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短文19
夕暮れを注いだお茶を神たちがゆっくりと飲み干した。これで朝から続いた宴は終わりだ。ほっと彼女は一息ついた。
「今夜は上弦の月らしい」
「いいな」
「美味そうだ」
「夜まで待つのもいいね」
「そうしましょうか」
彼女は目を見張った。
「もうありません、何も!」
「何もとは?」
「何もじゃないかね」
「何一つの間違いかい?」
「そうなのでしょう」
「何も」
「何もないか」
神々は笑った。
「創ればいいさ」
「破壊する方が先だろう」
「過剰になればどの道壊れるさ」
「適正があるべき姿だ」
「どうとでも構わぬ」
「酒はあるだろう」
彼女は声を張り上げた。
「明後日には!あります!」
「明後日」
「今日でもなく」
「明日でもなく」
「一昨日でもなく」
「明後日さ、明後日と言っている」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
なら、明後日だ、と合意になった。彼女はほっとする。夕暮れも残り少なくなった。明後日にはなんとかなるだろう。ちゃぷちゃぷと満ちた空から波が引いていく。くわんくわんと鳴く宵鳥が、神々を促した。神々は、名残惜しそうに器を舐めたり、膝を掻いたりして、しばらく腰を上げなかったが、彼女がフライパンを慣らして、鋭く促すと文句を言いながら立ち上がり始めた。揺れる大地を踏みしめながら、彼女はお帰りの準備をして、照らすことを忘れた炎がゆっくりと呼吸した。短めに訪れた月が、ひもを大きく引っ張ると神々はよっこいせとばかり、元いた場所に帰っていく。ぱたぱたと羽ばたく式神を、手早く片付けながら彼女はほっと息を吐いた。頭上にはヨダカがいる。忘れた頃に訪れる嘶きを、あやしながら、静かに幕引きとなった。
彼女はぽたぽたと急須からこぼれた夕暮れを舐めとると、大きく伸びをして寝転がった、ああ、明後日だ。ぐるりと指を動かして、彼女はことさらそれがゆっくりくるように仕向ける。
こぼれ続ける夕暮れは、にわかに鈍く光り続けていた。
短文18
「思わなかった?」
加藤が言う。
「アフリカの子供が水を汲みにいく写真。あれみて、大変だなって思ったけど、アフリカのひとって体力があるんだなと思ったのよ」
「なにも覚えてないなあ」
篠坂は事務作業を進めていく。
「でも大人になって、本にかいてあったけど泣いたりしんどすぎて吐いたりする子もいるんだって。それ、読んでやっぱりつらかったんだ、てショックでさ」
加藤はシュレッダーをかけてゆく。いるないもの、いるもの、いらないけど、困らないもの。困るものは細切りに細かくなってゆく。キャベツの千切りに似ている。
「まあしんどいよね」
「しんどいでしょ?」
「アンドーナツ、残ってるよ、食べないの?」
「甘いじゃん」
「甘いけどね」
食べなよ、と篠坂は言う。なくならないでしょ。加藤は顔をしかめた。
「太るんだってば」
「アンドーナツ一個じゃ太らないよ」
「篠坂は痩せてるからじゃん」
「加藤も痩せてるよ」
「どこが」
加藤は苛立ったようにシュレッダーに書類を差し込む。異変を知らせる音がした。
「最悪、詰まった」
「貸してみなよ」
篠坂は加藤を退かす。手際よく紙詰まりを直して、ほらと言う。
「やる気なくなった」
「元からないじゃん」
「ないよ!けどさ、嫌って言わないとわかんないのかも。大抵のコトはさ」
「アンドーナツ食べなよ」
「嫌だって」
篠坂は嫌味ったらしくため息を吐き出す。もういいよ、と言ってアンドーナツを食べる。咀嚼音を加藤はシュレッダーの音で潰した。
「嫌だな」
「ほんと、さあ、手を動かしてよ」
「これでいいの?」
篠坂は言う。
「関係ある?」
加藤は黙りこんだ。
篠坂は鳥かごの中の鳥みたいだ。
「鳥って飼い主を恋人って思ってるんだって」
「不倫なのにね」
加藤は篠坂を見た。篠坂は事務作業に戻っている。指についた砂糖を舐め、紙を捲る。そういうことじゃないじゃん、と加藤は人知れず呟き、シュレッダーの音でまた潰した。
短文17
「おお、天使じゃん」
花森が言う。マブイ人でもいるのかと思ったら白い羽根が生えた白い服の人がいて、どこか疲れきったように項垂れてベンチに座っている。時々通りすがる人たちは一瞬ぎょっとしながら、関わるのを避けるように顔をそらし歩いていく。花森が声かけてみようぜと言う、声かけてどうすんだよ、と僕は言う。
「天使が困ってるなら助けないとだめだろ!」
「あれはほんとに天使なのか?」
「どちらにせよ困ってそうなら気になるだろ」
「いきなり殴りかかってきたらどうするの!」
「大丈夫、俺、喧嘩強いし」
「それはそうだけど………」
暴力は優しさを助けるのか?花森はささっと天使らしきひとに声をかける。
「こんにちは。どうかしましたか?」
「@@%%!/③\○③『『『『」
「え?」
[[ー.!!.・・ あっすいません」
「いいえー」
花森は笑う。図太くてすごい。花森のそばにいると自分らしさを見失い溺れそうになる。
天使らしきひとは一旦咳払いし、
「この通り、充電が切れてしまったみたいで」
今の翻訳もうまくいかなかったみたいで、となにかの箱を背中からごっそり取り出した。全面黒のブラックボックスみたいだ。
一体これはなんなんだ。
花森は気にしない。
「スマホのバッテリーでいけます?typeCなんですけど、俺の」
「えぇ?なんですか、こわい」
「あ、あのー!」
「はい?」
思いきって声を上げる。天使らしきひとは疲れた顔をしているが、無理矢理微笑んだ。
その箱なんだとは聞けず、日和って言う。
「もしかして、天使なんですか?」
「はぁ、そうですが……仕事の依頼ですか?」
「仕事?!仕事ってなに?」
「色々です、人間のコーチングを主にやっていますが恋のおまじないとか、悪魔払いとかもやってて、料金は」
「あ。いえ、いいです。お金ないので」
天使は微笑んだ。
営業的アルカイック・スマイルだ。
「やっぱ天使だったじゃんよ!」
「自称ね」
「あの、充電」
「あ!typeCでいけた?」
「単3電池は?」
「単3電池?」
「ないです」
「バッテリーじゃだめ?」
「ここ、いれるから、だめなんです」
天使の人が箱の蓋をぱこんと開けた。別のものをいれるとパチパチするんです、と言う。
「はい!パチパチするとどうなるんですか?!」
花森が手を上げる。
天使のひとは目を伏せた。
「すごく痛いんです、羽からずっとパチパチしてて」
