No.50, No.43, No.42, No.41, No.35, No.33, No.31[7件]
短文19
夕暮れを注いだお茶を神たちがゆっくりと飲み干した。これで朝から続いた宴は終わりだ。ほっと彼女は一息ついた。
「今夜は上弦の月らしい」
「いいな」
「美味そうだ」
「夜まで待つのもいいね」
「そうしましょうか」
彼女は目を見張った。
「もうありません、何も!」
「何もとは?」
「何もじゃないかね」
「何一つの間違いかい?」
「そうなのでしょう」
「何も」
「何もないか」
神々は笑った。
「創ればいいさ」
「破壊する方が先だろう」
「過剰になればどの道壊れるさ」
「適正があるべき姿だ」
「どうとでも構わぬ」
「酒はあるだろう」
彼女は声を張り上げた。
「明後日には!あります!」
「明後日」
「今日でもなく」
「明日でもなく」
「一昨日でもなく」
「明後日さ、明後日と言っている」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
なら、明後日だ、と合意になった。彼女はほっとする。夕暮れも残り少なくなった。明後日にはなんとかなるだろう。ちゃぷちゃぷと満ちた空から波が引いていく。くわんくわんと鳴く宵鳥が、神々を促した。神々は、名残惜しそうに器を舐めたり、膝を掻いたりして、しばらく腰を上げなかったが、彼女がフライパンを慣らして、鋭く促すと文句を言いながら立ち上がり始めた。揺れる大地を踏みしめながら、彼女はお帰りの準備をして、照らすことを忘れた炎がゆっくりと呼吸した。短めに訪れた月が、ひもを大きく引っ張ると神々はよっこいせとばかり、元いた場所に帰っていく。ぱたぱたと羽ばたく式神を、手早く片付けながら彼女はほっと息を吐いた。頭上にはヨダカがいる。忘れた頃に訪れる嘶きを、あやしながら、静かに幕引きとなった。
彼女はぽたぽたと急須からこぼれた夕暮れを舐めとると、大きく伸びをして寝転がった、ああ、明後日だ。ぐるりと指を動かして、彼女はことさらそれがゆっくりくるように仕向ける。
こぼれ続ける夕暮れは、にわかに鈍く光り続けていた。
夕暮れを注いだお茶を神たちがゆっくりと飲み干した。これで朝から続いた宴は終わりだ。ほっと彼女は一息ついた。
「今夜は上弦の月らしい」
「いいな」
「美味そうだ」
「夜まで待つのもいいね」
「そうしましょうか」
彼女は目を見張った。
「もうありません、何も!」
「何もとは?」
「何もじゃないかね」
「何一つの間違いかい?」
「そうなのでしょう」
「何も」
「何もないか」
神々は笑った。
「創ればいいさ」
「破壊する方が先だろう」
「過剰になればどの道壊れるさ」
「適正があるべき姿だ」
「どうとでも構わぬ」
「酒はあるだろう」
彼女は声を張り上げた。
「明後日には!あります!」
「明後日」
「今日でもなく」
「明日でもなく」
「一昨日でもなく」
「明後日さ、明後日と言っている」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
「うむ」
なら、明後日だ、と合意になった。彼女はほっとする。夕暮れも残り少なくなった。明後日にはなんとかなるだろう。ちゃぷちゃぷと満ちた空から波が引いていく。くわんくわんと鳴く宵鳥が、神々を促した。神々は、名残惜しそうに器を舐めたり、膝を掻いたりして、しばらく腰を上げなかったが、彼女がフライパンを慣らして、鋭く促すと文句を言いながら立ち上がり始めた。揺れる大地を踏みしめながら、彼女はお帰りの準備をして、照らすことを忘れた炎がゆっくりと呼吸した。短めに訪れた月が、ひもを大きく引っ張ると神々はよっこいせとばかり、元いた場所に帰っていく。ぱたぱたと羽ばたく式神を、手早く片付けながら彼女はほっと息を吐いた。頭上にはヨダカがいる。忘れた頃に訪れる嘶きを、あやしながら、静かに幕引きとなった。
彼女はぽたぽたと急須からこぼれた夕暮れを舐めとると、大きく伸びをして寝転がった、ああ、明後日だ。ぐるりと指を動かして、彼女はことさらそれがゆっくりくるように仕向ける。
こぼれ続ける夕暮れは、にわかに鈍く光り続けていた。
