」
「どうして笑ってるんですか?」
「え、あ、えっと、初めて見たし、脳とか」
「まあ笑うしかないですよね、私も最初はそうでした」
「あっ、で、ですよね」
「恋人で」
「あ、え、亡くなって?」
「元から脳だったんです」
「あ、え?」
「知り合ったときからこの姿で」
「へ、へえ」
「ヴィレヴァンで見つけて」
「あ、え、偽物?」
「偽物って?」
怖い怖い怖い。風邪引きそう。沈黙。脱衣場から笑う声がした。あ、そう、その手がある。私はお湯から上がった。ざぶり。湯気が立ち上る。温泉の温もりがからだの奥にある。その人は何も言わなかった。私は何かを言うのを恐れた。若い女の子が二人つれたって扉を潜る。その隙を逃さぬように、互いに遠慮しあって頭を下げながら私は脱衣場に戻った。扇風機が回転している。からからからから。女の子たちの声がぴたりと止まり、扉が開けられる。さっきの女の子たちだ。互いに目で会話する。目で。
「言ってくる」
「え、なに」
一人の女の子が言う。
「旅館の人に。だって、入れないし温泉」
沈黙。
「私も言います」
私も言い、頷いた。
決意の眼差しを交わし合う。
「…………………」
戸惑う女の子が小さく呟く。
「あれ、何?」
沈黙。誰も何も答えたくなかった。扇風機がからから回る。
「とりあえず、あの、着替えましょう」
一気に弾けるようにして着替えに走る。脱衣場に来られても怖いから。やっぱり、怖いし。浴衣を着て、整えて、行きましょう、と言う。行くしかない。がらり。扉の音に一斉にビクつくも仲居さんが微笑んだ。ごゆっくりと、言いたげで、私は困りながら言う。温泉、湯にバッグを浸けているひとがいて。女の子二人も頷く。仲居さんは、瞬いた。分かりました、確認します。ご迷惑をおかけしました。
「えっと、はい、あの」
それ以上は言えなかった。
「お願いします、温泉楽しみたいし」
女の子が言った。頷き合う。仲良しだな、と思った。仲良しだ。三人揃って風呂場を出た。あ、じゃあ、はい、あの、はい、みたいなかんじで、別れて私はとぼとぼと廊下を歩いた。私がここで人でも殺していたらきれいなオチになったのだろうが、そんなことはなかった。湯に浸かる脳は気持ち良さそうに見えた。
脳って性別あるのかな。ひどく美しかったその人を思い出す。不安定そうに微笑む、その人に恋人の脳がいるのは、そう悪いことでもなさそうだった。怖いだけで。全裸に脳は怖いだけで。服を着ていたらもしかしたらマシだったのかもしれない。トイレとか風呂とかでこういうことはやめてほしいのだ。無防備をつかれるみたいで、かなり嫌だった。
旅館備え付けの水を飲む。変な夢を見そうだなと思ったその夜、夢に出てきたピンクの脳は喋っていた。ヴィレヴァンの福袋はキーホルダーすげー入っているよ、みたいな話をしていて、温泉はあんまり好きじゃないんだと言う、見られるでしょ、裸、嫌だよね、そんなとこ、行くもんじゃないよ、脳だしさ。脳って裸じゃん。
薄暗い天井を見上げて、私はそうか?と思った。透明なバッグがなかったらセーフだったのかも。
それから、その人や脳がどうなったかは、なにも分からないのだった。