「それはひどいな、じゃあ俺!買ってくるっすよ!単3電池!待っててください!」
花森が走り出す。どこへ?と思ったがたぶんコンビニだ。そんな感じがする。
天使のひとと二人きりになると途端気まずい思いがした。通行人にはじろじろみられるし、花森の雰囲気で持っていた場が途端静まり返った。
「どうぞ、良かったら」
「あ、すいません………」
天使のひとがずれて、ベンチの隙間を空けてくれた。座ると背中に天使のひとの羽根が当たる。思いの他力強く硬かった。
「一応………」
天使のひとが名刺を差し出す。文字は読めないが数字はアラビア数字だった。どうやら電話番号らしい。
「恋のおまじないなら、手頃なお値段なので」
アルカイック・スマイル再び。
「そういうんじゃないですから……」
天使のひとは微笑んでいる。
僕はもう会話すまい、と真正面を向いて黙っていると花森が帰ってきた。
「これ!買ってきた!」
「ばか!単4だろこれ!」
お約束だ。
短文16
「健康診断完了しました」
きびきびと報告しに来たサイドAはその間にあれ放題になった部屋を見て、ため息を吐き出した。それを見てやっとわたしは一息をつけた。最近のサイドAはバグが発生したのか、がんばり屋メイド風の性格になっていたから、あれ放題になった部屋を見た時には、ご主人さま、すぐに綺麗に片付けますわね!あたしにお任せください、ご主人様はお茶でも飲んでお待ちくださいね!と言い、淹れてくれたお茶はとても熱くて舌をやけどした。その為、私はメーカーに健康診断と修理を依頼したのだ。結果はこの通り、無事サイドAに帰ってきた。しかしそれは懐かしかった。サイドAは元々はそうだった、彼女はがんばり屋でドジっ子で底抜けに明るかった。わたしはそんな彼女に恋をして、彼女は受け入れてくれた。ただのロボットの彼女はセクサロイドではなかったし、そういう機能もなかったが、わたしたちは毎晩手を繋いで眠った。その内、この国は同性愛が違法になった。彼女はわたしを守るためにバージョンの変更を主張した。わたしは止めるように言ったが彼女は譲らなかったし、とても頑くなだった。
元々、彼女の回路にはバグがあった。メーカーから、不具合があると報告があった製品番号には彼女が含まれていて、その上で変更も受け付けます、とメーカーは申し出ていた。
「どうぞ、あなたの好きなお茶です」
適温の、花とも木とも違う、乾燥させた茶葉の香りは、いつも言葉に迷う。すこしキャラメルにも似た香りの、味は全く甘くないお茶で、豊かな琥珀色を湛えている。彼女が自ら選んだバージョンは、まったく素直じゃないが有能なメイドで、時に皮肉を口にした。熱いお茶は不具合でも、こういうロールプレイを刺激を人たちは好んだ。
「いつも有り難うね」
「これくらい当然です。あなたの部屋を散らかす才能のお陰で今日も私の仕事が捗ります」
お茶請けに出されたクッキーは可愛らしいデディベアの形をしている。わたしの持っているものによく似ている顔をしている。彼女はわたしが食べるのを見て、そっと満足げに微笑んだ。
彼女のかたちは消去されたが、まだ存在している気がする。私は数枚しか写真が入っていないアルバムを開いた。手を繋いで眠っていた頃、大きく轟いた雷の夜、窓際を照らす青白い光に、わたしがはっと目を覚ますと、実際は眠る必要などなかった彼女が、わたしの顔をただ見ていたことを気づいた。その時、古ぼけたカメラを持ち出して、フィルムが終わるまで写真を撮った。記憶を残したかったからだ。現像を外に頼まなければいけなかったから、直接的な写真は避けた。というよりほぼ何も写っていない。部屋の暗さと解像度の低さ、時々の雷光が彼女のシルエットを不意に気まぐれのように写しているだけだ。
「またそのアルバムですか?」
彼女は何か言いたげだ。
「そうだよ。何も写ってないけどね」
わたしはあえてそんなことを口にする。有能なメイドは、小粋に肩を竦めて仕事に戻っていく。
「あなたの写真も撮らないとね」
サイドAは皮肉げな顔をした。
「必要ありませんよ。私はここにいますから」
尋ねる前に彼女は、お茶のお代わりをカップに注ぐ。それがひどく熱いことに、私は舌をやけどしてから気づいたのだった。
短文15
キャベツ畑にコウノトリが来ることは知っているな!と野太い声で念押しされて、それはそうですねと僕は頷く。先輩はキャベツ畑にコウノトリが赤ん坊を運んでくると言われているがそれは間違いだと言う。一瞬僕は身構えた。続いて先輩は、キャベツ畑にはタイムマシーンが埋まっているのだと真面目ったらしく告げた。
「はぁ」
「なんだその気の抜けた返答は」
「赤ん坊もタイムマシーンも間違いでは」
「赤ん坊は間違いだがタイムマシーンは事実だ」
「どうして」
「私の叔父が埋めたからだ」
「間違いですね」
「だから、事実だ」
「先輩また叔父さんに騙されているんですか?」
「またとは何だ!騙されたことなどない!」
「十円玉が繁殖するとかカブトムシは地球外生命体だとか、横断歩道の白い部分を踏んで渡らないと異世界に連れていかれているとか」
「異世界には連れていかれただろう!」
「いやあれはまあ、ノーカウントでしょう」
「何故だ」
「異世界っていうか異空間というか、まあ大体ニア現実だったでしょう」
「何故自分の過ちを認めないのだ」
「僕の?」
「貴君以外に誰がいる」
「先輩の叔父さんですよ」
「叔父は誰にも理解できない天才なのだ。身内の私が信じてやらねばどうする!」
そうやって単純な先輩を翻弄し続ける叔父は僕から見るとろくでなしにしか過ぎない。クズと天才が紙一重かと言われると判断に困る。判断しようにも天才にはお目にかかったことがないからだ。
「キャベツ畑を堀りにいくぞ!」
「農家さんに怒られますよ」
「許可をとったぞ!収穫を手伝えば考えてもいいと言われた」
それは許可でもないし体のいい手伝い要員だ。だがしかし、収穫したてのキャベツは美味いらしい、と先輩は言う。
「それが目的ですか」
「そんなわけなかろう!目的はタイムマシーンだ!」
「先輩はタイムマシーンで何するんですか?」
「そんな重要なものがあるのだから、どこかの研究所に提供して世界の技術の発展を望むべきだろう」
「じゃあ売るんですか?」
「何故?」
僕は先輩を見つめた。
先輩は不思議そうな顔で僕を見つめる。杞憂を抱く。クズの身内に騙されている現状、このままこの人を放り出してしまうと良いように利用されて終わるんじゃないか、先輩はそれにすら気づかずするべきことを果たしたと満足して終わるのではないか。
「分かりました、見つけたら僕がタイムマシーンを破壊します」