短文18
「思わなかった?」
加藤が言う。
「アフリカの子供が水を汲みにいく写真。あれみて、大変だなって思ったけど、アフリカのひとって体力があるんだなと思ったのよ」
「なにも覚えてないなあ」
篠坂は事務作業を進めていく。
「でも大人になって、本にかいてあったけど泣いたりしんどすぎて吐いたりする子もいるんだって。それ、読んでやっぱりつらかったんだ、てショックでさ」
加藤はシュレッダーをかけてゆく。いるないもの、いるもの、いらないけど、困らないもの。困るものは細切りに細かくなってゆく。キャベツの千切りに似ている。
「まあしんどいよね」
「しんどいでしょ?」
「アンドーナツ、残ってるよ、食べないの?」
「甘いじゃん」
「甘いけどね」
食べなよ、と篠坂は言う。なくならないでしょ。加藤は顔をしかめた。
「太るんだってば」
「アンドーナツ一個じゃ太らないよ」
「篠坂は痩せてるからじゃん」
「加藤も痩せてるよ」
「どこが」
加藤は苛立ったようにシュレッダーに書類を差し込む。異変を知らせる音がした。
「最悪、詰まった」
「貸してみなよ」
篠坂は加藤を退かす。手際よく紙詰まりを直して、ほらと言う。
「やる気なくなった」
「元からないじゃん」
「ないよ!けどさ、嫌って言わないとわかんないのかも。大抵のコトはさ」
「アンドーナツ食べなよ」
「嫌だって」
篠坂は嫌味ったらしくため息を吐き出す。もういいよ、と言ってアンドーナツを食べる。咀嚼音を加藤はシュレッダーの音で潰した。
「嫌だな」
「ほんと、さあ、手を動かしてよ」
「これでいいの?」
篠坂は言う。
「関係ある?」
加藤は黙りこんだ。
篠坂は鳥かごの中の鳥みたいだ。
「鳥って飼い主を恋人って思ってるんだって」
「不倫なのにね」
加藤は篠坂を見た。篠坂は事務作業に戻っている。指についた砂糖を舐め、紙を捲る。そういうことじゃないじゃん、と加藤は人知れず呟き、シュレッダーの音でまた潰した。
「思わなかった?」
加藤が言う。
「アフリカの子供が水を汲みにいく写真。あれみて、大変だなって思ったけど、アフリカのひとって体力があるんだなと思ったのよ」
「なにも覚えてないなあ」
篠坂は事務作業を進めていく。
「でも大人になって、本にかいてあったけど泣いたりしんどすぎて吐いたりする子もいるんだって。それ、読んでやっぱりつらかったんだ、てショックでさ」
加藤はシュレッダーをかけてゆく。いるないもの、いるもの、いらないけど、困らないもの。困るものは細切りに細かくなってゆく。キャベツの千切りに似ている。
「まあしんどいよね」
「しんどいでしょ?」
「アンドーナツ、残ってるよ、食べないの?」
「甘いじゃん」
「甘いけどね」
食べなよ、と篠坂は言う。なくならないでしょ。加藤は顔をしかめた。
「太るんだってば」
「アンドーナツ一個じゃ太らないよ」
「篠坂は痩せてるからじゃん」
「加藤も痩せてるよ」
「どこが」
加藤は苛立ったようにシュレッダーに書類を差し込む。異変を知らせる音がした。
「最悪、詰まった」
「貸してみなよ」
篠坂は加藤を退かす。手際よく紙詰まりを直して、ほらと言う。
「やる気なくなった」
「元からないじゃん」
「ないよ!けどさ、嫌って言わないとわかんないのかも。大抵のコトはさ」
「アンドーナツ食べなよ」
「嫌だって」
篠坂は嫌味ったらしくため息を吐き出す。もういいよ、と言ってアンドーナツを食べる。咀嚼音を加藤はシュレッダーの音で潰した。
「嫌だな」
「ほんと、さあ、手を動かしてよ」
「これでいいの?」
篠坂は言う。
「関係ある?」
加藤は黙りこんだ。
篠坂は鳥かごの中の鳥みたいだ。
「鳥って飼い主を恋人って思ってるんだって」
「不倫なのにね」
加藤は篠坂を見た。篠坂は事務作業に戻っている。指についた砂糖を舐め、紙を捲る。そういうことじゃないじゃん、と加藤は人知れず呟き、シュレッダーの音でまた潰した。
短文17
「おお、天使じゃん」
花森が言う。マブイ人でもいるのかと思ったら白い羽根が生えた白い服の人がいて、どこか疲れきったように項垂れてベンチに座っている。時々通りすがる人たちは一瞬ぎょっとしながら、関わるのを避けるように顔をそらし歩いていく。花森が声かけてみようぜと言う、声かけてどうすんだよ、と僕は言う。
