全年2月2日の投稿[2件]
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短文11
あなたはわたしを手に入れたが、わたしはあなたを手に入れることはできなかった。結末としてはそんな終わり方で物語としてはそんな始まり方をする。
レッドカーペットの上を真っ直ぐ歩いても称賛する観客はおらず、困りきったスタッフが曖昧に微笑むだけである。微笑みとはなんとも不確かな言葉であった。
昔から好きだよと囁いてくれていたあの人は、別の相手を選んで結婚したし、それは分かっていたつもりだった。
毛頭自分が誰かと結婚することはないと分かっていたし、誰かを好きに思ったことをわたしはなかったからだ。あの人は届かぬ告白にそのうちに疲れて、他の人を好きになった。道理だった。真実だった。わたしは誰かを好きになることはないと思っていても、誰かに好きでいられることは心地が良かった。
気持ちの良い日向で、風によって動く雲を眺めながら、風が向かう先を空想するような、不確かでのんびりと怠ける猫になったような心持ちだった。二進法で結託された過ちは、これで良かったのだと自分を怒るような囁きと一緒に刻まれていく。わたしは愛されていたのだと実感を得る、赤く染まったカーペットが、栄光の印なら、わたしがあの人を好きだったのだと証明されたようなもので、いや本当はただあの人がわたしが好きだったから、この世界で誰かに好かれることは意味があることだからあなたは立派ですよと承認された結果なのだろうか?
わたしはレッドカーペットに火をつけて右往左往するスタッフを眺めて、けらけらと笑ってしまう。
全部夢だとしても、自分の価値を好きというものに委ねるのはやめてしまおう。あなたはわたしを手に入れた。
わたしのすべてではなくとも。
わたしはあなたを手に入れることはできなかった。きっとしたくなかったからだ。そうすることは、罪悪のように思えて恥のように思えて、炎はめらめらと燃え上がり、すべてを灰にするだろう。
物語の終わりとしてはどうしたい?あの人を奪い取る?それとも別の誰かに好きになってもらう?
右往左往するのはわたしも同じで、レッドカーペットは燃えたはずなのにわたしの眼前に広げられ、囁く。
わたしはそれを月経に極親しい赤だと気づいて、丁寧に笑った。
ゆっくりとレッドカーペットを丸めていく。重たくて難しくて大変だけど、どこまでも長くその道を、丸めて、丸めて、わたしは進んで行く。二進法の歩幅で、恒久的に。その時、観客は一人だけだった。名前のしらない、瞳が小鹿みたいに澄んだ誰かだった。
俺の親が殺したのはある分野の天才だった。なにも勢い余って愛しすぎたから、憎かったら、許せなかったから、衝動的に、八つ裂きにしたかった!とかではない。
ただそのある分野の天才をたまたま夜道で車で轢き殺してしまっただけに過ぎない。よくある事故だ、そして決定的な事故だった。親は罪を認めた。自動車の運転により人を死傷させる行為等の処罰に関する法律における第5条違反。
親は反省していたし、車から見た信号は青だった。ある分野の天才は赤の信号を渡った。情状酌量は認められたが、やはりもとの生活には戻れなかった。ある分野の損失は大きく、嘆きと悲しみは攻撃に転じた。
俺は親戚の家に養子に出され、思いの外ぬくぬくと育った。そんなわけでバウムクーヘンの専門店を始めた。親が出してくれるおやつの中でバウムクーヘンが好きだったからだ。養子に出されて以降も自分で買ってきたバウムクーヘンを一枚一枚ちびちびと剥ぎ取り、食べながら、ある分野の天才の話をよくインターネットで検索していた。ある分野の天才が生きて研究を続けていたなら、世界は今より二十年進歩していたらしい。止まることを恐れたある分野の天才は赤信号を忌避して、そのまま車で轢かれてしまった。ある分野の天才の時間は止まり、俺の親の人生も止まった。
俺はバウムクーヘンを焼いている。大きな年輪になるように生地を巻き付け焼いていく。あんたらの時間は俺が進めてやる。そんなことを思ったような、思わなかったような気がする。大木と見間違うほどのみっちりとしたバウムクーヘンを焼き上げて、ある分野の天才の記念樹にした。それはいくつか小分けして、売られていった。時は進んでいく。俺は信号を見上げる。信号がいつでも見られる場所に店を構えた。いつでもおいで。バウムクーヘンは、幸福の象徴だった。