「何故?!」
「過ぎたる技術は人を滅ぼすからです」
「う、うむ……?」
「キャベツの収穫頑張りましょうね!」
「う、うむ………」
先輩は首を捻っていたが、やがてまあいいかと納得したものらしい。収穫したてのキャベツは美味しくて、先輩はバリバリ食べていた。当然と言えば当然の話だが、タイムマシーンの影はどこにもなく、その代わりに赤ん坊を見つけることになり、僕はこれで先輩が叔父さんの過ちに気づくかと期待したが、実際それどころではない問題が起きたため、キャベツ畑は今後封印される事態となった。
「誰しも間違いはある。仕方がないことだ」
締め括るように先輩は言う。徹底的に間違っているのはあんたの叔父さんだ。僕の杞憂はまだまだ続きそうだった。
短文14
あんたは生命線が日本一周くらいあるよと唐揚げ弁当食べながらばあちゃんが言った。そんなにないでしょと笑うとそのくらい長いってことだよ、とばあちゃんも笑った。いいことだよ。
自分の手のひらを見つめていると琴子がどうしたのと声をかけてきた。いろんな管で繋がれた琴子は青ざめた白い肌のはかない美少女そのもので、病気ってのはロリコン趣味なのかと場違いに考えた。
「琴子、日本一周しない?」
「いきなり?」
「そう。私の生命線、そのくらいあるんだって」
「そんなに?」
「そう」
「いいよ」
「え?」
「行こう、日本一周」
私たちは病院を抜け出した。このまま世界一周だ!私たちは電車に乗り込んだ。どこまでも行ける気がした。でも二駅目で琴子の具合が悪くなった。周りの大人が気づいてくれて琴子は賢いから連絡先カードを持っていて、そこには担当医の連絡先も書いてあった。職員に付き添われ、救急車を待った私たちはそのまま病院に逆戻りし、私は母親に叩かれた。あんた!琴子ちゃんを殺す気?!本当に琴子が死んだら私を殺す気だったと後に母親は語った。琴子の母親は私の日本一周の話を聞き、疲れたようなどうしようもないような顔で笑った。笑うしかなかったのかもしれない。私は一人で日本一周することにした。琴子の健康を願掛けして回るのだ。そうすれば、生命線の導きで琴子は元気になるかもしれない。私はなにも考えず飛び出して、偶然出会った大人が善良なのと私ぐらい馬鹿だったので、私が日本一周をすることを手伝ってくれた。山を越え野を越え海を越え、蜜柑の木をたどり、牛だらけの村を越え、大きな城がある街を越え、わかめが落ちている港を行き、琴子に葉書を送り続けた。その途中だ。連絡があった。琴子が亡くなった。死んじゃった。
私は日本一周なんかしている場合ではなかったのだ。当然だ。もっと琴子のそばにいればよかった。
私は杉が整頓されて生い茂る山深くで伐採のチェンソーが唸る最中、どこまでも延びて行く枝の先にある空を見つめながら、真実に気づいてしまった。
琴子の死が怖かった。
泣きながら歩く私の前に、老人がやってきて、あんたどないかしたんかと言う。私がなにも言わず首を振ると、老人は袋を押し付けた。
唐揚げ弁当、食べや。
美味しいから元気出るよって。
なあ。
私の生命線は私の分しかなかった。私は笑い、老人は笑った。しわしわのどこかひんやりした掌が私の手を握る。私はそれを琴子の手のように思い、握り返したのだった。
短文13
すべてを投げ捨てて、こんなところに来てしまった。一面の海、潮風のどこかしつこいかんじ。音が広がり、夜に吸い込まれて行く。離れたところにいる陽キャの笑い声が聞こえてきては内心びくついた。しかしここで帰ってしまうわけにはいかない。目を細めて、空を見つめる。オリオン座を探した。星と星は点と点にしか思えずうろ覚えの知識は星座を作りことさえ成し遂げず、歴史と物語はただ点のまま頭上に広がっている。海と空の狭間で人は考えることを少し放棄する、振りをしているだけで実際、考えていることがあった。マグマだまりみたいに溜め込んだ結果、ぶつけてしまった○○(名前は実在上の人物なので匿名にさせていただく)への感情は晴れることなく、がむしゃらに傷つけただけだ。マグマの熱も海に来れば冷えるだろうと軽率な発想も表面だけは冷えてしこりは残っている。剥き出しすぎた感情に○○は戸惑って目を見開いた。○○とおれとの関係は一直線上に上司と部下であり、むしろおれは部下なのであり、しかし年上であって、○○は年下の優しい上司であって、立場が違えば即座セクハラ、パワハラにもなったが、上下関係における部下という点で一見分からなくなった力関係はぶつけてしまった時点でおれが明白に加害者なのである。やっちまった。オリオン座は未だ見えず、スマホを触ると発光したかのように眩しかった。話し合いましょう。いつもの穏やかで冷静な連絡が入っていた。話し合いましょう。とぼとぼと歩き出したおれは、脳内で辞表の書き方を検索する。職を失うより○○を喪うことが痛手だったが、仕方ないことであった。
また連絡が入って、今どこにいるんですか、と言われて、おれは海だよと答える。海です。何故と尋ねる叱責におれは素直にオリオン座を探しているんですと答えた。完全に頭がおかしくなった年上を、○○はあたたかい場所に行ってくださいと誘導しようとする。自殺の可能性を疑われ、コンプライアンス違反の可能性もあったが、オリオン座を探していただけにすぎず、規範を制定する人間もオリオン座のことを視野にいれては論議していないだろう。
帰って休んだら、また連絡します。月よりもぎらつくほどに光るスマホの画面をそっと落として、おれは教養のなさはロマンチシズムにも浸れないことを、潮風を浴びながら思うのだ。何もなくても夜の海は寒いし冬の海は寒かった。おれはなんとなく可笑しくなり、絶対いつか、この感情を俳句にしようと決意するのであった。
短文12
俺の親が殺したのはある分野の天才だった。なにも勢い余って愛しすぎたから、憎かったら、許せなかったから、衝動的に、八つ裂きにしたかった!とかではない。
ただそのある分野の天才をたまたま夜道で車で轢き殺してしまっただけに過ぎない。よくある事故だ、そして決定的な事故だった。親は罪を認めた。自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律における第5条違反。
親は反省していたし、車から見た信号は青だった。ある分野の天才は赤の信号を渡った。情状酌量は認められたが、やはりもとの生活には戻れなかった。ある分野の損失は大きく、嘆きと悲しみは攻撃に転じた。