「天使が困ってるなら助けないとだめだろ!」
「あれはほんとに天使なのか?」
「どちらにせよ困ってそうなら気になるだろ」
「いきなり殴りかかってきたらどうするの!」
「大丈夫、俺、喧嘩強いし」
「それはそうだけど………」
暴力は優しさを助けるのか?花森はささっと天使らしきひとに声をかける。
「こんにちは。どうかしましたか?」
「@@%%!/③\○③『『『『」
「え?」
[[ー.!!.・・ あっすいません」
「いいえー」
花森は笑う。図太くてすごい。花森のそばにいると自分らしさを見失い溺れそうになる。
天使らしきひとは一旦咳払いし、
「この通り、充電が切れてしまったみたいで」
今の翻訳もうまくいかなかったみたいで、となにかの箱を背中からごっそり取り出した。全面黒のブラックボックスみたいだ。
一体これはなんなんだ。
花森は気にしない。
「スマホのバッテリーでいけます?typeCなんですけど、俺の」
「えぇ?なんですか、こわい」
「あ、あのー!」
「はい?」
思いきって声を上げる。天使らしきひとは疲れた顔をしているが、無理矢理微笑んだ。
その箱なんだとは聞けず、日和って言う。
「もしかして、天使なんですか?」
「はぁ、そうですが……仕事の依頼ですか?」
「仕事?!仕事ってなに?」
「色々です、人間のコーチングを主にやっていますが恋のおまじないとか、悪魔払いとかもやってて、料金は」
「あ。いえ、いいです。お金ないので」
天使は微笑んだ。
営業的アルカイック・スマイルだ。
「やっぱ天使だったじゃんよ!」
「自称ね」
「あの、充電」
「あ!typeCでいけた?」
「単3電池は?」
「単3電池?」
「ないです」
「バッテリーじゃだめ?」
「ここ、いれるから、だめなんです」
天使の人が箱の蓋をぱこんと開けた。別のものをいれるとパチパチするんです、と言う。
「はい!パチパチするとどうなるんですか?!」
花森が手を上げる。
天使のひとは目を伏せた。
「すごく痛いんです、羽からずっとパチパチしてて」
「それはひどいな、じゃあ俺!買ってくるっすよ!単3電池!待っててください!」
花森が走り出す。どこへ?と思ったがたぶんコンビニだ。そんな感じがする。
天使のひとと二人きりになると途端気まずい思いがした。通行人にはじろじろみられるし、花森の雰囲気で持っていた場が途端静まり返った。
「どうぞ、良かったら」
「あ、すいません………」
天使のひとがずれて、ベンチの隙間を空けてくれた。座ると背中に天使のひとの羽根が当たる。思いの他力強く硬かった。
「一応………」
天使のひとが名刺を差し出す。文字は読めないが数字はアラビア数字だった。どうやら電話番号らしい。
「恋のおまじないなら、手頃なお値段なので」
アルカイック・スマイル再び。
「そういうんじゃないですから……」
天使のひとは微笑んでいる。
僕はもう会話すまい、と真正面を向いて黙っていると花森が帰ってきた。
「これ!買ってきた!」
「ばか!単4だろこれ!」
お約束だ。
「おお、天使じゃん」
花森が言う。マブイ人でもいるのかと思ったら白い羽根が生えた白い服の人がいて、どこか疲れきったように項垂れてベンチに座っている。時々通りすがる人たちは一瞬ぎょっとしながら、関わるのを避けるように顔をそらし歩いていく。花森が声かけてみようぜと言う、声かけてどうすんだよ、と僕は言う。
「天使が困ってるなら助けないとだめだろ!」
「あれはほんとに天使なのか?」
「どちらにせよ困ってそうなら気になるだろ」
「いきなり殴りかかってきたらどうするの!」
「大丈夫、俺、喧嘩強いし」
「それはそうだけど………」
暴力は優しさを助けるのか?花森はささっと天使らしきひとに声をかける。
「こんにちは。どうかしましたか?」
「@@%%!/③\○③『『『『」
「え?」
[[ー.!!.・・ あっすいません」
「いいえー」
花森は笑う。図太くてすごい。花森のそばにいると自分らしさを見失い溺れそうになる。
天使らしきひとは一旦咳払いし、
「この通り、充電が切れてしまったみたいで」