俺は親戚の家に養子に出され、思いの外ぬくぬくと育った。そんなわけでバウムクーヘンの専門店を始めた。親が出してくれるおやつの中でバウムクーヘンが好きだったからだ。養子に出されて以降も自分で買ってきたバウムクーヘンを一枚一枚ちびちびと剥ぎ取り、食べながら、ある分野の天才の話をよくインターネットで検索していた。ある分野の天才が生きて研究を続けていたなら、世界は今より二十年進歩していたらしい。止まることを恐れたある分野の天才は赤信号を忌避して、そのまま車で轢かれてしまった。ある分野の天才の時間は止まり、俺の親の人生も止まった。
俺はバウムクーヘンを焼いている。大きな年輪になるように生地を巻き付け焼いていく。あんたらの時間は俺が進めてやる。そんなことを思ったような、思わなかったような気がする。大木と見間違うほどのみっちりとしたバウムクーヘンを焼き上げて、ある分野の天才の記念樹にした。それはいくつか小分けして、売られていった。時は進んでいく。俺は信号を見上げる。信号がいつでも見られる場所に店を構えた。いつでもおいで。バウムクーヘンは、幸福の象徴だった。
短文11
あなたはわたしを手に入れたが、わたしはあなたを手に入れることはできなかった。結末としてはそんな終わり方で物語としてはそんな始まり方をする。
レッドカーペットの上を真っ直ぐ歩いても称賛する観客はおらず、困りきったスタッフが曖昧に微笑むだけである。微笑みとはなんとも不確かな言葉であった。
昔から好きだよと囁いてくれていたあの人は、別の相手を選んで結婚したし、それは分かっていたつもりだった。
毛頭自分が誰かと結婚することはないと分かっていたし、誰かを好きに思ったことをわたしはなかったからだ。あの人は届かぬ告白にそのうちに疲れて、他の人を好きになった。道理だった。真実だった。わたしは誰かを好きになることはないと思っていても、誰かに好きでいられることは心地が良かった。
気持ちの良い日向で、風によって動く雲を眺めながら、風が向かう先を空想するような、不確かでのんびりと怠ける猫になったような心持ちだった。二進法で結託された過ちは、これで良かったのだと自分を怒るような囁きと一緒に刻まれていく。わたしは愛されていたのだと実感を得る、赤く染まったカーペットが、栄光の印なら、わたしがあの人を好きだったのだと証明されたようなもので、いや本当はただあの人がわたしが好きだったから、この世界で誰かに好かれることは意味があることだからあなたは立派ですよと承認された結果なのだろうか?
わたしはレッドカーペットに火をつけて右往左往するスタッフを眺めて、けらけらと笑ってしまう。
全部夢だとしても、自分の価値を好きというものに委ねるのはやめてしまおう。あなたはわたしを手に入れた。
わたしのすべてではなくとも。
わたしはあなたを手に入れることはできなかった。きっとしたくなかったからだ。そうすることは、罪悪のように思えて恥のように思えて、炎はめらめらと燃え上がり、すべてを灰にするだろう。
物語の終わりとしてはどうしたい?あの人を奪い取る?それとも別の誰かに好きになってもらう?
右往左往するのはわたしも同じで、レッドカーペットは燃えたはずなのにわたしの眼前に広げられ、囁く。
わたしはそれを月経に極親しい赤だと気づいて、丁寧に笑った。
ゆっくりとレッドカーペットを丸めていく。重たくて難しくて大変だけど、どこまでも長くその道を、丸めて、丸めて、わたしは進んで行く。二進法の歩幅で、恒久的に。その時、観客は一人だけだった。名前のしらない、瞳が小鹿みたいに澄んだ誰かだった。
短文10
拾い上げた花は枯れている。マリーゴールド。鮮やかな黄色だったのだろう、今はくすんでその影もなくぼろぼろになっている。白い息を吐き出す。トラスト・トトが現れてからと言うものの、大気の温度は下がり続けている。そういうデータはあったはだろうかとAlfonsに尋ねる。Alfonsはあります、しかし閲覧不可です。有効なIDを示してくださいと言う、有効なIDとはどんな立場の者なのか。Alfonsは答えない。トラスト・トトが何であるかを答えないように。
一連を支配したデッドブルグは、トラスト・トトによって置き換えられた。ボードゲームのようなものだ。自分がそこに駒としても上がれないだけで。
マリーゴールドを連れ帰った。家のみんなは歓迎してくれた。花瓶に挿し、水を注いだ。マリーゴールドはマリーゴールドだ。花瓶から発生した音楽がゆっくりと流れて行く、何の音?と鴨下が尋ねた、分からないよとマルチネスが応えた。きっとピアノだよとフェルノは言う、みんなの名前はバラバラで、どんな名前をつけても良かった。トラスト・トトがそう命じたからだ。
本当の名前は口に出せなくなった。旧支配制度によって作られた呪縛。ありもしない上下関係を作り、抑圧し、虐げられた者の名前だからだ。手を擦り合わせた。マリーゴールドは、マリーゴールドだ。ロミオ。ジュリエット。そうだったように。物語はずっと組み込まれている。盤上に生きている。トラスト・トト。あなたも物語の一部のはずなのに大気の温度は下がり続けている。いつかすべては凍りつく。そして爆発するに違いない、終わりはそのようにして訪れる。いつも大抵その場合は詭弁に等しい、愚か者がそうする。
Alfonsは解読し、読み込み、反発した。エラーが起きて許可を求める。試行を繰り返す。名前を入力してください。名前を入力してください。IDを証明してください。あなたは誰ですか?Alfonsは繰り返す。もう6212742499回目のことだった。
短文9
十中八九間違いやろと森永は言ったが岡田は準備を続ける、討伐の予定は立っているがそれを実行するのに当番が当たっていた。清め払え誘導する、先導役のラッパ吹きは森永の役目で、岡田はその補佐に当たる。当人にやる気がないのは残念だが、森永には才能がある。努力を積み重ねている岡田よりもそうだった、だが森永はやりたくないと駄々をこねている。
「自分がやったらええやろ」
「なんでや、お前がやれや」
お前の役目やろ、森永の言葉に眉間に皺が出来る。
「ほら持っとけ、生徒手帳。そんで俺の代わりやれ」
「森永の役目やろ」
「やりたいわけやない!」
思いの外切羽詰まった声だった。
「百鬼夜行はその為のもんやろ」
岡田は冷静だ。冷静に努めている。
「やってどないすんねん、しょーもないわ。時代遅れの遺物や」
「大事にせい。お前の生まれ持った才能に感謝して、な」
「生まれるのが間違いや」
一瞬時が冷えた。岡田は周囲を伺う。誰もいなかった。ほっと胸を撫で下ろす。
「もうええ、もうえええて」