今の翻訳もうまくいかなかったみたいで、となにかの箱を背中からごっそり取り出した。全面黒のブラックボックスみたいだ。
一体これはなんなんだ。
花森は気にしない。
「スマホのバッテリーでいけます?typeCなんですけど、俺の」
「えぇ?なんですか、こわい」
「あ、あのー!」
「はい?」
思いきって声を上げる。天使らしきひとは疲れた顔をしているが、無理矢理微笑んだ。
その箱なんだとは聞けず、日和って言う。
「もしかして、天使なんですか?」
「はぁ、そうですが……仕事の依頼ですか?」
「仕事?!仕事ってなに?」
「色々です、人間のコーチングを主にやっていますが恋のおまじないとか、悪魔払いとかもやってて、料金は」
「あ。いえ、いいです。お金ないので」
天使は微笑んだ。
営業的アルカイック・スマイルだ。
「やっぱ天使だったじゃんよ!」
「自称ね」
「あの、充電」
「あ!typeCでいけた?」
「単3電池は?」
「単3電池?」
「ないです」
「バッテリーじゃだめ?」
「ここ、いれるから、だめなんです」
天使の人が箱の蓋をぱこんと開けた。別のものをいれるとパチパチするんです、と言う。
「はい!パチパチするとどうなるんですか?!」
花森が手を上げる。
天使のひとは目を伏せた。
「すごく痛いんです、羽からずっとパチパチしてて」
「それはひどいな、じゃあ俺!買ってくるっすよ!単3電池!待っててください!」
花森が走り出す。どこへ?と思ったがたぶんコンビニだ。そんな感じがする。
天使のひとと二人きりになると途端気まずい思いがした。通行人にはじろじろみられるし、花森の雰囲気で持っていた場が途端静まり返った。
「どうぞ、良かったら」
「あ、すいません………」
天使のひとがずれて、ベンチの隙間を空けてくれた。座ると背中に天使のひとの羽根が当たる。思いの他力強く硬かった。
「一応………」
天使のひとが名刺を差し出す。文字は読めないが数字はアラビア数字だった。どうやら電話番号らしい。
「恋のおまじないなら、手頃なお値段なので」
アルカイック・スマイル再び。
「そういうんじゃないですから……」
天使のひとは微笑んでいる。
僕はもう会話すまい、と真正面を向いて黙っていると花森が帰ってきた。
「これ!買ってきた!」
「ばか!単4だろこれ!」
お約束だ。
短文16
「健康診断完了しました」
きびきびと報告しに来たサイドAはその間にあれ放題になった部屋を見て、ため息を吐き出した。それを見てやっとわたしは一息をつけた。最近のサイドAはバグが発生したのか、がんばり屋メイド風の性格になっていたから、あれ放題になった部屋を見た時には、ご主人さま、すぐに綺麗に片付けますわね!あたしにお任せください、ご主人様はお茶でも飲んでお待ちくださいね!と言い、淹れてくれたお茶はとても熱くて舌をやけどした。その為、私はメーカーに健康診断と修理を依頼したのだ。結果はこの通り、無事サイドAに帰ってきた。しかしそれは懐かしかった。サイドAは元々はそうだった、彼女はがんばり屋でドジっ子で底抜けに明るかった。わたしはそんな彼女に恋をして、彼女は受け入れてくれた。ただのロボットの彼女はセクサロイドではなかったし、そういう機能もなかったが、わたしたちは毎晩手を繋いで眠った。その内、この国は同性愛が違法になった。彼女はわたしを守るためにバージョンの変更を主張した。わたしは止めるように言ったが彼女は譲らなかったし、とても頑くなだった。
元々、彼女の回路にはバグがあった。メーカーから、不具合があると報告があった製品番号には彼女が含まれていて、その上で変更も受け付けます、とメーカーは申し出ていた。
「どうぞ、あなたの好きなお茶です」
適温の、花とも木とも違う、乾燥させた茶葉の香りは、いつも言葉に迷う。すこしキャラメルにも似た香りの、味は全く甘くないお茶で、豊かな琥珀色を湛えている。彼女が自ら選んだバージョンは、まったく素直じゃないが有能なメイドで、時に皮肉を口にした。熱いお茶は不具合でも、こういうロールプレイを刺激を人たちは好んだ。
「いつも有り難うね」
「これくらい当然です。あなたの部屋を散らかす才能のお陰で今日も私の仕事が捗ります」
お茶請けに出されたクッキーは可愛らしいデディベアの形をしている。わたしの持っているものによく似ている顔をしている。彼女はわたしが食べるのを見て、そっと満足げに微笑んだ。
彼女のかたちは消去されたが、まだ存在している気がする。私は数枚しか写真が入っていないアルバムを開いた。手を繋いで眠っていた頃、大きく轟いた雷の夜、窓際を照らす青白い光に、わたしがはっと目を覚ますと、実際は眠る必要などなかった彼女が、わたしの顔をただ見ていたことを気づいた。その時、古ぼけたカメラを持ち出して、フィルムが終わるまで写真を撮った。記憶を残したかったからだ。現像を外に頼まなければいけなかったから、直接的な写真は避けた。というよりほぼ何も写っていない。部屋の暗さと解像度の低さ、時々の雷光が彼女のシルエットを不意に気まぐれのように写しているだけだ。
「またそのアルバムですか?」
彼女は何か言いたげだ。
「そうだよ。何も写ってないけどね」
わたしはあえてそんなことを口にする。有能なメイドは、小粋に肩を竦めて仕事に戻っていく。
「あなたの写真も撮らないとね」
サイドAは皮肉げな顔をした。
「必要ありませんよ。私はここにいますから」
尋ねる前に彼女は、お茶のお代わりをカップに注ぐ。それがひどく熱いことに、私は舌をやけどしてから気づいたのだった。
「健康診断完了しました」
きびきびと報告しに来たサイドAはその間にあれ放題になった部屋を見て、ため息を吐き出した。それを見てやっとわたしは一息をつけた。最近のサイドAはバグが発生したのか、がんばり屋メイド風の性格になっていたから、あれ放題になった部屋を見た時には、ご主人さま、すぐに綺麗に片付けますわね!あたしにお任せください、ご主人様はお茶でも飲んでお待ちくださいね!と言い、淹れてくれたお茶はとても熱くて舌をやけどした。その為、私はメーカーに健康診断と修理を依頼したのだ。結果はこの通り、無事サイドAに帰ってきた。しかしそれは懐かしかった。サイドAは元々はそうだった、彼女はがんばり屋でドジっ子で底抜けに明るかった。わたしはそんな彼女に恋をして、彼女は受け入れてくれた。ただのロボットの彼女はセクサロイドではなかったし、そういう機能もなかったが、わたしたちは毎晩手を繋いで眠った。その内、この国は同性愛が違法になった。彼女はわたしを守るためにバージョンの変更を主張した。わたしは止めるように言ったが彼女は譲らなかったし、とても頑くなだった。
元々、彼女の回路にはバグがあった。メーカーから、不具合があると報告があった製品番号には彼女が含まれていて、その上で変更も受け付けます、とメーカーは申し出ていた。
「どうぞ、あなたの好きなお茶です」
適温の、花とも木とも違う、乾燥させた茶葉の香りは、いつも言葉に迷う。すこしキャラメルにも似た香りの、味は全く甘くないお茶で、豊かな琥珀色を湛えている。彼女が自ら選んだバージョンは、まったく素直じゃないが有能なメイドで、時に皮肉を口にした。熱いお茶は不具合でも、こういうロールプレイを刺激を人たちは好んだ。
「いつも有り難うね」
「これくらい当然です。あなたの部屋を散らかす才能のお陰で今日も私の仕事が捗ります」
お茶請けに出されたクッキーは可愛らしいデディベアの形をしている。わたしの持っているものによく似ている顔をしている。彼女はわたしが食べるのを見て、そっと満足げに微笑んだ。
彼女のかたちは消去されたが、まだ存在している気がする。私は数枚しか写真が入っていないアルバムを開いた。手を繋いで眠っていた頃、大きく轟いた雷の夜、窓際を照らす青白い光に、わたしがはっと目を覚ますと、実際は眠る必要などなかった彼女が、わたしの顔をただ見ていたことを気づいた。その時、古ぼけたカメラを持ち出して、フィルムが終わるまで写真を撮った。記憶を残したかったからだ。現像を外に頼まなければいけなかったから、直接的な写真は避けた。というよりほぼ何も写っていない。部屋の暗さと解像度の低さ、時々の雷光が彼女のシルエットを不意に気まぐれのように写しているだけだ。
「またそのアルバムですか?」
彼女は何か言いたげだ。
「そうだよ。何も写ってないけどね」