「なにがええねん」
岡田は、息を吐いた。
「化けもん、倒さな、しまいやろ」
「俺ら、ただの人間やで」
森永は岡田も含めた。
「ちゃう、お前だけや」
「なんでそんなこと言うん」
「決まっとるからや」
「なんも決まってへんやんか………」
扉が開いた。
「お前らなにしてん。みんな、待っとんで」
担当の教師だ。
分かってます、今行きます、岡田は答えた。教師は頷く。
「生徒手帳は持ったか?」
「持ってます」
「そんならはよ来いや」
教師は森永を一瞥した。森永は目を合わせない。なにかを諦めた教師が出ていく。
「森永」
「っしゃ、やろか」
岡田は頷いた。森永はお喋りを始めた。どうでもいい話だ。岡田は準備を進める。十中八九間違いやろ。本当は岡田もそう思っていた。
2024年1月 この範囲を時系列順で読む この範囲をファイルに出力する
短文8
ぺったらぺったら、サンダルの間抜けな音を響かせる。石坂さんはいつもサンダルを履いており、そのぬぼっとした風貌にサンダルの音はマッチしているように思う。人は人が選んだもので出来ている。ぺったらと鳴らして石坂さんが立ち止まる。
「タコさんウィンナーだ」
「いいでしょう」
「いいな」
「あげませんよ」
「まさか、貰うわけには」
タコさんウィンナーですから、と石坂さんは表情の見えぬ顔で言う。タコウィンナーを箸でつまんでみて、食べようかと思ったが視線を感じて止める。座りなさいよ、と隣を叩いてベンチに誘導する。寒風の吹くぱっとしない天気の日でもベンチは結構埋まっている。じっと部屋にこもっているよりかは幾らかマシだった。
「石坂さんって、まあ、いいか」
「どういうことですか?やめてほしい」
「聞くのは失礼だなと思いました」
「名前を呼んでおいて?」
「石坂さん」
「はい」
「呼んでみました。意味のない呼ぶ行為もあります」
「………………屁理屈だなあ」
「タコさんウィンナーを食う者たるや、理論武装ぐらいしますよ」
「屁理屈でしょう」
「サンダル以外持ってるのかなと思ったんですよ」
「あー。…………失礼ですね」
「そうでしょう」
「まあ持ってても関係ないですから」
「持ってないんだ」
「持ってますけど?」
「あげますよ、タコさんウィンナー」
「いらない……………」
侮辱だ、と石坂さんは怒りだした。それを静める特効薬のようにタコさんウィンナーを石坂さんの口元に持っていく。視線の攻防があった。
「侮辱ですよ」
石坂さんがもごもご言う。
「寒いなあ」
一層冷たい風が吹き抜ける。
「サンダルもいいですよ」
「楽でしょうけど」
あなたには必要でしょうと石坂さんは言う。特効薬は未だ見つかっていない。本当にタコさんウィンナーがそうならいいのに。石坂さんは私の肩をぽんと叩いて立ち上がった。また、ぺったらぺったらサンダルの音を響かせて石坂さんが去っていく。私はと言うと空になった弁当を見つめて、まじんなりとも進まぬ研究のことを考えていた。あれはまだ人類がーー……………、
いややめておこう。
これはあなたには関係のない話であった。
短文7
「一生のお願いや」
「それ何度目の台詞や」
「そんなん言うたかてわし死にますやろ」
「死なん」
「死にそうや」
実際死ぬなと狐は考えて、その考えは猫に筒抜けだ。わかっとるやろが、と狐は言う。なんも分かってない、と猫が言う。
「撃たれたんや、お前は」
「それは分かってますわ」
血が流れていく。猫から急速に流れていく。溢れて林檎のような形をしており、林檎みたいな赤さで、林檎のように美しい。
「もうあきませんわ」
「そやろな」
「一生のお願いや」
「それはあかん」
「なんでですの、もう死ぬ言うてますわ」
「面倒やないか」
「わし死にますのやで?!」
「死なんかったらええやろ」
「あかんわ、もう目も見えませんわ」
「さいなら」
「嫌や、死にとうない」
ならず者として生きてきたならやがてはそうなるだろう。最初に足を撃たれた時点で終わりだったのだ。
「悪いことやってきたんや、しゃーない」
「わしやなくてあんたが死ぬべきや」
猫が言った。それで、死んだ。死んでもうたな、と狐は思った。まだ温もりが残っている。一応支えていた手にはべったりと血がついている。洗わなくては。他人の血液ほど汚いものはない。猫は目を瞑っている。狐は離れて歩きだした。林檎が食べたくなっていた。
一生のお願いや。猫はかつて言った。
わしが死ぬときはあんたも死んで。生きるで、と狐は言う。おれは生きる。
死んだらしまいや。
そういや、家に林檎あったな。狐は冷蔵庫に萎びた林檎があることを思い出した。
短文6
浸かっている。体温と温泉の温度は似ているかもしれないが完全に別物だろう。視線の先の浸かっているその人を、もとより人をじろじろ不遜なことなれど、よりにもって裸の女の人を見るなど逮捕案件だ。同性だからってセーフでもないだろうし。でも見ちゃう。
その人が持って浸かっているのが脳だからだ。脳が入っている透明なバッグがちゃぽんと湯に浸かっている。
視線が合う。
「………あ、」
「………」
「………あの、その、あの、お湯にバッグを浸けるのはどうかなとか……………」
語尾につれて声は小さくなった。
その人は目を細めるようにして、笑った。
「ダメですよね、ダメだと思ってました」
「あ、あ、じゃあ…………」
「やってしまいましたから」
殺ってしまいましたから?いや、違う。そんなわけはない。そうだったら怖い。
「……………」
「どうせ怒られるでしょう?だからこのままで」
どういう意味か尋ねるのが怖かった。
「一種のアトラクションと思ってください、すみません」
どうしたらいいか分からず曖昧な笑みを浮かべた。
「これ、何だと思います?」
「え、あ、……………………脳?」
「そう見えます?」
怖い。
怖すぎる。
自分が全裸なのも怖いし相手が全裸なのも怖いし、ここが温泉なのも怖い。
「えっと…………………?」
「実はこれ、脳で」
「あっはい、はは、はい、そうですよね」
「どうして笑ってるんですか?」
「え、あ、えっと、初めて見たし、脳とか」
「まあ笑うしかないですよね、私も最初はそうでした」
「あっ、で、ですよね」
「恋人で」
「あ、え、亡くなって?」
「元から脳だったんです」
「あ、え?」
「知り合ったときからこの姿で」
「へ、へえ」
「ヴィレヴァンで見つけて」
「あ、え、偽物?」
「偽物って?」
怖い怖い怖い。風邪引きそう。沈黙。脱衣場から笑う声がした。あ、そう、その手がある。私はお湯から上がった。ざぶり。湯気が立ち上る。温泉の温もりがからだの奥にある。その人は何も言わなかった。私は何かを言うのを恐れた。若い女の子が二人つれたって扉を潜る。その隙を逃さぬように、互いに遠慮しあって頭を下げながら私は脱衣場に戻った。扇風機が回転している。からからからから。女の子たちの声がぴたりと止まり、扉が開けられる。さっきの女の子たちだ。互いに目で会話する。目で。
「言ってくる」
「え、なに」
一人の女の子が言う。
「旅館の人に。だって、入れないし温泉」
沈黙。
「私も言います」
私も言い、頷いた。
決意の眼差しを交わし合う。
「…………………」
戸惑う女の子が小さく呟く。
「あれ、何?」
沈黙。誰も何も答えたくなかった。扇風機がからから回る。
「とりあえず、あの、着替えましょう」
一気に弾けるようにして着替えに走る。脱衣場に来られても怖いから。やっぱり、怖いし。浴衣を着て、整えて、行きましょう、と言う。行くしかない。がらり。扉の音に一斉にビクつくも仲居さんが微笑んだ。ごゆっくりと、言いたげで、私は困りながら言う。温泉、湯にバッグを浸けているひとがいて。女の子二人も頷く。仲居さんは、瞬いた。分かりました、確認します。ご迷惑をおかけしました。
「えっと、はい、あの」
それ以上は言えなかった。
「お願いします、温泉楽しみたいし」
女の子が言った。頷き合う。仲良しだな、と思った。仲良しだ。三人揃って風呂場を出た。あ、じゃあ、はい、あの、はい、みたいなかんじで、別れて私はとぼとぼと廊下を歩いた。私がここで人でも殺していたらきれいなオチになったのだろうが、そんなことはなかった。湯に浸かる脳は気持ち良さそうに見えた。
脳って性別あるのかな。ひどく美しかったその人を思い出す。不安定そうに微笑む、その人に恋人の脳がいるのは、そう悪いことでもなさそうだった。怖いだけで。全裸に脳は怖いだけで。服を着ていたらもしかしたらマシだったのかもしれない。トイレとか風呂とかでこういうことはやめてほしいのだ。無防備をつかれるみたいで、かなり嫌だった。
旅館備え付けの水を飲む。変な夢を見そうだなと思ったその夜、夢に出てきたピンクの脳は喋っていた。ヴィレヴァンの福袋はキーホルダーすげー入っているよ、みたいな話をしていて、温泉はあんまり好きじゃないんだと言う、見られるでしょ、裸、嫌だよね、そんなとこ、行くもんじゃないよ、脳だしさ。脳って裸じゃん。
薄暗い天井を見上げて、私はそうか?と思った。透明なバッグがなかったらセーフだったのかも。
それから、その人や脳がどうなったかは、なにも分からないのだった。
短文5
自転車のブレーキを握る。オイルが足りていないのか、金切り声を立てて自転車は止まる。眼前に車が走り抜けていく。こちらの蛮行を咎めるごとく鋭い風が顔に当たった。冒険の一歩目として事故に遭おうとして、誰が困るかというと運転手で、それはあんまりよろしくなかった。未知にたどり着くのに、不誠実で乱暴なのはよくはない。現在タイム・トラベルができるとしても、ほんの僅かな過去に戻るだけらしい。宇宙から時間の軸を見据えてこの世の法則が詰まっていると解明に必死な人類は宇宙を過大評価している節があり、宇宙の一部である地球にすら翻弄されているのに、古い付き合いの恋人を捨てて新しい恋に目移りしているように思えることもある。それは感傷だと数学には載るまいが人類の歴史と研鑽を重ねた数学を答えだと見る方が些か感傷じみているとも思う。不定である言葉の定義はグロテスクで、生身の肉体に似ており、異世界に行きたい自分はゆっくりとべダルをこいだ。未知の扉だ冒険だと嘯いて、見かけるものの一切入ったことない地元の古い喫茶店に足を踏み入れて、顔を上げた店主の誰だ?という不審な表情を見てかっと上がる体温と同居することになる。客は客だが客と不審者は大概同じのようなものである。自分は不審者ではないと、客は果たしてどう証明するのか。やっつけの引き笑いでいいですか?と裏返る声に、店主は仕方なしに頷いたように見えた。他の客が来る前に帰ろうと腰かけた椅子は軋んでおり、古ぼけた絵柄の絵画が、昔はやった画家の筆致をしており、いつか見た景色の建物は自分の記憶にないものだ。手作りの布飾りは生き物の形をしており、ミニトイプードルの眼差しはつぶらだ。
「お待たせしました」
コーヒーいれることと飲むことは客をもてなす行動にしかなりえず、そこのプロセスに至る自分は店主から見て客であり、自分から見ると自分の家ではない場所でコーヒーをいれてくれる人は店主である。知らない人だったらどうしよう。実際知らない人だ。テーブルにフレッシュとスティックシュガーが備え付けられており、両方混ぜて飲むとコーヒーだと言う味がした。店主は客こと他人である自分を見るのは止めて、雑誌を開いて読みはじめた。かつて流行った曲をオルゴールでアレンジしたBGMが流れており、どこか夢に見た光景であった。覚えのない景色を確かに覚えており、しかしこの光景はどこかで見たはずである。他と類似性がありすぎる凡庸な風景は自分のリアルであって脳が認識する光景であり、さっき感じた通りすぎる車の風を思い出す。
本当は死んでいたりして。
コーヒーの苦味と砂糖の甘さを感じる。フレッシュの存在はこういう時あまりに薄く、この丸さがそうなのか、それとも視覚的効果なのか、疑ってしまう。数字と言葉が相反するなら音楽は真実に尤も近い振りをする。
「百回目だよ」
軋んだ声がして、扉が開く。発した男は自分を見て、不審者を見つける顔をした。店主の低い声で応じる声がして、カップの中に残っているコーヒーを一気にのみ干して、そそくさと代金を支払う。ふっと店主が微笑んだ。
「また来てよ」
しっかし、本当なのかよ、と店主は続ける。言葉の対象は自分ではなく、自分の前には相棒の自転車がある。百回目だよ。いいや、まだ一回目だ。ペダルを漕ぐ。循環する車は、不規則で、人たちがあまりにも生活しており、煮詰めた果てに異世界は眠っている。おおむね事故とは非日常であり、宇宙に広がるもやの名前は頭から抜け落ちた。
響き渡る子供の絶叫がして、事件性はなく、ただの雄叫びだ。きゃらきゃらと笑う声がして、通りすぎた言葉は外国語で熱心におしゃべりしていた。迎合。ペダルを漕ぐ。自損事故ならまあいいか。それは乱暴な結論で、空きっ腹にコーヒーがたぷたぷと揺れていた。
短文4