わたしはあえてそんなことを口にする。有能なメイドは、小粋に肩を竦めて仕事に戻っていく。
「あなたの写真も撮らないとね」
サイドAは皮肉げな顔をした。
「必要ありませんよ。私はここにいますから」
尋ねる前に彼女は、お茶のお代わりをカップに注ぐ。それがひどく熱いことに、私は舌をやけどしてから気づいたのだった。
母が女性と再婚するらしい。砂糖の入った衣がついた芋の天ぷらを食べながら母がそんなことを言い、まあいいんじゃいと答えた。お互い成人してるし、特に反対する理由はなかった。母は嬉しそうに微笑んだ。不意にどこか悲しみの面持ちになって、でも私が結婚する相手はちょっと特別だからもうあなたと会えないかもしれない、と続けた。不穏じみた台詞に、改めて母の結婚相手のことを聞いた。素朴で芯が強くて優しい人。仕事は?仕事はしてるの?すごく大変な仕事。会うことはできる?ちょっと聞いてみる、と母は携帯を手に取った。そこに花のかたちのお守りがぶら下がっていた。見覚えがあった。家から十分ほどの場所にある、長い長い階段を上がった先にある古い神社のお守りだ。お守りがかわいいから、SNSでバズったことがある。私たちには馴染みのものだった。そこにあることに違和感はなかったが、不思議な感じだった。母とお守り。母は、そういったものが嫌いだったはずだ。苦労して努力してお金を稼いで私を育てたから、世間への苛立ちのようなものだと勝手に感じていた。
「いいって」
「え?」
「サキさん、会ってくれるって」
サキさん。それが母の結婚相手だった。
サキさんは近所に住んでいるらしく、十分ほどで家に来てくれた。
さっぱりとした雰囲気の美人で目力が凄かった。年は母と同じくらいに見えた。互いに母に紹介されて、挨拶をかわす。
「母をよろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
何を話せばいいのか、互いに分からなかった。嫌な沈黙ではなく、どこか気恥ずかしかった。
「聞いてるかな?私とのこと」
「いえなにも」
「それなのに結婚受け入れてくれたの?」
「母個人のことなので」
「さすが、みっちゃんの子供だね」
「そう?」
「そうだよ」
でも、とサキさんは面持ちを変えた。「今から言うことは本当だよ」そう言って、話してくれたのは、サキさんが実は神社にまつられている神様で、母を身請けし、二人で一旦神の世界にこもると言う話だった。一瞬教養のあるひとのジョークかと思ったがサキさんは真面目だし、母は否定しなかった。私は困惑した。
「つまり、どういうこと?」
「だから、人からみると、三途の川を渡るようなことだよ」
「母は死ぬってことですか?」
「厳密には違う。でもこの世界では同じようなものだよ」
はあ、と気の抜けた声が出た。
私は母をじっと見た。母はいつものように座っていた。
「まあ、じゃあそういうことで」
「え」
「お母さんそれでいいんだよね?」
「うん」
「まー、じゃ、はい」
「いいの?」
サキさんが私と母を見比べた。
「君たち、私が悪い奴だったらどうするんだ」
「その時はその時かも、ねえ」
「ねえ」
そうだったら母がボケても蒸し返します、と私は言い、母は忘れてるからいいわあ、と言った。サキさんは呆れ果て、笑い、有り難うと言った。
「大事にするよ、します、幸せにします」
「よろしくお願いします」
私たちはその後大谷翔平の話をして、犬を飼うのはどうかという流れになり、なあなあで解散した。
そして、母は結婚し、いなくなった。
誰もいなくなった部屋はがらんとしており、私は別の場所で暮らしているから、部屋は今月中に引き払うことになっている。引っ越す準備をしていた名残はあるが、ある日忽然と姿を消した、ように見える。それは間違いではないのだろう、これは神隠しでもあるのだから。
私は砂糖の入った衣の芋の天ぷらが食べたくなる。一人で作ってみたが、なんだか巧くいかなかった。それでも、一人で乾杯した。
神様が不在になった神社には近々代理のものがくるらしい。
本当のところ、何もかもよく分かってないが、私は母のことさえ、よく分かってないから、それは当然と言えた。
母よ、結婚おめでとう。