葡萄を引っ搔いた爪は紫に染まった。ぷつりと滲んだ果汁を狐が舐める。それは酸っぱかったのか、狐は顔をしかめる。大体のところと出し抜けに言い始めた猫は帳簿を眺めて、使いすぎやないですか?と言う。使っとらんで、と狐は言う。酸っぱかった葡萄を口に含んだ。酸味がきつい。痺れにも似た舌の心地を抜けると美味いかもしれないとも思う。屋敷を管理していた分の遺産は、底をつき始めている。土台親の金ならなくなってしまってもいいかもしれないとも思う。猫が眼鏡をかける。最近小さい文字が見えにくくなっている。狐の文字は几帳面で小さい。びっちりと書き込まれている。几帳面な可笑しさが数字には詰まっている。相場より出費が高いのは人の良さをつけこまれてあらゆるものの値段がふっかけられているからと判断できる。最もメインの出費は本で、狐の趣味による図書館運営がうまくいっていないのが一番の問題だった。屋敷の一角を図書館に改装したものの貸本屋でもないのだし、元より利益が見込めるものではない。出費だけが嵩んでいく。その上、狐は他に働いたり、収入を得るものがない。親の遺産を食い潰しているだけだ。狐が葡萄を食べる。覇気のない顔を猫はレンズ越しに見つめる。どないしますの、と尋ねる。狐はどないすんねやろ、と他人事のように言う。
「葡萄でも作りまっか」
「出来るんか?」
「あんたの本になんぼでも方法が載ってるやろ」
「あー。載ってるのは大抵殺しの方法や」
「探偵が解決しますねんやろ?意味ないやんか」
「殺すだけやったらあかんやろ」
「あきませんか」
「あかんよ、それは」
「そんなら、旦那さんのはええんですか」
狐は目を細めた。覇気のない顔に瞳だけが一瞬ぎらついた。猫は瞳孔を細め、歯を見せて笑った。
「冗談ですわ」
「…………ひとつ頼むわ」
「ええでっしゃろ。借金だけないのが救いですわ」
猫は不慮の事故で亡くなった狐の両親のことを考える。狐は、葡萄を差し出した。最後の一粒。紫の爪。
「いりませんわ」
「食うてや」
「酸っぱい顔してますやん」
「せやから、美味いんや」
「難儀やなあ」
猫は受け取って葡萄を食べた。
「酸っぱ!」
「せやろ」
「どこが美味しいんですか」
「……ま、その内美味くなるわ」
狐はソファに沈み込んだ。猫は帳簿を鞄にし舞い込む。
「そんなら、また連絡しますわ」
このままこの人死にそうやなと猫は思った。狐はなにも興味がないように目を閉じた。ここ一帯に葡萄の木が広がる土地を想像する。その根本に狐は埋まっているのかもしれない。
「甘い葡萄食べたことあります?」
猫は尋ねた。狐はぼんやりと目を開けた。
「知らん」
まだおるんかという顔をする狐を若干憎たらしく思いながら猫はかけたままだった眼鏡を外した。
部屋からでる間際に独り言のように狐が言った。聞こえなくても問題ないと言う風だった。
「食いたいんやったら買うてきたる」
猫は眉をしかめる。もうなにも言うことはないと、背を向ける。酸っぱさが咥内に残っている。舌先が痺れている。毒でも構わなかった。という夢を見ただけだ。という夢を。
短文3
手当たり次第に撃ち込んだ、さながら散弾銃の風格で。現実的にはそれはネコパンチだ。失礼、かわいく言いすぎだ。しかし徒手空拳というのも、なにか違う。暴れるほど暴れ果て、掴んだものは外れた宝くじのようものだ、何が言いたいかって?ノイズは仕方ない。ノイズを除去するイヤホンも忘れた。お買い得です!声が聞こえる。声を張り上げて店員が叫んでいる。お買い得です!セールです!今だけ!期間限定!ざわざわとしたノイズに再び戻る。彼女がやってきて、やってきて、隣に並んで、お買い得、と言った。見ますか、と僕は言い、彼女は首を傾げた。お買い得って大変だから、と彼女は言う。まあ確かに。
ノイズは広がって、僕は散弾銃を持つ。比喩だ。心としてそうだから、そう言う。散弾銃を持つ。本当はどんなものかよく分からない。マシンガンとはどうも違うらしい。彼女は見たい映画があるんですと言う。アクション。スターンローンの。機関銃。その機関銃なのか?僕は握る。彼女の手を。彼女は握り返す。スターンローンの映画を観に行こう。ノイズがやってくる。僕は歩き出す。彼女は歩き出す。お買い得です!
「あの店、見たいです。何がお買い得なのか、本当は知りたくて」
彼女は笑った。
「実は私もそうです。あんなに必死に言ってるから、すごいものがありそうじゃないですか」
「本当に。で、映画も見ましょう」
機関銃は置いていなかった。猫のかわいい靴下が置いてあって、彼女は困った顔をして、困ったと言うから僕は少し笑った。
短文2
フォークをここに置いたんか、と嘆きのリズムで言われて、そやけどなんやと食事を続行する。ここに置いてもうたらもうどうにもならんと佐久山さんが項垂れた。美味いで、とポテトを差し出す。そんなもん見たら分かるわと佐久山さんが言った。見ても味は分からんやろと言うとアホやな、よーちゃんは、と言われる。心外に思えて熱心にポテトを差し出す。佐久山さんは口を開けてポテトを食べた。繁殖しとるな。
「え?」
「ほら繁殖してるで」
無数に広がる穴が風に吹かれて散った花びらみたいに増えている。
「フォークのせいやで」
「ポテトにフォーク使うやろ」
「そやけどさあ」
一定のテーブルマナーが流行ってしまった所為で単純な世界はそれを規律としてしまった。最初そのテーブルマナーが出てきたのはテレビでキャラ付けされたとんちきなお姉さまだったのだが、すっかり洗脳された世界はこれを常識と変換し、規定の通りにしなければ逸脱した行動を取るようになった。私は穴にフォークとポテトを落として手打ちにした。美しい鈴のような音が響いて、ポテトはなくなってしまった。
「なんでや?!」
「美味かったんやろ」
「そりゃ、美味いわ」
「残念やなあ」
佐久山さんはにやにやと笑っている。落としてなくなってしまったフォークを引き出しから取り出し、テーブルマナーに沿って丁寧に置いた。穴は徐々に小さくなり消えていく。
「ポテト食べたいなあ」
「しょーがなしやで」
佐久山さんはニヤリと笑う。これからポテトを買う旅に出てくれるらしい。私は指についていた塩を舐めた。単純な世界の気持ちは少しは分かるつもりだ。フォークは静かに待っている。次のテーブルマナーが動くのを。それを待たずに私たちは車に乗り込んだ。いざ行かん。
こうして、長い旅路が始まった。
短文1
タケルに明日って常用漢字だっけ、と言われて俺はつい考え込んだ。
「常用漢字って何だっけ」
「常用漢字ってそりゃほらあれだよ」
「常用漢字もわかんないのに、常用漢字のこと気にするなよ」
「ちょっとしつこいんだけど」
うっとおしそうにタケルが目を伏せた。は?こっちは聞かれたから答えようとしただけですが?と思ったが、しかし常用漢字にも何の思い入れもないのだ。こんなことでまた喧嘩するほど常用漢字に義理立てする必要もない。
「明日だからそうだろ」
「何が?」
「だから」
だから、と繰り返して、もういいんだよ、常用漢字のことは。結局言わず口を閉じると、タケルが言う。
「明日何すんの」
「明日って、別に仕事だけど」
「何してんのここで」
お前が呼んだからだけど?!帰ろう。タケルに呼ばれて近所の公園まで出向いたが意味はなかった。俺の正義は支持されている。そこの通りすがりのおじさんにだって認められるはずだ。同士のつもりで微笑みかけ、薄気味悪そうに目を逸らされ、大体正義とはそういうものだから、俺はスマホをリュックにしまい込み、立ち上がった。
「じゃあな」
「は?」
「はぁ?」
「うっざ」
「はぁ……………」
目を細める。タケルはスマホに目を落としてタップしてメッセージを送っている。すこしの間その姿を眺めていたが俺はやっぱり帰ることにした。顔を上げると通りすがりの女の人がタケルに視線を送り、見惚れる瞬間を見つける。よくあることだ。
「おい、明日は常用漢字なのかって聞いてんだろ」
ドスが効いた声でタケルが話しかけてきた。
「明日になれば分かるんじゃない?」
明日の話ならさ。
俺はさっさと帰って、部屋のベッドに寝ころびながらスマホで調べてみた。明日、常用漢字。驚いたことにあすとあしたで違うらしい。漢字で書くと同じなのに。
タケルはこれを言いたかったのか?俺はどうだろうと思う。どうでもよかったはずだ。俺だってどうでもいい。
全部明日になれば分かるだろう。
義理立てするものは、もう何もなかった。
片隅にて。攻略ページ。
ルート分岐がわかりにくい点があるので、記載しておきます。
完全ネタバレになるので続きからどうぞ。
《授業の選択肢によって「ロウ」のtypeが変わります》
点数の合計によってtypeが変わります。
①
そう思う:10
そう思わない:20
答えない:30
②
そう思う:20
そう思わない:10
答えない:30
③
そう思う:30
そう思わない:10
答えない:20
④
そう思う:10
そう思わない:20
答えない:30
⑤
そう思う:10
そう思わない:30
答えない:20
type:戦士 ▶80点以下
type:軍略家▶90点~120点の間
type:研究者▶130点以上
放課後の選択肢で変動はありません
ほろたの技術と管理の限界につき出来ませんでしたが、同僚を選んでいると同僚のEDで一言追加があります
《二週目ED》
ロウのENDをどのtypeでもいいので一度見た後で五日目の夜に「立ち止まる」を選択するとオートで分岐します
その為ロウの他のtypeを見たい時には「もう休む」を選んでください。
畳む
母が女性と再婚するらしい。砂糖の入った衣がついた芋の天ぷらを食べながら母がそんなことを言い、まあいいんじゃいと答えた。お互い成人してるし、特に反対する理由はなかった。母は嬉しそうに微笑んだ。不意にどこか悲しみの面持ちになって、でも私が結婚する相手はちょっと特別だからもうあなたと会えないかもしれない、と続けた。不穏じみた台詞に、改めて母の結婚相手のことを聞いた。素朴で芯が強くて優しい人。仕事は?仕事はしてるの?すごく大変な仕事。会うことはできる?ちょっと聞いてみる、と母は携帯を手に取った。そこに花のかたちのお守りがぶら下がっていた。見覚えがあった。家から十分ほどの場所にある、長い長い階段を上がった先にある古い神社のお守りだ。お守りがかわいいから、SNSでバズったことがある。私たちには馴染みのものだった。そこにあることに違和感はなかったが、不思議な感じだった。母とお守り。母は、そういったものが嫌いだったはずだ。苦労して努力してお金を稼いで私を育てたから、世間への苛立ちのようなものだと勝手に感じていた。
「いいって」
「え?」
「サキさん、会ってくれるって」
サキさん。それが母の結婚相手だった。
サキさんは近所に住んでいるらしく、十分ほどで家に来てくれた。
さっぱりとした雰囲気の美人で目力が凄かった。年は母と同じくらいに見えた。互いに母に紹介されて、挨拶をかわす。
「母をよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
何を話せばいいのか、互いに分からなかった。嫌な沈黙ではなく、どこか気恥ずかしかった。
「聞いてるかな?私とのこと」
「いえなにも」
「それなのに結婚受け入れてくれたの?」
「母個人のことなので」
「さすが、みっちゃんの子供だね」
「そう?」
「そうだよ」
でも、とサキさんは面持ちを変えた。「今から言うことは本当だよ」そう言って、話してくれたのは、サキさんが実は神社にまつられている神様で、母を身請けし、二人で一旦神の世界にこもると言う話だった。一瞬教養のあるひとのジョークかと思ったがサキさんは真面目だし、母は否定しなかった。私は困惑した。
「つまり、どういうこと?」
「だから、人からみると、三途の川を渡るようなことだよ」
「母は死ぬってことですか?」
「厳密には違う。でもこの世界では同じようなものだよ」
はあ、と気の抜けた声が出た。
私は母をじっと見た。母はいつものように座っていた。
「まあ、じゃあそういうことで」
「え」
「お母さんそれでいいんだよね?」
「うん」
「まー、じゃ、はい」
「いいの?」
サキさんが私と母を見比べた。
「君たち、私が悪い奴だったらどうするんだ」
「その時はその時かも、ねえ」
「ねえ」
そうだったら母がボケても蒸し返します、と私は言い、母は忘れてるからいいわあ、と言った。サキさんは呆れ果て、笑い、有り難うと言った。
「大事にするよ、します、幸せにします」
「よろしくお願いします」
私たちはその後大谷翔平の話をして、犬を飼うのはどうかという流れになり、なあなあで解散した。
そして、母は結婚し、いなくなった。
誰もいなくなった部屋はがらんとしており、私は別の場所で暮らしているから、部屋は今月中に引き払うことになっている。引っ越す準備をしていた名残はあるが、ある日忽然と姿を消した、ように見える。それは間違いではないのだろう、これは神隠しでもあるのだから。
私は砂糖の入った衣の芋の天ぷらが食べたくなる。一人で作ってみたが、なんだか巧くいかなかった。それでも、一人で乾杯した。
神様が不在になった神社には近々代理のものがくるらしい。
本当のところ、何もかもよく分かってないが、私は母のことさえ、よく分かってないから、それは当然と言えた。
母よ、結婚おめでとう。